LIFE LOG(あおいろ文庫)

恋着と狂想のリリック

高校二年生の冬に書いた作品です。6作目。
タイトル決めに苦労した覚えがあります(その割に不評)。略称は『恋リリ』。
分かってほしい人に分かってもらえない話です。
17,710文字



 水溜りに金木犀が浮かんでいた。昨晩の台風が、全てを攫ってしまったのだ。
 星空が綺麗だった。そんな風に万物は、いつかは遠い忘却の彼方へと――
 僕はそれに抗うように、金木犀を見つめ続けた。

 「存在意義が無い」なんて君が言うから、僕はそれを全力で否定した。
 それはただの愛の告白だった。「僕は君に存在してもらわないと困るんだ」
 僕は臆病だから、君について何も知らなかった。多分それ以上に、君は僕について何も知らなかっただろう。だから、勝算なんて無かった。
 それでも僕は、ずっと腑に落ちないことがあるんだ。
 あの時君は「ありがとう」と言った。「――でも、私には彼氏がいるから、ごめん」

 金木犀が滲んで、雨粒に水面が揺らいだ。
 存在意義は、誰より君の彼氏が認めてくれているんじゃないの?

 君は優しい人だ。僕らの距離は、あの告白を経てなお変わらない。「びっくりしたけどね、そんなこと思ってくれていたんだ、って」と笑う顔が眩しい。僕はその優しさに甘えて、そしてきっと、生きる意味さえ宛がっている。それを分かっているからこそ、君が笑うたびに、こんなにも胸が苦しくなる。

 星空の下で、雨など降るはずが無いのだ。止まらない体の震えと、歯の隙間から漏れ出す声が、その証明だ。
 僕は泣いている。君の優しさに、あるいは君の不幸に。君の存在を認めるはずの彼氏は、君を認めきれずに、君に孤独を覚えさせた。もしくは、そもそも彼氏などいなくて、僕を傷つけずにフる口実として、僕に嘘をついたのかもしれない。どちらにせよ、君が寂しい思いをしていたのは動かぬ事実で、それ故 止め処なく想いが溢れ出す。

 ひとしきり泣いた後、水溜りを掬うようにして蹴り上げた。街灯の光が水滴に反射して煌めく。
 いっそ、金木犀など消えてくれて清々した。その腐乱した甘い残り香が胸に絡み、僕はまたしゃくり上げそうになる。それを振り払うようにして背を向けるのだ。――さよなら、君を忘れよう。
 世界から隔絶するように、僕はヘッドフォンをして閉じこもった。


 もう一年と半年が経つのかと思うと不思議な気持ちになるのだが、君が軽音部の扉を開けた日のことを思い出す。
高一の春、借り物のようなブレザーに、大きな一眼レフを下げた君は、少し様子を窺うように、しかし持ち前の快活さを武器にして、「写真部です、先輩から『取り敢えず色んな部活の写真を撮って来い』と言われまして、……入ってもかまいませんか」と言い、その後に僕の姿を認めた。同じクラスだった僕に、君は目配せをし、僕はそれに従って部長を呼んだ。「ああ、どうぞ」と部長が言うと、君は僕に近づき、緊張と安堵と少しの嬉しさが混ざった声で「ありがとね、西野君」と言った。その不安定に揺らいだ音は耳に余韻を残し、僕は頬が熱くなるのを感じて、それを誤魔化すように作業に戻った。「何やってるの?」君はすかさず僕に尋ねたので、僕は「歌詞を考えているんだ」と答えるのに、声が裏返らないように気を付けなければならなかった。君は何かいいことを思いついたように得意な顔になって「じゃあ 西野、君を撮ってやろう」とレンズを向けた。「僕なんて撮っても面白くないよ、先輩がギターを弾いているから、そっちの方が写真映えする」と、僕にしては上出来なくらいの冷静な言葉を返すと、君はくるりと回り、僕の机に軽く腰掛けつつ、申し訳程度に先輩の写真を一枚ぱしゃりと撮って、それから僕の方を振り返り、「西野はギター弾かないの?」と言った。距離が近くなったことにドキドキしつつ、僕は立て掛けてあるギターケースをほのめかしながら、「下手なんだ、ギター」と言うにとどめた。「ふーん」君はケースのチャックを開きつつ、「まあ、西野がギターを掻き鳴らす姿は想像できないけど」とチャックについているストラップを手に取り、「そんな西野を見てみたい気もする」とピカピカのギターに見入りながら言った。それから君は、部活が終わるまで、僕のギターとストラップを撮り続けた。周りはそれを訝るように見たが、君は夢中でそれを撮り続けた。そして最後に、まるで拾ったビー玉を子供が親に渡すような無邪気さで、君は僕に一枚の写真を見せた。キラキラ光るギターを背景に、ストラップが被写体として控えめに収まっているその写真は、僕に何かを強く訴えかけた。「タイトルをつけるとしたら、『君』かな」僕の目を見て そう言う君の控えめな笑顔が、僕の記憶に焼き付いて離れない。


