LIFE LOG(あおいろ文庫)

ブラックホールたべたい

高校三年生の春に書いた作品です。7作目。
遼くんは何か悪いことをしましたか?
13,798文字



 「あら、この子が遼……ちゃん?」
「あ、この子、男の子です」
「遼『くん』か! ごめんごめん」
「髪、長いですよね、切らせた方がいいかしら」
「ごめん遼くん、その、かわいらしかったから、おばさん勘違いしちゃった」
「この子が喋らないからいけないんですよ、もうすぐ小学生になるのに、上手くやっていけるか心配で」
「男の子なんだから、もっと元気じゃなきゃ困るぞ、遼くん」
「……」
「……っすみません不愛想な子で、ほら遼、何か言いなさい」
「……ごめんなさい」

 「お父さん、このエビフライ、おいしい」
「そうか、遼はエビフライが好きか」
「うん、うち、エビフライが好き」
「……その、なんだ、遼は来年から小学生になるんだろ、なあ、お母さん」
「はい、お父さん」
「その、『うち』はそろそろやめた方がいいんじゃないか」
「それもそうね、遼、『僕』か『俺』か、どっちかにしなさい」
「うちは『うち』がいい」
「遼、男の子で『うち』は変だぞ」
「うちは『うち』がいいもん、変じゃないもん」
「遼!」
「……ごめんなさい」

**

 遼は小学生になりました。彼の漢字練習帳は誰よりも使い込まれていて、字も丁寧でした。
「みんなが出してくれたノートを見ました。女の子はいつもと同じで丁寧でした。でも、男の子は、最近ちょっと字が汚いです。男の子は、がんばって、もっと丁寧に宿題をしましょう」
 遼は不機嫌でした。
「それでは、先生の話はこれで終わります。今から掃除をします。男の子は机を、女の子は椅子を、後ろに下げてください。引きずる人がいますが、床が傷つくので、持ち上げてください」
 遼は友人に話しかけます。
「ねえねえ、先生の言っていること、おかしくない? 僕、宿題、丁寧にやっているよ。それに、男の子だから重い机を運ぶとか、女の子だから軽い椅子を運ぶとか、おかしくない?」
 遼は非力でした。
「あっ、それ俺も思った。なんか変だよね」
「ね。僕、そんなの不公平だと思うな」
「フコウヘイって何?」
「うーん、……わかんないや」
「ふーん、遼は、難しい言葉を知っているんだね」

***

 「遼は、野球はしないのか」
 野球中継を見ながら、遼のお父さんは言います。お父さんは阪神タイガースのファンでした。だから、遼も阪神タイガースのファンです。
「昔、お父さんは野球をしていたんだ。小学校ではスポ少に入って、中学や高校では部活に入っていた。どうだ、野球やらないか。楽しいぞ」
 遼はスポ少に入ることにしました。

 スポ少には、遼と同じ学年の子供がいませんでした。最低学年となった遼は、みんなのおもちゃでした。
「悔しかったらかかってこいよ」
「……」
 突き飛ばされたり、迫られたり、まわされたりするくらいで、実害はありません。けれども、遼は泣きました。

 「なあ、お母さん、子供がいない家というものは、とてもさみしいな」
「うん、でも、遼のためだから」
「この寒空に身をさらして遼は大人になっていく。最近はぐんぐんと背が伸びて、少し男らしくなってきた」
「体つきも変わってきて、風邪もひかなくなってきた。一時はどうなることかと思ったけど、ひと安心ね」

****

 遼は四年生になりました。
「おい遼、ちょっと廊下に来い」
 声をかけたのは、最近ちょっと悪ぶっている男子です。廊下に出るとすぐに、男子とその取り巻き数名が遼を取り囲み、壁に追いやりました。
「なあ遼、野球やってるからって、調子乗ってんじゃねえぞ」
「??」
「何とぼけた顔してんだよ!」
 男子は因縁をつけて、遼をひっぱたきます。それを契機にして、取り巻きも遼に暴力をふるいます。
「ちょっと男子、かわいそうじゃない!」
「まあいい、今日はこの辺にしておいてやる」
 遼は開放されました。

