LIFE LOG(あおいろ文庫)

Eve

高校一年生の冬に書きました。2作目。
物語を貫く焦燥感と、ドラマチックな展開が特徴です。
9,067文字



 十二月になると、駅は赤と緑に飾りつけられた。それはあまりにささやかで、しかし僕の心をふわりと浮かせた。その高揚は一瞬で、すぐ雑踏へ消えていった。
 カレンダーが捲られるごとに、街は駅を中心に赤と緑に染まっていった。カレンダーの厚さが知らぬ間に薄くなるように、僕がいつの間にか母の背丈を追い越しているように、それは自然な流れだった。僕は黒い学生服の上から灰色のコートを着て白い息を吐いた。寒さに慣れた心は振動を止め、僕は風景の一部になった。繰り返す平凡な日々。僕はその流れに身を任せ、街を漂っていた。

 十一月、僕はある小さなプロジェクトを任された。公民館の一室でワークショップを開くというもので、一年に数回ある。地域の小学生などが参加する小規模なものだ。「消去法で選んだら君だった」と先生は言った。僕は少し間をおいて「やらせていただきます」と返事をした。消去法というのは、〈前回プロジェクトに参加して、今回もプロジェクトに参加している〉という条件に当てはまっているのが僕しかいなかったというものだ。それを任せられるのに、僕の能力が不釣合いなのは明白であった。生まれてこのかたリーダーなどやったことが無く、またそれが出来るほど言葉のキャッチボールは上手くない。しかしそれを自覚していながらも、僕は「消去法」という言葉を上手く呑み込めないでいた。その言葉は僕の心の中に留まり続けた。そしてそれは不意に暴れまわり、僕の心を乱すのだ。それを振り払うように、僕はプロジェクトを任されるに相応しい人になるべく努力した。しかしそれに対して先生は〈仲間に僕よりは優秀な人が居るのだから、その人を見習うべきだ〉という判断を下した。「君には期待していないんだ」先生は苦々しげに僕を見た。僕は自分の努力を、そしてそれより大切な何かを否定された気がして、俯き、拳を握った。しかしその拳はすぐに解け、僕は身の程をわきまえて活動した。その頃ちょうど初雪が降った。プロジェクトは生煮えの裡に幕を閉じた。

 プロジェクトが終わると、僕の心はいよいよ冷め切ってしまった。「感情を動かし過ぎたのかもしれない」僕はこう思うことにした。そうやって心をコートと学生服の中にしまい込み、時の流れに身を任せぬくぬくと過ごした。快適な静けさだった。「きっと棺の中はこんな感覚なのだろう」と僕は思った。
 その快適な空間を汚すのは、この時期に特有の煌びやかな歌だった。僕はそれに厚着で対抗した。「この不快なメロディが心を振動させたとき、きっと僕は死んでしまう」僕はそう信じた。コートはいわばミリタリージャケットの様なものだ。僕は白いイヤホンをつけ、フリッパーズ・ギターゴーイング・ゼロを聴きながら、少しずつ赤と緑に浸食される街をプランクトンみたいに漂った。

