LIFE LOG(あおいろ文庫)

ペトリコール

高校一年生の夏に書いた処女作です。
雨・森・学校 のイメージを持った、どこか寓話的な物語です。
10,585文字



 雨が激しく降っていた。苔の感触を手に感じた。立ち上る香り――鼻の奥を、さらに奥を刺激する――ペトリコール。
 森が現れる。美しく深い緑。ノイズのように見えるのは雨だ。いや、ノイズという表現は適当か? 雨が森を造っている、つまり雨がこの景色を造っているのだ。立ち上がり、もう一度世界を見る。憂鬱な雨もこの景色の一部であるということを僕は理解する。雨が、生まれて初めて美しく見えた。ここから僕の、この世界の上書きが始まるのだろう、と予感した。
 足元に奇妙なものがあった。苔の上にある、枯れかけた葉のようなくすんだ色のジャケット――僕の血で幾分赤く染まってしまってはいるが――拾い上げると、見覚えがあった。
 ミリタリージャケット――軍服だ。サリサリとした麻の感触。教科書で見たことのある、国防色をした日本の軍服。目の前に掲げてみる。森の深緑を背景とし、緑がかった茶色のジャケットの縁を、赤い血を絡めた雨の雫が伝い、滴る。やぶれた隙間から、光が淡く漏れる。
 僕はそれを、美しいと思った。

 机の上で朝を迎えた。突っ伏したまま右手を伸ばし眼鏡を探る。思いがけず指先が硬質なものに触れ、それが床に落ちる。首を右に曲げつつ赤と青の混じった瞼の裏の模様を見ながら、光に注意してゆっくりと目を開ける。しばらく光に目を慣らして椅子を引く。惰性で腰を上げる。立ち眩みを起こさないよう腰を曲げたまま移動する。冷めたコーヒーとプラスチックのコップが落ちているのを見る。左手で机上の眼鏡を手繰り寄せそのままかける。ベージュの床とコーヒーの茶色、コップの赤をしばし見つめる。

 母の実家を思い出していた。大きな居間とほんのり日焼けした障子紙。自宅とは違う匂い。ゆったりと流れる時間。
 豊穣な出汁の香りが鼻をくすぐり、僕の目を覚ます。開いたまま置いた本がなぜか閉じられていて少し苛立つ。続きを見ないように注意してページを探す。魚の煮付けが運ばれる。母が「蓮、手伝いなさい」と言う。本を開いて床に置く。よくお茶を注ぐ手伝いをした。その時の僕のコップが、プラの赤だった。

 こぼれたコーヒーを処理してコップを洗う。コップに母親の面影が見えて少し心が乱れる。それをごまかすようにしてラジオをつける。
 顔を洗い、歯を磨きながらラジオに耳を澄ませる。ラジオの横に置いてある母の写真は見なかったことにする。世界情勢について専門家が語っているのを聞き、いつもより遅く起きてしまったことを実感する。黒い制服に袖を通す。
 世界からの求心力と自身の夢を失う夢の国の話をしていた。専門家曰く「ここ数年の世界情勢の変化は過去に類を見ない」らしい。
 例えば世界中でテロが起こっている、と言われても、実際のところ、どうにかなるだろうと思っている。断言できる根拠はないので、どうにかなるだろう、という言葉でもやもやした感情を流し込む。そんなことよりも、今は自分の世界の平和を保つことが大切だ。学校に遅れてはならない。支度をして、家を出る。無人の家に「いってきます」と言って。

 パンを買いにコンビニに寄る。空は暗く、今にも雨が降り出しそうだ。コンビニでは傘や防災グッズが売られていた。台風が接近しているらしいが、どうなっているのだろうか。寝過ごしたことを改めて後悔した。ラジオでヘッドラインニュースを聞けなかったのは痛い。コンビニのワイファイにつなげるのをいいことにしてスマホで天気を確認する。今日から明日にかけて二十四時間降水量二百ミリの予報、通勤通学に影響する可能性もある、という簡単な要約文を読み、窓の外を見る。いつの間にか雨が降り出していた。苦笑いをしてスマホをしまう。