 「遼、お母さんから聞いたぞ、今日、いじめられていたんだってな」
 どうやら女子はご丁寧に、先生に今日のことを伝えていたようです。そして先生はそれをお母さんに伝え、そして今に至るようです。
「いじめるやつにはな、やり返してやればいいんだ、わかるか遼?」
 遼は黙っています。
「なあ遼、こういうのは、舐められたらだめなんだ」
「でも僕――」
「でた『僕』。そういうのが舐められるんだ。『俺』にしろ。もっと上手くやれ」
 お父さんは不機嫌そうに続けます。
「お父さんだって悔しいんだ。遼を責めているわけじゃない。わかるよな?」
 遼はうなずきました。お父さんは遼の頭を撫でます。
(でも僕、本気で殴られてはいなかったんだけどな。――今となってはもう痛みが引いたくらいだし。向こうだって、わざわざ昼休みに呼んだのは、先生に気づかれたくなかったんだろうし、そんなに大したことじゃないのにな。女子に言われて止めるぐらいだし、やっぱりぜんぜん本気じゃ無い。女子もおせっかいだな、わざわざ先生に言って事を荒立てて。でもそこまでしてくれるってことは、僕がクラスメイトからひどくいじめられている、みたいなことは起きていないって証拠なのに。――お父さんは悔しいって言っていたけど、僕にはよくわからないや)

*****

 いつの間にか卒業が近づいてきました。このころにはスポ少にも新入部員がたくさん来て、遼は少年団の中でいちばん早くに入ったメンバーとなりました。慣習的に、遼はキャプテンに任命されました。「キャプテンだから」という理由で怒られる日々。でも遼はそれを乗り越えてゆきました。風邪をひくこともほとんどなくなっていました。体つきもがっしりして、そこに非力な少年の面影はありません。
 遼はクラスの中心にいました。例えば、生徒会長選挙に立候補しました。結果は惜しくも三票差で負けましたが、書記という形で生徒会に迎え入れられ、そこで職務を熱心にこなしました。彼が選挙公約にしていた「全校推理集会」は、彼が落選したにも関わらず、行事として取り入れられました。
「――私が公約のひとつとして掲げる『全校推理集会』は、学校のあちこちに奇妙な謎を仕掛け、それを解いていくものです。今まで学校行事というと、『ドッジボール』だったり、『大縄跳び』だったり、体力を使うものばかりでした。でも、それって不公平じゃないですか。体力がなくても活躍できるような行事があるべきです。今までの行事では目立たなかった、例えば本をたくさん読んでいるような人とか、頭の回転が速い人とか、思わぬ人がヒーローになれるのが、この『全校推理集会』のいいところです。あなたの清き一票を、どうぞよろしくお願いします!」

 卒業製作のひとつに、自分の好きな漢字を筆で書く、というものがありました。遼は「正」という漢字を書いていました。
「うわあ、遼の字、コンピュータみたい」
 遼は習字を、絵を描くみたいだ、と思っていました。とめ、はね、はらい、全てに固有のあるべき形があって、その形を描くために、力の入れ具合や墨の量を調節するものだと思っていました。
「ねえ見て、遼の、コンピュータみたい」
 そう他の人に話しかけるのを聞いて、遼は少しだけ嬉しくなりました。
「え? ああ、そうだよね、遼ってコンピュータみたいだよね」
「えっ、違う違う、遼の書いたこの字がコンピュータみたいってことだよ!」
「え、あー、そういうことか。うわ~、ほんとだ、コンピュータみたいな字!」

******

 遼は地元の公立中学校に進学しました。野球部には入りませんでした。遼は野球に対して、必ずしもポジティブなイメージを持っていたわけではなかったようです。
 その中学校は、地元の小学校の持ち上がりがふたつ集まったようなところでした。半分が見知った顔で、半分が見知らぬ顔です。遼はそんな中で学年委員長になりました。立場上、人を注意する場面が生まれてきます。そして、注意すべき人が、悪いことに見知らぬ顔の中にいました。もともと同じ学校にいた人と、違う学校にいた人とで、どちらを支持するかと言えば、前者を支持したくなるのが人情です。かくして半数を敵に回した遼は、なし崩し的に他の人の支持も失い、しまいには孤立しました。そしていじめが始まりました。遼にはこのころの記憶がほとんどありません。