 君はいつでも子供みたいで、そして時にびっくりするほど大人だった。世界に転がるあらゆる日常を、君は鮮やかに切り取って、永遠にして見せるのだ。日常に埋没するきらめきに、君は子供のような無邪気さで反応し、大人のような理知的で深みのある感性を以て具現化する。分かりやすい例が写真であるだけで、それは君の生き方だった。君は嫌味の無い真っ白な笑い方をする。その顔は驚くほど繊細で、僕は時々それを「泣いているみたいだ」と思う。どうしようもなく矛盾に満ちた世界の中で、君は瞬間を永遠にする。触れようとすれば消えてしまうような笑顔の、その崩壊の予感を内包する性質が、僕に泣いているような印象を与える。そしてその笑顔は、僕の脳裏に刻み込まれる、一種の永遠の形だった。僕は君の笑顔を、多分一生忘れることはできないのだろう。それでも僕は不安になるのだ。「永遠なんて無い」と誰かが言う。「永遠はある」と僕は反論する。ほら、ここに永遠が存在するじゃないか。君が笑えば、世界は永遠だ。僕はその笑顔を、繊細なその笑顔を、壊れてしまいそうなその笑顔を、守りたいんだ、どうしようもなく、守りたいんだ、この手で。――また胸が苦しくなる。

 台風が街を襲った夜、窓ガラスを叩く雨の音が私の心を掻き立てていた。それを抑えるように、私はカメラのレンズを念入りに拭いていた。時計の針は一時を回り、思いがけず夜更かしをしてしまった私は、真夜中の雰囲気にあてられて、わけも無く感傷的になっていた。
 私たちは、ともすれば簡単に、夜の魔物に呑まれてしまう。人はそんな弱さを内に隠しつつ、泣き笑いで生きるのだ。きっと人に優しくできるのは、そんな痛みを私たちが共有しているからだと思う。
 痛みを超えて笑っていられるように、私は魔物をひた隠しにする。真夜中は魔物のテリトリーだ。変な癖がつかないうちに、さっさと寝てしまうのがいい。やがて朝が来る。
 真っ黒なレンズの奥に自分の影を見つけて、不意に心が揺らいだ。
 ――私はどこにいるのだろう?
 その影に私は「魔物を包摂する私」を見出す。しかし他人は「魔物から切り離された私」を認識する。それは私では無い。ならば私は――胸に手を当てる。鼓動が速まるのを感じる。発作的に、カメラを手に取っていた。パチン、とモードを連写に切り替え、シャッターを当ても無く切った。カシャカシャカシャ、と乾いた音が響く。私の見た世界が保存される――
 その時、LINEの通知が届く。〈台風大丈夫?〉送信主は西野だった。彼氏だったらよかったのに、となんとなく思う一方、優しいな、と微笑ましくも思う。それから、会話は部活に移った。〈ギターは上手くなった?〉いつだったか、西野のギターとストラップを撮ったことを、ずっしりとした一眼を弄びつつ思い出す。〈やめた ギターも売っちゃった〉〈歌詞を書いているのが性に合うよ〉私はピカピカのギターを思い出し、それから引っ込み思案な西野の性格を思い出して、少し残念な気持ちになり、〈ストラップはどうなったん?〉と送った。〈あれは筆箱についてる〉という返信が画面に灯り、私はなぜだか安心した。〈加藤さんは、二年なのに部長で、大変そうだね〉西野がそう言うのに対して、私は〈三年がいない弱小部だからね~〉と打ってから、しばらくカメラを見つめて、思いつきで、〈写真部が無かったら、私の存在意義は無いのかも〉と続けた。しばらくの沈黙――。しまった、重かったな、と思うのもつかの間、堰を切ったように返信が来た。〈加藤さんに存在していて欲しい人は多いと思うよ〉〈少なくとも僕は加藤さんに存在してもらわないと困る〉〈だから、存在意義が無いとか、そんな寂しいこと言わないでよ〉――西野の返信に少々気圧されつつ、〈おいおい、それじゃまるで告白みたいだぞ〉とふざけて返すと、〈告白だけど何〉と不愛想な返事に、西野のぶすっとした顔まで想像がついてしまって、あちゃー、と内心思いつつ、〈私に彼氏がいるの、知ってる?〉と笑いをこらえながら送ると、数秒の沈黙の後に、〈マジで〉とだけ返って来て、いよいよ面白くなってきた、イジり倒してやろう、とSっ気が顔を出しそうになるのを抑えつつ、〈私のことを認めてくれてありがとう。付き合うのはできないけど、今までみたいに友達として接してくれたら嬉しいな〉と打つと、相手から了承の返事が来て、それから私たちは「いつから好きだったの?」だとか、「なんで好きになったの?」だとか、そんなことを延々と話した。毛布をかぶり、いつでも寝られるようにしながら、ずっとトークを交換し続けたのは、きっと私が寂しかったからだと思う。〈今日の告白は、無かったことにした方が良いかな?〉〈加藤さんの心の内に留めてくれると嬉しい〉というやりとりを確認してから目を閉じた。明日からは、寂しがらない私になろう、と心に決めて。


