LIFE LOG(あおいろ文庫)

目隠しと破綻

高校二年生の夏に、文化祭号に載せる『氷解』と並行して書いていた作品です。4作目。
掲載された『UNVIRTUAL PAPER』は初めての取り組みだったのですが、それにふさわしく実験的な小説です。
51,066文字

1 目隠し

 ここは京都、夜の街。洛中外れの住宅街。駅を離れしばらく歩けば、やがて喧騒遠ざかり、一人ぼっちの夜の街。寒い首元隠すため、僕は上までボタン留め、フードをかぶり縮こまる。息をふうっと吐き出せば、刹那舞い散る白き花。先週買ったイヤホンが、感傷的な音を鳴らせば、僕は何故だかより強く、空っぽの心を感じるのだ。僕は時たま妄想に駆られる。「この世界は無意味で、空虚で、虚無なのではないか」そしてその度こう思う。「包まれたい、抱きしめられたい、繋ぎ止められたい」
 本当はいつだって死んだっていいと思っているのだ。あるいは河原町をはしごして、夜通し遊んだっていい。僕は常にここにいて、いなくなることも出来るのだ。この世界は紛れもなく法則に満ちていて、それに基づき息をして、またそれを知ることすら出来る。けれども僕は空っぽで、疑問は心にこびりつき、幾ら拭っても拭い去れないのだ。


 家に帰ると室内は暗く、家族は静かに明日に備える。部屋は暖かいが無機質だ。明かりを灯してコードを探り、スマホを取り付け充電する。ポンと小さな音立てて、それは僕に合図する。彼が電気で満ち足りるなら、僕も食事で満ち足りたい。冷蔵庫開け手探りで、食糧探しレンジでチンする。へたったパンをモソモソ食べ、茶を流し込み一息つく。束の間の暖かさ、しかしそれはすぐに消え去る。静かに暖房は動き続け、僕は一人 部屋で震えた。自分で自分を抱きしめる。さっきよりは幾分か、否 随分とましな気がして、僕はずっとそうしていた。

 スマホのアラームで目が覚めて、僕は急いで支度する。学生服に袖通し、一切れのパンを口にする。親はとっくに家を出て、辺りは静まり返っていた。僕はふと考え込んで、そして静かに胸を押さえた。喉の奥の奥の方、何かがこみ上げてくる気配。僕は急いでイヤホンをつけ、アップテンポの曲を聴く。何かが誤魔化され消えてゆく。ドアに手をかけ家を出る。

 朝の街は肌寒い。京都に越して もうすぐ一年になるが、京都の特徴を一つ挙げるならば、この底冷えだろうと思う。京都は母方の実家で、今は母と僕でその実家の近くに住んでいる。僕は三人家族の一人息子で、父は現在 山梨に単身赴任。
 僕は今 高一だが、中学の頃は山梨に、家族揃って暮らしていた。わざわざ家族が離れてまで、京都に引っ越したのはわけがあり、それは家族で決めたこととして、三つの理由に分けられる。一つ目は祖母の面倒を見るためで、ニつ目は父が転勤族であるためである。高校に入ってから転勤となると、僕が勉強・人間関係において、色々大変になるだろうから、いっそ実家の京都に帰り、そこに定住してしまおうと考えたのだ。三つ目は単純に、僕が京都で暮らすことを、かなり強く望んだためだ。

 人間という生き物は、どうも隣の芝の青さだけに目を奪われ、その欠点を見ない性質があるらしい。
 山梨にいた頃の僕にとって、京都という街は楽しい記憶と紐付けられているものだった。長期休暇には必ず京都に帰省し、父は名所に僕を連れていった。美しい街・美しい風景。成熟した文化に新しい風。それはキラキラと輝きを放ち、影の部分に蓋をする。


 特急列車が目の前を過ぎ、僕は風を肌に感じる。システマチックに動く世界、それに合わせて動く僕。電光掲示板に目をやれば、次の列車は三分後らしい。僕は静かにそれを待つ。それと同時に期待をする。「人身事故でも起きないかなあ」
 予定調和に電車は来て、満員列車に身を投げる。体に揺れを感じながら、僕はゆっくり目を閉じる。プレイリストの順番通りにイヤホンからは曲が流れ、僕はただそれを聞く。何の変哲も無い平凡な一日。三駅過ぎたら電車を出て、そこから歩いて学校に着くのだ。まるで機械にでもなった気分だ。

 学校に着き教室に入り、コートを脱いで支度をする。支度が済んだらチャイムが鳴り、一限目がスタートする。先生が教科書を解説し、僕はそれを聞き流す。「どうか当てられませんように」なんて願い事をするのも馬鹿らしく、僕はただ空虚を見つめる。


 あれは中三のこと、僕は大きな野望を抱いていた。「京都に行って、一流大学に受かり、一流企業に入ってやるんだ」そして山梨の奴らに対してはこう思っていた。「君達は山梨でのうのうと暮らしているがいい」「僕は君達たちとは違うんだ」――。僕はあの時「何か」に取り憑かれていた。「何か」とは「爽快感」であったり「復讐心」であったり、そういうものが複雑に混ざり合った、例えて言うならば、ラノベを読んでいる時のような、生存者バイアス丸出しの、気分がスカッとするような、何も考えなくていい感覚であった。

 中一から中二の初めにかけて、僕はいじめを受けていた。小学校で人気者だった僕は、中学で複数の小学校の文化が混じりあった時、そこでの覇権争いに敗れた。小学校で仲良しだった奴らは、簡単に新たな覇者に寝返り、僕を寄ってたかっていじめた。それは見知らぬ人にいじめられるより、ずっとこたえるものだった。先生は僕の味方をしてくれたが、やがて矛先が先生に向き、先生に関する根無し事がまことしやかに囁かれ始めると、先生は僕を「学校の風紀を乱すもの」として扱い始めた。「なるほど、僕の人生はここで終わったらしい」僕は意識朦朧としつつそんなことを思い、自我を殺し、されるがままにいじめられ続けた。やがて僕の反応に飽きたのか、いじめは学年が変わると同時にうやむやになった。
 いじめが無くなり、自分の頭で物事を考える余裕が出てきた頃、僕に残されたのはねじ伏せられた自尊心だった。僕はもとの自尊心を取り戻すべく、新たな戦いを始めた。学校ではぼんやりと、「あと二年で高校受験」という意識が漂っていた。僕はそこに自分の活路を見出した気がして、受験を見据えて勉強を始めた。僕をいじめたすべての人を見返すべく、僕は必死に努力を重ねた。結果はすぐに現れた。中三になる頃には学校で三本の指に入る「優秀な生徒」に成長した。中三の後半、受験でひいひい音をあげている奴らを見て、正直 笑いをこらえられなかった。おかしくってしょうがなかった。その頃にはもう京都で受験することを決めていて、それを学校で公言していた。山梨にいた頃の僕にとって、京都という街は楽しい記憶と紐付けされているものだったが、それは修学旅行で京都に行っている皆にとっても同じだった。それに、山梨から見れば、京都は圧倒的に都会である。都会というものが田舎の人々にとってどれだけ魅力のあるものか、それは例えば日本人がヨーロッパのシンメトリーの建物群に憧れるのと同じようなものであろう。その京都で受験すること、そこで暮らすことがどれだけ羨望の的になるか、それを僕はよく知っていた。だからこそ、僕は京都で受験すること、そこで暮らすことを強く望んだのだ。


「それではテストを返します」
 先生の声が聞こえ、僕はテストを受け取る。平均点より少し下の点数であった。僕はほんの少しの恥ずかしさを覚える。中学時代ならこの恥ずかしさは恥辱とも言うべきものだっただろう。しかし今は違う。どういうわけか素直に現状を受け入れている。いや、受け入れているというよりは、麻痺していると言った方が良いだろうか。
 京都に来てから、出来ることに気付くよりも、出来ないことに気付く方が多くなった。そしてその出来ないことに対して、それは当然だとどこかで諦めている自分がいるのだ。中学と高校での一番の違いは、紛れもなく周りの環境である。僕の周りには優秀な生徒が多くいて、僕はそれに、無意識のうちに屈服しているのかもしれない。


 七限目の授業が終わり、僕は部活の教室に向かう。所属している部活は文芸部だ。小説や詩歌などを書き、それを交換して意見交流をしている。僕は小説をメインに書いていて、最近新しい短編を書き上げたばかりだ。今日は友人に、その短編についての意見をもらうことになっている。
 よく、「あなたが小説を書く理由は何ですか」と問われる。この問いに対する僕の答えはぼんやりとしていて、うまく言い表すことが出来ない。しかし逆に言えば、ぼんやりとしてはいるが「答え」はあるのだ。その「答え」を出来るだけ正確に言い表すならば、感覚的になってしまうが、「認められている」気がするのだ。僕が僕であるということ、この世界が空虚では無いということ――そのすべてが小説を通して証明されている気がするのだ。そうだ、その感覚は、夜の街を歩いている時と対極にあると言っていい。どういうわけか、小説を書いている時、僕の心は得体の知れない「何か」で満たされてゆく。その「何か」とは「満足感」だろうか、それとも「達成感」だろうか。


おり
 名前を呼ばれて顔を向ける。文芸部の友人だ。
「織の小説、読ませてもらったよ。まあ詳しいことは部室で言う」
 多くの人は僕を苗字で呼ぶ。「高橋」「高橋君」等。僕を名前で呼ぶ人は、高校の中では彼だけではないだろうか。というのも、京都での、僕と付き合いのある人間は、下手したら片手で済んでしまうほどの数しかいない。何故 彼が僕を名前で呼ぶのか、その理由は聞いたことが無いのでわからない。
 僕にとって彼は貴重な友人である。しかし、彼にとって僕は多くいるうちの一人の友人に過ぎないかもしれない。彼は誰にでも好かれているからだ。彼は常にポジティブシンキングで、周りを明るくする存在である。それ故彼は老若男女全方位から好かれている。しかし、僕は、彼が僕のことを一友人としてしか見ていないわけがないと信じている。
 彼は僕と話す時だけ口調が変わるのだ。彼は他の人と話す時、意識的なのか無意識なのか、僕は意識的であると思うのだが、発言をした時、結論が後ろ向きなものになることが無い。また、きついことは言わない。「宿題マジだりー、とっとと終わらせてゲームしよーぜ」「今日の数学全然分からんかったー、後で教えてー」等。しかし、僕と話す時は違う。結論が後ろ向きになることもあるし、きついことを言うこともある。それは彼が本音で話しているからだ。彼は僕にだけ本音でものを語ってくれる。そう思えるからこそ、僕は、彼が僕のことを一友人としてしか見ていないわけがないと信じているのだ。

 彼が部室の扉を開け、僕はその中に入る。後から彼が入り、椅子に座りながらこう言った。
「織の小説ね、いつも通り面白かったよ。面白いというのはあれだ、Interestingの方ね」
「具体的に、どういうところが面白かったの」
「まあ……何つーか、織の世界観が出ていてよかったよ」
 僕はその言葉に彼の本心が含まれていないことを直感的に悟った。一呼吸おいて、一言一句はっきりと言う。はぐらかすな、というニュアンスを込める。
「前回と比較して良かった点等、具体的に」
 彼は困った顔をして僕を見た。複雑な顔だった。予想外の質問が来たことに戸惑っているというよりは、むしろ予測していた質問が来て、それに答えなければならないことに戸惑っている顔だった。
「あのさ、織」
「ん」
 彼は ほんの一瞬言葉に詰まるようにしつつも、それを振り払うように、はっきりとこう言った。
「織ってさ、いつも同じような小説を書くよね」
 彼が僕を見つめる。彼自身の放った言葉が、僕にどんな影響を与えるのか、それを彼は観察する。
「構成も、長さも、文体さえも小説ごとに異なるのに、『同じ』である、と? 」
「や、俺が言っているのはそういうことじゃないんだ。要は織の小説を形作る、割と重要な部分が、いつも同じだってことを俺は言っているんだ。そうだな、わかりやすく言ってしまえば、俺は、書けと言われれば、織のような小説を簡単に書ける」
「と言うと」
 彼は少し考え込んで、そして唐突に立ち上がった。人差し指をわざとらしく立て、演技口調でこう言う。
「一人称小説で、主人公は男子高校生。人と関わるのが苦手で、いつでも社会に不満を持っている。学校に関することをバックボーンにして、主人公の様々な体験が描かれる。そしてその体験を基に彼は新たな哲学を作り出していく。物語の最後に取る彼の行動や、彼の物の見え方は、傍から見ると意味不明で滑稽ですらあるんだけど、文脈から推測するに、どうやら彼の築き上げた哲学が基になっているらしい」
 そこまで言って彼は再び椅子に腰かけた。
「つまり、何が言いたいかっていうと、織の小説は『独りよがり』なんだよね。
 さっきの物語を読者側から見てみよう。一人称小説っていうのは、『読者が感情移入出来る部分』と『読者が感情移入出来ない部分』に分けられる。前者の割合が大きければ大きいほど、読者はぐいぐい小説に入っていける。でも、織の小説の場合、後者の割合が大きいから、読者はどんどん置いてけぼりを食ってしまう」
 彼が僕の表情を窺う。僕は続けるように促す。
「俺は、織の小説が『独りよがり』になっていることの原因は、織自身にあるんじゃないかって仮説を立てているんだよ。初めに俺は言ったよね、『主人公は男子高校生。人と関わるのが苦手で~』って。『人の小説のことを、よくそんなに覚えていられるな』って思ったかもしれないけど、実は、織の書く主人公を思い出すことは、かなり簡単に出来るんだよね。何故かって言うと、織の書く主人公は、決まって織自身を書いているから。つまりは何が言いたいかっていうと、仮説の話に戻るけど、織は普段、一人で学校に行って帰って……っていうことしかしていなくて、つまりは友人とUSJに行ったり、カラオケでバカ騒ぎしたり……っていう経験が無くて、普段の生活で自分ばっかりに目がいっているから、そういう小説しか書けなくなっているんじゃないか? ってこと。間違いやったらほんとごめんやけど。俺にはそんな風に思えるし、織の生活でそれ以外知らないから」
 彼が関西弁のニュアンスを出す時は、決まって本気で話してくれる時だ。それに対して、僕は真正面から向き合う必要がある。
「恐らく、その通りだと思う。僕が『独りよがり』な思考に陥るような生活しかしていないのは事実だ。外に出るのは、学校の登下校と、塾の登下校くらい。もっと見聞を広める必要があるかもしれない」
 彼は微笑んで、それから椅子を少し引いて、背もたれにもたれかかるようにした。ふうっと息を吐いた後、いつもの彼と変わらない様子でこう言った。
「さっきは結構きつく言ったけど、俺は織の小説を面白いと思っているよ。小説の魅力の一つに『自分と違う思想を垣間見ることが出来る』ことがあると勝手に思っているんだけど、織の小説はその点において、とっても魅力的だよ」
 小説を書くことの醍醐味の一つに「自分の小説を褒められる」ことがある。むず痒いような、甘ったるいような、恥ずかしいような――。しかし、僕は彼の褒め言葉を、少しシニカルにも見ていた。それはつまり、彼の言葉に関西弁のニュアンスが入っていなかったことであり、いつもの調子で放った言葉のことであり、ふうっと吐いた息のことであった。
 彼が様子を窺うような目で僕を見る。僕は話題を変えるために、適当な言葉を探る。そういえば。
「ところでさ、話題は変わるんだけど、何で君は僕を『織』って呼ぶのかな。普通の人は僕のことを苗字で呼ぶんだけど」
 彼は予想外の質問が来たことに対して、少し驚いたような顔をした。そしてその後、とても嬉しそうな顔をした。
「そうだな、単純に、俺は『織』って名前を気に入っているんだ。そして、その名前を、君が忘れないようにしてほしいから、俺は君に『織』って言い続けるんだよ」