 そんな中、ポスターを描いて本の紹介をする、という企画がありました。応募されたポスターは名前を伏せた上で図書室に掲示され、それを見て良いと思った作品に票を入れる形式です。その企画で遼の作品が選ばれました。景品の栞と、溢れんばかりの感想用紙を手にした遼は、教室でそれを切り刻みました。遼は泣きながら笑っていました。それを見た生徒が先生に言いつけて、先生は遼を叱りました。
「君は人の心がわかっていない。この栞を司書の先生がどんな思いで用意してくれたのか、感想はどのような思いから寄せられたのか。普通の人間なら、それらを切り刻むようなことは絶対にしない。先生だったら、まずは司書の先生に謝りに行くけど、どうするかは君が決めなさい」
 遼は司書の先生に謝りに行きました。
「景品の栞と感想用紙を切り刻んでしまいました。ごめんなさい」
「ひどい、信じられない」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいって何よ、何に対してよ。普通そんなことしないでしょ。ありえない。なんでそんなことしたの」
「わからないです。痛快だったんです。すみません」
「意味わかんない。君、人の心が欠けているんじゃないの。謝られても、その言葉を信じていいのかわからない。なんだか君の言葉、薄っぺらく聞こえる」
「本当に反省しています。すみませんでした」
「だから、他になんかないの? どうせうわべだけなんでしょ。見え見えだよ」
 遼は困ってしまいました。本当に反省しているのに、相手には伝わらないのです。悩んだ末に土下座をしようとしましたが、司書の先生はそれを止めました。
「やめて、私がさせたみたいじゃない。そんな感情のこもっていない土下座はいらない。全てが演技臭いのよ。もういい、君のことは許さない。だからずっと反省していなさい。もう帰っていいよ」

*******

 中学校時代は駆け足で過ぎるものです。遼は三年生になっていました。教室内には高校受験ムードが漂っています。いじめは自然消滅していました。遼は頭が良かったので、「頭の良いキャラ」として、少しずつ、クラスに馴染みつつありました。
 遼は「IQが二十以上離れていると、会話が成立しない」という説を信じていました。実際、遼が話すと、みんなは「難しい」「長い」と言って、聞く耳を持たないのです。遼はそれを逆手にとって、誰もわからないような話を持ちかけることで、優越感に浸るようになりました。
「なあなあ、ブラックホールって面白いと思わないか?」
「何でも吸い込むやつでしょ、吸い込まれたら戻ってこないってやつ。面白いよね」
「そこなんだよ。一度吸い込まれたら戻ってこられないと思うでしょ。でも、スティーヴン・ホーキング氏によると、ブラックホールから物質が出てくるように見えることがあるらしい。そして、最終的に、ブラックホールが消えてなくなる、なんてこともあるらしい。ホーキング放射って言うんだけど」
「なんか難しそうだね。あっ、そもそもブラックホールって何なの、何でいろいろ吸い込むの」
「良い質問。答えとしては、重力がめっちゃ強いところで、だから物質が引き寄せられる。トランポリンを想像してほしい。その上にめっちゃ重いものを乗せると、トランポリンはそこを中心に沈んでいく。その状態でボールを置いてみると、重いものに向かってコロコロ転がっていくよね。ブラックホールが物質を吸い込むしくみもこれに似ている。二次元か三次元かの違いなんだ――まあ、次元の話をするとまたややこしくなるんだけど」
「ふーん、よくわかんないや。吸い込まれたらどうなるの」
「これはよくわかっていないんだけど、俺が思うに、一般相対性理論によると、重力が強いところは時間の流れが遅くなるから、ブラックホールの外から見ると、たぶん時間が止まっているような感じになる。逆に言えば、吸い込まれた本人からすれば、ブラックホールの外は、時間がめっちゃ速く流れているように見えるだろうね。要はブラックホールの中では永遠の時間が流れるんだ。ロマンチックだと思わない?」

********

 遼は県で一、二を争う公立進学校に行くことになりました。推薦入試で面接があり、そこでの成績が芳しくなくて、一度その学校には落ちましたが、一般入試で受かりました。
 遼はクラスに馴染めませんでした。会話のしかたを忘れてしまったのです。そこで遼は、そもそも会話は必要なのか、という考えに思い当りました。必要が生じた時だけ会話をすればいい、と思って過ごしていると、遼はほとんど言葉を発しなくなりました。