 鏡の前で笑顔を作って見せる。よし、今日の私は、きっと誰よりもかわいい。
 外に出ると、光が眩しくて、世界がキラキラして見える。
 待ち合わせはカフェの前だ。胸がドキドキして、ソワソワして、手のやり場が無くて、髪の毛を弄りたくなって、せっかくセットしたのに、と思って引っ込める。待ち合わせ時間は昼だというのに、朝からずっと落ち着かなくて、ずいぶん早く着いてしまったのは失敗だった。店員さんから変な目で見られたらどうしよう。もしかしたら、こういう時は、先に席を取っておいた方が良いのかな。店内をのぞき込んで、君に電話をしようかと思った時、後ろから肩を叩かれて、「ひゃっ」と変な声が出た。
 君が笑っていた。私はきっと真っ赤な顔をしているのだろうな。そんなことを思うと、恥ずかしさが増して、もっと顔が火照ってしまう。そんな私を見て、君は無邪気な顔で「かわいい」って言うんだからずるいな。
 カフェデートは初めてだった。君と付き合ってもう一年が経つ。気付けば今までの中で一番付き合いの長い彼氏だ。私たちの間に、例えばジェットコースターやお化け屋敷のような、そんなアミューズメントは不要だった。ただ君だけを見ていたかった。カフェデートを提案してみたのは、そんな理由があってのことだ。
 店内はカジュアルな雰囲気だった。私たちはテーブルを挟み、隣の椅子に荷物を置いて、向かい合って座った。「空は何頼むの?」と君がメニューをこちらに向けてくれたのに、私は君の口から発せられるS音にうっとりしてしまって、ぼーっと君の顔を見ていた。「空さーん、聞いてますかー」とおどけて君が言うと、私は我に返って、「うわっ、ごめん」とメニューを見るけれど、内容が頭に入ってこない。「これなんかいいんじゃないかな」と君が特大のパフェを指さして、「太るじゃん!」と私が思わず返すと、君は笑って「知ってた」と言うから、どうにも調子が狂ってしまう。「進君は何にするの?」と対抗して尋ねると、「取り敢えずアイスコーヒー頼んでから考える」と あっさり答えが返ってきて、あ、そんな感じで良いのか、と妙に腑に落ちて、「じゃあ私は紅茶を頼もうかな」と言った。
 ――カフェデートを提案したのは私なのにな。
 これじゃあ私だけが空回っているみたいだ。君はゆっくり私との時間を楽しみたいと思ってくれているのに、私だけが落ち着かない。

 胸が高鳴っているのは、紅茶のカフェインのせいなのか、それとも――。
 君と話して三時間が過ぎた。昼食だか間食だか分からないフルーツサンドウィッチを食べた時、君は「アニメみたいに『口にクリームがついているよ』って指で掬うやつ、やりたい」という謎発言をして、私はおふざけ半分でそれに乗ったのだが、君の指が唇に触れた時の動揺が、ずっと頭の中をぐわんぐわんしているみたいで、それをどうにかしたいと思って「ちょっとトイレ行ってくる」と言った。
 冷水で手を洗い、首に手をやると、その温度差でスーッと心地良い気分になり、それが今まで私が舞い上がっていた故であると気付いた時、口から零れるように「はー、しんど」と呟いていた。その時スマホが震えて、開いてみると“susumu”とあって、すぐそこにいるのに送るか~? と何だか楽しい気分になってタップすると、カフェの中で隠し撮りしたみたいな私の写真があった。えっ、気付かなかった、と恥ずかしく思いつつ、その写真をぼんやりと見て、その紅潮した頬や、少し潤んだような目から、ああ私、本当に君のことが好きなんだなあ、と理解して、その理解したことすら君を好きになる材料になりそうな気がして、このまま恋のインフレーションに陥るのが怖くて、無理にでも思考を断ち切ろうとドアに手をかけた。
 ニヤニヤと笑う君に、「さっきの写真いつ撮ったの? 恥ずかしいよ~」とお決まりのような言葉。私は君の手の上で転がるオモチャだ。それを知って自分を縛りたくなるのは、君だけに思うことなんだよ。「サンドウィッチを頼む少し前くらいかな」と素直に言う君の、その素直さが何だかまどろっこしい。「荷物、どけてよ」と言う私は、微熱に侵されていたのかもしれない。「え、なんで」と戸惑う君。「進君の隣に座りたいの」と言うのはわがままだろうか? 「あ、ああ」と少し訝しみながら荷物を下ろす君の、その態度が私から離れてゆくみたいで寂しい。その距離を埋めたいから、私は必死に次の会話の糸口を探す。「あれ、コーヒーおかわりしたの?」と言う声が不自然に上ずって聞こえていたらどうしよう。「え、さっき頼んだじゃん」と言う君は、いよいよこちらの変調に気付き始めたようだ。「コーヒーってさ、美味しいの?」「うーん、初めは美味しくないんじゃないかな」――君のコーヒー、君のコーヒー、と頭の中でぐるぐる巡る狂想。君の口に絡んで溶けるコーヒー。「――どんな味がするんだろう」という言葉で、君を惹き寄せられたなら。君は少し躊躇って「……飲む?」とグラスを差し出す。――揺れるストロー。「あ!」と言う君の、普段より少し高い声で、私は君の動揺を感じ取る。「甘い方が飲みやすいかな」と惜しげもなくミルクを入れて、せっかく今まで飲んでいたコーヒーを台無しにしてしまう君の優しさが、私を狂わせる。ストローを咥えて飲むコーヒーで、私の脳が、体が、蕩けてしまいそうだった。「苦いし、甘い」と私は感想を伝えて、それから君を見上げた。君も私をじっと見つめた。――後は君から動いてほしかった。私の全てを受け止めて、支配して。
 「――今日の空、とってもかわいいよ」と君は、肩を軽くポン、と叩いて、それからストローを使わずにコーヒーを煽るようにして飲んだ。「――甘っ~」と飲み干して笑う。私はポカーンとそれを見ていた。「甘すぎて、どうにかなりそうだわ~」と君は伸びをしながら言う。私はその言葉で、急に夢から醒めたような気がして、「ごめんねー、私のために」と席を立って、元いた場所に座りなおした。
 それからずっと、コーヒーの苦い後味が私を支配していた。