 家に帰ると母が夕飯を作っていた。僕と母が顔を合わせる時間は少ない。母は京都で介護の仕事を始めた。それ故 彼女の朝は早い。僕はと言えば夜型なので、必然的に顔を合わせる時間は少なくなる。あるいは一軒家に住む人ならば、それは当然のことなのかもしれない――それぞれがそれぞれの部屋を持っているなら、リビングに集わない限り、互いに顔を合わせることはないかもしれない。しかし万年 安アパート暮らしの転勤族にとって、そのような状態は非日常なのだ。
僕は京都に来るまでに自分の部屋を持ったことが無かった。アパートに三人分の部屋があることなどなかったからである。しかし、母と二人暮らしをしている今、僕は自分の部屋を持っている。それもまた、僕にとって非日常である。
 僕が京都で受験に合格すると、父は一人暮らしの準備を始め、母は介護の仕事先を探し始めた。「家族で決めたベストの選択」に向けて、それぞれがそれぞれに動いた。困難があると両親は決まって「織の将来に期待しているからな」と言った。


 スマホTwitterを開く。
 僕のアカウントは「ふぁぶ」という名であり、「飛行機界隈」というものに属している。飛行機が好きな人たちが集まってコミュニティを形成しているのが「飛行機界隈」である。僕は「飛行機界隈」の中では古参にあたる。最近では、「飛行機界隈」と言いながらも、古参コミュニティの中で日常生活を垂れ流すアカウントに成り下がっているのであるが。

ふぁぶ🔒 @fabric_airplane
飛行機垢的な 知らない人フォロリク通しません
📍もと富士山のふもと 🔗http://www.fujifabric.com/
79 フォロー中 120 フォロワー

 僕は画面をスクロールし、TLを流し読みする。その中で、少し引っかかるツイートがあった。

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・12時間
ロープ探してきた😎
あ、言ってなかったけど自殺することに決めたんだ~
いざ覚悟を決めると、なんか世界が違って見えるね😆
〈ロープの写真が一枚。それは編み込まれていて、白く太い。質感はつるりとしている。ポリエステルだろうか。〉
💬1 ♻︎2 ♡11

 いとたそ。本名を「狭山 糸」と言う。糸は、僕が通っていた山梨の中学校の生徒の中で、僕のアカウントとFF関係にある、数少ない一人である――と言っても、僕と糸とは、特別仲良しであるわけでは無い。僕の家は転勤族なので、山梨で暮らしていた動因も転勤なのだが、山梨に引っ越してきたばかりの、小学校四年生の時に、糸と僕は同じクラスだった。当時、珍しいもの見たさ故か、僕は山梨の奴らの間で、持ち回りで遊ばれていた。そして、糸と遊んだ記憶と言えば、その機会でのこと程度である。その後、僕と同じ中学に通った糸との親交は、同じ塾に通っていたということが挙げられるぐらいで、やはり僕と糸とは、特段仲良しというわけでは無い。
 糸の人生は高校受験で狂ってしまった。先程「僕と糸は同じ塾に通っていた」と言ったが、そこでの見聞から言えることは、「糸はそこそこ勉強が出来る」ということである。詳しくは聞いていないが、僕の中学では五番目くらいの成績であったはずだ。そんな糸であるが、糸は家庭の事情で、私立高校を併願せずに公立高校を受けて、その受験に落ちてしまった。二次募集で別の公立高校に受かったようだが、糸が最初に受けた高校と比べると、かなりレベルが下の高校であることは言うまでもない――田舎故に二次募集をする高校が多いとはいえ、だ。不合格通知を受け取った後からの、糸の荒み方は、異常なものがあった。僕は京都に行ってしまったので、詳しいことはわからないが、Twitterを通して知ることが出来るのは、髪の色を抜いたり、化粧をしたりすることは勿論のこと、夜に糸の高校仲間と遊びまわったり、喫煙したり、飲酒したりと、いろいろ派手な生活を送っているらしいということだ。しかし、そのような行動を取る人は、決まってその行動と同時に空虚感を抱いているものなのであろうか、糸のツイートの中には、リストカットの画像や、中には、家の中をめちゃくちゃにした画像も見受けられる。
 そのような糸であるが、自殺をするというのは流石に冗談だろう――そんなことを僕は思っていた。これで本当に自殺してしまったら、所謂「胸糞案件」だな……なんて思いつつ、またそんな風に思っている自分に少しの違和感を覚えながら、糸のツイートに「いいね」を押してTLをスクロールする。

ヒューズ🔒 @HughesH4・9時間
らいたあの住所特定したwww
東京都新宿区○○×‐△△
ストリートビューの画像。白を基調とした外見の一軒家。〉
💬9 ♻︎- ♡23

 「らいたあ」とは飛行機界隈で炎上した人物で――飛行機で炎上とは皮肉だ――多くの界隈民から恨みを買った人物である。そのらいたあの住所が特定されたという。いいねの数もリプライの数も鍵垢にしては異常だ。タップしてリプ欄を見る。

F3H @Demon_F3H・4時間
俺今夜凸るわw
0時、キャス楽しみにしとけよ~
💬3 ♻︎9 ♡11

 時計を確認する。今は夜の十一時だ。僕はお湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れる。

 Twitterを閉じ、はてなブックマークを開く。ホットエントリを見つつ、気になったものをタップする。「野党は与党を批判してばかりで、自分たちの政策をまともに考えようとしない。口を開けばモリカケモリカケ。マスメディアと組んで国民を騙そうとしているみたいだけど、国民はそんなにバカじゃないよ。まず野党は自分たちの反省から始めてみるといいかもね」というツイート――リプ欄を見てみると、「本当にそうですよね。パヨク共に国民の貴重な税金を使う必要なんてありません。マスゴミの扇動に乗る情弱にこのことを教えてあげたい」等、擁護のツイートが並ぶ。
 はてブのコメント欄を開く。「ネトウヨ思想が綺麗にまとめられているツイート」「アクロバティック陰謀論に凝っている前に現実を見たらどうですか」「"自分たちの政策をまともに考えようとしない"それ、あなた方が知ろうとしていないだけでしょ」等のコメントにスターをつける。
 日本は右に寄りすぎているのではないかと思う。右翼が守っている世界は高く積み上げられただけの虚構に過ぎず、意味の無いものにしがみついているだけのように思える。

 スマホを閉じ、ノートパソコンを開く。新しい小説の構想を練る。政治的な要素を入れてみようと思った。それこそが、僕の「明日の小説」なのではないかと思った。
 主人公は左の思想を持った人にしよう。ターゲットは若い世代だ。ネトウヨ的政治観に代わる新たな思想を提案したい。それを小説に組み込むためには、現状の不満を丁寧に追ってゆく必要があるのではないか。例えば「土曜日が来るのを待ち遠しく思う」生活を六十歳になるまで続けるのか、ということであったり、物量主義的な考えに基づいて動く社会の中で、精神的な満ち足りなさを感じる主人公であったり、……とそこまで書いて気付いた。これはいつも書いている小説と、何ら変わりが無いのではないかと。「織ってさ、いつも同じような小説を書くよね」彼の言葉が甦る。そう、紛れも無く僕は、切り口は違えど、僕自身を主人公にする物語を書こうとしていたのである。そのことに気付いた瞬間、小説を書いている中で、今までに経験したことの無い、ぞっとするような思いがした。ノートパソコンを閉じてスマホを開く。それはほとんど現実逃避だった。スマホを開くまでに指紋認証で戸惑う。僕は焦っていた。何かがこみ上げてくる気配。
 僕は小説を通して、何も伝えられていなかったのではないか? すべては「独りよがり」で、僕は小説を書くことで僕自身を慰めているに過ぎなかったのではないか? そんな疑問が頭をもたげる。
 スマホが開く。僕は少しの安らぎを覚える。スマホを使う時、何故か僕の心は安らかになる。心が得体の知れない「何か」で満たされるのだ。そう、その多幸感は、まさに小説を書いている時に感じる「何か」に似たものであった。しかし、僕は小説を書く中で、その「何か」を感じることはもう二度と無い気がしていた。

 はてなブックマークを開き、適当なところをタップする。増田のエントリが表示された。「占いは何故当たるのか」と題されたそのエントリは、意外と面白く、僕はほんの少し占いに興味を持った。試しに「京都 占い」で検索してみると、河原町が占いスポットであることがわかった。明日、河原町に行ってみるのもいいかと思った。というのも、僕はやはり彼の言葉が引っかかっていたのだ。「君は普段、一人で学校に行って帰って……っていうことしかしていなくて、自分ばっかりに目がいっているから、そういう小説しか書けなくなっているんじゃないか?」――もしかしたら、僕は本当のところ、占いになんて興味がないのかもしれない。

 時計を見ると、丁度 二本の針が頂点で重なろうとしていた。僕はTwitterを開き、TLを更新する。時計の針が午前零時を示すと、一つのツイートがTLに表れた。

F3H @Demon_F3H・13秒
モイ!iPhoneからキャス配信中‐らいたあ邸凸る cas.st/18324928
💬0 ♻︎2 ♡0

 リンクをタップしキャスを開く。F3Hの声が聞こえる。
『えー、今らいたあ邸近くのコンビニです。まさかあいつが新宿住まいのお坊ちゃんだとはねー』
 コメントが次々に舞い込む。「やあ」「マジかwww」「伝説のキャスになりそうだ」「らいたあ邸は確認したのか?」等。
「らいたあ邸? ああ、見ましたよ。スクショ通りの一軒家。んで、車が前に止まっていたんだけど、なんとそれ、ポルシェでしたよ」
 コメント欄がどよめく。「ええ…」「ガチお坊ちゃまやん」「ポルシェwww」
「そうだな、写真を一応撮ったのでツイートしとくわ。ちょっと待っててね」
 スマホをタップするような音が響く。しばらくしてツイートが投稿された。

F3H @Demon_F3H・15秒
〈画像一枚のみのツイート。懐中電灯の光だろうか、夜の闇の中、大きな光の円の領域だけに おぼろげな景色が浮かび上がっている。二階建ての箱型の家で、窓ガラスの向こうにはカーテンがかかっている。家の一階部分を縦に二等分して右が玄関、左が窪むような形になっており、そこにポルシェが駐車している。玄関には、モダンな作りの家にはあまり似つかわしく無い盆栽がいくつか並んでいる。また、プランター――植物は生えていないが、支柱が刺さっている――今は三月である――が並んでいる。〉
💬0 ♻︎0 ♡3

 『で、だ。俺、ノープランなんだよね。てなわけで、皆さん、なんかご提案下され』
「ノープランかよw」「ピンポンダッシュやろ」「不幸のお手紙投函」「卵でも投げれば」「卵を盆栽の養分にしてやれ」「卵かけ盆栽やんけ」「卵かけ盆栽は草」「卵かけ盆栽www」コメント欄がとてつもない勢いで埋まってゆく。
『あのー、もうちょい現実的な案を考えてくれます? 実行犯の気持ちも考えよう』
 F3Hが呆れた声で言う。かすかに語尾が震える。
「チキッてんじゃん」「チキンやんけ」「チキンということでやはり卵かけ盆栽」「卵かけ盆栽とかいうパワーワード」「チキンが卵かけ盆栽は草」僕は文字をフリック入力し、コメントを投稿する。「とりま支柱でも奪ってこいや」僕のコメントに皆が反応する。「いたのかふぁぶ」「いたのかペリーみたいなノリやめろ」「それフィニアスとふぁぶやん」「そうさフィニアスとふぁぶに任せておけば大丈夫」「支柱は名案」「強盗とかにならんの?」「窃盗やろ」「まあ支柱くらいならよくね?」
『なるほど、じゃあ支柱奪ってくるわ。キャスいったん切りまーす』

 数分後、キャスの放送が再開された。荒い息づかいのF3H。「どうだ?」「支柱、奪ったのかな?」ぽつぽつと投稿されるコメント。スマホをタップするような音。映像が映し出される。夜闇に染まったアスファルト。唐突にそれが懐中電灯で照らし出されると、緑色の棒が映し出される。「まじでやったんかww」「まあこれくらいはやらんとな、わざわざ新宿に来たんだから」「そりゃそうだ」コメント欄の動きが活発になる。
『えー、今らいたあ邸からそれなりに離れたところにいるんだけど、問題は、この支柱、結構長いから、どうしようってこと』
「そんなんどっかに放っときゃよくね?」すぐさまコメントが付く。
『そっか』
 F3Hが言う。明らかに落ち着きが無い様子である。「取り敢えず一服しとけって」「落ち着け落ち着け」とコメ欄。ちなみにF3Hは未成年である。
『あ、映像切っていいっすか……そうだな、とりま一服するわ』
 シュボッ、という特徴的な音。ガサゴソという音がした後、すー、はー、とF3Hの息づかいが聞こえる。「一服」が何を意味しているかは明らかである。
 しばらくして、平静を取り戻した声でF3Hが言う。
『さて、この後どうしよ』
「やはり卵かけ盆栽」「卵かけ盆栽いっちゃいます?」「花火ねえかなあ、ロケット花火でも打ちこみてえな」「花火は時期的に無いだろ」今は三月である。僕はスマホを操作しコメントを投稿する。「もういっそのこと盆栽焼いちゃえば?」コメント欄に反応が現れる。「ちょwふぁぶ過激w」「花火の代わりにはなる」「松ならよく燃えそうだな」
 アジテーションであることなどわかっていた。しかしそれを自制する力を上回る衝動のようなものが激しく僕を突き動かしていた。そしてそれは紛れもなく僕の心を満たしてもいた。満たしているものが何であるか、それはわからないのだが。
 「やっぱここは卵かけ盆栽だな」コメント欄にこう書き込まれた時、僕はほっとしたような、がっかりしたような、複雑な感情に襲われた。コメント欄にはそれに賛同する意見が並んだ。結局、F3Hは卵を買いにコンビニに行った。空白の時間。コメント欄には意味の無いやり取りがなされている。僕の理性が叫んでいた。「これ以上自分の感情をコントロール出来なくなる前に寝ろ」と。僕は後ろ髪を引かれつつスマホを閉じ、そのまま眠りに落ちた。

 柔らかな布団の中でぬくぬくと、眠りと目覚めの間を漂う。今は三月、春の兆しを感じる季節である。アラームは鳴らない。今日は土曜日である。しばらく布団のぬくもりを楽しんだ後、ゆっくりと目を開く。窓から日の光が差し込んでいる。時計の針は十一時を指していた。
 母は午前で仕事を終えて帰ってくるだろう。僕は昨日の出来事を思い出していた。支度を整え外に出る。
 コンビニに寄り、昼食を兼ねた朝食を買う。そのまま駅へと向かい、電車に乗る。今日の目的地は学校ではない。小さな切符を握りしめる。

 Twitterを開くと、TLがやけに進んでいた。なんとなく嫌な予感がして見てみると、こんなツイートがされていた。

F3H @Demon_F3H・3時間
わたくしFH3は本日午前3時頃××警察署に逮捕されました
今は取り調べ的なことをされています
くれぐれも皆様らいたあ邸には近づかないように
💬4 ♻︎19 ♡11