 口に菓子パンを咥え、コンビニで買ったビニール傘をさす。地面を蹴って空気を切る。水たまりを飛び越える。漫画のような光景だが振り返る人はいない。現実世界なんてそんなものだよな、と思った。そしてそれに甘えて菓子パンを咥えている僕がいた。少し漫画世界の気分を味わった後、よだれと雨で湿気たパンを、息を整え歩きながら食べる。こんなことをしている暇なんてあるのだろうか、と時計を見る。それと同時に、後ろから子供達の声が聞こえる。まずい、さっきの光景を見られていたか、と焦って菓子パンを隠す。隠したところでどうにかなるものでもないな、と再び朝食をとり始めた僕の横を短パンの男子二人が通り抜ける。何が楽しいかわからないが、走り、小突きあい、笑う。あははは。
 ああ、いいなあ、と思った。彼らは傘もささず、ただ純粋に今を楽しんでいた。彼らの周りに雨は降っていなかった。彼らにとって雨は美しくないものだったし、彼らに雨は不似合いだった。なぜ僕の周りには雨が降っているのだろう。まるで壁でもあるかのようだな。そんなことを考えていると、突然後ろから自転車が飛沫を上げて突き抜ける。驚き、傾く視界の隅で、さらに驚く子供達を捉える。
 猛スピードで遠ざかる濡れた水色。それが警官であることに気付くと、僕は突然怒りを覚えた。雨が降り出したので急いで交番に帰ろうとしているのだろうか。自転車をこぐ前傾姿勢が、その警官の視野の狭さを象徴しているように見えた。うつむいてこぶしを握る。楽しげな子供達の世界が壊れたのが、悔しかった。雨が眼鏡の内側に打ち付けレンズを曇らせる。
「けいーーーーーーれいっ!」
 突然の声に僕は身を乗り出すようにして顔を上げた。子供達は警官に向かって敬礼していた。数秒、世界から音が消えた。そして彼らは互いを見て、あはははは、と笑った。
 僕は前を向いたまま呆気に取られた。間抜けな前傾姿勢のまま自分自身の浅慮を恥じた。子供達の世界は壊れてなんかいなかった。彼らは警官に夢を見ていた。純粋に警官に憧れを抱いていた。彼らの世界が壊れると危惧した僕の、その思考自体が、曇ったフィルタを通したものだと気付かされた。しかし、僕はそれと同時に、危険だな、とも思った。子供達は警官を無条件に肯定している。それは素晴らしいことではあるが、危険でもある、と思った。極端な話、彼らは警官が銃を持ってこちらに構えたとしても抵抗しないだろう。これも曇った考えなのだろうか。
 警官に対する怒りはどうやら収まりそうもなかった。夢を守れない警官に、将来を守れない警察に、存在意義などあるのだろうか。