 デートの帰りに寄ったスーパーでブリが異常に安かった。アラかな? と一瞬思ったが、小ぶりながら ちゃんとした切り身だった。それで何だか救われた気がして、そのまま買って帰った。
 ――日常にだって、キラキラしたものはたくさんあるんだ。
 このことを“デートの帰り”と言う部分を省いて西野に伝えてやったら、〈加藤さんってさ、僕みたいに地味な奴からはモテるけど、イケイケな感じの男からはモテないでしょ〉と少々失礼な返信が来た。ただ、悲しいかな、それは事実でもあった。〈そうだよ、地味な奴からはそれはもうモテまくるよ。君で告白されたのは八回目。五回付き合って四回別れた。二回告白して撃沈して、唯一の成功が今の彼氏〉とうっかり饒舌になってしまう。〈そうなんだ〉と妙にノリの悪い返信が来て、そういう所が西野だなあ、とおかしくなって、少しだけ愛おしくなった。〈ブリなんて小さいことだけど、そういう積み重ねがあるから、私は幸せなのかもしれない〉〈いいこと言うね〉〈西野みたいな感じかな〉〈どういうこと?〉――少しだけくすぐったいやりとりをして、上向いた気持ちで一日が終わった。

 学校からの帰り道、いつだって考えるのは君のことだ。金木犀の香りが絶えてしまった寂しい街を歩きながら、僕はそんなことを思う。

 僕は君が教室を出るのを待ってから部活に行ったり家に帰ったりする。それは一分一秒でも長く君の姿を目に焼き付けていたいからだ。君はいつも彼女の友人に向けて軽く手を振り、心持ち悲しそうな声とそれを取り繕うような笑顔で「バイバイ」と言う。髪の毛が少しだけ揺れて、背中を向けて歩き出した時に、ほんの少しだけ、上からフタを被せるタイプのリュックの、そのフタの部分が浮く。それはフタと本体とを繋ぐチャックが壊れているからだ。彼女は基本的にまじめな性格なのだが、少し抜けている所がある。そう言えば今週の初めには上靴を忘れて学校用のスリッパを履いて学校に来ていたのだが、それを隠すような仕草をする君がとてもかわいかった。

 ――僕は君を知ってから、それまでどうやって生きていたのか、忘れてしまったみたいだなあ。
 僕は常に君のことを考えてしまうんだ。――しかし彼女には彼氏がいる。この恋は許されない。どうしようもないこの心をどこへやろう。
 ――閉じ込めればいいじゃないか、あの時 誓ったみたいに。
 そうだ、思い出した、僕はそうやって生きてきた。君のことなど忘れてしまえばいい。耳の側で鳴る感傷的な音楽は、僕の鬱屈を引き剥がすためのツールに過ぎない。

 ――「あのさ、とおる、少しはお前の立場ってものを考えたら?」

 僕はきっと、あの時の言葉から耳を塞いでいる。


 僕は中学校の一年生から二年生の頃にかけて虐めを受けていた。――と言っても、虐めと言うほど酷いものでは無い。しかし、後から当時を知る人に「あれは虐めだったよ、いつお前が自殺するか、俺ヒヤヒヤしてたもん」と言われたので、一応“虐め”としておく。
 事の発端は覚えていない。多分、些細なことだろうと思う。虐めと言うのは恐らく、そのきっかけよりも、その場にある複雑に絡まり合った要素――端的に言ってしまえば背景――に依存するものだ。恐らく大小はあれど誰もが火種を持っていて、その中で気まぐれな風に煽られたものが炎上する。きっと「虐めは虐められる側にも問題がある」と言う人は、その火種の大きさに文句をつけているのだろう。確かにそれも変数になり得るのだから。
 思えば、小学六年生の時、担任の先生に「徹君は優秀なお子さんですが、中学受験はなさらないんですか」と聞かれたのも、そういう性質を当時の先生が経験的に知っていた、ということかもしれない。僕はその時、「それは無いです。ね、お母さん」と言った程には、学校に馴染んでいたし、むしろ人気者ですらあった。当時親友だった――名前を“F”としておく――男子をはじめとして、休日にはいつも家に人が遊びに来ていた。そのことを知っていた母親の同意もあって、めでたく僕は地元の公立中学校に進学した。そこには同じ小学校だった奴も多く進学していた。そのまま高校まで持ち上がることを信じて疑わなかった。
 中学校に入って状況は一変した。ちょうどその頃、僕は音楽や本などの文化系の魅力に感化されて、少し難しい言葉を覚え始めていた。きっとそれが良くなかったのだろう。
「こいつ何言ってるかわかんねえや」
 それは中学校で新しく知り合ったグループから始まった。最初にそれを口にした人は、ちょっとしたからかいの意味で言ったのだろう。しかし、それは緩やかに軽蔑の意味へと移り変わっていった。偶然発現した言葉によって、僕に対するネガティブなイメージが思いがけず顕現し、そこに皆の考えが寄り集まってゆき、やがてそれは総意となった。言葉に実が伴ったのだ。
 新しく知り合った人たちはともかくとして、堪えたのは古くから見知っている人たちの手の平の返しようだった。中でもFの言葉を僕は忘れない。

