LIFE LOG(あおいろ文庫)

青色の時代

高校三年生の夏、所属していた文芸部で最後に書いた作品です。8作目。
絶望を知って大人になりゆくけど君に固執する子供のままの僕もまたそこにあった。
intro:1,397字/みすかしあいしたい:17,580字/outro:483字//計19,480字

【intro】僕が僕だった日々は遠ざかり、だんだんと僕は僕でなくなってゆく

 歩道橋に手をついて、僕は目的も無く雑踏を見下ろしていた。午後八時半。人通りが多い。
 せわしない街の中で立ち止まっているのは、僕と『ビッグイシュー』を売っているおっさんだけだった。かたや制服、かたや赤の蛍光色。どちらもこの場における「異物」だった。
 『ビッグイシュー』が何であるか知っているだろうか。主に社会問題を扱う雑誌で、街角で販売員の手によって売られる。販売員はホームレスであり、雑誌が売れると、その売り上げの多くが販売員のものになる。公式ホームページ曰く、”チャリティではなく、チャンスを提供する事業“とのこと。
 僕はかなり前からここにいるが、『ビッグイシュー』は全く売れていなかった。だから僕は一冊それを買ってやりたかった。それでおっさんに「世の中捨てたもんじゃないぜ」と伝えたかった。しかし、あいにく持ち合わせが無かった。
 だから、世の中なんて捨てたもんだ、と思う

 昨日は始業式だった。桜舞う学び舎の下、何かが始まった気がした。だから今日、恋い慕う君に告白をした。ふられた。桜散る学び舎の下、何かが終わった気がした。
 勘違いしてしまうじゃないか、僕は馬鹿だから

 告白前日――つまり昨日――僕は君に「明日公園に来てほしい」と伝えた。君は「しょうがないなあ」と返した。
 だから僕は翌朝、君と一緒に食べるためのクロワッサンを気兼ね無く買えた

 僕は君の気をひくために、誕生日など節目の折にプレゼントを贈ることを忘れなかった。確実に僕の好意は勘付かれていた。
「私のことかわいいと思う?」
「かわいいと思うよ、普通に」
「どれくらい?」
「そこら辺の猫程度には」
「ふうん」「ねえ」「もう一度かわいいって言ってみてよ」
「はいはい」「『かわいい』」
 だから、プレゼントを買うときに、いつも頭によぎることがあった。
 どうせいい金づるだとか思ってるんでしょ
 別にそれでもいいんだけど
 モノだって愛だって、君の前では安いもんだ

「好きです。付き合ってください」
「ごめんなさい」
「……こちらこそ、ごめんなさい」
「友達としてなら付き合いたいんだけどね」
「ごめん」「とりあえず、クロワッサンだけ渡しておくね」
「わざわざ買ってくれたの」
「うん」
「……おバカさん」「いい人なんだからさ、私みたいなのに騙されてちゃだめだよ」
 騙されてなんかないよ
 騙されたけど、騙されてないんだ

 僕は君のことになると判断が狂ってしまう。君と夜遅くLINEをして、あの返信は良かったのだろうかなどと考えて眼が冴えてしまって、翌朝寝坊して学校に遅れてしまったときには自分で自分に驚いた。君と他の男が仲睦ましげに喋っているのを見た後、数学の問題で全然計算が合わなくて、思わず「なんっでこんなのもできないんだよ!」と叫んで教室が静まり返ったのは忘れられない。
 そんなんだから「しょうがないなあ」も良いふうに解釈してしまったのだ
 「しょうがないなあ」はその言葉通り「しかたないから面倒くさいけどついていってあげるよ」だったのだ
 馬鹿者

 歩道橋は意外と高さがあって、落ちたら打ちどころ次第で死んでしまいそうだ。
 だから僕はそこから飛び降りた。
 数えたら二秒も無かっただろう。けれどもその時間は永遠にも思えるほど長かった。
 僕はそれを確認してから顔を上げ、その場に背を向けて歩き始めた。
 さようなら
 『ビッグイシュー』のおっさんが遠ざかる。きっともう彼に気を留めることも無いのだろう。
 でも、それも僕だったよ





みすかしあいしたい

1. 見透かされている

 高校三年生になった春、僕はクラス替えの掲示を確認して、心の中で小さくガッツポーズを取った。周りにいる友人らはalmost goodとばかりに頷いたり笑ったりアンニュイな表情を作ったりしていた。僕はすました態度をして少し遠くにいる佐藤さんの姿を眺めた。佐藤さんはやはり僕と同じように彼女の友人らに囲まれて、くだらない話でもしているのだろう、こぼれるような笑顔を見せていた。それを隠すように口元に手をやる仕草が愛しい
「同じクラス、いぇい」
 清水はそんな僕を小突いてグータッチを求めてきた。
「うん、同じクラス」
 僕はそう含みを持たせて彼の拳に自分の拳を合わせた。コッ、という鈍い手ごたえと共に新学期が始まる。

 僕の苗字は上野である。新しい教室は左端から出席番号順に席が配置されるので、右利き用に作られている西向きの部屋の中、必然的に僕は窓際の席に座ることになる。だから春の景色を窓越しに見ると新学期なのだなあと実感する。小学校、中学校、高校と、見える風景こそ変われど、麗らかな光に照らされてほんの少し頬が気色ばむ感覚は変わらない。そう、それは去年の春も
「いい光だねー。って、この話去年もしたか」
 佐藤さんも同じようなことを考えていたのだろうか、窓の外と僕とを半々で見るようにして言った。「また隣だね」
 「うん」僕は何か気の利いた答えを返そうとして佐藤さんを見て頭が真っ白になって二の句が継げない。佐藤さんはそんな僕を見てほんの少し目を細めて笑う。
 見透かされている

 学校が終わって僕と清水は校門の横で駄弁っている。始業日であるのでまだ太陽が高い。桜の花びらがワックスでベトベトの清水の頭について、何だそれ、と笑う。
 清水はバスケ部のレギュラーで、僕は文芸部の一部員に過ぎない。彼は僕なんかと一緒にいて何が楽しいのだろう
さとるさとっちとお似合いだと思うんだけどな」
 清水は唐突にそう切り出す。佐藤さんのことをさとっちと呼んだり、僕をフランクに下の名前で呼んだりできる清水の方が、よほど快活な佐藤さんに似合っていると思う。
「いや、僕、佐藤さんに一度フラれてるし」
 僕が佐藤さんに告白したのは去年の秋だ。
「彼氏がいたんでしょ、しょうがなくね」
 佐藤さんのことを好きだと知っているのは清水だけだ。フラれた時もすぐに清水にそのことを言った。
佐藤さんにフラれた理由は「彼氏がいるから」だった。「もし彼氏がいなかったら僕と付き合っていたの」とは怖くて聞けなかった
 「――それにさ、」清水は僕の方を見る。
「さとっち、彼氏と別れたみたいだから」
「え、初耳」
「もう一度告白しなよ」
 清水は妙に急き立てる。
「――今日さ、後ろでお前とさとっちを見ていて思ったんだけど、お前ほんとにさとっちのこと好きだよな。会話の態度でバレバレ。事情を知っているこちらとしてはいたたまれなくて」
 だから今日は恋バナに積極的なのか、と腑に落ちた
「じゃ、俺帰るわ」
 自分の言葉に気恥ずかしくなったのか、清水はそう言って背中を向けた。