 駅に着くと同時に、学校にいかなければならないという憂鬱な感情が襲う。息苦しくなり、吐きそうになる。目の前を通勤特急が通過する。いっそ線路に飛び込めば、と思う。自分が車輪に潰され、分断されるところを想像した。なぜか愉快になった。死への憧憬。どうせならバラバラになって吹き飛ぶのがいい。学校にいっても落ちこぼれとして存在を黙殺されるのみなんだ。地元の、偏差値五十くらいの、普通の高校に通えばよかった。こんなはずじゃなかった。自分自身の努力不足の結果だから、文句も言えない。落としどころのない負の感情は、火災現場の煙のように僕の心の中にたまっていく。やがて僕はその煙で窒息死するんだ。ゆっくりと僕は死んでゆく。何て息苦しいんだろう。吐き気がする。煙を外に出してくれ。バラバラに、粉々にこの胸を砕いてくれ。
 死に対する恐れや痛みはどこから来るのだろう。冷めた考えかもしれないが、答えは「人間が生物だから」となるのではないか。人類が絶滅しないように、必死になって個々が生き抜くために、死に対する苦しみが設定されているのではないか。種の保存。しかし今僕はこうして電車に撥ねられることを想像し、死への憧憬を抱いている。もしかしたら僕は人間として不良品なのかもしれない。生きるために造られた人間の中に、死ぬために造られた不良品の僕が一個。ならば撥ねられるのは当然なのかもしれない。
 普通列車を待ってベンチに座る。電車を降りたら走らなければならないな、と確認していると、駅員が慌ただしくホームに降りてきた。半ば絶望的に掲示板を見る。人身事故が起きたらしい。文句や舌打ちが聞こえる。それらが全て僕に向けられているようで居たたまれない。それにしても困った。学校に間に合わないことは確定した。問題はどれくらい遅れるかだ。到着はバスの方が速くなるのではないか、と期待をしつつスマホでマップ検索する。それによると、バスを使った場合、人身事故がなかった場合の到着時間から大体四十分遅れになるようだ。人身事故の処理を待った方が速いかもしれない。処理――電車を待つ側にとって、それは処理でしかない。
 僕はベンチで脱力していた。とても疲れた。これまで学校で落ちこぼれながらも必死でもがいてきた。しかし今回の人身事故が僕にゲームオーバーを告げているように思えた。昨夜の睡眠不足がここにきて効いてきた。僕は黒いスクールバッグを抱えて、落ちるように寝入った。

 いつからこの森にいるのかわからない。小さい頃の記憶を辿れば、どろりとしたスープのような映像が、水面を漂うように細切れに甦る。あの頃の森は小さく、楽しいものだった。転んだら母が温かく抱きしめてくれた。その温もりで体が溶けそうだった。そのまま体重を母に預けてまどろんだ。
 いつからか、森に階段が現れた。石でできた、偶然がかみ合わさったような、古くて頼りない階段。母たちが見ている中でゆるい階段を上る。好奇心から、一段、また一段と登る。同じ大きさの子供達が付いてくる。母に包まれるのとは別の安心感を覚えた。そして、安心感とは別の、心の底の方から、震えるように、わくわくするような気持ちが現れた。この気持ちを表すなら「勇気」となるだろう。僕の隣について、「あっちへいってみようぜ!」と誘いかける友達。先にいって皆が知らないようなことを次々に吸収する友達。皆が一体となって階段を上る。少し険しい階段を乗り越えると達成感を感じた。そしてそれを再び得るために僕らは階段を上る。僕らに敵はいなかったし、僕らは互いに仲間だった。
 あるいは、親に褒められるから上っていた人もいるかもしれない。階段を一段上ると、母は抱きしめてくれたし、父は頭をなででくれた。階段を上ることは、楽しく生きることと同じだった。

 いつからだろう、階段は急になり、分岐点も増えてきた。しかし、確実に誰かが踏んだ道でもあった。集団は分散し、その人数も少なくなっていった。隣にいたあいつは近道を探って険しい道を進んだ。息も絶え絶えになりながら階段を上ろうとしている人もいた。僕はそれを横目に、足を踏み外さないよう慎重に進んだ。上から人を巻き込んで転げ落ちる人もいた。僕は人通りの多いところから一定の距離を置いた。かつて勇気を与えてくれた友達は、迷惑な存在になりつつあった。楽な道にそれる人、それについていく人。その集団の流れに巻き込まれないよう、前を見据えて僕は上り続けた。だんだん踏み慣らされた階段が少なくなってきた。滑り落ちないように、持てる力を効率よく使い、僕は上った。
 他の道から合流した新たな仲間との出会いは楽しいこともあり、煩わしいこともあった。協力しながら登れば早く進めるが、馴れ合いになってしまうこともあった。結局自分自身しか信頼できず、僕は一人で上った。そのほうが、余計なことを考えずに済む。
 階段を上ることが僕の使命だ、と思った。