 それは廊下での出来事だった。中学校は五クラスあり、僕は一組であり、Fは五組であったから、小学校の頃と比べてFに会う機会はめっきり減っていた。そんな中、偶然に僕はFを見かけて、何だか懐かしい気持ちになった。実際、Fと会うのは久しぶりだったのだ。後で分かったことだが、その頃Fは意識的に僕と会うのを避けていた。
「F~!」
 手を挙げてそう呼ぶ僕を見て、Fは苦い表情を浮かべた。僕はその理由が分からず、かまわずそのまま他愛も無い話をした。Fも僕の手前、それに対応した。
 「久々に放課後会おうや」Fは別れ際に軽くそう言った。僕はそれに違和感を持たず応じた。むしろそれは嬉しいことだった。

 放課後、僕らは小学校の集団下校の頃みたいに並んで帰った。Fはそのルートだと微妙に遠回りになるということをよく嘆いていた。そうは言っても数十、数百メートルの差だろうが、Fは変な所にきっちりした男だった。自分の身に関わることに関しては特に。
 「あのさ、徹」そうFが切り出した時、僕は廊下の時と同種の苦々しげな顔を見出した。「何」僕は少しだけ緊張してFの言葉を待った。Fは少し俯いて、それから僕の方をはっきり見て言った。
「あのさ、徹、少しはお前の立場ってものを考えたら?」

 「――今日廊下で僕の名前を大声で呼んだろ、ああいうのやめてくれ。あれをされた僕が次ターゲットになるかもしれないってことを想像してくれ。お前は小学校の時とは立場が違うんだ。少しはそこんとこ考えて行動しろ」――Fの言葉を僕は衝撃を持って受け止めた。「今日お前を呼んだ理由はそれだけだ。俺はこの角を曲がらせてもらう。あんまり一緒にいると何を言われるか分からないし、こっちの方が近道だ」と畳みかけるFに僕は何の言葉も返せなかった。ただ彼の言葉は大きな爪跡を残し、その痛みが波打って何度も僕に襲いかかった。
 家に帰った後も僕はFの言葉を反芻していた。そのうちに、何かが僕の中でプツリと切れた。
 ――ああ、そうか、僕がいけなかったんだ。
 虚しい気持ちでそんなことをぼんやりと思って、それから僕は頭の中で殺人鬼を描いた。黒いマントに黒い仮面、大きなカマを持った空想殺人鬼を。
 Fの言葉の傷口をかばうように僕は目をつぶり、胸を押さえて言った。
「どうか僕を殺してください。その大きなカマを一振りして全てを消し去ってください」
 フッと軽い風が吹いた気がして目を開けると、そこは何も変わらない風景が広がっていた。
 ――ただ、、感情だけが消えていた、、、、、、、、、、

 程無くして僕は虐められなくなった。Fはそれを見計らって、再び僕に話しかけるようになった。「あれは虐めだったよ、いつお前が自殺するか、俺ヒヤヒヤしてたもん」Fは平然と言った。「それを正当化するわけじゃないけどさ、みんな虐められないように立場をわきまえてんだよ。あと個性を消すっていうのは日常生活を円滑に過ごすために必要なことでもある。歯車は没個性で滑らかに動くのが良い。クセのあるトガった歯車は多くの場合 使い道が無い。それが分かっていて、それでみんな幸せに暮らしてるのに、お前だけなんでできないんだって、深層心理ではみんな思ってて、それが虐めとして現れた。ただそれだけのことだと思うね」親が工学系で、自身もその道に進みたいと思っている、彼らしい例えだった。「もし僕が本当に自殺していたらどうする? 実際、死にたいと思うことは何度かあった」僕は、少なくとも意識できる範囲では、嫌味では無く興味本位でそれを訊いた。
Fは少し考えて、それから何か上手い返しを思いついたような笑顔を一瞬見せて言った。
「死にたい、死にたい、って言う奴いるけどさ、本当に死にたい奴はもう死んでるよな」
 薄ら笑いを浮かべつつ、Fは続けた。「――そういうことだと思うよ。……ほら、生きてる!」僕の方に両手を広げ、口角を上げてFは言った。


 突然、ヘッドフォンを突き抜ける怒号。顔を上げると、ビル街の一角に人だかりができていた。近づいてみると、野次馬を制止する警官の向こう側にブルーシートがあった。コントラストに眩暈がして、思わず上を見上げる。
 ――ああ、あそこから。
 僕はシルエットを見た。それが建物の縁を蹴る一瞬を。驚くほど速い自由落下を。コンクリートに打ちつけられた体が、グシャリと潰れる、その無味乾燥なやるせなさを。

 ――「死にたい、死にたい、って言う奴いるけどさ、本当に死にたい奴はもう死んでるよな」
 歪んだ笑顔――吊り上がった口元――。

 僕は突然、叫び出したい衝動に駆られた。ブルーシートにカメラを向ける群衆の中で、たった一人頭を抱える。歯を噛みしめてそれを堪える。唇が嘘みたいに震える。

 中学生活がフラッシュバックする。教室とベランダを隔絶するドアの鍵が閉められる。群衆、ドアを隔て、教室の中で僕を見る。面白い、と誰かが感想を漏らす。
 ――消えてしまいたかった。思考なんて働かなかった。いっそここから飛び降りれば、全てが終わるだろうか?