 佐藤千尋でさとっち、もしくはちーちゃんと呼ばれる。性格は明るい。○○委員会、というやつに多く所属している――皆の前に立ってしゃべっているのをよく見かける。真面目キャラではない。……と本人は公言する。しかし根が真面目であることは周知の事実である。責任感が強い。――というより、仕事をしなければクラスに居場所がなくなると思っている
〈わたし誰かから頼られている時いちばん生きていられる気がするの〉
 僕はたぶん佐藤さんについて他の人が知らないような側面をたくさん知っている。僕と佐藤さんとはLINEで強く繋がっている。寡黙な僕がLINEで饒舌になるのはともかく、普段から陽気な佐藤さんがLINEでは違うベクトルに自己表現をするというのは、僕にとって少し驚きだった。彼女のLINEはいわゆる陽キャのするような大雑把で薄くてそれ故に誰も傷つけない妥協の塊のような会話とは違って、繊細で濃密でそれでいて自分以外の誰も傷つけないような、厳密な言葉選びをしているものだった。それは現実の会話では確実に空中分解してしまうような内容だった。僕はそんな彼女の言葉を愛した
 佐藤さんの性格は暗い。皆の前に立ってしゃべる時は息継ぎがうまくできていない。真面目ではないと言い張るのは不真面目を憧憬しているからだ。彼女は中学時代に女子からハブられて、委員会で仕事をすることで先生を味方につけて何とか日々を乗り切っていた。生存本能から来る責任感に押しつぶされそうで彼女はいつも泣いているのだ――僕には分かる

「そういえば上野の小説読んだよ」
 昨日とは違って髪をぴょこんと後ろでまとめた佐藤さんは言った。
 小説? 文芸部は毎年夏に文芸部誌を発刊している。佐藤さんが言っているのは僕がそこに寄稿した小説のことだろうか。なんで今さら
 少しだけ戸惑う僕を観察するようにして佐藤さんは続ける。
「ねえ、上野ってさ、本当はああいうことしてみたいの」
 僕が書いたのはラブストーリーだった。心にどこか寂しさを抱える女の子を、男の子が無理矢理に連れ去って離さない、という王道の。
「あっ、もしかして実話とか」
 んなわけねーじゃん
「そんな顔しないでよ、面白かったよ小説」
 そうなんだ
 少しだけ照れるのを隠すために声を出す。
「ありがと」
「やっとしゃべった」
「何て返せばいいか分かんないじゃん」
「うはは」「それもそうだね」

 そっか、読んでくれたんだ
 面白いって言ってくれた
 考え方とか、価値観とか、そういった自分の中の深いものが、佐藤さんと重なり合った気がして、僕はしばらく目を閉じてその幸福感を体全体で味わった。
 今日のために生きてきた気がした

 深夜に佐藤さんとLINEをするのは楽しい。
〈そういえば昨日と髪型変わってたね〉
〈あっ気付いた?〉〈今日朝起きたらすごい寝癖でさ〉
 寝癖のついた佐藤さんを見てみたいと思った
〈そうだ、上野に聞きたいことがあるんだけど〉〈男子ってさ、ショートとロングどっちが好きなの〉
〈ショートかな、でもロングが好きな人もいると思うよ〉
〈ふーん、ありがと〉
 なんでそんなこと聞くの
 僕の言ったことを信じてショートにしてくれたりするの
 フッた奴の言葉で自分を変えていいの
〈ごめん〉
〈ん〉〈なんで謝るの〉
〈いや僕友達と関わり少ないから一般的な男子の傾向とか分からなくて〉
〈いやいや、上野の意見でいいんだよ〉
 それってどういう意味
 今彼氏のいない君が僕の言葉で自分を変えるということと、僕が告白した時に君が「彼氏がいるから」と断って、彼氏がいなかった場合については言及しなかったことの、ふたつを合わせた時に導き出される意味を、僕は額面通りに受け取っていいの
〈ごめん〉〈ありがとう〉
〈また謝る〉〈聞いたのはわたしだから、ありがとうはこっちのセリフだよ〉
 そう言って佐藤さんは僕の失敗を肩代わりしてくれた。
 なんでそんなに優しいの
 深夜に佐藤さんとLINEをするのは、胸が苦しい。
〈ねえねえ上野はさ、SかMかどっちなの〉
〈どうしたのいきなり〉
〈うへへ、いいじゃん別に〉
 酔ったおっさんかよ
〈佐藤さんはどうなの〉
〈わたし?〉〈わたしねえ……名前にSが入っているから、Sってよく言われるの〉
 一瞬画面の向こうに、指を赤い唇に添えて意地悪い表情をする佐藤さんが見えた気がした
〈だからMなわたしは隠れて見えなくなっちゃって、誰もそれを見つけてくれないんだ〉
 意地悪な表情を、上目遣いの甘えた表情に変えて佐藤さんは言った
 僕は佐藤さんが弱いのを知っているのに、僕だけは
〈でも僕も名前にSが入っているけど、どう考えても性格的に僕はSじゃないよ、だから名前なんて関係ないし、Mだって分かってくれている人もいるんじゃないかな〉
〈うむ〉〈確かにそうぢゃな〉〈よう言うた、そちに褒美を遣はす〉〈実際褒美など無いのぢゃがな、ぐはは〉
 ほんとに酔っているんじゃないのか
〈佐藤さん眠そうだけど大丈夫〉〈もうLINEやめる?〉
〈何を言う〉〈夜はまだまだ長いぞ、秋の夜長ぢゃ〉
〈春だけど今〉
〈上野はさあ、まだ私のことが好きなの〉
〈好きだよ〉
〈ほんと?〉
〈うん〉
〈ほんとにほんと?〉
〈ほんとにほんと〉
〈ほんとにほんとにほんと?〉
〈ほんとにほんとにほんと〉
〈わたし性格悪いのに〉
〈佐藤さんは性格悪くなんかないよ、優しいよ〉
〈上野はほんとのわたしを知らないんだよ〉
〈知っても知らなくても僕は佐藤さんのことが好きだよ〉
〈ねえ上野お〉〈なんで上野はそんなに上野なの〉
〈意味が分からないよ、ほんとに寝なくて大丈夫〉
〈うむ〉〈寝るよ〉