 僕は困惑した。支柱を盗むことや盆栽に卵をかけることは、やんちゃな子供たちがどこでもやっていそうなもので、まさか逮捕に至るとは思ってもみなかったのだ。

俺は無事🔒 @ajfnxSIk_21xL・1時間
俺とFH3が牛丼屋にいた時、サツと思わしき奴らがこちらを窺っていた、俺はFH3に目くばせしたがFH3は申し訳なさそうにこちらを見ていたので逃げるのを諦めた、俺は何故か携帯の履歴等取られただけで済んだ、だからこうしてツイート出来ているわけだが――まあ俺は奴と牛丼を食べただけだから事情を知らないで牛丼食べに誘われただけと思われたのかもな、最終的に松を焼いたのもあいつだし、キャスでも発言してねえし、そう、キャスと言えばキャスで発言していた奴は警察が入念に調べてたんで気をつけろよ、放火魔を煽った扱いだからな
💬2 ♻︎- 24

 その後のツイートを見てみると、どうやらキャスがあの後盛り上がり、FH3が煽られエスカレートして盆栽に火を放つまでに至ったらしい。その後、近くに住んでいる@ajfnxSIk_2lxLと牛丼を食べている時に逮捕されたらしい。
 僕は今までに覚えたことの無い感情を抱いた。心がすうっと冷えるような心地がした。結果的にではあるが、僕の言葉がこの世界のどこかで現実となって表れたのだ。

 不穏な心を乗せたまま、電車は河原町駅に到着した。僕はグーグルマップを起動し、昨日調べた占いの店を目的地にセットする。
 河原町は京都一の繁華街である。土曜日ということもあり、街は人で賑わっていた。メインストリートを外れると、建物の影で少し暗い雰囲気が漂う。こんなところにあるのか、と辺りを見渡す。その時、物陰に屋台のようなものが見えた。近づいてみると、手書きで「占い」と書かれた張り紙と共に、一人の髭を生やした男性がいた。マップで確認すると、どうやら探していた占いの店ではなさそうだが、僕は興味をそそられた。こんなところに店を構えても、人は誰一人として来ないはずである。そもそもこんなところに屋台を構えて、法的に大丈夫なのだろうか。その男性はうつむいて本を読んでいた。ホームレスのような風貌である。僕は思い切って声をかけた。
「あの」
 男性が振り向いた時、僕は何やら奇妙な感覚を覚えた。僕は彼の顔を観察した。目だ。目がおかしい。彼の目はこちらを向いているが、焦点が合っていない。いや、焦点があっていないというのは正しくない。別のところに焦点がいっている、と言った方が適切だ。
「なんでしょうか」
 彼が口を開く。僕は不意を突かれたような思いがした。次の言葉を探る。
「ここで、何をやっているんですか」
 もしかしたら占いというのは間違いで、もっとアングラな――例えば麻薬のような――そんなものを取り扱っているのではないか。それならば目の焦点に関する疑問が一応は解決される。
「まー、見ての通りですね。妖しさだけは一級品でしょう? 」
 張り紙の方を指し示して彼は言った。語尾で少し笑っていたので、僕もつられて笑った。意外と気さくな人だなと思った。依然として目の焦点は合っていないが。
「どちらから来られたんですか」
 今度は彼の方から質問をしてきた。
「京都の西の方ですかね」
 僕はあいまいな返事をした。彼は特に興味も無さそうな様子でそれを聞いた――それなら訊くなよ。
「どうです、占い、やってみませんか」
 僕は頷いた。話を切り上げづらかったというのもあるが、それよりはむしろ彼のする占いに興味があった。
「珍しいですね~、普通のお客さんなら、『この辺にある有名な占い店に行きたいので』って去って行かれるんですよ」
 僕は苦笑いした。この人も同じ占い師であろうに。世間は自分より立場が低いと思わしき人に対して厳しい。
「どうしてここで占いをしていかれようと思ったんですか」
 彼の目がまっすぐに僕、から遠く離れたどこかを捉える。
「単純に興味があったからです……そうですね、特に、目」
「目ですか」
 彼は笑った。

 それから、彼は僕に幾つか質問をした。生年月日、好きな食べ物、生い立ち等。ほとんど世間話のような感じだったが、彼は聞き上手で、僕は僕自身についてほとんどすべて語り尽したような気持ちになった。
「占いっていうのは、とても難しいんですよ」
 一通り質問を終えると、彼はこう切り出した。
「占いっていうのは、ある程度この世界を支配している法則のようなもの、まあ『運命』とでも言うべきもの、それを読んで、その人にとって利益があるような方法を伝える仕事なわけなんですけど、それを知ってしまうと、本来その人がしたであろうことが起きなくなるわけですから、『運命』が捻じ曲がるわけなんですよ。それによって世界が不規則に動き出して、その人や周りにどんな災いが降りかかるかわからない。つまるところ、この世界のシステムをハックするわけですから、バグって言うのはつきものなんですね。ですから、占い師っていうのはその責任逃れじゃないですけど、敢えてそのハックの方法をあいまいに示唆するようなことをするわけです」
「そんなこと言っちゃっていいんですか」
「私が必要だと思ったから言っているんですよ」
 彼はこちらを向いて言った。焦点は、相変わらず遠くの方に合っていた。
「あなたは、『知らぬが仏』についてどう思いますか」
 話題が変わって、僕は少し戸惑った。
「んー、『知らぬが仏』という考え方は、人生を楽に過ごす上で、重要であるとは思います。しかし、例えば僕が余命三か月だとして、それを伝えてほしいか、それとも伝えてほしく無いかと考えた時に、やはり伝えてほしいなあと思います……残りの三か月を有意義に過ごすためにも、そして新たな世界を見るためにも。ですから、僕は『知らぬが仏』と言う考え方には反対ですね」
「ですよね」
 すぐさま彼はこう返事した。「ですよね」? 彼は僕の意見に同意したのだろうか、それとも僕がそう答えるとわかっていたのだろうか。
「さっきの話に戻るんですけど、たとえシステムをハックしたとしても、三六〇度全く違う世界をお見せすることは勿論出来なくて、ハックした結果現れた世界は、その人の思想や特性から導き出された、あるいはもっと前の、遺伝的なものや慣習的なものに沿った、その人にとって『有り得た』世界なのです。この世界というのは微妙な均衡の上に成り立ったもので、例えば『多くの日本人がある程度幸せに暮らせている』という状況は、実はほぼ奇跡的な偶然の積み重ねからなっているのです。しかしながら、この世界の人は――特に日本人はその傾向が顕著なのですが――こう思いがちです。『まあ、とてもいいことは起こらないかもしれないけど、最悪なことも起きないだろう、なるようになるし、なるようにしかならないだろう』と。それは『運命』と偶然の重なりによって成り立っていることなんですけど、彼らはそれを知らない。いわば『目隠し』をしているような状態です。私は、占い師というのは、その目隠しを取ってあげる仕事だと思っています。そこに広がる現実というのは、あまりにも複雑で、あまりにも残酷です。しかし、目隠しを取らないと、わからない世界があると私は思います」
 彼はそう言って、一呼吸置いた。
「占いの結果をお伝えしますね。『東ニ幸運アリ』――勿論、ここで言う『幸運』とは、あなたにとっての、ということでしょうね」
 ニヤリと彼が笑う。そして、思い出したように名刺を渡してきた。
「渡す人と渡さない人がいるんですよ」
 最後に彼は僕の方を見てこう言った。
「ぜひ、『目隠し』を取って見た世界をお楽しみください。お気をつけて」

 僕はメインストリートに向けて歩き出す。彼に渡された名刺を見る。深い紺色に、まるで星が煌めくかのように白い文字が並ぶ。僕はそれを見て、突然、重力子のことを思い出した――というのも、スティーブン・ホーキング氏が死んでから、僕は宇宙物理学に興味を持っていたのである。
 この世界は三次元であるが、本当はもっと高次元で、その別次元は小さくこの世界に丸め込まれているそうだ。この世界には「強い力」「弱い力」「電磁力」「重力」という四つの力があるが、その力のうち、重力だけが圧倒的に弱いらしい。それは、一説には、重力をつかさどる重力子だけが、四つの力をつかさどるものの中で唯一、高次元の方向へも移動出来る粒子であるから らしい。それと同じような考え方で、もしかしたら彼も、僕が見ている次元とは別の次元が見えているのではないかと思った。そしてそれこそが、彼の目の焦点が合わないことを説明する仮説になり得るのではないかと思った。僕は名刺を再び見る。彼の名前は一文字だった。「青」――これが彼の名前だ。


 近くのマクドナルドに入り、チーズバーガーとコーヒーを注文する。薄いアメリカンコーヒーをすすりながら、僕は「東ニ幸運アリ」について考えていた。考えに詰まって、Twitterを開こうとスマホに手を伸ばした時、唐突に、昨日のツイートを思い出した。「自殺することに決めたんだ~ いざ覚悟を決めると、なんか世界が違って見えるね😆」そうか、山梨は京都の東にある。Twitterを開き、糸のページへ行く。新しいツイートがあった。

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・12時間
もやい結び簡単って書いてあるけどむずかしすぎんよ~😔
うちがぶきっちょなだけか😇
〈先日のツイートの、編み込まれた白いロープが、もやい結びされている画像〉
💬0 ♻︎0 ♡6

 僕は河原町駅から、なんとなく京都駅に向かっていた。京都駅の駅ビル内で色んな物を見て楽しもうと思ったのだ。しかしながら、実のところ京都駅に行くというのは、山梨が気になっての行動であった。――そうは言うものの、まさかこのまま山梨に行くわけにもいくまい。
 電車を乗り継いで京都駅にたどり着く。だだっ広いガラス張りの駅。行き交う人々。その中で無性に孤独感を覚えて、僕はTwitterを開いた。そして、目を疑った。

あしすと🔒 @assistassistttt・12分前
やばいやばいなんか警察が来てお話を伺えませんかとか言ってきた親が対応してるけど今
💬4 ♻︎- ♡3

 あしすとはキャスでFH3を煽っていたメンバーの一人だ。そのあしすとが警察に呼ばれている。とするならば、僕を警察が訪ねてもおかしくない。時計を見る。もう母親が家に帰っている頃だ。僕はもしかして、FH3が盆栽を焼いた時にはキャスにいなかったので警察に目をつけられていないのではないか? いやしかしそもそも盆栽を焼こうと言い始めたのは僕だぞ? しかしあの場においてそれが本気だと受け取られるのか? ネタだと受け取られる可能性の方が高いのではないか? そもそもかなりの割合でネタとしてコメントしたし、コメント欄もネタとして受け取っていたし、悪い冗談程度で済む話ではないのか? ……などと考えていると、突然 電話が鳴った。心臓が飛び上がるような心地がした。気が動転して、それに出るべきか否かを考えているうちに、留守番電話サービスに接続された。しばらくたって、恐る恐るスマホを開くと、留守番電話が一件入っていた。深呼吸してそれを開く。
「もしもし、織? 今 警察の人が来て、織と話がしたいって言っている。織には色々 聞きたいことがあるけど、取り敢えず折り返し電話しなさい。そして、今すぐ帰ってくること。今ならやり直せるから。ね? 織、私は織がそんなことする人じゃないって知っている。だから、だから、ね? 早く帰ってきて……」
 「このメッセージを消去する場合は……」という機械音声が流れだす。僕は放心状態だった。Twitterを開く。

あしすと🔒 @assistassistttt・3分前
ほう助罪? になるらしい
詰んだ
サツ行くわ
💬2 ♻︎- ♡1

 僕はすがるような思いで占い師の言葉を思い出していた。

 東ニ幸運アリ。

 東ニ幸運アリ。


 僕は山梨に行くだけの切符を買い、新幹線に乗り込んだ。

ペトリコール 作:高橋 織

 雨が激しく降っていた。苔の感触を手に感じた。立ち上る香り――鼻の奥を、さらに奥を刺激する――ペトリコール。
 森が現れる。美しく深い緑。ノイズのように見えるのは雨だ。いや、ノイズという表現は適当か? 雨が森を造っている、つまり雨がこの景色を造っているのだ。立ち上がり、もう一度世界を見る。憂鬱な雨もこの景色の一部であるということを僕は理解する。雨が、生まれて初めて美しく見えた。ここから僕の、この世界の上書きが始まるのだろう、と予感した。
 足元に奇妙なものがあった。苔の上にある、枯れかけた葉のようなくすんだ色のジャケット――僕の血で幾分赤く染まってしまってはいるが――拾い上げると、見覚えがあった。
 ミリタリージャケット――軍服だ。サリサリとした麻の感触。教科書で見たことのある、国防色をした日本の軍服。目の前に掲げてみる。森の深緑を背景とし、緑がかった茶色のジャケットの縁を、赤い血を絡めた雨の雫が伝い、滴る。やぶれた隙間から、光が淡く漏れる。
 僕はそれを、美しいと思った。

 机の上で朝を迎えた。突っ伏したまま右手を伸ばし眼鏡を探る。思いがけず指先が硬質なものに触れ、それが床に落ちる。首を右に曲げつつ赤と青の混じった瞼の裏の模様を見ながら、光に注意してゆっくりと目を開ける。しばらく光に目を慣らして椅子を引く。惰性で腰を上げる。立ち眩みを起こさないよう腰を曲げたまま移動する。冷めたコーヒーとプラスチックのコップが落ちているのを見る。左手で机上の眼鏡を手繰り寄せそのままかける。ベージュの床とコーヒーの茶色、コップの赤をしばし見つめる。

 母の実家を思い出していた。大きな居間とほんのり日焼けした障子紙。自宅とは違う匂い。ゆったりと流れる時間。
 豊穣な出汁の香りが鼻をくすぐり、僕の目を覚ます。開いたまま置いた本が何故か閉じられていて少し苛立つ。続きを見ないように注意してページを探す。魚の煮付けが運ばれる。母が「蓮、手伝いなさい」と言う。本を開いて床に置く。よくお茶を注ぐ手伝いをした。その時の僕のコップが、プラの赤だった。

 零れたコーヒーを処理してコップを洗う。コップに母親の面影が見えて少し心が乱れる。それをごまかすようにしてラジオをつける。
 顔を洗い、歯を磨きながらラジオに耳を澄ませる。ラジオの横に置いてある母の写真は見なかったことにする。世界情勢について専門家が語っているのを聞き、いつもより遅く起きてしまったことを実感する。黒い制服に袖を通す。
世界からの求心力と自身の夢を失う夢の国の話をしていた。専門家曰く「ここ数年の世界情勢の変化は過去に類を見ない」らしい。
 例えば世界中でテロが起こっている、と言われても、実際のところ、どうにかなるだろうと思っている。断言できる根拠は無いので、どうにかなるだろう、という言葉でもやもやした感情を流し込む。そんなことよりも、今は自分の世界の平和を保つことが大切だ。学校に遅れてはならない。支度をして、家を出る。無人の家に「いってきます」と言って。

 パンを買いにコンビニに寄る。空は暗く、今にも雨が降り出しそうだ。コンビニでは傘や防災グッズが売られていた。台風が接近しているらしいが、どうなっているのだろうか。寝過ごしたことを改めて後悔した。ラジオでヘッドラインニュースを聞けなかったのは痛い。コンビニのワイファイにつなげるのをいいことにしてスマホで天気を確認する。今日から明日にかけて二十四時間降水量二百ミリの予報、通勤通学に影響する可能性もある、という簡単な要約文を読み、窓の外を見る。いつの間にか雨が降り出していた。苦笑いをしてスマホをしまう。