 あの時チャイムが鳴って、鍵は開き、群衆は整然と着席した。そんな生ぬるいなぶり方だったから、僕は死にきれなかった。
 幾度と無く想像するんだ。悪夢が起きていない世界線を。きっと今よりもずっと綺麗な世界がそこには待っているのだろう。だが、僕の世界は歪んでしまった。
 真似事をしているみたいなんだ、殺人鬼が僕を殺したあの時から。僕は普通の人間になるためにそうしたのに、その体験自体が僕に普通の人間であることを許していないような感覚があるんだ。
 ――いっそ僕を殺しておくれよ。
 この世界には虐める人間とそれを傍観する人間と虐められる人間がいる。虐める人間がその対象を殺すことは稀だ。気付いているだろうか? 虐められる人間は自分で自分を殺す。本当の意味で、そのことに気付いていなかっただろう? それは知らず知らずのうちに「虐められていない」という恩恵にあずかっているからだ。だから傍観者というのは無意識の「虐めている側」なのだ。この搾取-被搾取の関係は、この世界に在る限り常に成立している法則だ。その無常を知って、搾取される側の人間はそっとこの世界から姿を消す。搾取する側の人間はそれに気付かないまま、自分たちはある種の枠の中に居るということを確認し、再び枠外の人間を隔絶するのだ。――そんなことは、とうの昔に知っていた。知っていたはずなのに、なぜ惑っているのだろう?

 ――“お久しぶり、西野徹君”
 黒ずくめのその姿に、僕は懐かしさを覚えた。
 空想殺人鬼が、そこに立っていた。


 駅に着くと部長が声をかけてきた。彼は三年生であるため、僕の部活での先輩にあたる。
「飛び降り死体があったな」
 開口一番、そう切り出した部長は、そう言って僕の方を見た。その顔に深刻さは無く、質問は興味本位らしかった。「そうですね」と僕は素っ気無い返事をする。部長は少し笑って、それから「どう思うんだ、お前は」と聞いてきた。「どうって、どういうことですか」「いや、飛び降りって、どんな気持ちでするんだろうなって」「何で僕に聞くんですか」――部長は少し考えてから言った。
「いやさ、お前の書く歌詞って、こう何て言うか暗いじゃんか、ぶっちゃけ言うと理解できないって言うかさ、まあそこがミステリアスな感じで魅力的だし、お前もそこら辺を狙ってるんだろうけどさ、その感じが自殺する人の気持ちの想像し難さに似てるなー、ってそう思っただけ」
 僕は一瞬 目を見開いて、それからそれを隠すように俯いた。「どうかしたか?」と言う声を遮るようにして、「多分、」と声を発する。
「――多分、そうですね……半分、思考停止しているんだと思います。その一方、冷静に状況を見つめてもいるんだと思います。この世界は無常で、どうやらそれをひっくり返すことはできないらしい、と気付いてしまった時、圧倒的な無力感に襲われて、もう人生の歩みを進める活力が湧いてこなくなってしまった時、人は自殺するんだろうと思います」
 僕は部長に言葉を尽くしてそれをぶつけた。先輩は興味深そうにそれを聞いてから、「うん……よく分からんな」と呟いた。
 やっぱり、と僕は思った。僕と部長の間には壁がある。部長は向こう側の人間なのだ。僕がいくら言葉を尽くしても、向こう側にいる人間に、その言葉の本意は伝わらない。それを見て“ミステリアス”だとかいう薄っぺらい言葉で面白がって、そして飽きて捨てるのだ。
 ――“それを知ってなお、君は歌詞を書き続けるんだね”空想殺人鬼が顔を出し、皮肉な笑みを浮かべる。
 「まあ、死んだ奴のことなんて俺達には、、、、分からんよな、死んだこと無い俺達からしてみれば全ては想像に過ぎない」――先輩はそう言って肩に手を回そうとした。僕は反射的にそれを避けてしまう。「――やっぱお前、変な奴だな」先輩は困ったように笑った。
 ――僕は枠の中の人間じゃ無い。
 「何もそんなに避けなくても」と言いかけた部長は、僕を見てその言葉を止めた。
 脳内で言葉が反響する。――「死にたい、死にたい、って言う奴いるけどさ、本当に死にたい奴はもう死んでるよな」
 酷い気分だった。過去に言われた言葉と意味が似ている、と言う理由だけで、こんなに動揺するとは、自分でも思ってもみなかった。
 ポン、と背中に手が当てられた。それから部長は僕をさすった。「何があったかは知らないけど、少しで良いから聞かせてくれないか、言葉にすると楽になることだってあるだろ?」――唐突なその優しさに、服を隔てて なお伝わるその温もりに、僕は不意打ちを食らって泣きそうになる。恐らく目は充血しているのだろう。少し恥ずかしい。――部長に対してと、現金な自分に対して。
 溢れ出そうな思いを言葉にしたかった。しかしそれをしてしまえば傷ついてしまうということも分かっていた。伝わらないことを再確認するだけなのだから。
 「ゆっくりでいいからさ」という言葉に僕は強く首を振る。この人なら分かってくれるんじゃないか、という淡い期待を振り払うように、強く。
 「そっか、ごめんな」と部長は言った。僕の中で何かが溶けてしまいそうな気がした。気付けば僕は泣いていた。数本の電車が行ってしまったが、部長は黙ってそのままでいた。その優しさに甘えて僕もしばらくそうしていた。