 僕はそれから三十分くらいぼんやり佐藤さんのことを考えて、もう完全に寝ただろうかと思って〈おやすみ〉と返信した。画面に映る佐藤さんの言葉をなぞると温かい
なんで上野はそんなに上野なの
 佐藤さんのことが好きな僕が僕だからだよ
 だから大切な佐藤さんを大切にしたいんだ
 僕も意味が分からないや、ごめん
 どうして佐藤さんはSとMの話をしたのだろう。どうして自分にMの要素があることを強調したのだろう。僕が佐藤さんを気遣って早く寝るように勧めたのは正しかったのだろうか。どうして佐藤さんは僕の気持ちが離れていないかを確認したのだろう。どうして最後の〈寝るよ〉だけ言葉遣いが素に戻ってしまった、、、、のだろう。
 僕の佐藤さんを大切に思う態度が、結果的に佐藤さんとの間に距離を置くことになったのだとしたら。それで佐藤さんが醒めてしまったのだとしたら。
 恋とは体温を感じられる距離感の中に生まれるものなのだろうか
 それならば僕は取り返しのつかないことをしてしまった

〈佐藤さん、今度学校一緒に帰らない?〉
〈えっいいけど……方向逆じゃなかったっけ上野〉
〈えーっと、ちょっと駅前のLOFTに用があって、佐藤さんそっちの方向だったなあって思って〉
〈うん、方向はそっち〉〈だけどわたしいつもその手前の駅から乗っていて、わたしは定期使えばタダだけど、上野はわざわざ一駅のために切符買うの勿体無いよね、どうする、歩いてく?〉
〈あーそっか、うーん、じゃあ一緒に歩きたい、ごめん〉
〈ううん、別にいいよ〉
 ほんとは最初から歩くつもりだったなんて言えない

 佐藤さんの歩幅は小さくて、僕はゆっくり歩いてそれに合わせる。
「上野は何買うつもりなの」
「んー鉛筆とか消しゴムとか、あとテープ糊が切れそうだからそれとか」
「あー鉛筆か、この前のマーク模試、わたし鉛筆持ってなくてシャーペンで塗ってた」
「そうそう僕も持ってなくてさ、だから買わなきゃと思って」
「じゃあわたしも寄ろっかな」
 そう言って佐藤さんはどういうわけか僕の方をじっと見た。
「何か顔についてる?」
「ううん。なーんか、もう受験生なんだなー、って」
 僕も佐藤さんの方を見た。佐藤さんはほんの少しだけ悲しそうな表情をして笑った。
「何か顔についてる?」
「ううん。なーんか、もう受験生なんだなー、って」
 あともう少しで佐藤さんに会えなくなっちゃうんだなーって
「ふふ」「もう駅着いちゃった」
 ガラス張りのビルが林立してそれぞれ空に伸びていた。さまざまな表情をした人がさまざまな格好をしてさまざまに歩いていた。僕はその時なぜだかここにいるのは実質僕と佐藤さんの二人だけなのではないかと思った。例えば今ここでガラスが一斉に割れて空に散り、僕たちの上に降り注いだなら。たぶん僕一人が彼女を抱きしめて、破片で切れた彼女の頬を優しくなぞり、それを合図に僕たち以外の世界全てが背景となる。笑っちゃうほどキラキラした空の青と、頬にひとすじ通る血の赤とがコントラストをなし、逃げ惑う人々の中で僕らだけが止まっていて、終わっていく世界の中、二人だけが幸せな結末を迎えるのだ。

「うわあ雑貨がいっぱい」「LOFTあんまり来たことないけど面白いね」「わたし文房具好きかも」
 はしゃぐ佐藤さんがかわいい
「あっ手帳、わたし手帳欲しいと思ってたんだよね」
 そう言って佐藤さんは水色の手帳を手に取った。
「じゃあさ、僕がプレゼントしてあげる」
「えっほんと⁉ いいの?」
「いいのいいの。ちょっとレジいってくるね」
 僕は店員さんにプレゼント用のラッピングを頼んでお金を払い、それから佐藤さんの方に戻った。
「ごめん待たせちゃって」
「こっちこそ、買ってもらっちゃって」
「佐藤さん、」
 僕は佐藤さんをまっすぐに見つめる。佐藤さんもそれに応えて僕に正対する。僕はプレゼントを婚約指輪みたいにして佐藤さんに渡す。
「僕と付き合ってください」

2. ポリシー

「ふふ、ふふふ、はは」
 佐藤さんは心底おかしそうにお腹を抱えて笑った。
「そっかー、そういうことだったのかー、ふはは」
 戸惑う僕をよそにして佐藤さんは笑い続ける。僕はきまりが悪くなってプレゼントを差し出す手を下ろした。佐藤さんはやっとのことで息を整えて、再び僕に向き合う。
「ごめんね、わたし違う人と付き合い始めたの。だから無理」
 世界から色が消えた
「……そうなんだ、それは残念。んーと。もったいないしプレゼントは受け取ってくれると嬉しいな、みたいな」
 僕はそう言って、佐藤さんにプレゼントを半ば押し付けるようにして踵を返した。
「ちょっと待ってよ、出口まで一緒に歩いてこ」
 振り切ることができないから僕は一生佐藤さんにかなわない

「そういえば上野は誰に、わたしが前の彼氏と別れたってこと聞いたの」
「それは……言わない」
「うはは、義理深いね上野は」
 そもそも清水が僕に、佐藤さんが前の彼氏と別れたということを伝えていなければ、こんなことにはならなかったのか、と一瞬思って打ち消した。悪いのは僕だから
「でもびっくりしたよね上野も、わたしがすぐに別の男に切り替えるような軽い女だって」
 卑下しないでよ自分を、僕がみじめじゃないか
「上野にはきっとわたしなんかより似合う人がいるよ」
 なんだよそれ、僕は佐藤さんがいいのに
「ねえ上野」「こんなわたしだけど、嫌いにならないでね」
 僕は僕を見上げる佐藤さんの顔を見た。
 嫌いになれたならどんなにいいだろう
 嫌いになれたならどんなに、嫌いになれたなら