 口に菓子パンを咥え、コンビニで買ったビニール傘をさす。地面を蹴って空気を切る。水たまりを飛び越える。漫画のような光景だが振り返る人はいない。現実世界なんてそんなものだよな、と思った。そしてそれに甘えて菓子パンを咥えている僕がいた。少し漫画世界の気分を味わった後、よだれと雨で湿気たパンを、息を整え歩きながら食べる。こんなことをしている暇なんてあるのだろうか、と時計を見る。それと同時に、後ろから子供達の声が聞こえる。まずい、さっきの光景を見られていたか、と焦って菓子パンを隠す。隠したところでどうにかなるものでも無いな、と再び朝食をとり始めた僕の横を短パンの男子二人が通り抜ける。何が楽しいかわからないが、走り、小突きあい、笑う。あははは。
 ああ、いいなあ、と思った。彼らは傘もささず、ただ純粋に今を楽しんでいた。彼らの周りに雨は降っていなかった。彼らにとって雨は美しくないものだったし、彼らに雨は不似合いだった。何故僕の周りには雨が降っているのだろう。まるで壁でもあるかのようだな。そんなことを考えていると、突然後ろから自転車が飛沫を上げて突き抜ける。驚き、傾く視界の隅で、さらに驚く子供達を捉える。
 猛スピードで遠ざかる濡れた水色。それが警官であることに気付くと、僕は突然怒りを覚えた。雨が降り出したので急いで交番に帰ろうとしているのだろうか。自転車をこぐ前傾姿勢が、その警官の視野の狭さを象徴しているように見えた。うつむいてこぶしを握る。楽しげな子供達の世界が壊れたのが、悔しかった。雨が眼鏡の内側に打ち付けレンズを曇らせる。
「けいーーーーーーれいっ!」
 突然の声に僕は身を乗り出すようにして顔を上げた。子供達は警官に向かって敬礼していた。数秒、世界から音が消えた。そして彼らは互いを見て、あはははは、と笑った。
 僕は前を向いたまま呆気に取られた。間抜けな前傾姿勢のまま自分自身の浅慮を恥じた。子供達の世界は壊れてなんかいなかった。彼らは警官に夢を見ていた。純粋に警官に憧れを抱いていた。彼らの世界が壊れると危惧した僕の、その思考自体が、曇ったフィルタを通したものだと気付かされた。しかし、僕はそれと同時に、危険だな、とも思った。子供達は警官を無条件に肯定している。それは素晴らしいことではあるが、危険でもある、と思った。極端な話、彼らは警官が銃を持ってこちらに構えたとしても抵抗しないだろう。これも曇った考えなのだろうか。
 警官に対する怒りはどうやら収まりそうもなかった。夢を守れない警官に、将来を守れない警察に、存在意義などあるのだろうか。


 駅に着くと同時に、学校に行かなければならないという憂鬱な感情が襲う。息苦しくなり、吐きそうになる。目の前を通勤特急が通過する。いっそ線路に飛び込めば、と思う。自分が車輪に潰され、分断されるところを想像した。何故か愉快になった。死への憧憬。どうせならバラバラになって吹き飛ぶのがいい。学校に行っても落ちこぼれとして存在を黙殺されるのみなんだ。地元の、偏差値五十くらいの、普通の高校に通えばよかった。こんなはずじゃなかった。自分自身の努力不足の結果だから、文句も言えない。落としどころの無い負の感情は、火災現場の煙のように僕の心の中にたまってゆく。やがて僕はその煙で窒息死するんだ。ゆっくりと僕は死んでゆく。何て息苦しいんだろう。吐き気がする。煙を外に出してくれ。バラバラに、粉々にこの胸を砕いてくれ。
 死に対する恐れや痛みはどこから来るのだろう。冷めた考えかもしれないが、答えは「人間が生物だから」となるのではないか。人類が絶滅しないように、必死になって個々が生き抜くために、死に対する苦しみが設定されているのではないか。種の保存。しかし今僕はこうして電車に撥ねられることを想像し、死への憧憬を抱いている。もしかしたら僕は人間として不良品なのかもしれない。生きるために造られた人間の中に、死ぬために造られた不良品の僕が一個。ならば撥ねられるのは当然なのかもしれない。
 普通列車を待ってベンチに座る。電車を降りたら走らなければならないな、と確認していると、駅員が慌ただしくホームに降りてきた。半ば絶望的に掲示板を見る。人身事故が起きたらしい。文句や舌打ちが聞こえる。それらが全て僕に向けられているようで居たたまれない。それにしても困った。学校に間に合わないことは確定した。問題はどれくらい遅れるかだ。到着はバスの方が速くなるのではないか、と期待をしつつスマホでマップ検索する。それによると、バスを使った場合、人身事故が無かった場合の到着時間から大体四十分遅れになるようだ。人身事故の処理を待った方が速いかもしれない。処理――電車を待つ側にとって、それは処理でしかない。
 僕はベンチで脱力していた。とても疲れた。これまで学校で落ちこぼれながらも必死でもがいてきた。しかし今回の人身事故が僕にゲームオーバーを告げているように思えた。昨夜の睡眠不足がここにきて効いてきた。僕は黒いスクールバッグを抱えて、落ちるように寝入った。

 いつからこの森にいるのかわからない。小さい頃の記憶を辿れば、どろりとしたスープのような映像が、水面を漂うように細切れに甦る。あの頃の森は小さく、楽しいものだった。転んだら母が温かく抱きしめてくれた。その温もりで体が溶けそうだった。そのまま体重を母に預けてまどろんだ。
 いつからか、森に階段が現れた。石でできた、偶然がかみ合わさったような、古くて頼りない階段。母たちが見ている中でゆるい階段を上る。好奇心から、一段、また一段と登る。同じ大きさの子供達が付いてくる。母に包まれるのとは別の安心感を覚えた。そして、安心感とは別の、心の底の方から、震えるように、わくわくするような気持ちが現れた。この気持ちを表すなら「勇気」となるだろう。僕の隣について、「あっちへ行ってみようぜ!」と誘いかける友達。先に行って皆が知らないようなことを次々に吸収する友達。皆が一体となって階段を上る。少し険しい階段を乗り越えると達成感を感じた。そしてそれを再び得るために僕らは階段を上る。僕らに敵はいなかったし、僕らは互いに仲間だった。
 あるいは、親に褒められるから上っていた人もいるかもしれない。階段を一段上ると、母は抱きしめてくれたし、父は頭をなででくれた。階段を上ることは、楽しく生きることと同じだった。

 いつからだろう、階段は急になり、分岐点も増えてきた。しかし、確実に誰かが踏んだ道でもあった。集団は分散し、その人数も少なくなっていった。隣にいたあいつは近道を探って険しい道を進んだ。息も絶え絶えになりながら階段を上ろうとしている人もいた。僕はそれを横目に、足を踏み外さないよう慎重に進んだ。上から人を巻き込んで転げ落ちる人もいた。僕は人通りの多いところから一定の距離を置いた。かつて勇気を与えてくれた友達は、迷惑な存在になりつつあった。楽な道にそれる人、それについてゆく人。その集団の流れに巻き込まれないよう、前を見据えて僕は上り続けた。だんだん踏み慣らされた階段が少なくなってきた。滑り落ちないように、持てる力を効率よく使い、僕は上った。
 他の道から合流した新たな仲間との出会いは楽しいこともあり、煩わしいこともあった。協力しながら登れば早く進めるが、馴れ合いになってしまうこともあった。結局自分自身しか信頼出来ず、僕は一人で上った。そのほうが、余計なことを考えずに済む。
階段を上ることが僕の使命だ、と思った。

 そして今、僕は疲れ切って、しかし落ちないように階段にしがみついている。いや、もう階段と呼べないほどに急な岩場だ。雨が僕を非難するように打ち付けた。どこに手を伸ばせば良いかわからない。そんな僕の横をぴかぴかの靴を履いた誰かが上ってゆく。覚えたてのクロールで息継ぎをするように空気を肺に入れる。自分の才能の無さを痛感する。どうして僕だけが先に進めないのだろう。情けなくて、みっともなくて、辛くて、吐き気がする。最後の悪あがきとばかりに地面を蹴って岩をつかむ。岩は体重を支えきれずにもろく砕ける。体が空中に浮くのを感じた。手に岩の余韻を感じながら自由落下する。突然、背中に鈍い痛みを感じる。それを契機として僕は階段を転げ落ちる。様々な場所に痛みを感じ、それが麻痺してゆく中で本能的に手を頭にやる。かけていた眼鏡がどこかに消え、視界がぼやける。同時に解放感が襲い、階段が消える。ベッドに片手で置かれる枕のように、肩から足へと時間差で接地し、優しく身体が地面に置かれる。

 目が覚めた。五十分ほど寝ていたようだ。まだ掲示板は人身事故のアナウンスを続けていた。それを見て僕は静かな気持ちになった。
 学校に行かなければならないという謎の使命感に駆られ僕はバスステーションに向かう。これは刷り込みのようなものなのだろうか、と思う。刷り込み、という言葉が引っ掛かり、頭の中でその言葉をしばらく噛み砕く。何故刷り込み、という表現をしたのだろうか。学校に行かなければならない、という思いに対して、普通は常識、という言葉を使うはずだ。自分の意識とは関係の無いところで、ごく当たり前のように思っている、というところが刷り込みと似ているような気がしたのだ。ごく当たり前のように思っている、というのは常識から来る判断だ。「刷り込み」と「常識」は繋がっていそうだな、と思った。
社会が僕らに対して行う刷り込みが常識で、その常識に従って僕は学校に行くのだろう。社会というぼんやりした輪郭に、今日も僕は踊らされているのだろうか。

 外に出ると雨は僕の予想よりはるかに激しく降っていた。雨粒がアスファルトをはじく音だけが響いていた。まるで僕を非難しているようだな、と思った。風当たりが強いな、なんて洒落を考えつつ、屋根のある場所を慎重に進む。
 市内には大雨洪水警報が発令されていた。雨雲レーダーは僕の街の上を赤く染めていた。スマホを見ながら数分待つと、朧げなライトを携えてバスがやってきた。ブザーが鳴り、空気を抜くような音と同時に車体が少し傾きドアが乱暴に開く。僕は整理券を取り、二人掛けのシートの窓側に座る。雨はますます強さを増しているように見えた。ガラスに反射して自分の姿が映る。
 バスに乗ってから重大なことに気付いた。財布の中身を改めて確認する。百円玉が二枚と、十円玉と一円玉が少し。電車では定期を使っているが、それと同じ感覚でバスに乗ってしまったようだ。
 料金が二百円の区間スマホで確認し、泣く泣く途中下車する。ここから六キロは歩かなければならないな、と思った。絶望と共に外に出ると、雨が激しく傘に打ちつける。それと同時に、むせるような匂いが生暖かい空気と共にやってくる。鼻の奥、さらに奥に絡みつく匂い。その匂いは僕の記憶を呼び起こす。

 雨の街を、母と二人で歩いていた。

 実家から家に帰る時は、いつも新幹線と地下鉄を使っていた。新幹線の窓にビルの群れが現れると、僕は自分の生活する場所に帰ってきた、と感じた。二時間半も新幹線に乗っているとさすがに話すことも無くなって、僕はよく、窓を流れる風景を見ていた。
 その日も僕は新幹線に乗るのに飽きて、窓の外を見ていた。窓に自分の姿が二重になって反射する。その日の帰りは夜だった。ただその日はいつもと違って、乗り始めから母と会話をしていなかった。
 新幹線を降り、いったん改札を出る。地下鉄に乗り換えるものと思って帰宅ラッシュの人ごみをくぐっていると、突然母が立ち止まった。同じ顔をした黒い服の人々が、黒いカバンを持って僕らを避けて歩く。
 母は振り返ってこう言った。
「ねえ蓮、歩いて帰らない?」
 正気か、と思った。家まで六キロはある。僕は母に「お金でも無くなった?」と尋ねた。母は首を横に振った。
「運動不足の都会っ子にはいい機会だと思うんだ」
 嫌な予感がしていた。新幹線の乗り始めから母と会話をしていなかったことだ。

 母の実家で、僕はいつものように好きなだけ本を読んでいた。今宵は電気を消されることは無い。その充実感を味わいつつ、本を読み切った。
 次に読む本をカバンから取り出しに、僕は跳ねるように立ち上がった。その時、ふと部屋にある本棚が気になった。
 本棚を見ると、色々な専門書が入っていた。そう言えばこの部屋はもともと母の部屋だったな、と思った。母はこんな本を読んでいたのか、と思いつつ、上に置いてある紙筒が気になり、椅子を使って背伸びしてそれを取った。
 椅子を降りて筒の中を見ると、卒業証書が入っていた。どうやら高校のものらしい。それには誰もが知っている有名私立大学の名前が入っていた。どうやらその付属高校のようだ。僕は、半ば尊敬の目で、その卒業証書を通して母を見た。
 本棚にはもう一本筒が置いてあった。僕は高校の卒業証書を握ったまま椅子に乗り、その筒を取った。いそいそとそれを見ると、中には大学の卒業証書が入っていた。しかし、大学名を見ても見覚えが無い。期待外れの結果にがっかりして後ろに下がる、と同時に僕は椅子から落ちた。
 その音を聞いて母が部屋に入ってくる。僕は証書を隠そうとしたが、間に合わない。母はいったん僕を見、次に高校の証書を見、そして大学の証書を見た。母の顔が厳しくなり、そしてかすかに歪んだ。それを見て僕は全てを把握した。後日談になるが、調べるとその大学は私立だった。Eランク、と出ていた。
 それから駅まで、僕らは会話をせずにいた。それにもかかわらず母は六キロある帰り道を歩こうと言ってきた。絶対に怒られると思った。僕は言い訳を考えながら母の後を付いていった。
 母はビルの光を見ていた。楽しそうに笑っていた。僕はビルの下を走る黒猫を見ていた。黒猫は点になって街に吸い込まれていった。
 黒猫を見送って顔を上げる。ビルの光が一瞬レンズに反射し、そして消える。その過程で僕は、レンズに汚れがあることを知る。右手をズボンのポケットに突っ込む。ハンカチを握り、少しポケットの入り口で手をつかえさせながらそれを取り出す。ポケットが反対になってしまった。軽い苛つきを覚えながらハンカチを左手に持ち替え、右手でまごまごとポケットをなおす。両手を使いなさい、と母の声。
 クリングス下のレンズを拭くのに苦労しながら、ハンカチでレンズをなぞる。その指は地面と平行に流れる。

 父は今、アメリカにいる。
 IT関連の仕事をしているらしいが、詳しいことは知らない。家には一定のお金が入ってくる。僕らはそれで生活をしている。入ってくる額は、あまり多いとは言えないが。
 父は日本の会社に五年ほど勤めてから、アメリカに行った。父は母に「アメリカはどんな人でも受け入れる。だからこそアメリカンドリームがあり、それを守るために世界の警察であり続けるんだ。僕はそんなアメリカで働きたい」と語っていたそうだ。僕の父の記憶は、古いフィルムの映像を見ているみたいに朧げだ。もしかしたら、その姿かたちはアルバムの写真で補完されたものかもしれない。
 母はよく僕が四歳の時の話をする。僕は小さい頃から極度の人見知りだったそうだが、四歳ごろになるとその傾向が顕著に現れ出したそうだ。理由を聞いてみると、皆人形に見えるから、怖いんだ、と返ってきたそうだ。
 僕のフィルムの中では、駅の光景が鮮明に残っている。同じ顔をした、黒い服を着ている、黒いカバンを持った人形たちが、操られているかのように群れを成して蠢く。体中の毛が一斉に立つような、ぞわっとするような感覚。
 そんな僕に、父は眼鏡をプレゼントしたらしい。
「君は守られている。君の目はちょっと特殊だから、普通なら見えないものが見えてしまうんだ。だけどもう大丈夫。この眼鏡は君のピントを普通の人のものに修正してくれるし、君自身を守ってくれるんだ」
母は少し低い声で、父の声をまねていつもそう言う。