 そして今、僕は疲れ切って、しかし落ちないように階段にしがみついている。いや、もう階段と呼べないほどに急な岩場だ。雨が僕を非難するように打ち付けた。どこに手を伸ばせば良いかわからない。そんな僕の横をぴかぴかの靴を履いた誰かが上っていく。覚えたてのクロールで息継ぎをするように空気を肺に入れる。自分の才能のなさを痛感する。どうして僕だけが先に進めないのだろう。情けなくて、みっともなくて、辛くて、吐き気がする。最後の悪あがきとばかりに地面を蹴って岩をつかむ。岩は体重を支えきれずにもろく砕ける。体が空中に浮くのを感じた。手に岩の余韻を感じながら自由落下する。突然、背中に鈍い痛みを感じる。それを契機として僕は階段を転げ落ちる。様々な場所に痛みを感じ、それが麻痺していく中で本能的に手を頭にやる。かけていた眼鏡がどこかに消え、視界がぼやける。同時に解放感が襲い、階段が消える。ベッドに片手で置かれる枕のように、肩から足へと時間差で接地し、優しく身体が地面に置かれる。

 目が覚めた。五十分ほど寝ていたようだ。まだ掲示板は人身事故のアナウンスを続けていた。それを見て僕は静かな気持ちになった。
 学校にいかなければならないという謎の使命感に駆られ僕はバスステーションに向かう。これは刷り込みのようなものなのだろうか、と思う。刷り込み、という言葉が引っ掛かり、頭の中でその言葉をしばらく噛み砕く。なぜ刷り込み、という表現をしたのだろうか。学校にいかなければならない、という思いに対して、普通は常識、という言葉を使うはずだ。自分の意識とは関係のないところで、ごく当たり前のように思っている、というところが刷り込みと似ているような気がしたのだ。ごく当たり前のように思っている、というのは常識から来る判断だ。「刷り込み」と「常識」は繋がっていそうだな、と思った。
 社会が僕らに対して行う刷り込みが常識で、その常識に従って僕は学校にいくのだろう。社会というぼんやりした輪郭に、今日も僕は踊らされているのだろうか。

 外に出ると雨は僕の予想よりはるかに激しく降っていた。雨粒がアスファルトをはじく音だけが響いていた。まるで僕を非難しているようだな、と思った。風当たりが強いな、なんて洒落を考えつつ、屋根のある場所を慎重に進む。
 市内には大雨洪水警報が発令されていた。雨雲レーダーは僕の街の上を赤く染めていた。スマホを見ながら数分待つと、朧げなライトを携えてバスがやってきた。ブザーが鳴り、空気を抜くような音と同時に車体が少し傾きドアが乱暴に開く。僕は整理券を取り、二人掛けのシートの窓側に座る。雨はますます強さを増しているように見えた。ガラスに反射して自分の姿が映る。
 バスに乗ってから重大なことに気付いた。財布の中身を改めて確認する。百円玉が二枚と、十円玉と一円玉が少し。電車では定期を使っているが、それと同じ感覚でバスに乗ってしまったようだ。
 料金が二百円の区間スマホで確認し、泣く泣く途中下車する。ここから六キロは歩かなければならないな、と思った。絶望と共に外に出ると、雨が激しく傘に打ちつける。それと同時に、むせるような匂いが生暖かい空気と共にやってくる。鼻の奥、さらに奥に絡みつく匂い。その匂いは僕の記憶を呼び起こす。