 そんなこんなで日々は過ぎ、前夜祭に街は踊った。僕は心に鍵をかけ、いつものように学校に向かった。今日は冷え込みが厳しいせいか、吐く息の白さが際立つ。作業的に改札を抜け、通勤特急に詰められる。黒い無表情の集合体と、鮮やかに飾り付けられた吊り広告が、小さな芸術を創っていた。僕はTLに流れてくる全日本もう帰りたい協会のツイートにいいねを押し、人ごみに押し出されるようにして電車を出た。
 スマホをしまって手袋をつける。サンタクロースがいたならば、僕はきっとスマホ手袋を頼んでいただろう。手袋をはめるにあたって注意しなければならないのは、腕時計が見えるように手袋のつけ具合を調節することだ。今日はいつもより手がかじかんでいるせいか、上手くそれが出来ない。後ろから、僕と同じ制服を着た人が僕を追い越す。先に見える信号は赤になってしまった。そうしているうちに、僕は安物のクオーツ時計に無性に腹が立ってきた。正確に時を刻み僕を縛るクオーツ時計。大量生産されたクオーツ時計。電池が切れたら使えなくなってしまうクオーツ時計(もっとも、また新しい電池を入れればいい。ただそれだけの話だ)。僕はそれを手首から毟って叩きつけて踏みつけたい気分に囚われた。文字盤が割れ、針が曲がり、アスファルトにそれらがこびりつく様子を想像する。何だか愉快になった。僕はそれを実行すべく時計に手をやった。指先から伝わる無機質な冷たさ。その冷たさで僕は急に醒めてしまった。後に残ったのはただただ空虚な感覚だけだった。僕はその空虚を吐き出すようにため息をついた。それに伴って発生する白い息をとても鬱陶しく思った。

 感情というのは波のようなものである。高揚感を覚えた後には必ず虚無感が襲ってくる。それは高揚の振れ幅が大きければ大きいほど、強く、強く襲ってくる。
 人生というのはブロックを積み上げる様なものである。僕らはブロックの高さを競い合い、またその美しさを競い合う。ブロックが崩れたらやり直しだ。積み直しを助けてくれる人はいるかもしれない。しかしその間にも誰かがブロックを積むのだ。一度崩れたブロックは、立て直すのに多くの時間を要する。また事実として、わざわざ自分以外のブロックを積む人は少ない。「崩れたら、またやり直せばいいさ」と誰かが言う。その足元には死屍累々として堆く――そこには何の意味があるというのだろう。皆思考を停止してブロックを積み上げる。その意味を問われた時、皆答えに詰まるのだ。いや、こう答える人が居るかもしれない。
「僕ら一人一人がブロックを積み上げる。それは全体で見ればとても多く、高く、美しいブロックとなるのだ。過去から積み上げられたブロックによって、人間はより高みに到達してきた。ほら、誰かが昔こう言っただろう? ―― “If I have seen further it is by standing on the shoulders of Giants.”――って。僕らはブロックを積み重ねる事によって、豊かになれるんだ」
 確かに僕らの見る景色は年を追うごとに綺麗になっているように見える。しかし僕らは「何が豊かさなのか、そもそも豊かさとは何なのか、何のために豊かになるのか」という疑問を拭えないでいる。高い所から世界を見る事が豊かさなのか? そもそも、僕らが景色を見られるのなんて百年程度だろう? その後は? 僕は足元を見る。歪んで溶け出す人間の死体。赤黒く変色した半固形物と砕かれた白い骨が混ざり合い、ブロックに埋もれている。口らしきものを半開きにしてそれは何かを語りかける。やがてそれは完全に溶けて忘れ去られるのだろう。僕らはそこから目を逸らしブロックを積み上げるのだ。目を逸らしたのは果たして誰からか? そう、僕等は一瞬の輝きを放った後、百年よりはるかに長い時間をかけて虚無に近づいてゆく。僕らはいつか虚無に帰る。虚無のスープから偶発的に生まれた僕らは虚無の交配を続け、虚無のブロックを繋いで虚無に帰る。それはゼロにひたすら4や9を掛けるのに似ている。そこにどんな数字を掛けようと、それによってどんな高揚感を得たとしても、それは幻に過ぎない。そこに虚無がある事を確認するのみだ。口を半開きにしたその顔は、僕にとてもよく似ていた。