 ある日、遼は消しゴムを落としました。消しゴムは、隣の女子の椅子の下に転がりました。女子はそれを拾いました。
(女子の椅子の下に転がる消しゴムを拾うと、体勢的に、一種のセクハラになってしまう)
 遼はそんなふうに消しゴムのことをすっかり諦めていたので、女子が消しゴムを拾うのを見て驚きました。だから、女子が消しゴムを差し出すと、それを黙って受け取ってしまいました。それではまずいと思って、遼は慌てて
「ありがとう」
と付け加えました。
 女子は用件が済んだものと思って前を向いていました。そのタイミングで「ありがとう」と言われたので、反射的に振り返ってしまいました。結果的にふたりが見つめ合う形となりました。気まずい沈黙が流れます。
(あっ、「何に対して」ありがとう、と言ったのか、わからなかったのかな)
 遼はそう思いつき、女子に
「消しゴムを拾ってくれて」
と付け加えました。
 女子は不思議そうな顔をして黙礼し、再び前を向きました。

 遼は、消しゴムを拾ってくれた女子のことが、ずっと頭に引っかかっていました。
(最後に見せた不思議そうな表情は何だったのだろう。何かまずいことでも言っただろうか。もしくは、意味が伝わっていなかったのだろうか。俺は「ありがとう」に「消しゴムを拾って」と言う理由を付随させた。つまり「消しゴムを拾ってくれてありがとう」という文意が相手に伝わっている。ここで省略されているのは「『君が』『俺の』消しゴムを拾ってくれてありがとう」ということだ。「君が」「俺の」も補足説明としてつけた方が良かっただろうか。さすがにいらないだろう、と思ったのだが。)

 「君、鈴木くんって言うんだっけ」
 次の日、隣に座っている女子は、遼に話しかけました。
「え、あっ……うん。鈴木であってる。鈴木遼」
「鈴木遼くん。よろしくね」
 女子は楽しげな様子です。
(何がそんなに楽しいんだろう。奇妙な人だ)
 遼は、名簿を見て、女子の名前が反町宇奈である、ということを知りました。
(ウナ。お洒落な名前だ)
 宇奈は少し子供っぽい人でした。背が低く、感情の起伏が激しいのです。
 授業が終わった時、消しゴムのカスを遼の机に置いていくこともありました。
(これはつまりどういうことなんだ。俺がゴミクズであるということをほのめかしているのか)
 遼が黙ってそれを片づけようとすると、
「うそうそ、そんなつもりじゃなかったの」
と言ってそれを拒みます。相変わらずの笑顔で。
「反町さんは何がしたいの。何がそんなに楽しいの」
「え? だって、こうやってコミュニケーションを取るのって、それ自体が楽しいことじゃないの」

*********

 遼と宇奈はLINEを交換しました。宇奈は遼のLINEで九人目の友達でした。遼は、相手が何かを言った状態で会話を終えることができない人でした。
(だって、無視しているみたいじゃないか)
 無視、という言葉を思いついて、遼は無性に胸が苦しくなりました。
 話のキリがついたかと思えば、宇奈はすかさず次の話題を追加します。そんなふたりなので、LINEの会話はダラダラと続きます。遼は宇奈の気が知れません。
〈毎日こうしてLINEして、めんどくさくないの?〉
〈鈴木はめんどくさいの?〉
 こう返ってきて、遼は胸を衝かれるような思いがしました。
〈俺となんか会話してて楽しいの?〉
〈質問を質問で返すのはずるいぞ〉
〈そっちだって質問を質問で返していたくせに〉
〈あーたしかに笑笑〉〈私はめんどくさくないし、鈴木と話していて楽しいよ〉
 遼には宇奈の心境がどうしても理解できませんでした。それと同じくらい、遼自身の心境も理解できませんでした。
(〈鈴木はめんどくさいの?〉と聞かれたけど、俺は、反町さんと会話しているのがめんどくさくないんだ。〈俺となんか会話してて楽しいの?〉と俺は問うたけど、そのまま〈私となんか会話してて楽しいの?〉と返されたらどうしようかと思った。だって俺は反町さんと会話していて――)
 そこで遼は気づいてしまいました。
(――楽しい……?)
 思い出していたのは宇奈の言葉です。
(「え? だって、こうやってコミュニケーションを取るのって、それ自体が楽しいことじゃないの」と反町さんは言った。そうか、コミュニケーションは、楽しいことなのか。なんでそれに気づけなかったんだろう)
 その時、遼は、脳天に稲妻が落ちたような気がしました。
「あああああああああ」
 遼は頭を抱えて、呻きにも似た声を発しました。
「俺は、俺は、俺は、俺は、私は、僕は、僕は、僕は、うちは、あああああああああ」
 脳内、コペルニクス的大転回。