 泣き疲れた僕は自室のベッドに腰掛けて、その反対側に立て掛けてあるギターケースを――結局売らずにいたそれを――ぼんやりと眺めていた。

 ――「西野君の家にお邪魔したいものだなあ」突然脳内で鳴る嫌味ったらしい笑い声に僕の心は揺らぐ。例の黒ずくめがニヤリとこちらを見た気がした。「もちろん、いいよなあ?」頬を掴まれた時の痛みが甦る。「へー、随分と良い趣味をお持ちで」無断で部屋に乗り込み、ギターを見て誰かが言う。「似合わねえな」別の誰かが嘲笑する。「この面だぜ?」と髪の毛を鷲掴みにしつつ誰かが言う。「見たくもない」誰かが吐き捨てる。

 唐突に僕は自分の体を打ちつけたい衝動に駆られてベッドから飛び降りた。鈍い痛みが体を貫き、意識がそちらに集中する。「うう」僕は拳を握り、それを床に振り下ろす。「ううう」揺らめいて立ち上がる。「うああ」バサッ、とベッドに飛び込む。「うあ、うああああああああああ」布団に頭を突っ込んで僕は呻いた。息が荒くなる。泣いていたのがぶり返す。過呼吸になるのを抑えようと、より深く布団に顔を埋める。息が苦しくなって仰向けになる。白い天井に青や赤の光がチカチカする。それを追っていたら少しだけ心が静まった。
 ――“こんな世界、生きてたって意味ないよ”黒ずくめが囁く。
 ――“そうかもね”僕はカッターを探して起き上がる。少しサクッとやったら、気分がスッとする気がしたのだ。
 ――“そんなことは、とうの昔に知っていた”引き出しからカッターを取り出して掴む。
 ――“知っていたはずなのに、なぜ惑っているのだろう?”カッターの刃が手首に触れた瞬間、酷く冷え冷えとした気持ちになる。手が震え、刃が皮膚に付いたり離れたりを繰り返す。
 ここまで苦しみながら、なお生に執着している。一度自分を殺しておきながら、まだ僕は生きている。感情は死んだはずなのに、僕はまた泣いている。
 ――「西野がギターを掻き鳴らす姿は想像できないけど、そんな西野を見てみたい気もする」
 ああ、と僕は涙を拭う。
 ――死んでいた僕を見つけ出してくれたのは君だったんだ。
 僕は筆箱のキーホルダーを外し、ちっぽけなそれを抱きしめる。
 ――やはりギターは捨ててしまおう。僕にとって必要なのは君だけだ。


 泥のように眠り、目が覚めたのは昼だった。僕は朝も昼も食べないままギターを売りに出した。帰りにコンビニで買ったおにぎりが美味かった。今を生きている、、、、、、、、という感じがした。
 家に帰ったくらいに君からLINEが来た。ブリの切り身という生活感溢れる話題に苦笑いしつつも、むしろそれが今の状況にマッチしていてテンションが上がった。日常にもキラキラしたものはある、と言う君と僕は同じ思想を共有している。そのことがたまらなく嬉しくて、今すぐにでも君を抱きしめたい。〈加藤さんってさ、僕みたいに地味な奴からはモテるけど、イケイケな感じの男からはモテないでしょ〉この気持ち、誰にでも分かってたまるものか。――そんな思いを婉曲的に伝える。
 〈そうだよ、地味な奴からはそれはもうモテまくるよ。君で告白されたのは八回目。五回付き合って四回別れた。二回告白して撃沈して、唯一の成功が今の彼氏〉返信を読んで、僕は動揺した。八回目、八回目かあ。そうか、そうだよな、加藤さんほど素敵な人が、八回くらい告白されていないなんておかしいよなあ。――頭では分かっていても、心の整理が追い付かない。〈そうなんだ〉と返す言葉も そぞろになってしまう。なぜ自分が動揺しているのか分からなかった。ただ君が急速に遠のいてゆくのだけを感じた。〈ブリなんて小さいことだけど、そういう積み重ねがあるから、私は幸せなのかもしれない〉という言葉に、何も考えずに〈いいこと言うね〉という言葉を当てはめる。〈西野みたいな感じかな〉という返信で僕は胸が苦しくなる。〈どういうこと?〉――僕は君にとって日常に転がる“積み重ね”に過ぎないのか。
 ――僕はこんなに君のことを想っているのに。
 ――僕は君にとっての one of them に過ぎないのか。
 僕は急速に安定を失ったかのようだった。現実を前に、僕はただキーホルダーにすがるしかなかった。いつしかそれさえも空しくなって、切なくなった。
 ――君が欲しい。
 君の真っ白な笑顔を僕の色で染め上げたい。
 ――君が欲しい。
 君を抱きしめて、そのままどこかへ連れ去りたい。
 ――君が欲しい。
 もう誰かのもとへ転がらなくていいように――
 ――君が欲しい。
 ――もう寂しさなんて感じさせない、、、、、、、、、、、、、、
 きっと君はまだ本当の愛を知らないんだ。僕が包んで溶かしてあげたい。君の悲しみも、君の優しさも、君の強がりも、全部、全部、全部――。そのまま一緒に溶けて消えてしまえたなら、きっとそれは僕らだけの永遠になるのに。