 校門をくぐり、スマホ機内モードにする。スマホが世界から隔絶される。僕は画面をスクロールして天気を確認する。それはスマホが世界と繋がっていた証拠でもあるのだ。今日は雨が降るらしい。気温は下げ止まるようだ。どうやらホワイト・クリスマスにはならなさそうだ。ざまあみろ。
 学校に着き、いつも通り授業を受けた後、冬休みについての説明を聞きに集会へ行く。少し暗い空間の中、能面のような顔が並ぶ。そわそわして周囲を見渡したり、爆笑したりする人はいない。少し後ろのスペースが足りず、数人が詰めて座った。その数人が或る女子をちらちらと見る。声をあげず、場の空気を乱さない様にちらちらと。その人が気づかないとなると、動きはよりあからさまになる。辺りが微かに揺らめき始める。あるいはその人は気づいていたかもしれない。それでいて気付かないふりをしていたのかもしれない。僕は指数関数的に増えていくグラフを思い浮かべた。それが閾値に達した時、揺らめきを切り裂いてその人は言う。「ごめん、ちょっと前詰めてもらえるかな?」
 「ごめん、ありがとう」その人は繰り返す。周りは無言で体を前へとずらす。その人の言葉は虚空に消えた。いや、僕のもとにその言葉は届いた。きっと僕以外の誰かにもその言葉は届いているだろう。そして違和感を覚えながら僕と同じように声をあげられずにいるのだろう。しかしその言葉はやはり虚空に消えたのだ。確かに、僕を観測点とした「僕の世界」では虚空へは消えていないかもしれない。しかし仮に「全体の世界」があるならば、その言葉は虚空へと消えた事になってしまうだろう。そこまで考えて僕はふと思った。「その女子の世界」においてその言葉はどうなったのだろうか。もしかしたら、その言葉が誰かに届いているとわかっているかもしれない。それでいて声をあげられない状況を察してくれているかもしれない。逆に言えばそういう人だからこそ僕らは声をあげないのかもしれない。さっき「察してくれる」という言葉を使って気づいたが、僕らとその人の間にある虚空を超えるのは「直接的な言葉」そして「想像力」なのではないか。僕らはその人の想像力――この場合「優しさ」という言葉をつかえるかもしれない――に依存しているのではないか。あるいは期待し、信頼していたのではないか。そしていつの間にか、そのことさえ忘れてあたかも普通に接しているかのように、相手に無償の優しさを求めて日々を過ごしてしまっているのではないか。僕はその人が座る時、諦めにも似た表情をしたのを見逃さなかった。その人が前を向いた後も、僕はその残像を見ていた。突然、胸が締め付けられるような思いがして、僕はとっさに下を向いた。それはほとんど発作の様なものだった。どうした僕。心に鍵をかけたんじゃないのか? 感情を動かすとその跳ねっ返りが襲ってくるんじゃないのか? 今日の僕は揺れ過ぎだ。きっと後で酷い事になる。そうだ、冷静になれ。今の状況を分析するんだ。能面集団の中で下を向いている僕はきっと集団のバグだ。僕らは「全体」の下で忠実に動かなきゃいけないんだ。さもないと「変な奴だ」と思われるぞ。平静を装え。顔をあげると、誰かがしゃべっていた。声が聞こえてくる。視界がゆっくりとクリアになって、意識レベルは低下する。僕はまた漂い始めた。いつか消えてなくなるとわかっている。しかし大きな流れには逆らえないんだ。そう、僕はプランクトン。この世に生を受けた、一個のプランクトンなのだ。

 集会が終わり、教室に帰る。窓の外を見ると雨がザーザーと降っている。かすかにガラスが曇っている。席に座り頬杖を突いて、僕はそれをただ見ている。ご飯を食べなければならないし、英語の単語も覚えなければならない。しかし僕は動けなくなってしまった。なんだかとても疲れた。あと三秒で動くんだと決めてみても、気怠さが勝ってしまうのだ。やれやれ。僕は周りに耳を澄ませた。例の人が快活に男子と話しているのが聞こえた。その人は男子を見上げるようにして、いつものようにはきはきと、しかし相手の気持ちを考えて言葉を選んで話をしていた。僕はその間にかすかに微妙な空気が漂っているのに気付いた。「あれ、こんな喋り方だっけ」僕は訝しんだ。その人がこっちを向いたような気がして、僕はとっさにお茶を飲み、「今からお弁当を食べる人」になりきった。箸を口に運び、「僕が覚えた違和感は勘違いであった」ということにした。