 雨の街を、母と二人で歩いていた。

 実家から家に帰る時は、いつも新幹線と地下鉄を使っていた。新幹線の窓にビルの群れが現れると、僕は自分の生活する場所に帰ってきた、と感じた。二時間半も新幹線に乗っているとさすがに話すこともなくなって、僕はよく、窓を流れる風景を見ていた。
 その日も僕は新幹線に乗るのに飽きて、窓の外を見ていた。窓に自分の姿が二重になって反射する。その日の帰りは夜だった。ただその日はいつもと違って、乗り始めから母と会話をしていなかった。
 新幹線を降り、いったん改札を出る。地下鉄に乗り換えるものと思って帰宅ラッシュの人ごみをくぐっていると、突然母が立ち止まった。同じ顔をした黒い服の人々が、黒いカバンを持って僕らを避けて歩く。
 母は振り返ってこう言った。
「ねえ蓮、歩いて帰らない?」
 正気か、と思った。家まで六キロはある。僕は母に「お金でもなくなった?」と尋ねた。母は首を横に振った。
「運動不足の都会っ子にはいい機会だと思うんだ」
 嫌な予感がしていた。新幹線の乗り始めから母と会話をしていなかったことだ。

 母の実家で、僕はいつものように好きなだけ本を読んでいた。今宵は電気を消されることはない。その充実感を味わいつつ、本を読み切った。
 次に読む本をカバンから取り出しに、僕は跳ねるように立ち上がった。その時、ふと部屋にある本棚が気になった。
 本棚を見ると、色々な専門書が入っていた。そう言えばこの部屋はもともと母の部屋だったな、と思った。母はこんな本を読んでいたのか、と思いつつ、上に置いてある紙筒が気になり、椅子を使って背伸びしてそれを取った。
 椅子を降りて筒の中を見ると、卒業証書が入っていた。どうやら高校のものらしい。それには誰もが知っている有名私立大学の名前が入っていた。どうやらその付属高校のようだ。僕は、半ば尊敬の目で、その卒業証書を通して母を見た。
 本棚にはもう一本筒が置いてあった。僕は高校の卒業証書を握ったまま椅子に乗り、その筒を取った。いそいそとそれを見ると、中には大学の卒業証書が入っていた。しかし、大学名を見ても見覚えがない。期待外れの結果にがっかりして後ろに下がる、と同時に僕は椅子から落ちた。
 その音を聞いて母が部屋に入ってくる。僕は証書を隠そうとしたが、間に合わない。母はいったん僕を見、次に高校の証書を見、そして大学の証書を見た。母の顔が厳しくなり、そしてかすかに歪んだ。それを見て僕は全てを把握した。後日談になるが、調べるとその大学は私立だった。Eランク、と出ていた。
 それから駅まで、僕らは会話をせずにいた。それにもかかわらず母は六キロある帰り道を歩こうと言ってきた。絶対に怒られると思った。僕は言い訳を考えながら母の後を付いていった。
 母はビルの光を見ていた。楽しそうに笑っていた。僕はビルの下を走る黒猫を見ていた。黒猫は点になって街に吸い込まれていった。
 黒猫を見送って顔を上げる。ビルの光が一瞬レンズに反射し、そして消える。その過程で僕は、レンズに汚れがあることを知る。右手をズボンのポケットに突っ込む。ハンカチを握り、少しポケットの入り口で手をつかえさせながらそれを取り出す。ポケットが反対になってしまった。軽い苛つきを覚えながらハンカチを左手に持ち替え、右手でまごまごとポケットをなおす。両手を使いなさい、と母の声。
 クリングス下のレンズを拭くのに苦労しながら、ハンカチでレンズをなぞる。その指は地面と平行に流れる。