 佐藤さんと別れた後ドラッグストアに寄って眠気覚ましのカフェインと水を買った。喉に水を通してからはじめて喉が渇いていたのだということに気付いた。寝ぼけた自分の考えを醒ますためにカフェイン錠を多めに摂った。見ていた夢は佐藤さんと一緒になることだった
 カフェインの興奮作用でハイになっていたが中身は空っぽだった。笑いが込みあげそうになるほど愉快な気分だったが大声で泣きわめきたいほど悲しくもあった。実際はそのどちらにもなれずに僕はただ顔をひきつらせていた。二つの相反する感情の波が渦を巻いて僕を呑んでいたが僕は普段と変わらない外面をしていた。
 狂いたいのに
 安くもないカフェイン錠をさらに口に含み水で流し込んだ。ほどなくしてガツンと倦怠感の波がきて思考を奪われた。ちょうどボディーブローを食らったような感覚だった。遠のく意識の中でカフェインの臭いが酷かった。感情はまるで街を襲う津波のように、激しさを消しつつ淡々と全てを壊していった。濁流の中で激しい腹の痛みと脱水症状を覚えてトイレに向かった。身体はどうにかして体内の異物を排除しようとしているようだった。つまり僕はまだ生きようとしている
 トイレの個室の中に一人だった。チープなスライド式の鍵で記憶がよみがえる。ここが最小単位だ、僕の砦だ
 幸せって何だっけ
 僕がいちばん幸せだったのはいつだろう。高校、勉強に追われる日々、中学校、仲間外れと踏みにじられた自尊心、小学校、必要とされたのはgoody-goodyな僕だけ、幼稚園、前ならえも歩く時の手の出し方も不自然な僕はだめなの
 違う、幸せは社会にはない
 僕は目を閉じて瞼の裏に映るぼやけた光を見た。その奥で波打つ自分の心臓の音を聞いた。世界が僕の大きさまで小さくなったような錯覚に陥った。だから安心した
 幸せは一人で作るものだった
 遠い昔の記憶――休日の昼下がり、僕はコタツ布団に体を埋めて本を読んでいる。温かさにまどろんで好きな時に目をつむる。瞼の裏の不思議な模様。読み終えたところに挟んだ指から伝わるザラザラした紙の感触。幼い頭で話の内容は数%も分かってはいないのだ、されどここではないどこかに少年は落書きのような夢を見る。きっと外ではサッカーをして遊ぶ子供の声が上がっているのだろう、しかし僕には聞こえない。僕には僕自身の心臓の音やコタツが熱を発する音、紙が擦れる音しか聞こえない。
 それが幸せだ
 それが幸せなんだ、僕にとっての幸せ
 DOMDOMDOM!!!!!!
「おいいつまで入ってやがんださっさとしろ!」
 意識が引き戻される。誰かがここをこじ開けようとしている
 ここは僕の世界だよ鍵があるから壊れない
 僕にはここしかないから壊そうとしないで僕の幸せ
 ――DOMDOMDOM!!!!!!
 気付けばそこは中学校のトイレだった。薄暗い個室、冷たい便座、ドアを叩くけたたましい音。
 それがどうしたというのだろう
 イヤホンで耳を塞ぎ本を開く。それだけで僕は世界から隔絶される。
 僕だけの世界、僕にとっての幸せ
 僕は難解な本を好んだ。分かりやすいストーリーは邪魔だった。僕は、僕の世界を得るためだけに本を読んでいた。その世界は断片的な理解の隙間にあった。誰かが作った物語は一片の塵に過ぎなかった。それを核として僕の世界が結実するのだ、その透明な結晶を僕は愛でた
 DOMDOMDOM!!!!!!
「駅員です! お客様から、ずっとこちらに入っているとお聞きしたので、様子をうかがいに参りました! 大丈夫ですか⁉」
 僕は顔を上げる。頑なに守り続けていた世界に終わりが近いことを知る。
「はい、大丈夫です、すみません」
 ドアを開ける――

「いい光だね」
「えっ」
「だからさ、君、ずっと窓の外見てたでしょ」
「うん、まあ……」
 外を見ていれば教室を見なくて済むからだけど
「それでわたし外を見たの。そしたらきれいだなあって思って」
「そうなんだ」
 僕は本を開いて会話をシャットアウトしようとした。
「えっ、ちょっと、なんで? もっと話そうよ」
 僕はそれに応えて、黙って本を閉じてうつむいた。
 少しくすぐったかった

 僕は自分で自分が分からなかった。どうして僕は佐藤さんを拒まなかったのか。
 人との交わりは不幸になるだけだと知っていたのに!

 ――ドアを開けると、そこには駅員も、トイレに入ろうとしてきた男も、誰もいなかった。僕はゆっくりと周りを見渡した。洗面台が三台。ジェットタオルが一台。大きな鏡が一つ。小さな窓が一つ。小便器が五据。個室が三つ。
 個室が三つあるなら僕の入っていたところのドアを叩く必要はないよな
 あはは、僕は本当に誰かの救いを求めているのだ
 僕に見向きする人などいないのに

 翌日、学校で隣に座る佐藤さんを僕は見ることができなかった。そのまま授業が始まると、僕は教科書を出し、普段とは違って机の右端に置いた。それではじめて佐藤さんの様子をうかがうと、佐藤さんはいつものような動作で教科書を左端に置いた。僕は左利きで佐藤さんは右利きなのでそれらはごく自然の行動だった。
 僕だけ頭がおかしかった
 昼休みは食欲が湧かずに手持ち無沙汰になって顔を伏せて寝た。周りにある全てのものが嫌だった。絶望は空気の色をしている

「上野はわたしに何か言いたいことがあるんじゃないの」
「別に何も」
「うそつき。上野が教科書を壁みたいにしていたのを、わたしが気付いていないとでも思った?」
 なんだ気付いていたのか
「それを指摘するなら佐藤さんが普段から教科書を壁にしていることを言わないと片手落ちだ」
 佐藤さんは一瞬唖然とした表情をして、それから僕を押し倒した。
うるさいうるさいうるさい。『上野が』『わたしを』避けるのがだめなの。ねえ上野、上野の世界にはわたし以外誰がいるって言うの? いるんだったら教えてよ」
 僕は頬を紅潮させた佐藤さんを見た。それ以外には誰もいなかった。何もない灰色の世界の中、佐藤さんだけが色を帯びていた。僕は佐藤さんを押し倒す。
「僕には佐藤さん以外いない、だから」
 佐藤さんは挑戦的な目で僕を見上げる。
「よく言えました」「だけどね上野、わたしの世界には上野以外にもたくさん人がいるの」