 度の入っていない薄っぺらな眼鏡をかけ、ハンカチをポケットにしまい顔を上げると、雨の匂いが僕を囚える。鼻の奥を、さらに奥を刺激する匂い。僕は母に、折り畳み傘はあるか、と尋ねた。母はリュックから傘を取り出し、僕に渡した。リュックを背負いなおす母を見て、素直に、カジュアルなファッションが似合う人だなあ、と思った。
 間もなく雨が降ってきた。アスファルトに雨粒がはじけて吸い込まれてゆく。やがて雨の匂いは消えていった。
 雨の街を、母と二人で歩いていた。
「雨が降った時の独特な匂いに名前があるのを、知っているかい?」
と母が言った。
「ペトリコールのこと?」
と僕は答えた。
「君の年齢でどうしてペトリコールを知っているのかな。将来を考えると末恐ろしいね」
と母は言った。僕は前を向いたまま「本」とぶっきらぼうに言った。母は少し上を向いて、
「じゃあ、ペトリコールのメカニズムは知っているかい?」
と僕に尋ねた。
「植物の油とかが土についてどうとかそんな感じだったと思う。匂い自体はそれに加えて雷によるオゾンだとかとりあえず色々」
「まあそんな感じだったと思う。ようは色々なものが混ざり合ってあの匂いが造られているんだ。それで君は、その知識をどういうことに使うのかな? もしくはそれを覚える意味とか」
 僕は少し黙った。比較するならまだ後者の質問の方が簡単そうだ。何のために僕は知識を増やしているのだろうか。
「知りたい、からかな」
「漠然としているね」
「そういうものだと思うんだけど」
 僕は少し不機嫌そうに言った。母は傘をくるくる回して少し考えた。
「確かに、知りたい、っていうのは大切なことだと思うんだ。だけどいつか君が知りたくなくなったら……例えば高校生になったあたりで、勉強が辛くなったりして、知りたい、って意欲が無くなったら、君は知ることを放棄するのかい?」
 僕はいよいよ不機嫌になって「いいや」と言った。僕の心の中で、二種類の不機嫌になる要素が渦巻いていた。一つは純粋な、もう一つは不純なものだった。わからないことを指摘されている不快感、これが純粋な方だ。そしてもう一つは、母が僕に過去の自分を見ているのではないか、という考えだった。
「君は知りたい、っていう純粋な気持ちだけで動いているけれど、そうじゃない力にもまた動かされているわけだ。動かされている、っていうのは気持ちのいいものじゃない。だから動かされている人間は不満を感じるわけだ。自分の人生を生かされている、ってことにね。
 今君は、純粋な気持ちの方が強いからしんどさを感じないかもしれないけど、いずれその純粋な気持ちは消えるはずだ。空っぽの箱に吸い込まれるように。後に残るのは動かされている自分だけだ。君は頭がいいから疑問を感じるはずだ。そして動かされることさえ放棄するかもしれない。言い換えるならば知ることの放棄だね。その時君は錯覚しているはずなんだ。その道は自分で選んだ、と。実際は動かされているから放棄しようとしているのにね。
 そうならないために君は君自身が持つ純粋な気持ちを固定することを考えなくちゃいけない。純粋な気持ちはとても美しいものだけれども、すぐに壊れてしまうものなんだ。自分の気持ちを分析するんだよ。そしてその気持ちを風化させない理論を創るんだ。それが君の知識を得る意味になるんだ。そしてそこから知識を何に使うかを導き出せると思うんだ。目的や理論を持たないまま生きるのは終わりの無い階段を歩いているようなものだよ」
母はこれだけのことを一気に話した。それは遺書を読み上げているようでもあった。
 一方、僕は、母に対する嫌悪感を強くしていた。母は母自身の甘えを綺麗に昇華して、高尚な理論にしているのではないか。そして厚かましくもそれを以て僕の生き方に意見しようとしているのではないか。僕はそんな道は辿らないはずだ。平たく言えば、一緒にするな、と思った。僕はこの話を早く切り上げようと、適当なことを言った。
「終わりの無い怪談は、確かに怖いね」
 それを聞いて、母は二秒ほど考えて、言った。
「私のような人にしかわからないことがあるんだ。そこは真摯に受け止めてほしい。
 そして、終わりの無い怪談は、確かに怖いね」

 小さい頃の六キロはとても長かった記憶があるが、高校生になるとさほど長くないように感じた。小さい頃と今では、見える景色が違うんだな、と思った。学校までのこり一キロほどになった。
 僕はニュースを見るためにスマホを開く。見出しだけが並んだネットニュースを流し読みする。大雨のニュースや児童二人が失踪したニュース。相変わらず大国の大統領はSNSで炎上していた。僕はそれを他人事のようにスワイプしてスマホを閉じる。学校に着いた。

 学校には同じ顔をした人形が並べられていた。のっぺりとした蝋人形のような顔。黒い制服。それを閉じ込める箱のような教室。僕は半ば確信的な気持ちで眼鏡を外し、その箱を見渡した。そこには何も無かった。ただ、空き地が広がっていた。

 雨が激しく降っていた。苔の感触を手に感じた。立ち上る香り――鼻の奥を、さらに奥を刺激する――ペトリコール。
 森が現れる。美しく深い緑。ノイズのように見えるのは雨だ。いや、ノイズという表現は適当か? 雨が森を造っている、つまり雨がこの景色を造っているのだ。立ち上がり、もう一度世界を見る。憂鬱な雨もこの景色の一部であるということを僕は理解する。雨が、生まれて初めて美しく見えた。ここから僕の、この世界の上書きが始まるのだろう、と予感した。
 足元に奇妙なものがあった。苔の上にある、枯れかけた葉のようなくすんだ色のジャケット――僕の血で幾分赤く染まってしまってはいるが――拾い上げると、見覚えがあった。
 ミリタリージャケット――軍服だ。サリサリとした麻の感触。教科書で見たことのある、国防色をした日本の軍服。目の前に掲げてみる。森の深緑を背景とし、緑がかった茶色のジャケットの縁を、赤い血を絡めた雨の雫が伝い、滴る。やぶれた隙間から、光が淡く漏れる。
 僕はそれを、美しいと思った。
 しばらく僕は、そこにミリタリージャケットがある意味を考えた。自分の頭で、理論を構築する。世界を創る仲間の声が聞こえた。
 創造された世界を見渡して、浮かんだ考えを少しずつ頭にしみこませる。この世界を造る一人から、この世界を創る一人になる。再びやぶれてしまわないように、慎重にミリタリージャケットを着る。
 物語を終わらせ、僕自身の世界を創るんだ。

 目が醒めた。

2 破綻

 新幹線が静かに街を駆け抜ける。窓の外、流れる風景を眺めながら、僕は京都で受験した頃のことを思い出していた。

 高校受験を終え、僕と、付き添いの母は、新幹線に乗り山梨へと向かっていた。「試験の手ごたえは?」「んーまずまずかな」なんて会話をしながら。
「織には感謝しているからね、織のおかげで、問題がおおかた解決する。皆が幸せになる。京都のおばあちゃんの面倒を見ることが出来るし、転勤をしないで済む。それに、山梨にいるよりも、京都にいる方が、明らかに織にとってチャンスが多い。織は家族の問題を解決しただけでなく、自分自身の運命まで変えてしまった。すごいよ、織は」
「もう受かったみたいに言わないでよ」
「いや、織はきっと受かってる。お母さん、そんな気がする」
 母は笑った。僕はそんな母の無責任さが嫌いだった。

 名古屋駅につき、「ワイドビューしなの」に乗り換え、塩尻駅に着いたのが午後の五時。そこから「スーパーあずさ」に乗り換え、甲府駅に着いた頃には、辺りは薄暗くなり、時計の針は午後六時を回っていた。

 山梨は一年ぶりだった。父とは数か月に一回ほど会っていたが、その場所はいつも京都であった。冷え込みは京都より厳しかった。そうか、僕は山梨の寒さを忘れていたのだな、と思った。
 お金が無かったのでネカフェを探す。調べてみると、駅近くにネカフェは無かった。最寄りのネカフェは郊外の昭和町にあるらしい。それ、マジで言ってます?
 ネカフェに行くためにバスを待つ。甲府駅のバスターミナルは、京都駅のそれとは比べ物にならないほどこじんまりとしているが、帰宅ラッシュと重なっているからか、それなりの賑わいを見せていた。バスがターミナルに着く。プシュー、と音を立ててドアが開く。僕は順番を待ってバスに乗り込み、整理券をとる。ドアが乱暴に閉まり、車掌が「発進しまーす」と無気力な声を出せば、バスは気だるげにエンジンを鳴らす。信号・並木道・停留所――止まっては進み、進んでは止まり、バスは甲府駅から遠ざかってゆく。ビルも立ち枯れる黄昏の街。物悲しい雰囲気に誘われて、僕は束の間 感傷に浸る。「ハリボテの街」――何故か口をついて出たこの言葉は、しかし「甲府」という街を忠実に表している気がした。都道府県庁所在地の中で人口最下位。立ち並ぶビルの多くは空きビルと聞く。
 バスは駅前のビル街を抜け郊外へと向かう。山の向こうの明かりは消え、暗澹とした街に街灯はまばらである。そういえば、山梨県は空き家率が日本一らしい。停留所と停留所の間隔が広くなり、バスは加速する。
 甲府駅前が廃れているのには、人口減少のほかに、今まさに僕が行こうとしている「昭和町」の存在がある。甲府の中心街から見て南西に位置する小さな町で、平成の大合併において、どことも合併しなかった町でもある――つまり、お金を持っている。釜無工業団地が町に対して多くの恩恵を与えていることはもとより、昭和町には県内唯一のイオンモールと県内唯一のイトーヨーカドーがあるため、休日になると、ほとんどの山梨県民は昭和町に行くため、町の財政が潤わないわけがない。最近、イオンモールの規模が拡大したらしく、山梨から東京に行った友人が「ぶっちゃけ東京にいるよりイオンにいる方が便利なんじゃね?」と言っていた。確かに、店内には映画館から眼科まであると聞くし、ある意味それは当たっているのかもしれない。ともかく、甲府が廃れるのも無理はない。


 バスを降り、数分歩きネカフェに着く。会員登録で住所等を書く時は、一応 警察に追われている身として一抹の不安があったが、意外なほどにすんなりと手続きは通り、僕は提示されたプランの中から必要最低限のものを選び、その分のお金を払った。
 入室すると、狭い部屋に白いシートが置いてあり、それが目を引く。汚れが目立ちそうなものなのにな……なんて思いつつ、僕はこの部屋で夜を過ごすということに、少しの高揚感のようなものを覚えていた。まるで秘密基地を手に入れたかのような――さしずめ、受付で渡された、パソコンへのログインIDやパスワードは、秘密基地でいうところの「合言葉」といった所だろうか。

 スマホを充電しようとして、充電器を持ってきていないことに気付いた。そういえば、忘れがちであるが、僕は家を衝動的に飛び出してきたのだ。部屋を出て、フロントで一時退出の許可を得る。

 外に出ると、オレンジ色の街灯が街を静かに照らしていた。人はほとんど歩いておらず、代わりに車が音を立てて走っていた。僕は横断歩道の前に立ち、ぼんやりとそれを見ていた。
 信号が青になり、僕は横で信号を待っていた車と平行に歩き出す。横にいた車は加速して、後続車に被さるようにして見えなくなっていった。
 街には車の音のみが響いていた。人が織り成す騒めきのようなものが、この街には一切 無かった。底無しの沼のように空が広がり、車の音はそこに虚しく響くのみだった。僕は唐突に、あの夜――京都の住宅街で感じた空虚を、この山梨で追体験したような気分になった。「包まれたい、抱きしめられたい、繋ぎ止められたい」――山梨の、この底無し沼のような空に対して、僕はあまりに無防備であった。そしてそんな僕を守ってくれる人は、ついには誰一人としていなくなってしまったのだ! 僕はその肝心かなめの重大な事実について、今更 気付いてしまった。


 コンビニでスマホの充電器と食べ物を買い、ネカフェに戻る。先程「秘密基地」と形容したその部屋は、僕にとって魅力のない何者かに成り下がってしまった気がした。ログインIDとパスワードは「合言葉」になり得るはずもなかった。何故なら、合言葉とは、複数人いて初めて成立するものなのだから――しかし何故か、それを入力する時、僕は一縷の望みのようなものをそれに託していた。そしてまた、それが何に対する望みであるのかわからないでもいた。
 ネットに接続し、Twitterのページを開く。Twitter IDを入力し、パスワードを欄に入れて、ログインしようとした時、はたと一つの考えが頭をよぎり、僕は先にスマホアプリでTwitterを開いた。
 ――やはり。僕の考えは現実のものとなっていた。アカウントが凍結されていたのだ。
「マジか」
 「ふぁぶ」フォロワーの話題を拾うためには、一つ一つアカウントを検索してゆかねばならぬし、何より、鍵垢が見られない。ならば、新しいアカウントを取得すれば? 捨てアドでアカウントを取得してみようとしたが、上手くいかない。仕方ないので、フォロワーのアカウントを検索する。検索窓に何を入れるか、少し迷った後、僕はキーボードで入力を始めた。
"いとたそ。"

 表示されたアカウントを選び、クリックする。ツイートの一覧が表示され、僕はそれを昨日まで遡り、そこからツイートを読み始める。

♻︎いとたそ。さんがリツイート
山梨のやりまん @l_u4y・5時間
山梨のエロい情報や
やりちん、やりまんを
広めていきます!
山梨のやりまん: いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i
💬0 ♻︎6 ♡3

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・5時間
は?まぢありえないんだけど?
>RT
💬0 ♻︎2 ♡5

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・5時間
お前に何がわかるっつーんだよ
まぢで氏ねや卍
💬0 ♻︎0 ♡5

♻︎いとたそ。さんがリツイート
サイマジョ @s1mcj・18時間
今日もメンヘラは国民の血税を吸い尽くす😇
生活保護を受給している旨が書かれたTwitterのプロフィールと、その人がアップしたリストカットのツイートを合わせた画像が四枚〉
💬368 ♻︎2.3万 ♡1.5万

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・1時間
明日自殺しまーす卍卍卍
💬2 ♻︎8 ♡5

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・1時間
自殺前に、フォロワーさんとのオフ会をしたいと思いまーす😆
明日の十時半 富岳風穴売店のソフトクリーム屋の前で集合!
富岳風穴売店の画像〉
💬2 ♻︎9 ♡5