 「おはよう、鈴木くん」
「!」
 遼は宇奈の言葉を返すことができませんでした。ただ、いたずらに胸の鼓動が高まるばかり。
(なんだこれは)
 息さえできないほどに胸が苦しいこの状態に、名前をつけるならば何であるかと考えた時に、遼はまた頭を抱えたくなるような思いがしました。
(あああああああああ)
 それはうすうす勘付いていたことでもありました。
(ぼくは反町さんと会話していて、めんどくさいと思わなかった。そればかりか楽しいとさえ思った。それは「コミュニケーションは楽しいことである」という普遍と思われる事実によって説明がつくが、それはぼくの人生において、今まで普遍でも何でもなかった。そんなぼくに、それが普遍であると教えてくれたのは誰か。その教えを信じられるだけの、ぼくを急き立てるこの感情は何か)

 時は流れて高校一年生も終わりの候、ホワイトデーになりました。バレンタインデーで、遼は宇奈からチョコレートをもらっていません。それにもかかわらず、遼は宇奈にお菓子をあげました。彼の意図は、お菓子に添えられた手紙に詰まっています。
 その夜、宇奈から遼にLINEが来ました。
〈お菓子ありがとう!〉〈手紙についてはともかくとして、春休み、一度どこかに出かけない?〉
〈ともかくとされてしまった笑〉〈ぼく、お金ないから、カフェくらいしか行けないや〉〈それでもいいなら、ぜひとも行きたい〉
〈いいよ! カフェって何だか大人な感じ〉〈楽しみにしてるね〉

 (カフェ店内の雰囲気も相まって、私服の反町さんは大人びて見える。制服姿の快活な姿とはまた違った側面だ。一方ぼくは慣れないおめかしをして、どこか浮ついた気持ちでここにいる。ワックスをつけすぎていないだろうか、などと無駄なことを考えてしまう)
 遼はコーヒーを頼み、宇奈は紅茶とサンドウィッチを頼みました。
(ふだん学校で無邪気な行動をしている反町さんが、白くてつやつやしたティーカップを器用に持ち上げて紅茶をすすっている。ティースプーンに残った紅茶の残滓が、何だかぼくを誘惑しているみたいだ。サンドウィッチのパンの白と、ときおりのぞく反町さんの舌の赤が、コントラストをなしてぼくをクラクラさせる)
「鈴木ってさ、家どこなの」
「……」
「鈴木?」
「え、あっ……うん。何だっけ」
「鈴木って、家どこなの」
「市の東の外れの方。山をひとつ越えて、その中でも外れにあるから、結構な田舎。1LDKの安アパートだし、人様に見せられるような感じじゃない」
「ふーん、私は、実は学校から歩いてすぐなんだよね」
「じゃあ市のど真ん中な感じか、すごい」
「いやー、私も賃貸だし、そんなすごくはないよ」
(賃貸って、それきっとマンションですよね。なんだか身分が違うみたい)
 一通り話をして、ふたりは外に出ようとしましたが、雨が降っていました。
「どうしよう、私、傘持ってない」
「ぼくは折りたたみを持っているけど……」
「なんで鈴木の方が女子力あるのよ。しょうがない、一階にあるコンビニで買うしかないか。なんだか経営戦略に載せられているみたいで釈然としないわ。だけどまあ、コンビニあって助かった」
(ぼくはコンビニを恨みたい気分だ)
 遼は黒い折り畳み傘を、宇奈は透明なビニール傘を開いて、いっしょに街に繰り出します。次第に雨はやみ、空は少しだけかすんだ青色に染まりました。春を先取りしたような温かな空気がふたりを包みます。ふたりは同時に傘を下ろして、それをたたもうとしましたが、遼の方が折りたたみ傘なので、まごついて、ふたりが傘をしまうタイミングは、結局ずれてしまいました。
(なんだかふたりの関係みたいだ)
 いまだに宇奈からの返事を聞いていない遼は、そんなことを思いました。
「もうすぐ春だね~」
「そうですね」
「私、春が好きだな。少しかすんでいて見えないくらいがちょうどいいの。あいまいでも、包まれるような温かさがあれば、それでいい」
 遼は泣きそうになりながらそれを聞いていました。
(ぼくの心は荒れ模様だ。熱く燃えるような、ふたり融けてしまうような夏が来てほしいけど、それまでに春の嵐を何回くぐり抜ければいいのだろうか。そもそも、そんなのただのたとえ話で、夏が来る保証なんてどこにもないのに)