 そこで夢が醒めた。周りを見渡したが、そこには佐藤さんも清水もいなかった。
「おい上野、次の授業は化学室だぞ」
 クラスの嫌われ者の多田だけが教室にいた。
 こいつはなんで先にいかなかったのだろう
 僕は多田に興味を抱いて世間話を振った。多田はそれに、やや上機嫌で答えた。正直なところ話はあまり面白くなかった。それでも暇を埋めるには充分だった。暇――その隙間の正体は何だろう

 多田が嫌われている理由は判然とはしなかったが、嫌われているのは何となく納得がいった。
 ただ何となく、だ
 僕が多田に話しかけた日から多田は僕によく絡むようになった。彼は芸能関係の話を好んだ。誰と誰が結婚してどう思ったかを熱心に話した。やがて僕がテレビをほとんど見ないと分かると、彼は律儀に話題を変えた。
 相手のことをちゃんと考えている
 それなのに、何かが違う
 次の授業が体育で彼は僕を誘った。僕が少し机を片付けたくて「先に行っていいよ」と言うと彼は「一緒に行こうや」と僕を待った。トイレの前を過ぎると「しょんべんしたくなったわ、」と僕を見た。何、一緒に行けってか。僕は面倒くさくて「じゃ、先に行ってるね」と彼に告げた。彼は半笑いの微妙な表情を浮かべていた。
 僕が集中して本を読んでいると彼は「なあ、それ何て本」と尋ねた。そういうところだぞ、と僕は思って彼に強くあたった。
「あのさ、本読んでる人に話しかけるのって、かなりの罪だからな」
「あー、」「すんまそん」
 すんまそん
 彼はやはり半笑いでそこに立っているのだった。
 ある日僕は、いつものように僕についてくる彼に言った。
「ねえ多田、別に陰キャの僕と無理してしゃべってくれなくてもいいんだよ?」
 彼がクラスで孤立しているのを見越しての発言だった
陰キャの僕としゃべっている時点で、やばいって思わなきゃ」
 僕は続ける。
 なんでこんなにも彼に攻撃的になれるのだろう
 彼はいつもの通り半笑いだった。その半笑いの口から言葉が漏れ出した。
「俺さー、さみしがりなんだよな。だからさ、許してくれや」
 僕は足を止めて彼を見た。彼は依然として半笑いだった。
 ああそうか
 僕は悟った。
 本当に救うべき人は、救いたくなるような顔をしていない

3. 現実

 僕は小説を書いた。タイトルは『幸せになれない人』。首尾一貫して主人公は不幸であり、最期は自殺なのだが、その結果はなるべくしてなったものとして書いた。そこにはなんの主張もなかった。ただ一個の不幸な人間がいるだけで、その不幸の原因を主人公に押し付けることも、主人公に関わるものに押し付けることもしなかった。小説は新たに文芸部で発刊された部誌に載った。
 下世話な話が好きな多田に「さとっちと清水が付き合っているらしい」と聞いたのはちょうどその頃だった。僕は平静を装ってそれに「へえ」と返した。「いつから付き合ってるんだって?」「春休みからだってさ」――ふーん、始業日にはもう付き合っていたんだ
 「もう一回告白しなよ」と背中を押してくれた清水のことを思い出して口角が上がってしかたなかった。そういえばあの時清水はワックスで髪をキメていたっけ。「じゃ、俺帰るわ」と背中を向けた清水が思い出された。帰ったのは佐藤さんのもとにだろうか
 ほどなくして二人が付き合っているという噂がクラス中に広まり、二人もそれを隠さなくなった。「ちーちゃんあんな奴のどこがいいの」「さっさと別れちゃいなよ」「お幸せになれたらいいね」などと女子は妙に刺々しかった。「女子怖えー」と僕が呟くと、多田はすかさず「まあ一年の時に付き合っていてなかなか酷い別れ方したらしいからね」と返した。え、初耳なんですけど
多田によると清水は佐藤さんに「他に好きな女子がいる」と一方的に告げた後、その女子に告白してフラれ、それだけならまだしも第二、第三と女子に告白をしては当然のごとくフラれ続けたらしい。
 なんだよそれ
 清水は佐藤さんのことを、恋人同士とは思えないほど雑に扱っていた。彼は佐藤さんの身長が低いのを執拗にいじった。それで佐藤さんが言い返すと彼は、自分から話題を始めたのにもかかわらず、適当にそれをいなした。お預けを食らったような顔をした佐藤さんは、それでも彼に話しかけようと試みるのだが、彼はすでに別の友人と話していて聞こえなかったふりをするのだった。「あーあ、かわいそ」多田は言った。「なんであいつら付き合ってんだろ」
 なんであいつら付き合ってんだろ
 上から目線な言葉だ。お前には関係ないだろと言いたくなる。多田が嫌われる原因はそこらへんにあるのだろうか。
 でも僕も今同じことを思った
 僕よりあんな奴の方がいいんだ佐藤さんは
 ……でも僕は口に出していないじゃないか
 心の中で思うのは自由だけど、口に出すのって違うじゃん?
 そんな風に自分自身に無責任な言い訳をした。

「そういうところなんだよね」
 え
「上野ってさ、ナチュラルに人を見下しているところがあるというか」
 そうなんだ
「だから皆お前にむかつくんだよ」
 ずっと友人だった君が言うんだから間違いないね
 去り行く背中が昔とは違って大きい
 バカみたいな話をして笑いあったのはもう昔のことなんだと実感して不意に泣きそうになった
 また一人、友人が消えた

 中学時代から何も変わってないな僕は
 隣に多田がいた。日は傾き辺りは暗くなっていた。生徒は校門から出て帰路についていた。下校までついてくるようになった、もう友人であると言っていい関係になった多田に、僕はかつての僕を見ている
「あっさとっちだ」
 そう言って多田が指で示した先には、人を待っている様子の佐藤さんがいた。
「彼氏でも待っているのか~? ヒューヒュー」
 多田は茶化すように言った。
 お前さ
 そこに清水が来た。二人は何も言わずに、佐藤さんが清水に寄り添うようにして、一緒に帰っていった。僕はそれを見て何となくやるせない気持ちになった。
「ついてこうぜ」
 は?
「馬鹿なの?」
「え? 面白そうじゃん」
 僕は多田の目を見た。多田もそれに応じた。
 まじかこいつ

 辺りはいよいよ暗くなり、街明かりが二人の輪郭をかたどっていた。その夜陰に乗じて僕らは彼らのあとをつけた。彼らは手をつなぐでもなく、楽しげに会話をするでもなく、ただ平行に歩いていた。
「何も起こらずに終わるとかつまんないぞ」
「ふつうそんなもんだろ、現実見ろよ」
 その時不意に風が吹いて、周りのものがカタカタと揺れた。僕は寒気がして少し震えた。
 現実なんて言えた立場じゃないか