 僕はツイートを読んだ後、えも言われぬ感情に襲われた。過去に会ったことのある人が、今まさに命を捨てようとしている。その事実が、何故だか現実味を持ったものとして受け止められない。それはまるで不幸な殺人事件を、テレビ画面越しにニュースで見ているかのような――その時気付いた。僕が画面を通して知ることが出来るのは、どこか遠くの、他人の出来事なのだ。僕はその他人と手を繋ぐことが出来ない。他人も僕と手を繋ぐことが出来ない。そこにどれほどの悲しみがあろうと、憎しみがあろうと、僕らはそれをどこか遠くの他人事として受け止めるしかないのだ。――そう思った時、唐突に空虚な感情に襲われた。僕はこの世界のどこかにいる、「らいたあ」や「ヒューズ」、「FH3」、「@ajfnxSIk_2lxL」、「あしすと」、その他 飛行機界隈のメンバー、そして「いとたそ」に思いを馳せた。しばらくそうした後、僕はトイレにスマホを沈めた。その後、PCで少し調べものをしてから、僕は早々と白いシートに背中を預けて寝た。

 翌日、僕はネカフェ最寄りの国母駅から始発に乗り込み甲府駅に向かった。駅に着き、近くのコンビニでカロリーメイトと水を幾らか買い、また朝ご飯用にパンを買った。朝食をとってから、七時二十三分の高速バスに乗り込む。一度の乗り換えを経て、九時四十分に河口湖駅前のバス停に着く。凍えるような寒さの下、コートを着つつバスを待ち、九時五十八分、本栖湖行きのバスに乗る。「次は、風穴、風穴――」車内に流れるアナウンスを聞き、それから僕はボタンを押す。「次、止まります。お降りのお客様は――」バスが停車し、運賃箱にお金を入れて外に出る。
 「富岳風穴」と書かれた大きな看板が目に入る。それなりに広い駐車場があり、その奥に木でできた建物がある。白のクリームに黄色のコーンの、よくあるソフトクリームの模型が置いてあり、それにもたれかかるように一人の女子が立っていた。僕は確かな足取りでそれに近づき、声をかけた。
「お久しぶり、狭山さん」


 富岳風穴は青木が原樹海にある風穴で、観光地の一つである。富士山の噴火に伴って出た溶岩の中に形成されたトンネルの一部が残ったもので、風穴内は夏でも零度ほどであるため、避暑地として人気がある。
 しかしながら、自殺志願者の間では、富岳風穴自体よりむしろ、その横にある遊歩道が有名である。というのも、その遊歩道から一歩道を逸らせば、そこに広がるのは一面の樹海であり、一人で朽ちることを望む自殺志願者にとって、格好の自殺の場となるからである。それ故、青木が原樹海は自殺の名所であり、ここで自殺する人の多くは、富岳風穴横の遊歩道から樹海に侵入する。

 「お久しぶり、狭山さん」――声を聞き、糸は一瞬ビクン、と体を震わせ、そしてこちらを恐る恐る伺った。糸の目は信じられないほど真ん丸に見開かれており、またほとんど状況を呑み込めていない様子であった。
「僕のこと、覚えてる?」
 その言葉で我に返ったのだろうか、糸は小さな声で
「……高橋君?」
と口にした。
 糸はさっぱりとした服装で、着飾っている、という印象は無かった。Twitterで糸の派手な生活を知っていたので、僕にとっては、少し意外であった。特筆すべきは背負っているリュックサックの大きさである――相対的に糸の華奢な体が強調されていた――中に自殺用の縄が入っているのだろうか、などと想像して、僕はなんとなく暗鬱な気分になった。
「どうしてここに来たの」
 今度は僕が困る番だった。僕は何故ここに来たのだろう。ここに至るまでに起きた出来事を考えると、理由は様々ある気がしたが、一方で核心的な部分――どういう思いを持ってここに来たのか、という部分においては、理由など何も無いような気がしていた。
「何故だかわからない」
 僕が素直にこう口にすると、糸は訝しんだ様子でこちらを見た。
「冷やかしなら、帰って」
「冷やかしなんかじゃ――」
 僕はとっさに出た言葉を呑み込み、次の句を考えた。
「疲れたんだ、人生に」
 零れ落ちた言葉は自分でも予想外のもので――しかし僕は僕自身の感情を正確に伝えられたと思った。
「時々こんな妄想に駆られるんだ。周りには人も、物も、高さも、奥行きも、何も無くて、僕はそんな世界をただひたすら歩いている。どうして歩いているのかすらわからなくて、それでも歩いている意味を考え続けている。そこに意味など無いのかもしれない、と薄々勘づきながら、歩き続けたなら歩き続ける意味が見つかるのではないか、手掛かりくらいなら現れるのではないか、なんて思いながら歩き続けることしか出来ない」
 糸は静かにこちらを見据えて口を開いた。
「それで、高橋君は歩き続けるのに疲れた、と」
 僕は頷いた。
 その時、予想外の方向から声が上がった。
「はあ~~~~~~っ、きっっっっっっっっっっっっっっっっっも!」
 そう言いながら一人の女子が近づいてきた。
「とっとと死んじゃえよ! あ~もう何かキモ過ぎてゾワゾワしてきた」
 そして僕らを指さす。
「お前らみたいなの、とっとと死んじゃったほうが社会のためだよ。私たちのために死なせてあげるから御託並べてないで早いとこ首吊って死んじゃえよ空気を汚すな蛆虫」
 僕は突然登場した彼女に面食らいながら、中一の頃を思い出していた。清水知央ちお――彼女は僕をいじめたグループの二番手だった。
「織~~~、お久しぶり~~~。都会の生活に疲れて首吊りですかあ~~~、ざまあねえなあ~~~」
 中学生の頃から見るとずいぶん垢抜けたが、吊り上った目が昔の面影を残しているな、と近づく知央を見てぼんやりと思った。確かに「人生に疲れた」とは言ったが、首吊りをしようと決めているわけじゃないんだけどなあ、と僕は苦笑いする。
「その笑い方。相変わらずキモいなあ織は。もっとちゃんと指導、、するべきだったよ、ごめんねえ、織ちゃん」
 そう言って知央は指で僕の頬をなぞる。吊り上った目が、まるで獲物を見る猛禽類のように僕を捉える。
 ゴッ、と鈍い音がして、知央の指が僕の頬を離れる。糸が知央を足蹴にしたのだ。地面に倒れた知央は糸を見て言った。
「何すんだよ落ちこぼれの不良女!」
 糸は知央に近づき、何かを拾った。
「こういうことするためにここに来たのね、お疲れ様」
 彼女の手にはICレコーダーが握られていた。
「っ返せよ!」
 ICレコーダーを見た知央はわかりやすく動揺した。
「取り返してみなよ、ほら」
 ICレコーダーを掲げて糸は言った。知央はそれにとびかかった。糸はその鳩尾に的確な蹴りを入れた。折れ曲がる知央の体。間髪入れずに糸は倒れ込んだ知央を踏みつけた。繰り返し、繰り返し。
「糸! やめろって!」
 僕は後ろから糸を羽交い絞めにした。
「離せよ!」
 ほとんど絶叫に近いその声を聞いた時、初めて僕は糸が泣いていることに気付いた。静かに嗚咽が響くのを、僕はただ黙って聞くことしか出来なかった。知央はその場に固まっていた。緑色の服を着た警備員がこちらに駆けてくるのが見えた。
「大丈夫ですか、何かありましたか」
 知央はうつむいて喋ることを拒否した。糸は肩を震わせて溢れ出る感情を抑えていた。僕は「大丈夫です、何でもありません」と呟いた。
「そうですか、何かありましたらお声がけ下さいね」
 警備員がそう言って戻ってゆくのを僕はぼんやりと見ていた。知央はぎこちなく体を起こし、その場を立ち去った。僕は糸の羽交い絞めを解いた。糸は支えを失い、その場に崩れ落ちた。僕はその小さな背中に言葉を投げかけた。
「行こっか、樹海」


 青木ヶ原樹海はバスで通ってきた国道139号線の南に広がっており、富岳風穴はその樹海の中にある。風穴に至る道は整備が行き届いており、人気も多いため、自殺者を多く呑み込んできたという背景は微塵も感じられない。それに付随する遊歩道もまた然りであるが、樹海の奥へ入ってゆくごとに、人気が無くなり、やがて本性、、が現れる。
「そう言えばさ、何で知央はICレコーダーを持っていたんだ? 何がしたかったのだろう」
 遊歩道の道が狭くなるにつれて糸は平静を取り戻していったが、その分 気まずい沈黙が際立つようになってきた。僕は半分答えの見当がついているものの、彼女に問いを投げずにはいられなかった。
「あいつ、新聞記者になりたいんだって」
 糸から返ってきた答えは想定していた答えとは全く別の角度からのものであった。
「え、そうなのか」
 僕は素っ頓狂な声を上げた。
「だから記者の真似事をするためにICレコーダーを持って行ったんじゃないかな。それで自分のアフィブログにでも上げるつもりだったんでしょ」
 糸の答えは僕の想像の遥か上を行っていた。何とも恐ろしい時代になったものだ。
「権力監視機能をジャーナリズムの重要な要素だと考えると、知央の社会的弱者をあげつらうような態度はジャーナリズムらしくない気がするんだけどな……」
 僕は呟いた。加えて、素朴な疑問が湧いた。
「……知央はどこの新聞社に入りたいんだろう」
産経新聞って言ってた気がするよ」
 糸は素知らぬ顔で言った。

 樹海は雑然とした雰囲気を増し、道はますます幽々としてきた。遊歩道には「命を大切に」といった趣旨の看板がそこらじゅうに立てられ、それがこの樹海の特殊性を際立たせていた。
「そろそろ、」
 糸がそう言い出した時、僕は複雑な感情に襲われていた。それは予想だにしない言葉が来たからでは無かった。むしろ、その言葉がいつ来るのかと、僕はずっと待ち構えていた。そして、それでいながら僕は覚悟を決めること、、、、、、、、を保留にしていたのだ。
 糸が遊歩道から樹海の中へと踏み出した時、僕はどうしていいかわからなくなった。糸がこちらを振り返る。僕の目は宙を泳ぐ。その時、視界を人影がよぎった。目を凝らしてみると、はるか遠くにいる、豆粒のような人を視認することが出来た。心臓がトクン、と鳴ったのが分かった。次の瞬間、どこから現れたのか人影は二つになり、影が重なり、刹那、一つの影が地面に崩れ落ちた。それがトリガーとなった、、、、、、、、、、、。僕は樹海へと足を踏み入れ、糸に鋭く囁いた。
「逃げろッ!」
 糸は状況が呑み込めないといった様子だったが、僕の様子を察してか、すぐに走り出した。足場は最悪だった。しかし何故か転ぶことは無かった。頭が冴え冴えとして、例えばトレイルランなどしたことも無いにもかかわらず、滑りやすい場所や木の根などが手に取るように分かった。しばらく走ると大きな窪地が現れた。僕と糸はそこで身を潜めた。恐る恐る外を見ると、辺りに人影は無かった。それを確認すると、糸がどういうことなのかと尋ねてきたので、僕は二つの人影の話をした。殺人が起きていたのではないか? と。
 糸はそれを一笑に付した。ここをどこだと思っているの? 心中でもしていたんじゃないの? と。成程、言われてみればそうか、と妙に腑に落ちた。なんだか笑えてきた。それで納得出来てしまうような世界に、今 僕はいる。胸の奥が苦しくなるような心地がしながら、それでも僕は笑いを抑えられなかった。少し涙が出そうになって、慌てて目を伏せた。
「私ね、死にたくないの」
 唐突に糸は呟いた。「絶対に死にたくない。死ぬなんてそんなの無理」――糸は繰り返し呟いた。
「――でもね、それ以上に死にたいの」
 糸は空を見上げて言った。彼女の言説は明らかな矛盾を孕んでいた。それでも僕は彼女に倣い、空を見上げ、涙が零れないようにして言った。
「うん。僕もだよ」


 「私ね、『自殺にふさわしいところ』で死にたいの」
 感情の波をやり過ごし、その後に来る心地よい静けさ――それは諦観にも似ている――にも飽き始めた頃、糸はそう切り出した。
「『自殺にふさわしいところ』?」
 僕は続きを促した。
「私、自分の死体が一番綺麗に見える場所で死にたいの」
「どうして? 死んだら一緒だろう?」
 僕は頭に浮かんだ質問を糸に投げかけた。「どうして?」の対象は「死ぬこと」では無かった。
「私って、醜いもので出来ているの。私を形作ってきた全てのものが醜いの。だから、最後くらい綺麗なものにしたいの」
「そうなんだ」
 僕は、そんなことないよ、とフォローすることをしなかった。フォローすることが、無責任なことに思えたのだ。
「だから、『自殺にふさわしいところ』を探しに、一通りこの森を歩きたいと思っているんだ」
 糸はそう言ってこちらを向いた。髪が揺れる。その隙間から光が漏れる。
「じゃあ、探そうか、『自殺にふさわしいところ』」
 僕はそう言ってコンビニの袋を持った。美都もリュックを持ち、立ち上がった。
 僕らの『自殺にふさわしいところ』探しが始まった。


 青木ヶ原樹海は比較的若い森だ。八六四年の貞観大噴火によって流れ出た大量の溶岩の上に成り立っている。溶岩質の土壌は、養分を豊富に貯えてはいるものの、化学的な作用によってその養分を容易に開放しないため、痩せた土地と見なされ、本来なら落葉広葉樹が育つべきところであるが、実際は針葉樹が発達している。歩いていると、どこか殺伐とした印象を受けるのは、それもあってのことなのだろうか。
 歩いても歩いても、そこには森が広がっていた。起伏の少ない土地に、延々と広がる木々の群れ。もしかしたら僕らは同じところを堂々巡りしているのではないか? そんな疑念が頭をよぎる。僕は急に恐ろしくなった。もう僕は、一生この森から出られないのだ――そのことを実感した。いや、出口はある――僕は糸の大きなリュックを見た。その時、唐突に思いついた。何も変わっちゃいないんだ、と。別にこの森に限ったことではない。僕らには、出口は一つしか用意されていないのだ、はじめから。僕は流動的な街の喧騒を思い出していた。あれは目隠しだったんだ。この僕らの置かれている、どうしようもない現実をごまかすための。例えば河原町のような刺激的な世界を仮に構築することで、僕らはそこに何かを見出そうとしていたのだ。僕は無限に広がるこの森の中で、今、自分が生きていることを実感し始めていた。


 ここにいると、時間の流れが分からなくなる。いつもなら、一日のスケジュールはある程度決まっていて、それに従って動けば時間の流れを実感できる。しかしこの森にいると、歩いても歩いても同じ景色が現れるのみで、本当に時間が流れているのか? という疑念すら頭に浮かんでくる。そういえば、時間とは相対的なものだったな、と僕は思い出した。
 そんな中、僕は少しだけ景色に変化を見出し始めていた。影の長さ――日が傾きつつあるのだ。僕は糸の方を見た。糸も同じ確信をしていたのか、小さくうなずいた。
「動物に襲われたら困るから、焚火をしたいところだね」
 僕は糸に言った。
「ライターなら持ってるけど」
 糸はそう言ってポケットからライターを取り出した。僕はなぜそれを持っているのか問おうとしたが、それを問うのは野暮な気がしてやめた。
「松の枝とか松ぼっくりとかを着火剤にすれば火が点きそうだ」
 僕はそう呟いて枝を拾い始めた。糸もそれに倣い枝を拾い始めた。僕はそれを見て、大きめのものを選んで拾うことにした。陽の光が赤く染まる頃には、それらは小高い山のように積み上がった。