**********

 宇奈を観察していると、彼女は誰にでも愛想よく接しているようです。そんな中、相
も変わらずLINEだけがダラダラと続いています。
(ぼくは反町さんに特別な思いを抱いているからいいものの、反町さんにとってぼくは何でもない存在で、そんなやつとずっとLINEを続けているというのは、やはり彼女にとって苦痛なのではないか。もしくは、何かの拍子にフッと嫌気がさせば、ぼくなど簡単に捨てられてしまうのではないか)
 そこまで考えて、遼は深い闇に落ちるような思いがしました。
(今まで誰かと関わることの楽しさを教えてくれる人はいなかった。もしここで反町さんに捨てられたなら、ぼくは一生、再びその楽しみを知ることなく、灰色の世界を漂うだけなのではないか)
〈ぼくは反町さんにとっての何なの〉
〈どうしたの急に〉
〈ぼくは反町さんに捨てられたら生きていけないかもしれない〉
〈捨てないよ〉
〈いや、いっそ死んでしまいたいな〉
 遼はそう書いてから、「死にたい」という言葉が出てきたことに自分で驚きました。今までいじめられたこともあったのに、死にたいと思ったことはなかったからです。
(きっと、「ぼく」が直面している問題だからこそ、こんなに苦しいのだな)
遼はそう思いました。
〈私もそんな風に思うことあるよ。まるで体の中にブラックホールがあって、その中に吸い込まれていくような気分になることが。そんな時、無性に誰かと話したくなるんだ。でも、できるだけそれを外に出さないようにしている。きっと誰だってそうだから〉
 遼はそれを見て切なくなりました。
(外に出してくれたっていいのに。永遠にぼくが満たしてあげたい。もしだめでも、いっしょに落ちていってあげるのに。深い、深い闇の底へ……)
 むろん、そんなことが言えるはずもなく。

***********

 高校卒業の日。
「もうお別れだね」
「うん」
「そう言えば、鈴木には結局、お菓子をもらいっぱなしだったね」
 そう言って宇奈は一粒のキャンディを遼に渡しました。
「じゃあね」
 遼はキャンディを口に放り込みました。甘い甘い味がして、遼は泣きました。

************

 遼は母親の強い反対を押し切って、奨学金を借りて東京の私立大学に通うことになりました。宇奈の幻影がほのめく街を忘れたかったのです。
 大学にはいろいろな人がいました。
「熊首相が率いる民自党の失政を許してはならないと思うんだ。統計不正によってベアーノミクスの化けの毛皮がはがれた。リフレ政策は失敗だったんだ。物価だけがどんどん高くなって、実質賃金はさほど上がらず。それでも必要最低限の消費は誰だってしなければ生きていけないから、ベアーノミクスでいちばん搾取されたのは、実はシングルマザーをはじめとするワープアなんだ」
 シングルマザーのところで少し反応をしてしまった遼は、話を聞いてくれると勘違いされてしまいました。
「オリンピックなどというマヤカシで好景気を演出しているけど、君たちが就職するころにはオリンピックは終わっている。経済は間違いなく破綻するだろうね。利権ズブズブのオリンピックにどんどんお金が流れて、マヤカシが解けたころにはもう熊政権は逃げ切りだ。ああこんなことだから『イエロー・モンキーは夢を食んで暮らすのか?』なんて言われるのさ。就職氷河期の世代を『ロスジェネ』なんて言うけど、これからもういちど就職氷河期が来ることなんて目に見えている。その意味において僕はこれからの世代を『すでに失われていた世代:ハドジェネ』と呼びたいね。そもそも……」
「……すみません。俺、政治に興味ないです」

 遼は生活費を稼ぐためにバイト漬けの日々を送っていました。しばらくすると無理がたたって倒れました。休養中、友人に無理やり連れていかれた合コンで、あっさり彼女ができました。名前は藤沢琴音。大きな目と痩せた体がアンバランスな女の子です。
「合コンの時、遼さんが多方面に気を配っていたのが印象的でした」
「それはたぶんバイトの癖だと思う」
「あと、みんなガツガツ飲んだり食べたりしていたのに、遼さんだけ上品な感じで」
「俺にとっては薄味すぎて食べるのが難しかった。みんなの手前、調味料をかけまくるわけにはいかない」
「それと、話し方」
「俺の話し方?」
「少し不自然で、引っかかったんです」