 終礼をして、職員室に書類を届けて帰ろうとすると、僕は先生に呼び止められた。そのまま先生に促されるまま椅子に座らされた。僕は先生を怪訝な顔で見た。先生はまるで担当教科である化学の話をするみたいに口を開いた。「この前のプロジェクト、何で失敗したかわかっているの?」
 まず僕は失敗という言葉にショックを受けた。確かに生煮えではあったが、失敗という事はなかったと思う。いきなりマウント・ポジションをとられた気分になり、僕は顔をしかめた。「その表情」先生は間髪入れずに言った。「君は先生の言うことに対してすぐ顔をしかめるよね。そんなんじゃ怒ってもらえなくなるよ」この人は何を言っているのだろう。まるで試合開始を聞かされずパンチを食らったボクサーのように、僕は自分に起こっていることが呑み込めないでいた。先生が見つめる。僕は言葉をいったん呑み込んだ。「何でそんな風な態度をとるの?」先生が言った。「……自分の考えていることと先生の言っていることとがずれていたからです」「あのね、そういう所。君が過ちを犯す原因」僕はまるで罪でも犯したかのような気分になった。
「君は大して思考力もないくせに自分で考えようとするから過ちを犯すんだ。普通の馬鹿なら何も考えずに人に従う。それはそれでいいんだ。なぜなら正しい方向に力を使うからだ。思考力のある人なら自分で正しい方向を見つけて馬鹿な人を導く。でも君はどうだ? 馬鹿のくせに自分で考えて、時間をかけて導き出した答えは大間違い。さっきの返答がいい例だよね。君は私の問いにすぐ答えられなかった。私が別の言葉で言い換えてあげてようやく返事をしたけど、その答えは的外れ。君には思考力が無いんだよ。そのことをまず認めなさい。取り返しがつかなくなる前にね」
 先生はそれだけ言って僕を帰らせた。僕は帰り道で様々な事を考えた。しばらく自販機の前でコーヒーを片手に考えていると、コーヒーは冷め、辺りは暗くなってしまった。マウントをとられたのだから先生の言葉は無視していいのではないか。しかし僕は僕自身を信用できないでいた。ここ最近の不調と先生の言った言葉は見事に重なっていた。そのことが僕を打ちのめした。そうか、僕には思考力が無いのか。これまでに考えてきたこと――過ごしてきた時間――それらが思い起こされた。そうか、あれは間違いだったのか。土砂降りの雨の中、僕は傘を放り出したい気分になった。視界が赤と緑に歪んでいた。僕は空を見上げ、傘を持つ手を下した。雨で目がかすむ。僕を中心に雨が広がって落ちる。雨を一身に受けながら、僕は叫び出したい衝動にかられた。しかし声を出すことはできなかった。道路を走る車の音が聞こえた。僕は傘を差し直し、ハンカチで濡れそぼった体を拭いた。ハンカチをポケットにしまい、僕は再び雨を確かめるために右手を傘の外に出した。その手を誰かが握った。「来て」とその人は言った。