 始めは上手く火を広げることが出来なかったが、試行錯誤の末、煌々とした焚火を得る事が出来た。いったんきっかけを掴んでしまえば、後は何を放り込んでもメラメラと燃えた。
「意外と上手くいったね」
 糸は関心なさげに言った。
「もう周りは真っ暗になっちゃったけどね」
 僕は辺りを見渡して言った。墨を塗りこめたような景色の中で、焚火だけが不自然に明るかった。僕らはパチパチと音を立てる焚火に向かうようにして座った。
「食べ物、持ってる?」
 僕は糸にカロリーメイトを見せつつ言った。
「ううん」
 糸はそれから目をそらして言った。
「食べなよ」
 僕は一ブロックを糸に差し出した。糸はそれを黙って受け取った。僕はもう一ブロックを箱から取り出し、いったんその箱を置いた。
「美味しい」
 糸は呟いた。


 焚火はパチパチと音を立てつづけ、僕らはそれをただ見ていた。手持ち無沙汰な空気の中で、僕らは互いの様子を窺っていた。唐突に、糸がポケットをガサゴソと漁り始めた。
「高橋君ってさ、タバコ、吸ったことある?」
 糸はそう言ってタバコを一本 差し出した。
「無い」
 僕は糸からそれを受け取った。糸はライターで火を起こし、僕に差し出した。僕はタバコの向きを確認してから、そのままライターの火に近づけた。まるでE.T.みたいだ。
「それじゃあ火、点かないよ」
 糸は平坦な声で言った。
「タバコを咥えて、息を吸いながらやらないと、点かない」
 僕は言われるがままに火にタバコを寄せた。体を糸に寄せる形となり、僕らの距離はギリギリまで近づいた。
「ゲホッ、ゲホッ」
 僕は煙を肺に入れた瞬間 激しく咳き込んだ。目の前が真っ白になった。糸は「ごめんごめん」と言って背中をさすった。「一気に吸い込んだらダメ。ゆっくりと、少しずつ」
 落ち着いてから僕はもう一度タバコを吸った。やはり咳き込んだが、さっきよりは幾分マシになった。何回かそれを繰り返し、まともに吸えるようになった頃には、タバコは短くなっていた。僕はそれを焚火の中に放り込んだ。「よくこんなもん吸えるね」
「吸ってると、落ち着くの」
 糸は簡潔にそう言って、タバコに火を点けた。口から白い煙が漏れる。それは、焚火に照らされた顔や、背景の真っ暗な森と調和して、一つの美を形作っていた。
「狭山さん、タバコ似合うね」
 僕は素直にそう言った。
「醜いものには、醜いものが似合うってことだよ」
 糸はそう言って煙をふうっと吐きだした。それから、タバコを焚火に放った。
「高橋君はさ、綺麗だから」
 糸はそう言って焚火を見つめた。黒い瞳にオレンジ色の炎が反射する。僕は「だから」の続きを待っていたが、糸はそれを言わず、リュックからお酒を取り出した。
「醜いついでに。ぬるくなって美味しくないかもしれないけど」
 僕は二本出された缶のうち一本を持った。
「ゆっくり飲むことをお勧めする」
 糸はそう言って、缶を空気を漏らしつつ開けた。僕もそれに倣い、内容物が吹き出さないように気を付けながらそれを開けた。口に含むようにして飲むと、えもいわれぬ苦味が広がった。
「凄い顔してるよ」
 糸はそう呟いて、少しだけ表情を崩した。僕はもう一口、今度は少し多めに飲んだ。相変わらずの苦さであったが、意外と美味しいかもしれない、と思った。そのままの流れでもう一口。お酒に対する抵抗感はかなり少なくなっていた。これはイケるぞ、と思いもう一口飲むか飲まんかという所で、急に意識が揺らめくような感覚に襲われた。何だ? と思う暇もなく急速に思考速度が落ち、宙に浮くような感覚を味わった。視界はボヤけ、顔がカーッと熱くなった。あ、マズい――そう思うと同時に、揺らめきの第二波が来て、僕の意識は完全にもっていかれた。

 朝起きると、糸の顔がそこにあったので驚いた。糸は僕が目を開いたとわかると、急に辺りを見渡してから、また僕に向き直って言った。
「昨日はごめんね」
 僕は少しずつ昨日の夜の記憶を取り戻していった。それから、ゆっくりと声を出した。
「いや……あれは僕が悪いよ」
 軽く頭が痛かった。回転も少し遅いように思えた。
「今何時なんだろう」
 僕はふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「多分、十時とか、十一時とか、その辺」
 糸は空を見て言った。
「しばらくしたら、また歩き出そうか」
 僕は糸に提案した。糸は黙って焚き木の処理をし始めた。火はすでに消えていた。


 「どうも! 凄い偶然ですねえ、こんなところで人に出会えるなんて」
 そう言われたのは歩き始めてしばらく経った頃である。五十、六十くらいのおじさんだ。
「どうも。ここら辺って、入っちゃいけないんでしょ? 世界遺産とか、国立公園とか、その辺の関係で」
 糸は不愛想に話した。おじさんは笑った。
「いやあ、あなたたちもそうでしょう」
 おじさんは首から一眼レフを下げていた。装備はしっかりしており、樹海慣れしている様子だった。
「良いカメラですね」
 僕はおじさんに言った。おじさんはにこやかな顔でカメラを持った。
「樹海は綺麗なんでね、相応のもので写したいじゃないですか」
「そうですかね、僕には殺伐としているように思える」
 僕は少しだけおじさんに反発した。
「なるほど、それもそうかもしれない。この森は少し特殊ですものね」
 そう言っておじさんは、この広い樹海の中で、わざわざ身を寄せて、小さな声で僕らに囁いた。
「それで、あなたたちはどんなのが好みなんですか」
「どんなの、とは」
 おじさんはハハハッ、と軽く笑った。「冗談がお上手で」
 僕は困ったように笑い、糸は黙っておじさんを見ていた。おじさんは僕らを見て言った。
「死体ですよ、死体」

 「樹海の美しさと死体の醜さ。そのコントラストには身が悶えるような思いがします。その感動を写真にして閉じ込める。それこそが私のライフワークです。それは抹茶と茶菓子のようなものかもしれませんね。どちらか一方でも充分味わい深いものですが、やはり二つが合わさってこそですよ」
 おじさんはそう言ってニコリと笑った。そして続けた。
「さっき、良い死体があったんですよ、見ますか?」
 おじさんは一眼レフを首から外し、画像を表示させた。
 そこにはかなり新しい死体があった。体はずたずたに引き裂かれ、赤黒い肉が露わになっていた。
「珍しいですよ、こんな死体。普通は骨しか見つからないものなんですけどね。これは肉体がしっかりと残っている。まだ死んで間もないということです。そして何よりこの死体の状況。他殺以外にありえないですよね。まだそこら辺にこれをやった人がいると考えると、身震いがします」
 おじさんはそう言って嬉しそうに体を抱えた。糸はそれを静観していた。僕は何といえばいいのかわからず、ただ黙っていた。
「いやあ、私はこの樹海にいる以上、当然自殺の死体目当てでいるわけなんですけど、こういう死体もたまには刺激的でいいですね。数年に一度くらいこういう死体を見かけるんですよ。私はいろんなところからここに侵入しているわけですから、実際はもっと他殺件数は多いかもしれませんね」
 おじさんはべらべらと喋った。そして思いついたように言った。
「あ、写真撮りません? お若いお二人の瑞々しさもまた、この樹海に映えそうです」
 僕らは言われるがままに写真を撮られた。「いい感じですよ」そう言って見せられた写真は、成程とても美しかった。


 しばらく歩くと、変わり映えの無い景色にあって不自然なほど大きな木に出くわした。僕は糸の方を見た。糸も僕の方を見た。
「ピッタリかもね」
「うん」
 僕らはその大木の前に立ち止まった。その木は高く、太かった。僕はそこにぶら下がる糸の姿を想像した。
「ひとまずさ、今日はここに泊まろうか」
 僕は糸に提案した。糸はそれに頷いた。

 昨日より手際よく焚火を作ることが出来、僕らは夕日に輝く大木を見ていた。
「なんだか、今は死にたい気分じゃ無い」
 糸は言った。確かに、この景色を前にして死にたいと思う人は少ないだろう。糸は夕日をひとしきり見た後、視線を落として言った。
「それに、あのおじさんに雰囲気をぶち壊されたから」
 糸はそう言って、リュックのチャックを開き、何かを取り出した。
「魔法の紙片」
 糸はそう言っていたずらっぽく笑った。

 「これを口に含むとね、この世の真相が見える気がするんだよ」
 糸は言った。僕はなんとなく不穏な気配を感じ取っていた。
「なんだかさ、やるせないよ、あのクソジジイ、何もわかっちゃいねえや」
 糸は投げやりにそう言った。僕はそれに共感した。彼は僕らの人生をあたかもコンテンツ消費するかのように扱っている。人の死体に勝手に自分のエモーションをあてがい、それに満足している。
 糸は小さく加工された紙片を舌の上に乗せた。夕日は急速にその勢いを落とし、辺りは焚火の光のみになりつつあった。急に糸は泣き始めた。僕はどうしたらよいのかわからなくなった。そこに糸が倒れ込んできた。ちょうど膝枕のような形になった。糸は仰向けになり、泣いたまま、うへへ、と笑った。
「せつないよお」
 涙はとめどなく溢れ、糸の黒髪を濡らしていた。「どうしてこうなっちゃったんだよお」糸は紙片を舌にのせたまま、不明瞭な声で呻いた。
「キスして」
 糸は手を伸ばして言った。僕は少し戸惑った。それは紙片のせいでもあったが、あるツイートを思い出していたからでもあった。

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 「いけないよ、こういうこと」
 僕は糸を引き離して言った。糸は目を見開き、それから体を起こした。涙は相変わらず止めどなく溢れていた。
「織君はさ、綺麗だから――」糸は再びその言葉を呟いた。
「――綺麗だから、汚したくなる……」
 糸の唇が触れた。

 ファーストキスだった。視界が眩めくような気がしたのは、柔らかな糸の唇のせいなのか、それとも魔法の紙片のせいなのか。意識さえ奪われるようなとろける感覚に、僕は完全に理性を失っていた。しかしながらそれと対照的に、頭はいやに冷静だった。「これを口に含むとね、この世の真相が見える気がするんだよ」と糸が言ったのだから、きっとこれは魔法の紙片の効能なのだろう。それは瞑想という言葉がピッタリ当てはまるような、深い思想の海に溺れているかのような感覚だった。世界はスープなのかもしれない、と僕は思った。糸も僕も樹海さえも、全てが一緒くたになった世界。世界のひとしずくが僕であり、僕が集まって世界になる。同様に、世界のひとしずくが糸であり、樹海であり……、それらを集めれば世界となるのだ。僕らは本質的には何も変わらない。そう言えば、宇宙の始まりは不透明で濃厚なスープであった。やがてそのスープは冷め、宇宙の晴れ上がりを迎えて今に至るのだ。
「織、来てよ、来てよ、ねえ」
 糸は悲痛な声で叫んだ。依存している、と僕は思った。糸はこうやって、あらゆるものに溺れて、自分の運命を誤魔化し続けてきたのだ、と思った。「私って、醜いもので出来ているの。私を形作ってきた全てのものが醜いの」糸の言葉がなんとなく分かった気がした。なるほど、糸は確かに醜いのかもしれない。酒やタバコ、魔法の紙片に情欲ときた。しかし本当に醜いのは糸なのだろうか? 糸がこの学歴社会の階段を転げ落ちた時、誰が手を差し伸べたというのだろう?
 脳が強く揺れる感覚がして、一瞬 世界が平面的に見えた。魔法がかかりすぎているみたいだ、と僕は思った。そのまま、僕らは一つになった。そうなった時、僕は深い幸福感に包まれた。まるでずっとこれを探し求めていたかのようだった――それで気付いた。この感覚だ。小説を書いている時に、スマホを触っている時に感じた「何か」が満たされる感覚――僕はその正体に気付いた時、ふっと力が抜けるような感じがした。腕の中にある糸の暖かさ――それが僕にとっての答えだったのだ。たったこれだけのことを気付くために僕はここに来たのか――僕はその答えにたどり着いた喜びと情けなさで涙が溢れた。糸はその涙を静かに舐めた。
 ――寂しかったのだ。ただそれだけのことだったのだ。この無限に広がる虚無の中に、一人で放り出されるのが怖かったのだ。
 その時、世界が光に包まれた。魔法が僕の脳を解放したのだ。僕は真理にたどり着いた気がした。世界は虚無だ――確かにそうかもしれない。しかし、虚無だから何だというのだろうか。幸せは今、この手の中にあるのだ。この世界がある意味など、自分で見出せばいいのだ。この世界のHowは科学がいずれ証明するだろう。Whyは存在しないのかもしれない。しかしそれは僕らのための問いなのだから、僕らがそれぞれに見出せばいい。僕らはスープなのだ。僕らのしてきた経験から導き出された結論は、世界の心理をそれぞれに正しく映し出す。ただ、それだけなのだ。

 僕らは渾然一体となって朝を迎えた。いや、太陽が高く昇っていたから昼かもしれない。僕は体が酷く重たいのを感じた。まさに魔法が解けたといった所だろうか。糸もまた同様にぐったりしていた。しかし、僕は糸に伝えなければならないことがあった。
「糸」
 名前を呼ばれた糸は、一瞬戸惑いの表情を浮かべ、そしてこちらを向いた。
「僕は糸に自殺して欲しく無い」
 僕がそう言うと、糸は呆然とした様子でこちらを見続けた。僕は続けた。
「僕は昨日、糸をこの手に抱いて、本当の幸せというものを手にした気がした。この幸せなら信じられる、と思った。それだけで、生きる理由には十分すぎる。僕はずっと寂しかったんだ。この世界を信じられるだけの勇気を奮い立たせてくれる相手を、ずっと探し求めていたんだ。それが糸、君だったんだ。だから僕は糸に死んで欲しく無い」
 しばらく、沈黙が続いた。僕は糸の返事を待った。
「私も、」
 糸は震えた声で小さくそう呟くと、感情の堰を切ったように、目からぶわっと涙を溢れさせた。
「私も、織に、死んで欲しく、無いっ」
 糸はそれだけ言うと、後は声を上げて泣き始めた。僕は糸の華奢な体を抱きしめた。糸がせぐり上げるのを感じた。僕は糸にタバコを貸してもらった。糸に教えてもらった通りにタバコに火を点け、煙を口に含んだ後、依然泣き続ける糸の口をそれで塞いだ。
「――!!」
 糸は驚きに目を見開いた。タバコの苦い味、意識が飛びそうなほどの酸欠――僕らはその中で互いの舌を絡めあった。それから、互いに咳き込んだ。「酷い」糸はそう僕を詰った。涙を手で拭い、口元は少しだけ笑いながら。


 僕らは帰り道を探してひたすら歩いた。どこまでも続く同じ景色。手掛かりすら掴めず、それでも少しでも手掛かりが無いかと歩き続ける。途中、死体を見つけた。白骨死体だった。周りに自殺道具は無かった――それすら消えてしまうほどに長い年月そこにあったのかもしれない。それが僕らの行く末を示しているようで恐ろしい。
 コンビニで買った水と食料が底をついた。僕らはいつまでもこうしていられない、ということを改めて実感する。樹海に入ってから、こんなにもどかしいことはこれまでなかった。分け入っても分け入っても同じ景色が広がるのみだ。日が傾きはじめ、僕らは焦りを感じ始めた。宿営場所を早く決めなければならない。そんな中、ついに視界が開けた。
 ――それは昨日と同じ大木だった。僕らは絶望した。一日が無駄になった、という事実をその大木はありありと見せつけた。僕らは茫然とそこに立ち尽くした。
「私は、私は、……」
 糸が不明瞭な声でそう呟くのが聞こえた。見ると、眼が虚ろになっていた。マズい、と本能的に思った。
「取り敢えず、焚火を作らないと」
 僕は糸に提案した。糸はその言葉で我に返ったように焚き木を集め始めた。僕は糸の危うさを改めて実感した。自殺を企画するくらいには、糸の精神は不安定な状況にあるのだ。