 父は今、アメリカにいる。
 IT関連の仕事をしているらしいが、詳しいことは知らない。家には一定のお金が入ってくる。僕らはそれで生活をしている。入ってくる額は、あまり多いとは言えないが。
 父は日本の会社に五年ほど勤めてから、アメリカにいった。父は母に「アメリカはどんな人でも受け入れる。だからこそアメリカンドリームがあり、それを守るために世界の警察であり続けるんだ。僕はそんなアメリカで働きたい」と語っていたそうだ。僕の父の記憶は、古いフィルムの映像を見ているみたいに朧げだ。もしかしたら、その姿かたちはアルバムの写真で補完されたものかもしれない。
 母はよく僕が四歳の時の話をする。僕は小さい頃から極度の人見知りだったそうだが、四歳ごろになるとその傾向が顕著に現れ出したそうだ。理由を聞いてみると、皆人形に見えるから、怖いんだ、と返ってきたそうだ。
 僕のフィルムの中では、駅の光景が鮮明に残っている。同じ顔をした、黒い服を着ている、黒いカバンを持った人形たちが、操られているかのように群れを成して蠢く。体中の毛が一斉に立つような、ぞわっとするような感覚。
 そんな僕に、父は眼鏡をプレゼントしたらしい。
「君は守られている。君の目はちょっと特殊だから、普通なら見えないものが見えてしまうんだ。だけどもう大丈夫。この眼鏡は君のピントを普通の人のものに修正してくれるし、君自身を守ってくれるんだ」
 母は少し低い声で、父の声をまねていつもそう言う。

 度の入っていない薄っぺらな眼鏡をかけ、ハンカチをポケットにしまい顔を上げると、雨の匂いが僕を囚える。鼻の奥を、さらに奥を刺激する匂い。僕は母に、折り畳み傘はあるか、と尋ねた。母はリュックから傘を取り出し、僕に渡した。リュックを背負いなおす母を見て、素直に、カジュアルなファッションが似合う人だなあ、と思った。
 間もなく雨が降ってきた。アスファルトに雨粒がはじけて吸い込まれていく。やがて雨の匂いは消えていった。
 雨の街を、母と二人で歩いていた。
「雨が降った時の独特な匂いに名前があるのを、知っているかい?」
と母が言った。
「ペトリコールのこと?」
と僕は答えた。
「君の年齢でどうしてペトリコールを知っているのかな。将来を考えると末恐ろしいね」
と母は言った。僕は前を向いたまま「本」とぶっきらぼうに言った。母は少し上を向いて、
「じゃあ、ペトリコールのメカニズムは知っているかい?」
と僕に尋ねた。
「植物の油とかが土についてどうとかそんな感じだったと思う。匂い自体はそれに加えて雷によるオゾンだとかとりあえず色々」
「まあそんな感じだったと思う。ようは色々なものが混ざり合ってあの匂いが造られているんだ。それで君は、その知識をどういうことに使うのかな? もしくはそれを覚える意味とか」
 僕は少し黙った。比較するならまだ後者の質問の方が簡単そうだ。何のために僕は知識を増やしているのだろうか。
「知りたい、からかな」
「漠然としているね」
「そういうものだと思うんだけど」
 僕は少し不機嫌そうに言った。母は傘をくるくる回して少し考えた。
「確かに、知りたい、っていうのは大切なことだと思うんだ。だけどいつか君が知りたくなくなったら……例えば高校生になったあたりで、勉強が辛くなったりして、知りたい、って意欲がなくなったら、君は知ることを放棄するのかい?」
 僕はいよいよ不機嫌になって「いいや」と言った。僕の心の中で、二種類の不機嫌になる要素が渦巻いていた。ひとつは純粋な、もうひとつは不純なものだった。わからないことを指摘されている不快感、これが純粋な方だ。そしてもうひとつは、母が僕に過去の自分を見ているのではないか、という考えだった。
「君は知りたい、っていう純粋な気持ちだけで動いているけれど、そうじゃない力にもまた動かされているわけだ。動かされている、っていうのは気持ちのいいものじゃない。だから動かされている人間は不満を感じるわけだ。自分の人生を生かされている、ってことにね。
 今君は、純粋な気持ちの方が強いからしんどさを感じないかもしれないけど、いずれその純粋な気持ちは消えるはずだ。空っぽの箱に吸い込まれるように。後に残るのは動かされている自分だけだ。君は頭がいいから疑問を感じるはずだ。そして動かされることさえ放棄するかもしれない。言い換えるならば知ることの放棄だね。その時君は錯覚しているはずなんだ。その道は自分で選んだ、と。実際は動かされているから放棄しようとしているのにね。
 そうならないために君は君自身が持つ純粋な気持ちを固定することを考えなくちゃいけない。純粋な気持ちはとても美しいものだけれども、すぐに壊れてしまうものなんだ。自分の気持ちを分析するんだよ。そしてその気持ちを風化させない理論を創るんだ。それが君の知識を得る意味になるんだ。そしてそこから知識を何に使うかを導き出せると思うんだ。目的や理論を持たないまま生きるのは終わりのない階段を歩いているようなものだよ」
 母はこれだけのことを一気に話した。それは遺書を読み上げているようでもあった。
 一方、僕は、母に対する嫌悪感を強くしていた。母は母自身の甘えを綺麗に昇華して、高尚な理論にしているのではないか。そして厚かましくもそれを以て僕の生き方に意見しようとしているのではないか。僕はそんな道は辿らないはずだ。平たく言えば、一緒にするな、と思った。僕はこの話を早く切り上げようと、適当なことを言った。
「終わりのない怪談は、確かに怖いね」
 それを聞いて、母は二秒ほど考えて、言った。
「私のような人にしかわからないことがあるんだ。そこは真摯に受け止めてほしい。
そして、終わりのない怪談は、確かに怖いね」