 気付くと街灯がまばらになっていた。辺りの建物の背が低くなり、漏れる灯りは無機質な蛍光灯の白から暖色へと変わっていた。生活の気配が僕らにこの小さな冒険の終わりを予感させていた。
 僕らは公園に差し掛かった。その時佐藤さんが二言三言清水に話しかけ、そして二人は相対して立ち止まった。
 その日のファースト・アクションだった。
「おいおい」
 多田が興奮気味に呟いた。
 清水は佐藤さんの腰に手を回し、指で顎を軽く持ち上げた。しばらく二人は見つめ合って、それから長い接吻を交わした。
 潤んだ佐藤さんの瞳が灯りを反射していた
 踵が浮いていた
 余裕なく清水の服を掴んでいた
 どれだけの時間があったのだろう。それは一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。
「もう充分だろ、いくぞ」
 無意識のうちにそう呟いていた。それは多田にというよりはむしろ、自分自身に対しての言葉だった。

「あー羨ましいなあいつら。俺も彼女作りてえ」
 帰りざまに多田が言った。僕はその言葉端に引っかかった。心がささくれ立っていたのだ
「『作りたい』? なんで」
 恋人はなる、、ものじゃないのか
「だってよー、制服着て××できるのって高校生までじゃん」
 僕はそれを聞いて一気に心が冷え込んだ。
「あはは確かにそうだな」
 ヘラヘラ笑いながら人生でいちばん空虚な言葉を吐いた。
 今この時佐藤さんの横にいるのが清水で、僕の横にいるのがこの多田だということが虚しかった

 暗がりの中で佐藤さんと清水のシーンがぐだぐだと繰り返していた。それをバックグラウンドにして今までに佐藤さんが僕に見せた顔が浮かんだり消えたりしていた。たいてい佐藤さんは僕にきれいな笑顔を見せていた。
 そこには渇望の欠片もなかった
 だから僕は「見透かされている」と思ったのかもしれない。

 夜にマイナス思考が始まるとそれは留まることを知らない。
 清水が僕を裏切ったのは事実として、佐藤さんもそれを知っていたのではないか?
 そういえば上野は誰に、わたしが前の彼氏と別れたってこと聞いたの
 うはは、義理深いね上野は
 佐藤さんにとって僕は、自尊心を満たす単なるおもちゃに過ぎなかったのではないか?
 そういえば上野の小説読んだよ
 なんで今さら?

「見てみろよこれ。上野が書いた小説なんだけど」
 清水が部誌を開いて佐藤さんに渡す。佐藤さんがそれを読む。僕はそれをただ見ていることしかできない。
「えー、なにこれー、上野って顔に似合わず、ふふ、ロマンチストなんだね」
「なあ知ってるか、上野、お前のことが好きなんだぜ」
「えっ」
「引くだろ?」

 それで意識が中学生の頃に引き戻される。
「キモいからうちのことじろじろ見ないでくれる」
「ねえこいついっつもうちのこと見てくんの、こわーい」
「性欲丸出しじゃん、笑えるー」
「えー、犯罪者じゃんそれ」
「半径一キロ以内に近寄らないでくれるー?」
「っていうかこんな奴にも恋愛とかいう考えがあるってことがウケるんだけど」
「それな、夢見てないで鏡見れば?」
「はは、マジでそれ」

 佐藤さんとの日々が全く違った意味合いをもって上書きされていく。
 全部遊びだったんだ
 それでも僕は佐藤さんのことが嫌いになれないのだった。
 ほんと?
 うん
 ほんとにほんと?
 ほんとにほんと
 ほんとにほんとにほんと?
 ほんとにほんとにほんと……

4. 答え合わせ

〈いまどこにいる?〉
 突然そんなLINEが来たのは学校が終わって夜の六時を回った頃だった。差出人は遠藤歩実。一個前のメッセージは去年の夏で、それ以来途切れていた。
 油断していた

 遠藤とは一年生の時に同じクラスで、それ以降は別のクラスだった。
 臆病な子だった。高校の環境に適応できていなかった。
 その姿がかつての自分と重なった
 手を差し伸べたらすぐにつかまってきた。それに優越感を覚えていたのかもしれない。僕は彼女と親しくした。なるべく快感を長く味わおうと、気を持たせるようなことも言った。
 僕は僕で飢えていたのだ
 その優越感の対価を払う覚悟もないままにいびつな関係を続けた
 気付けば僕は彼女のために多くの時間を割いていた。彼女の僕を見る目が変わったのはいつからだろう。「帰る方向が一緒だから」「偶然同じ委員会に入ったから」「文化祭の係の相談のために」――僕が彼女の好意に気付くまでに時間はかからなかった。
 彼女はたぶん、僕が彼女に告白するのを待っていた。
 僕はそんな彼女の態度が好きになれなかった
「上野くんはどこかの騎士がお姫様を連れ去るような話好き?」
 ある時彼女はこう言った。僕は彼女の意図を遠ざけるように切り捨てた。
「そういう話はうさん臭くて嫌い」
 彼女は残念そうに肩を落とした。そういう芝居じみた行動が癪にさわった。
 僕はいつしか彼女の束縛を解く方法ばかり考えるようになっていた。しかし彼女を傷つけないような遠回りな方法ではますます彼女の想いが募るばかりだった。僕はずるずると彼女に引き込まれていった。そこには僕自身の意志の弱さもあった。人の温度に飢えた僕の心を、ちょうど彼女に対する優越感が埋めていたのだ。
 それは薄めたカルピスのようだった。いくら飲んでも満足することはない
 二年生になって状況が変わった。佐藤さんのことを好きになったのだ。
 遠藤を容赦なく振り切るだけの理由ができた。それで夏に書く小説をとんでもなくロマンチックなものにしようと決めた。彼女に対する不誠実、それが僕の答えだった。
 小説には佐藤さんに対する恋心を詰め込んだ。僕はもともとロマンチストだった。僕はあっという間にそれを書き上げた。部誌にそれが載ってしばらく経つと、遠藤からのコンタクトはパタリと止んだ。

〈塾で自習してる〉
 僕は遠藤に返信をした。
〈そうなんだ……いつ終わる?〉
〈十時ぐらいかな〉
〈その後会える……?〉
 僕は迷った。断るだけの理由が僕にはない。
〈うん、どこで会えばいい?〉
 僕は観念してそう返した。