 僕らは駆け出していた。華奢な手が僕を引っ張る。走るのをやめたらその手が折れてしまいそうで、僕はその手に連れられて走った。雨がアスファルトの上を跳ねる。赤と緑、そして車の光。雨の街は濡れたように暗い空間を鮮やかに彩っていた。僕は耐えかねて息継ぎをした。瞬間、漏れる白い息。新鮮な空気が取り込まれ、肺が痛くなる。なんだか胸が締め付けられている様だ。なぜ彼女は走っていて、僕は泣いているのか。ちっとも今の状況を理解できていないけれど、感情の波はとめどなく押し寄せてくる。僕らは街の中心へと走っている。彼女はスピードを変えることなく走っている。僕は距離を保ってそれを追い続ける。耳や鼻が痛くなる中、彼女と繋がれた手だけが温かい。オフィス街を抜け、繁華街を横目に並木道に入る。葉が落ちた木々が立ち並ぶ中をひたすら走る。彼女の息づかいが微かに聞こえる。僕の息は荒くなっていた。肺が悲鳴を上げる。棺はこじ開けられ、新鮮な空気が入ってきたのだ。それは冷たく、棺の中にあった空気を追い出してゆく。やがて並木道を抜け公園に至る。雨の中、それでも噴水にはカップルがいた。僕らは手をつないだまま立ち止り、傘を差したまま肩で息をした。「座ろうか」彼女は苦しそうに僕を見た。僕は噴水の周りを見た。「でも濡れているよ」「ここまで来たら変わらないでしょ」確かに傘をさしていたとはいえ、走る最中に僕らはびしょ濡れになっていた。僕らは噴水の周りに座った。「で、なんで連れてきたの」僕は言った。「そんなことより何していたの? この雨の中傘をささずに空を見上げて――あれはだいぶ奇妙だったよ」「それはまあ……いろいろあったんだよ」泣いていたのはバレなかったのかな、と僕は思った。「それよりどうしたの、何かあった?」僕は彼女に尋ねた。「わたしね、彼氏にふられたんだよ」彼女はあっさりとそう言った。「……雨に降られて、彼氏にもふられた。もうさんざん。今夜はクリスマス・イヴだよ? 信じられる?」彼女はおどけたように、軽い口調で言った。語尾が微かに震えたのは聞かなかったことにする。「そう……まあ……ね――」僕が返事に困っていると、彼女はこちらを見つめた。その眼はうるんでいる。耐え切れなくなって目を逸らした。彼女はかなりお洒落をしていた。それが彼氏の為だったのだろうなと思うと、何とも言えずやるせない。彼女のマフラーから雨が滴る。それで気付いた。彼女も僕と同じように、どこかで傘をささずに雨に濡れていたのだ。それもマフラーから雨が滴るほど長く。彼女の濡れ方は走った煽りで受けた雨のそれではなかった。彼女は僕に抱き付いてきた。彼女の傘が地面に落ちる。僕は振り払う訳にもいかず、彼女をこれ以上濡らすまいと傘を持ち上げる。彼女の手が肩にかかり、それを静かに止める。僕は地面に傘を置き、彼女の目を見た。彼女は泣いているような、笑っているような、どこか諦めたような、複雑な表情に顔を歪めた。口元は笑っていても、歯は食い縛られ、唇は震えていた。泣きそうなのを我慢しているのかもしれない。その口元がふっとほどけ、白い息が舞ったかと思うと、僕等はキスをしていた。
 僕は息をするのを忘れていた。土砂降りの雨の中、僕らの髪はぺしゃんこになっていた。彼女の唇が僕から離れ、僕は咳き込むのを抑えて息をした。彼女は僕を確かめて、また僕の唇を奪った。彼女は何度もそれを繰り返した。そして気を取り戻したように僕の顔を見た後、突然僕の肩に顔をうずめた。「ごめんなさい、ごめんなさい――」彼女は繰り返した。そして消え入りそうな声で「……ありがとう」と言った。僕はただ、彼女を守りたいと思った。これまでの問いが音を立てて崩れてゆくのを感じた。結局のところ、僕は頭でっかちだったのだ。「――こちらこそ、ごめんなさい。そして――ありがとう」僕は彼女に言った。