 焚火が完成するや否や陽の光は消え去り、辺りは無限の闇に包まれた。僕らはすることも無く、ただ寝そべって空を見上げていた。
「私たちってさ、いつか絶対に死ぬんだよね」
 糸が空を見ながらそう切り出した。
「そうだね」
 僕は相槌を打って続きを促した。木が風に揺れ、焚火によって微かに照らされた葉の隙間、向こう側には星がきらめいていた。
「こんな夜にはさ、私、なんだか不安になるんだ。心の中にあるブラックホールに吸い込まれてしまうような気分になるんだ。それを掻き消したくて、仲間で夜通し遊びまくったり、リスカしてすっきりしてみたりするんだけど、心の中にある空虚感はいつまでたっても消えないんだ。――きっと、永遠に」
「そうかもしれない。僕もずっと同じことを考えて生きてきたんだ。満たしても、満たしても、そこには空虚が広がっている。でも、僕はそれでいいと思っているんだ。埋められなかったなら、また埋め続ければいい。きっと、人生って、そういうものなんだ」
「そう……」
 糸は僕を見て静かに微笑んだ。アルカイックスマイルのような――
「なら、満たして」
 糸は僕に軽く口づけをした。

 ひんやりとした空気が肌を刺激し、僕は眠りの海から顔を出す。意識がだんだんと取り戻されてゆく。この世に生を受けてから幾度となく繰り返してきたサイクル。僕の周りを取り囲むのは樹海だ。夢ではない。僕はこの樹海から外に出なければならない。さもなくば、死だ。
 樹海という混沌に僕は空虚を見出す。それは人生にも似ている。歩いても、歩いても、そこに答えはないのだ。しかし僕は歩き続けられる。歩き続ける意味を見い出すことが出来る限り――
 僕は糸の姿を探した。辺りは静まり返っていた。そこに人の気配はなかった。
「糸~?」
 僕はもどかしくなって名前を呼んだ。返事はなかった。僕は初めから糸などいなかったのではないか、とふと思った。いや、そんなことはないはずだ。僕は確かに昨日まで、この手に糸のぬくもりを感じていた。
「糸~」
 僕はさっきよりも大きな声で名を呼んだ。その時、ガササ、という音がした。鳥か、と思い空を見上げると、糸の体がぶら下がっていた。


 僕はただ糸の死体を眺めていた。まるで感情というものがその一瞬でどこかに吹き飛ばされ消えてしまったみたいだった。死体は酷い有様だった。僕は――恐らくは糸も――首吊りをナメていた。目玉が剥がれ落ちそうだった。口が大きく開かれていた。そこから舌が飛び出していた。全体的に赤黒く変色し、不自然に膨らんでいた。何かを叫んでいるような表情だった。愕然としているようにも見えた。手足がだらんとしていた。しかし力んでいるようでもあった。糞尿が垂れ流されていた。それらは強制的に死線を超えさせられた体であることを明確に示していた。しかし僕はその場を動かず、叫び出しもしなかった。
 少々逆光気味に僕の目に映る死体は、光の縁にかたどられていた。よく出来ているな、と思った。芸術的だった。美しく死にたいという糸の願いは達成されている部分もあるように思えた。
 ずっと同じ体勢で僕は死体を見続けていた。どれくらいの時間そうしていたかは分からない。突然、僕は動くということを思い出した。金縛りに遭っていたかのようだった。指を動かし、まばたきをし、それから首を動かした。一つ一つ、動きを確かめるように。
 木陰に糸のリュックを見つけた。上には紙が置いてあり、小石で留められていた。遺書だった。僕はそれを読み始めた。


 織へ

 本当は遺書を残さないつもりだった。でも、それで死んだら、生きてほしいと言ってくれた織に失礼な気がして、君が寝静まった後に、この遺書をしたためている。何を書こうか決めていないから、例の魔法の紙片の力を借りて、思いつくままに書こうと思う。何故だか涙が止まらないから、字、読みづらかったらごめん。
 織に出会ったのは小四のことだった。今でもはっきり覚えている。あの時ブランコをして遊んだね。私、その時からずっと織のことが好きだったの。だから、織がオフ会に来てくれた時はびっくりしたけど嬉しかったし、一緒に森に入ってくれるなんて夢にも思わなかった。神様の計らいかな? って思うほど。神様なんていないけどね。織と一緒に首を吊っているところを想像したら、なんかキュンってなった。また一緒にブランコ出来るんだ、って思った。
 織を好きになったきっかけは、私が転んじゃった時に、真っ先に「大丈夫!?」って手を差し伸べてくれたこと。きっと織は覚えていないだろうけど。私、男の人が手を掴むのは酷いことをする時だって思っていたの。もう死ぬから言うけど、私、小さい頃にお父さんに酷いことをされていたの。お母さんのいない時に、「これは決まりだから」って。訳わからないでしょ? お人形さんで遊んでいる時に、無理矢理 手首を掴まれて、引きずられてお父さんの部屋に連れていかれて。でもね、私、そういうもんなんだってずっと我慢して、誰にも言わなかったの。馬鹿でしょ? でも織は、そんな私に、お父さんに対する疑問を抱くきっかけを与えてくれた。同時に、初めて私に優しくしてくれた異性だった。
 ずっと織のことが好きだった。同じ塾だったのも偶然じゃないんだよ。私がお母さんにねだって通わせてもらってたの。だから、織が京都へ行くって聞いた時、すごいショックだった。勉強も手がつかないほどに。でも仕方ないかな、って思った。織、中学の初めに酷くいじめられてたもんね。私、どうすることも出来なかった。今でも後悔している。言い訳じゃないけど、私、暴力を見ると身がすくんじゃうの。トラウマってやつかな。私、織が京都で頑張るのを応援していたんだよ。心の底から。でもショックで、ショックで、結局受験も失敗して。滑り止めを受けさせてもらえなかったから、地元の、中学校時代の同級生がいっぱいいる高校に入ったけど、織をいじめた奴らなんだなーって、なんか一緒に授業受けるのも馬鹿らしくなって、一部のグレた奴らとつるみはじめたの。楽しくってね。私はだんだん汚れていった。もともとお父さんに汚されていたんだけどね。内面まで汚れていったの。お酒、タバコは勿論、魔法も覚えた。典型的すぎて笑っちゃうよね。男とも遊んだ。お父さんの忌まわしい記憶をさ、上書きしてくれる気がしたんだ。だけど織が忘れられなくって、男と遊んだ後は特に、もの凄い空虚感を味わった。元凶であるお父さんの部屋をぶっ壊したりもした。あれは痛快で、それでいて虚しかった。なんでだよ、何で私がこんな思いしなくちゃいけないんだよ、って。そしたらあいつ、私と離れたいって言いだして。お母さんは止めたんだけど、結局 別居状態になって、離婚が成立しちゃった。お母さんは私を責めた。なんだよ、全部私のせいかよ! うわああああああ。なんて。
 ごめんね、織。私、織と一緒には行けないや。私はこういう運命なんだ。世界の負の側面を引き受ける役割なんだよ、きっと。私、気付いたの。このまま織といたら、私、きっと織をだめにしてしまう。お酒とかタバコとか、魔法さえ教えといて今更なんだよ、って思うかもしれないけどね。織は私無しで生きてゆかなくちゃいけない。だって、こんな私にさえ生きる希望を分けてくれたんだもの。織が必要な人が、この世の中にはきっといる。生きて、織。私が最後に願うことは、それくらいかな。

狭山 糸


 僕はその手紙を読んで、どうすればいいかわからなくなった。どこかへ消えていた感情が、一瞬にして戻ってきたようだった。もうこの世に糸はいない。もうこの世に糸はいない。もうこの世に糸はいない。どうして。どうして。どうして。
 僕は糸に生きる希望なんて与えていない。むしろ与えたのは破滅だ。糸は僕が京都に行かなければあんな風にはならなかったんだ。僕は凄惨な糸の首吊り死体をもう一度見た。そう、あんな風には! 僕が下らない野望を抱いたばっかりに! 糸はあんな風に! 何が「京都に行って、一流大学に受かり、一流企業に入ってやるんだ」だ。何が「君達は山梨でのうのうと暮らしているがいい」だ。何が「僕は君達たちとは違うんだ」だ。実際は学校の平均点にも届かないくせに。――それに僕は、京都に来る時に親の期待も受けていた。その期待を僕は裏切ったのだ。いわば親は僕を京都に行かせてまで犯罪者を育てたのだ。――僕は悪魔だ。人を不幸にすることしか出来ない悪魔だ。僕は自分を深く恥じた。そんなことも気づかずに僕はのうのうと高尚な理論をこねていたのか。何が「人生に疲れた」だ。僕は生きる意味だとか、そんなものを探す資格などあったのだろうか。
 自殺したいと思った。切実に自殺したいと思った。僕はコンビニのビニール袋をかぶり窒息死しようと考えた。だんだんと息が苦しくなる。体の中から、じんわりと気持ちいい感覚が湧いてくる。目の前がブラックアウトしてゆく――

 無意識のうちに、僕は呼吸を再開していた。耳鳴りが続く。僕は死ねなかった。情けなさに涙が溢れてくる。ごめん、糸。僕はそっちに行く勇気がないよ。切実に死にたいと思っているのに、死ぬ勇気が出ない。僕は相反する思いに頭を抱えた。そこで僕は糸の願いを思い出した。僕は寝転がって空を見上げた。生きるしかないのか――。その時、木漏れ日の向こうに、空を飛ぶ一つのものを見つけた。朦朧とした意識の中、僕は思った。飛行機――
 僕は樹海を出るための方角を知ってしまった。現在時刻を知らないため、確定は出来ないが、恐らく間違いないだろう。
 糸が「生きろ」と言っている気がした。こんな悪魔に生きる道を与えるなんて。僕は歩き出していた。ただひたすらにまっすぐ進んだ。まっすぐ、まっすぐ――
 陽が傾いてきた頃、僕はなんとなく、見覚えのある場所に来た、と思った。そのまま進むと、窪地があった。これは糸と語り合った窪地――「私ね、死にたくないの」「――でもね、それ以上に死にたいの」糸の言葉が甦る。僕は死にきれなかった――死ぬ勇気がなかった――口だけの、大ばか者だ――僕は誰に言うでもなく、そう呟いた。そして歩き出した。もうすぐ遊歩道に出る――

 ――ザクッ

 僕は奇妙な音に振り返った。――男。それと同時に、脳を貫くような鋭い痛みを感じた。僕は状況を理解出来ないまま倒れ込んだ。ザクッ。男が包丁を僕に突き刺す。ゴン、ゴン、と刺された場所が鈍く重い痛みを訴える。それが脈打つように痛むたびに、意識が飛びそうになる。
「君たちに払う金は無い」
 男は無表情で呟く。冷たい殺意が僕を貫く。記憶が甦る。このシルエット――森に入るきっかけとなったあの人影だ――僕は本能的に察する。
「君たちがこうなるのは、君たちの責任だ」
 男が馬乗りになり、僕に包丁を振りかざす。ザッ。男が包丁を振り下ろす。
 脳が直接揺さぶられるような鈍い痛みは、意識が遠ざかるとともに輪郭がぼやけてゆく。
ザッ、ザッザッザッ――男が腹を縦に引き裂く。
 波打つ視界。だんだんと黒く染まってゆく。体の奥の方から、痛みをごまかすためであろうか、今まで味わったことのない幸福感が溢れ出る。僕はあまりに突然のことに、論理的な思考を放棄せざるを得なかった。男に感謝していた。死にきれなかった僕を、強制的に死なせてくれるのだから――
 ブチブチブチブチ――男は体内に手を入れ、腸を引き千切る。それが僕の最後の意識を持って行く――そんな予感がした。
 ツー――耳の奥で小さな音が鳴る。

**

 事件の全貌が解明されたのは四月も中頃になってのことであった。警察は初め、捜索願が出されていた狭山糸と、捜査対象であった高橋織が、青木が原樹海で自殺した、という情報を得て捜索を進めており、そこで高橋織の他殺死体を発見した。現場に残された痕跡を元に捜査を進めた警察は、程なくして狭山糸の自殺死体を発見し、また山梨県忍野村に住む会社員 築地正義容疑者を逮捕した。築地容疑者は容疑を認め、また他にも十数名を殺害していたことを明かした。容疑者の供述によると、休日には必ず樹海に行き、自殺者と思わしき人を手当たり次第に殺害していたという。動機としては、自殺志願者の多くが生活困窮者であり、何らかの手当てを受けている場合が多いとネットで知り、そのような人々に血税が払われているということに対して憤りを覚え、そのような人々を殺したいと思った、とのことであった。また、二万余りのリツイートを得たツイート

サイマジョ @s1mcj
今日もメンヘラは国民の血税を吸い尽くす😇
生活保護を受給している旨が書かれたTwitterのプロフィールと、その人がアップしたリストカットのツイートを合わせた画像が四枚〉

が容疑者のものであるということも捜査関係者への取材で明らかになった。
 被害者である高橋織もまた、ツイキャスで犯罪行為をあおり、捜査対象になっていたことが明かされた。また、高橋織と一緒に自殺を企てたとされていた狭山糸は事件とは関係がないことが分かったが、彼女のツイッターアカウントの噂がどこからともなく広がり、そのツイートの過激さが話題となった。
 マスコミはツイッターが犯罪の温床になっていると伝え、ツイッターの規制がより強化される運びとなった。また、ネット上では容疑者に賛同する意見も多く見られ、警察が捜査を終えた後もこの事件は多くの関心を集めていた。
 そんな中、人気ブログである「はれのちはれ」の管理者が捜査に協力していたとして、自身のブログで実名とともにその協力内容を書き込んだ。管理人 清水知央はその記事で高橋織や狭山糸と同級生であったことを明かし、また、事件に関して独自の見解を表した。それによると、高橋織はその言動から学校で嫌われており、また強い被害妄想を抱き山梨の高校には進学せず、京都の高校に進学し、そこで挫折を味わっており、そのストレスからキャスで過激な発言をしたのだろう、とのことだった。また、狭山糸は中学では大人しい性格であったが、高校ではグレて不良とつるんでいたことを明かした。そのことを踏まえ、清水氏は容疑者の考え方に正当性を認め、二人は社会の癌と化しており、またそれは二人の自己責任であり、正義がその癌を取り除いたに過ぎない、と位置付けた。この記事は大きな話題を呼び、またその記事を書いたのが現役の女子高生であることもあり、多くの賛同者を集めた。これにより低所得者はその能力や努力の不足によって低所得になったのだ、とする風潮が広まり、手当の削減を求める動きが広まった。これによって血税が守られたのだ、とする意見が多数を占める中、それによって格差が広まったとする意見もまたあった。しかしそのような意見を述べる人は批判を受け、またそのような人々を「非国民だ」とする人も少なくなかった。

 未来は今を生きる人々の意思によって決定される。その未来はどこへ向かうのだろうか。

 *作中に登場する、高橋織『ペトリコール』は、平成二十九年度文芸部誌文化祭号に掲載された、風上青『ペトリコール』に加筆・修正をしたものです。