 遼はいまだに宇奈のことを忘れられずにいました。正直なところ、琴音のこともどうでもいいと思っていたのです。それを伝えると、琴音は「かまわない」と言いました。

 遼は体力が回復するとバイトをフルで入れました。そしてすぐに倒れました。
 琴音は遼の様子を見にきて、遼の家の片づけをしました。
「遼さんの外着のポケット、ほとんど全部穴が開いてるんですけど、どうしたんですかこれ」
「それはペンを入れているからかな」
「ポケットティッシュがこんなに。女子力高いんですね」
「俺はそうでもないと思うよ」
「『メチルフェニデート』って何ですか。ボトルにいっぱい錠剤が入っていますけど。こんなにあって、さらにボトル単位でストックしてある」
「それを飲むと頭がすっきりするんだ。薬局に売っているよ」
「バイト、今度は入れ過ぎないようにしてくださいね」
「今度は倒れないように気をつけるよ」
「遼さんって、絶対に上、脱がないじゃないですか。なんでですか」
「見せびらかすほど俺は立派な体をしていないから」
「そうですか」

 遼は体力が回復するとバイトをフルで入れました。そしてすぐに倒れました。
 琴音は散らかった部屋を片づけにきました。
「遼さん、決まって家に帰ってから私に助けを求めるんですね。私がいなかったらどうなっちゃうのかしら」
「琴音がいなくても俺にとっては大差ないよ」
「でも、私がいなかったら、遼さん、死んじゃうかも」
「俺が死のうと死ぬまいと、俺にとっては大差ないよ」
「私にとっては大差あります。遼さんが上を脱いだ姿を見たいな」
「それは今、関係ないと思う」
「食器が放りっぱなしになっていました。遼さん、料理するんですね」
「お店で買うより、自炊した方がおいしいからね」
「調味料のストックが大量にありますね。どうしたんですかこれ」
「調味料は切らしたらごはんがおいしくなくなるから」
「今度、食べさせてください」
「俺に時間があったらね」

 遼は体力が回復するとバイトをフルで入れました。そしてすぐに倒れました。
「遼さん、いい加減バイトの入れ方を学んでください」
「俺にとってバイトの入れ方なんてどうでもいいから」
「また倒れますよ」
「俺にとって倒れるか倒れないかなんてどうでもいいから」
「私は遼さんが上を脱いだ姿を見たいんです」
「俺は琴音の愛情表現が独特だと思うよ」
「……この前、こんな封筒が届いていました」
 そこには、遼の出身高校の名前が書いてありました。
「……!」
「それには反応するんですね。私の言葉には、翻訳調みたいな、心ここにあらず、というような言葉を返すのに」
 琴音は少し泣きそうな顔をしながら言いました。
「それはそうと、早くその封筒を俺にくれ」
「いやです。バイトの入れ方を一緒に考えてください」

 遼は体力が回復するとバイトを始めました。そしてすぐに倒れました。
「ボトル、ずいぶん減りましたね。あんなに錠剤が入っているのに。そんなに消費するものなんですか」
「俺は人によると思う。それより封筒を早くください」
「いやです。それと、今度からこのボトルは私が管理します」
「何をすれば封筒をくれるんだ」
「私のために料理をつくってくれたら考えます」

「つくったけど」
「いただきます」
 琴音は目をつぶってそれを食べました。それからひどくせき込みました。
「そんなにひどかった? 大丈夫?」
 琴音は涙目になりながら言いました。
「大丈夫なわけないでしょ。こんな料理をつくっておいて。封筒は渡しません」
 遼は諦め気味にたずねます。
「何をすれば封筒をくれるんだ」
「上を脱いでください」
 遼は観念して上を脱ぎました。手首から腕にかけて、おびただしい数の生々しい傷がついています。
「どうせこんなことだろうと思いました」
 琴音の声は震えています。
「ごめん」
「いいです。私は遼さんのことが好きなので。大好きなので」
(甘くてとけてしまいそうなキスの味も、遼さんは何も分からないんだ。同じ味を共有しているはずなのに、私と遼さんでは、絶望的なほど感じているものが違う)
 琴音は涙が止まりませんでした。
「お願いです、いちど精神科病院にかかってください。きっと遼さん、何かが壊れてしまっている」
「それをしたら泣き止んでくれる?」
「泣き止みません、ばか」