 彼女は「体調が悪い」と言って帰って行った。あれだけ濡れて、その服を何時間も着続けていたのだから当然だろう。賑わいも落ち着いてきた繁華街を歩きながら、僕は今日起きたことを考えていた。手のぬくもりは消え失せて、唇に残った違和感も角が取れてきた。彼女に対して抱いた想い、そこから手にした答えについて考えていた。しかし思い浮かぶのは、それとは関係ない現実的な話ばかりだった。残り少ないスマホの充電を何に使おうか、学校から出された課題はどうするのか、明日どんな顔をして登校しようか。顔を上げると、いつの間にか繁華街を抜けていた。明かりが消えたオフィス街の中で、僕は小さな光を見つけた。近づいてみるとそれはカフェだった。僕はそこでコーヒーを頼んだ。店内には仕事終わりのサラリーマンが多くいた。それが妙に彼女との時間の非現実性を際立たせていた。結局のところ、今日起こったことはクリスマスが見せた夢なのではないかという気がしていた。僕はこれからも全日本もう帰りたい協会のツイートにいいねを押し続けるだろう。何も状況は変わっちゃいないし、自分の生活が変わるわけでもない。手にした答えはごくまれなケースにのみ適用されて、それがすべてではないのではないか――僕はこう思い始めていた。
 コーヒーが運ばれる。白いカップが微かな音を立て机の上に置かれる。渦を巻く黒い液体。「こんな時間までやっているカフェって珍しいですね」僕は少しだけ饒舌になっていた。「仕事帰りのお客さんが多いんですよ」白髪混じりのおばさんが答えた。「ごゆっくり」
 銀色の容器に入ったミルクを静かに注ぐ。スプーンで混ぜると黒が茶色に変化する。やがて渦が収まり、均一な茶色になる。僕はその刹那が好きなのだ。今日のそれはなぜか僕の心を惑わせた。店内にはジョン・レノンのイマジンが流れていた。僕はイヤホンを付けて曲を再生する。それは本能的な動きだった。何かが壊れそうだった。ほとんど叫びだしそうだった。音量を上げる。充電は残り7%だ。その曲――僕の好きな曲の一つだ――は恐ろしいほど薄っぺらに聞こえた。カップを持とうとして大きな音を立ててしまった。僕はその曲をほとんど義務感で流していた。その我慢が閾値に達したとき、僕はイヤホンを外した。削除ボタンを前に手が震える。冷静になるためにあえて小さな声で呟く。悲しいけれど、と前置きをする。「悲しいけれど、どうやってこの曲を忘れよう」

 カフェを出て僕は走る。寒さのせいで肌がチクチクと痛む。夢中で走って、僕は高架橋の下にたどり着いた。環状線だ。こんなところがあったのかと驚きつつも、今日の行動の荒唐無稽さに呆れていた。柱を素手で確かめる。ざらざらとしたコンクリートの感覚。ふと空を見上げると月が見えた。車が通るたびその音が僕の体を微かに揺らす。車はまっすぐ目的地に向かう。しかしこの道をまっすぐ進めば、同じところに戻ってくるのだ。僕らの感情線もきっとこんな感じなのだろう。まっすぐ曲がる僕の感情。きっと彼女だって――それで気づいた。交わりようのない僕らの感情が、偶然、このイヴに交錯したのは、きっと僕らがまっすぐ進んできたからなのだろう。それでいて「何か」によって曲げられたのだろう。ちょうどまっすぐ進む光が重力によって曲げられるように。その重力があるからこそ、僕らは交じり合う。しかしその事実は辛いものだ。なぜなら、たとえば彼女が強い重力によって捻じ曲げられた証拠なのだから。
 僕は柱にひびが入っているのに気付いた。指の腹でひびをなぞる。その指は夜空に向けて加速する。やがて指は柱を離れ、この世を切り裂く。僕は体を捻じ曲げ、その指の進むところに従う。指は月を切り裂き、樹木を切り裂き、アスファルトを切り裂く。僕が切ったのは最小の物質か、その物質と物質の間か、それとも最小の物質なんて無いのか。この世を真っ二つに切り裂いた後、僕は時計を見た。時計の針は午後十二時を回っていた。