 遠藤は明らかに挙動不審だった。いったん家に帰っていたのか私服だったが、それも色合いがちぐはぐだった。その姿を見て、遠藤がパニック障害を発症しているらしいという噂を思い出した。
 その言葉の意味するところを、遠藤と相対してはじめて理解した気がした
「あの……えっと……」
 彼女は言葉を発するのがやっとという様子だった。
「あっ……今日は……来てもらってごめん。その……小説……読んだんだけど……」
 そこで彼女の呼吸が早くなった。
「う……あ……上野くんが自殺しちゃうんじゃないかって心配で」
 遠藤はそれを詰め込むように言ってうずくまった。涙がボロボロこぼれてアスファルトに染みを作った。彼女は苦しそうに息をヒュルヒュルと言わせた。僕はどうすることもできなかった。
 僕のせいだ
 年貢の納め時とはこのことを言うんだとぼんやり思った。きっとパニック障害も二年生の夏に僕がしたことに原因があるのだろう。
 僕は申し訳程度に彼女の背中をさすった。通りかかった女性が「大丈夫ですか」と声をかけ、僕はそれに「たぶん……過呼吸になっているだけなんで」と返した。だけ、、って何だ
 しばらくしてそれが落ち着くと、遠藤は僕をさらに人通りの少ないところに連れていった。
「ごめん……会っていきなりこんなことになって……びっくりしたよね……あと上野くん周りから変な目で見られちゃう」
「いやそんなこと気にしてないし」
「ごめん……」
 ひたすらに謝る彼女を見て、まだ僕は彼女に好かれているのだとなぜだか確信がついた。
「でも上野くんみたいなネガティヴな人も絶対必要とされてるし、この前ツイッターで見たけどネガティヴな人がいたから生き残れた種族があるって言うし……だから自殺する必要はないって言うか……うん」
 彼女の言動は彼女の文脈に依存していて、断片的な理解と推測でしかその意図を汲めなかった。――「でも」は何を受けているんだろう。いつから僕は自殺することになったのだろう。僕は彼女の言うツイートを知らない。「だから」の接続の根拠は闇の中だ。――僕はそういう彼女の独善的なところが好きになれない
 しかし今は目をつぶった。このままでは彼女は
「ありがとう。でも僕は自殺しないよ。小説はフィクションだ。たとえそれが体験に基づいたものだとしても、必ず一度は作者の中で消化されている。そうでないと、まともな物語は成立しない」
 僕は彼女を安心させることに注力した。不安の入る余地を与えないように慎重な論立てをした。
「そっか……私が勘違いしていただけなんだね……ごめん……。……でもやっぱり不安だなあ……私」
 そう言って彼女は媚びた目を向けた。彼女は彼女の論理を曲げない。それは彼女が彼女自身の小さな世界を必死に守ろうとしている産物なのだと、天啓のように悟った
 僕が彼女を嫌悪する理由の根幹がそれだということも
 そして同時に、「自分の世界を守る」という行動は、僕自身のメンタリティと相似形を成しているということも
 つまり僕が嫌悪された理由はそこにあるのだと
 僕に向けられる媚びた目に、嫌悪の正体が分かった今、愛おしさにも似た不思議な感情を抱いた。それは憐みにも近しかった。僕はかすかな興奮と奇妙な万能感の中で自分すら予想だにしなかったことを口走っていた。
「遠藤さ……僕と付き合う?」
 彼女はその言葉に目を見開いた。
「……いいの?」
 そう疑問を口にしつつも彼女は目に見えて上機嫌になっていた。そのあくまで彼女が彼女自身に思い描く彼女のキャラクターを守らんとし、しかし客観視すれば明らかに破綻をきたしている様子に、僕は不快感と慈愛の情を同時に抱いた。高次で統合された矛盾した感情のその刺激の強さに頭が狂いそうだった。
「もちろん」「ハグがしたいな」
 僕は言った。彼女は恥ずかしがって背を向けた。
 いいからとっととしろよ
 どうせ本心では嬉しいんだろ
 僕が三、二、一と脳内でカウントすると彼女はこちらの方を向いて覚悟を決めたように目をつむった。僕は神にでもなった気分で彼女を抱きしめた。それで彼女の心拍が急激に上昇するのが分かった。
 一方、僕はハイになった気持ちが徐々に落ち着いていくのを感じた。彼女の体温が僕の身体に沁み渡って心地良かった。それではじめて僕は僕の心が凍えていたのだと気付いた。
 人って温かいんだな
 バカみたいなことを真面目に思った。

 家に帰ると僕は佐藤さんにLINEをした。
〈今日彼女ができました。だからなんというか、もう大丈夫です〉
 既読と返信はすぐだった。
〈え〉〈とりあえず、おめでとう〉
 返す言葉を考えていると、少し遅れてメッセージが加えられた。
〈その人のこと好きなんだよね?〉
 面白いことを言う

「でもまさか上野くんが私のことを好きなんて。だって私、人から好きって思われるようなタイプの人間じゃないし」
 遠藤は、告白した日の様子など嘘のように自信満々だった。
「あ、でもいつかフラれちゃうんだって思うと、うわあああってなる。あああ、そう思うとなんか不安になってきた……」
 そう言って彼女は僕の方を見た。僕は本当に、彼女を今ここでフってやろうかと思った。それをぐっとこらえて彼女の文脈に僕の言葉を乗せた。
「大丈夫。僕は遠藤のことが好きだからフったりしないよ」
「ほんと……⁉ やったあー」
 そう言って無邪気に喜ぶポーズが鼻につく

 僕が求めているのは体温だった。それさえあれば好きとか嫌いとかどうでもよかった。単純な快感が欲しかった。何も考えたくなかった。
「僕さ……父親が単身赴任で、母親も働いているから、なんというかいつも一人で寂しかったんだよね……」
 事実ではあったが僕自身はそのことについて何も思っていなかった。
 ただの言い訳だ
「だからたぶん異常なほど遠藤を求めてしまうけど、許してね」
「いいよ……そう言ってくれて嬉しい」
 健気な彼女の態度に僕の肉食獣が舌なめずりをする
「じゃあわがままを言ってもいいかな」「キスがしたい」
「え」「うん……」
 キスは空っぽな味がした。僕は彼女の首筋に指を這わせた。中途半端に長いものぐさなショートヘアが手をカササと撫でた。彼女は突然僕から離れた。
「……ごめん……なんか……怖い……」
 その言葉で一気に気持ちが醒めた。
 乙女ごっこかよ