 小さい頃の六キロはとても長かった記憶があるが、高校生になるとさほど長くないように感じた。小さい頃と今では、見える景色が違うんだな、と思った。学校までのこり一キロほどになった。
 僕はニュースを見るためにスマホを開く。見出しだけが並んだネットニュースを流し読みする。大雨のニュースや児童二人が失踪したニュース。相変わらず大国の大統領はSNSで炎上していた。僕はそれを他人事のようにスワイプしてスマホを閉じる。学校に着いた。

 学校には同じ顔をした人形が並べられていた。のっぺりとした蝋人形のような顔。黒い制服。それを閉じ込める箱のような教室。僕は半ば確信的な気持ちで眼鏡を外し、その箱を見渡した。そこには何もなかった。ただ、空き地が広がっていた。

 雨が激しく降っていた。苔の感触を手に感じた。立ち上る香り――鼻の奥を、さらに奥を刺激する――ペトリコール。
 森が現れる。美しく深い緑。ノイズのように見えるのは雨だ。いや、ノイズという表現は適当か? 雨が森を造っている、つまり雨がこの景色を造っているのだ。立ち上がり、もう一度世界を見る。憂鬱な雨もこの景色の一部であるということを僕は理解する。雨が、生まれて初めて美しく見えた。ここから僕の、この世界の上書きが始まるのだろう、と予感した。
 足元に奇妙なものがあった。苔の上にある、枯れかけた葉のようなくすんだ色のジャケット――僕の血で幾分赤く染まってしまってはいるが――拾い上げると、見覚えがあった。
 ミリタリージャケット――軍服だ。サリサリとした麻の感触。教科書で見たことのある、国防色をした日本の軍服。目の前に掲げてみる。森の深緑を背景とし、緑がかった茶色のジャケットの縁を、赤い血を絡めた雨の雫が伝い、滴る。やぶれた隙間から、光が淡く漏れる。
 僕はそれを、美しいと思った。
 しばらく僕は、そこにミリタリージャケットがある意味を考えた。自分の頭で、理論を構築する。世界を創る仲間の声が聞こえた。
 創造された世界を見渡して、浮かんだ考えを少しずつ頭にしみこませる。この世界を造る一人から、この世界を創る一人になる。再びやぶれてしまわないように、慎重にミリタリージャケットを着る。
 物語を終わらせ、僕自身の世界を創るんだ。

 目が醒めた。