 封筒の中身は同窓会の案内でした。遼はそれに向けて精神科に通い続けました。
「遼さんに適切な病名がついてよかった」
「俺は正式に異常だと認められたわけだ」

*************

 「ひさしぶり、鈴木」
「ひさしぶり、反町さん」
「ねえ鈴木、私さ、結婚したんだ」
「……そうなんだ。おめでとう」
「私、今、とっても幸せなんだ。子供をいっぱいつくりたい。にぎやかな家の中で、いっぱい、いっぱい満たされるんだ」
「それは、うらやましいな」
「夫は裁判官なんだ。国が潰れない限り安心」
「すごい」
「ねえ、鈴木」
 宇奈は遼をまっすぐ見つめて言います。
「私、別に鈴木と付き合ってもよかったよ」

**************

 スーツを着た人々が行き交う東京の街中。遼の手には機関銃。意識はODでトリップしています。
「うわあああああああああ」
 彼を中心として、同心円状に死体が積み重なってゆきます。弾ける血飛沫の赤色が綺麗です。
ズガガガガガガガガガガガ。平和な国にはおよそ似つかわしくない音が鳴り響きます。
「わかんない! わかんないなあ! 俺俺俺ぼくぼくぼく俺俺俺俺私僕僕僕うちにはわかんない! 痛みとか、悲しみとか、苦しみとか、全部、全部、全部!」
 そこに宇奈が現れます。
「あなたは間違ってるわ」
 遼は反論します。
「〈**************〉」
「誰にだって、好きな人と結婚する権利はあるわ」
「〈*************〉」
「せっかく手にした、あなたのことを思ってくれる彼女さんを、大切にできなかったのは誰?」
「〈************〉」
「一粒のキャンディしか貰えない時点で察するべきね」
「〈***********〉」
「急に謎の話を持ちかけて、イタいことを喋っておきながら、最後に遠慮するあたり、鈴木のダサさが顕著に表れているわ」
「〈**********〉」
「春うんぬんのたとえで、あからさまに『あなたとは付き合う気がないですよ』と示唆しているのに、あくまで自分の都合しか考えずに感傷に浸っているさまは、もはやコメディね」
「〈*********〉」
「消しゴムくらい誰だって拾うわ。そんなことで好意を持たれてしまうなんて、面倒くさいことこの上ない」
「〈********〉」
「本当に、意味が分からないとか、難しいとか、そういう理由で聞く耳を持たれていないと思っているの? もともとあなたの話なんて聞く気がないのよ。誰がブラックホールの話なんて聞きたいのよ。それはあなたが話したいだけじゃない。あなたの自己満足に付き合っている暇なんて、誰もないのよ」
「〈*******〉」
「感想用紙と栞を引き裂く意味が分からない。司書の先生と全く同じ意見だわ。そういう奇怪な行動をするような人だから、いじめられるのよ」
「〈******〉」
「コンピュータみたいって、あからさまに人間的でないあなたのことを揶揄しているでしょ。あと、小学校の生徒会選挙なんて人気投票よ。たしかに政策はよかったかもしれないけど、それ以上に鈴木の人望がなかったということね」
「〈*****〉」
「最後の怒涛のポジティブシンキングが笑える。このころから鈴木の自己中心的お花畑理論が炸裂していたのね」
「〈****〉」
「自分で野球部を選んでおきながら、親へあてこすりするような文章が笑える」
「〈***〉」
「不公平なんて難しい言葉を使っておいて、自分で説明できないのは、さすがの友達も呆れるばかり」
「〈**〉」
「社会に出て『うち』だといろいろ不利益があるから、親としては直すのが当り前よ」
「〈*〉」
「あなたが引っ込み思案なせいで、周りに迷惑が掛かっていたのね」
「〈特異点〉」
「あなたは幸せになれない人だった。生まれてきたのが罪だったのよ」
 遼は蒸発しました。辺りは光に包まれ、それがおさまると、死体はなくなり、平和な日常が戻っていました。

 某年某月某日、とある男性が自殺しました。彼はそれを実行する際に、「ブラックホールたべたい」と言いました。
 彼は永遠の時間を今も過ごしているのです。