 汚れてしまった、という言葉をたまに聞くが、その意味が分かった気がする。
 好きでもない人と付き合うのは、自分自身に泥を塗りたくっているような気持ちになる。快楽と引き換えに僕は厚い土壁の中に埋もれていく。その感触が心地良くもある。嘘の交わりを重ねれば重ねるだけ、僕は生臭い人間の世界から遠ざかる。引き換えに虚しさが横たわる
 少しだけ佐藤さんに近づけた気がした。清水から離れて別の人と付き合っていた頃、彼女もやはり同じ思いをしていたのだろうか。今なら彼女が僕に取ってきた行動の意味が分かる。僕が恋愛にうつつを抜かす姿は彼女にとってどれだけ空虚に思えただろう
 はじめて佐藤さんを見透かした気がした。その後で彼女の親切が身に染みる。
 その人のこと好きなんだよね?
 掛け値なしで彼女が僕にかけた心配の言葉なのだと分かった。それだけで心が満たされる思いがした。
 今なら佐藤さんとちゃんとした恋愛が始められる気がする。そう思って打ち消した。僕がどうであれ、彼女にとってそれは知ったことではない。
 ――踵を浮かせて必死で清水にしがみつく彼女の潤んだ瞳

 しばらく遠藤とスキンシップを取ることを避けていると、彼女から声をかけてきた。
「前は……ごめん」「その……前は怖くなっちゃったんだけど、やっぱり寂しいっていうか……あ、でも、なんていうか、こう……体と体が触れ合うって……前は嫌だったけど、上野くんと付き合ってから、なんていうか……いいなって思えた」
 とぎれとぎれの言葉を汲んで彼女の頭を撫でた。その時はじめて、いつもと違って彼女が髪を後ろにまとめているということに気付いた。そのぴょこんとした形でいつかの佐藤さんを思い出してしまって、現実の、目の前にいる遠藤を見て気持ちが萎えた。それと同時に気付いたこともあった。頭を撫でるのをやめて彼女に言った。
「後ろで髪をまとめるのって意外と長さがいるんだな、当たり前だけど」
 彼女は不思議そうな顔をしてそれに答えた。
「うん、まとめる位置によるけど、基本それなりに長さはいると思う……長くなったら寝癖とか面倒だし、そろそろ切るか、伸ばそうか、……ってなるよね」
 寝癖
 今日朝起きたらすごい寝癖でさ
 男子ってさ、ショートとロングどっちが好きなの
 なんでそんなこと聞くの
 そういうことだったのか。僕は僕の自意識過剰っぷりに恥ずかしくなった。あれは僕に気を持たせるとかではなく、本当に純粋に意見を聞いていたのだ
「ねえねえ上野くん、何で今日私が後ろで髪をまとめてきたか分かる……?」
「わからない」
「上野くんが……その……いろいろする時に邪魔にならないように」
 正直なところ今日は適当に話をして切り上げようと思っていた。しかし彼女がもの欲しそうな顔をするので、僕は首筋に儀礼的なキスをした。
 サービスのS、満足のM
「上野くん、前に私が貸した本読んだ……?」
 彼女はよく僕に本を勧めた。彼女は少女漫画の延長のような内容の小説を好んだ。
 なんで彼女はナチュラルに時間を束縛するのだろう
「ごめん、まだ読んでない」
 そう言うと彼女は少し残念そうな顔をするのだった。
 罪悪感を押し付けるのも彼女の得意技だった
 彼女といると、僕が佐藤さんにしてきたことの答え合わせをさせられている気分になる。
 考え方とか、価値観とか、そういった自分の中の深いものが、佐藤さんと重なり合った気がして
 遠藤は僕によく似ていた。彼女は思想を共有したいがために僕に本を押し付けるのだ。
 じゃあさ、僕がプレゼントしてあげる
 僕は値段のする手帳を買い与えることで佐藤さんに罪悪感を押し付けつつ、手帳の持つ意味合いによって観念的に佐藤さんの時間を束縛していた
 遠藤は僕の鏡だった。僕は彼女を通してはじめて僕自身の姿を客観的に認識する。解答用紙にペケが並んでいく。最初のマルは最後のマルで、答案を見たならば0点なのだ
 上野にはきっとわたしなんかより似合う人がいるよ
 ねえ佐藤さん、僕と遠藤はお似合いだろ

5.壊れた空

 学校からの帰り、佐藤さんと清水が玄関にいた。
 外は天気雨が降っていた。二人はそれぞれ折り畳み傘を開いて歩いていった。
 僕は傘を持っていなかった。隣にいた遠藤が「私この前傘を忘れて帰ったから、学校に置いてあったんだよね」と言って、僕に傘を渡した。
 相合傘しろってことか
 僕らが歩いていく先の空は済んだ青色をしていた。雨粒は光を反射して白く輝いて見えた。
 いつか妄想したガラスみたいだ、と思った
 青空に散る雨粒は目の前を歩く佐藤さんと清水を彩っていた。僕の隣にいるのは遠藤で、皮肉なことに僕は彼女を傘で守っていた。
 僕は全てどうでもよくなって投げ出したくなる気持ちと、数奇な運命をむしろ楽しむ気持ちの、相反する二つを抱えて歩いた。
 どうせあと少しで大学生になって全てがリセットされるのだ、とふと思いついた。それならここは踊り場だ
 理想と現実のどちらにもいけない僕は、刹那的な青い空ときらめく雨を背景にして、酔狂なダンスを踊っている





【outro】Future Cαndy

掲示板に映る“incident”
止まる列車、溜まる人々
みんなして眉間にシワ寄せちゃって
「ひとりで死ねよ」なんて叫んじゃって
ああ、ほんとバカみたい

そう言えば川崎で人がいっぱい死んで
テレビでコメンテーターが、やっぱりシワ寄せて
同じこと言ってたっけ、「ひとりで死ねよ」って
そしたら東京でヒキニートが親に殺されちゃって
親は「川崎のことが頭をよぎった」なんて
本気マジになったらすべておしまい

だからイヤホンで耳塞いで
わたしは聴くの、“Kawaii” Future Bass
それはコンクリの街を虚飾して
モノクロBlack & WhiteをYellowに染め上げるの

「遅れてごめん!」ってわたしが言うと
君は「なんで遅れたの?」って
その顔がコメンテーターに似ていたから、わたしはビビって
事情を説明したら「ごめん」って抱きしめられて
だから「そういうの流行らないよ」って言い残して去った
愛が重いの、わたしは恋がしたい

“TOKYO 2020”のポスターが街に色を付けていた
やがてそれは剥がされて、虚勢張ったインフレは気が抜けて
そうやってすべてが終わっていくけど
わたしはイヤホンで耳塞いで
Future Bassに身を委ねるの、サルみたいに
それはモノクロBlack & WhiteをYellowに染めて
candyみたく甘さを残して
やがて消えてなくなるの