 その日は冬を予感させるような底冷えのする晴天であった。草木は色を失い、緩やかに死へと向かっていた。吐く息は白く、それは刹那的なきらめきを見せて消えた。
 君は一日中緊張した様子だった。先生からある封筒を渡されていたのだ。それは写真部で出したコンクールの結果だった。開けてみてよ、という周りの願いを君は頑なに拒否した。部活動の時間に開ける、と言って聞かなかった。「えー、じゃあ私 教室に残る」と誰かが言った。写真部は部室が倉庫しか与えられていないため、活動場所を教室にしていた。

 僕はと言えば、軽音を辞めようかと悩んでいた。ギターを捨てたとはいえ、歌詞を書くという仕事は残されていたのだが、過去と決別するには、完全に身を引いてしまうのが良い気がしていた。しかしながらそれを部長に言うのが少し躊躇われた。部長の優しさを裏切ってしまう気がしたのだ。結局、そのことを言えずに部活が終わった。その時はじめて、教室に忘れ物をしていたことに気がついた。それほどに僕にとって重要な決断だった。
 教室に戻ると不自然な人だかりができていた。僕の視線はすぐにその真ん中にいる君に集中した。君の睫毛と髪が濡れていた。「はいはい、男子は帰った帰った」とこちらに近寄って女子が言う。僕はそれに従ってそのまま帰路に着いた。肌を刺すような空気の冷たさが僕の無力を責めていた。忘れ物のことはその後に思い出した。

 僕は何度も今日見た君の顔を思い描き、そのたびにやるせない気持ちになった。ついにはそのことを君に尋ねてしまった。最低だ、と自己嫌悪に陥るのも束の間、すぐに既読がついて、返信が来た。金賞を逃した、という内容だったが、調べてみると、なかなかに権威のありそうなコンクールだったので、銀賞でも凄いのではないか、という印象を持った。それを婉曲的に伝えると、すぐに〈ばか〉とだけ返ってきた。目先を変えて〈写真を見せてよ〉と送るが、〈やだ〉〈何も分かってない〉と頑なだった。そのいつもとは明らかに違う君の態度に、切なさや逆説的な愛しさ、守ってあげたいという気持ちなどが絡まり合って、それは焦燥感へと変わった。今すぐに家を飛び出して、電車に飛び乗って、君の街へ――そして君を抱きしめて、頭を撫でて頑張りを認めるのだ。一人で寂しさを感じさせるには今夜の空気は冷たすぎる。
 僕は本当に家を飛び出した。駅へと走る――肺が凍り付きそうなほど痛くなる。駅に着く――切符を買うのがまどろっこしくて、慌てて落とした小銭などどうでもよくて、ただ君の顔だけが見たくて――。電車に乗って一息つくと、君から返信が来た。
 〈まあ見せてやってもいいけど〉という返信とともに、一枚の写真が送られていた。
 ――それは部長の写真だった。見慣れた制服姿では無く、そして普段見せたことが無いような種類の楽しそうな表情だった。
 車内のアナウンスで僕は目的の駅に着いたことを知った。混乱した状態で駅を降り、ロータリーの前でひとまず立ち止まる。〈女子たちにばれちゃったから、西野にばれるのも時間の問題かな、と思って〉〈隠す前に涙が溢れちゃってさ〉背中をさすってくれたその大きくて暖かい手が優しく差し出されている。光を和らげるフィルターは君の愛だ。その二人の間で完結している、写真という本当の愛の形を見て僕は打ちひしがれる。
 色々なことを思った。きっと二年生にして写真部の部長になった、気負いがちな君を導いていたのは部長だったのだろう。君が悔しくて泣いていたのは、君自身の技量に対してではなくて、大好きな部長が被写体となった写真が、一番では無いと評価されてしまったことに対してなのだろう。そんなことを考えるたびに、必要とされているのは部長の愛であって、僕の愛では無いということを実感する。僕は思わず座り込んだ。――“必要なのは君じゃ無い”黒ずくめは笑う。“彼女にとっての本当の愛は部長のものだ”それは畳みかける。“自己満足な愛など誰にも届くはずが無い”それが近づく。“君の思いは誰にも届かない”――。
 気付けば僕は立ち上がっていた。景色が滲んで歪む。それがそっと背中を押す。ふらつくように僕は車線へと飛び出す。ゴン、と鈍い痛みが体を貫く――


 病室で僕はあの時のことを思い出す。そしてそのたび自己嫌悪に陥る。僕はあの時、朦朧とした意識の中で、こんなことを思っていたんだ。
 ――“自殺したなら君は振り向いてくれるだろうか”――。

 きっと優しい君は見舞いに来てくれる。そのことが僕を苦しめる。
 ――「死にたい、死にたい、って言う奴いるけどさ、本当に死にたい奴はもう死んでるよな」とFが言った時、僕はきっとこう言い返したかったんだ。
 ――“苦しんでいることの証明が死ぬことしか無いなんて絶望だ”――。
 いつだって気付いた時にはもう手遅れなんだ。
 海の底のように、心は冷え冷えとして、それでいて凪いでいた。

 病室のドアが開いて、君の姿が見える。今にも泣き出しそうなその顔が、僕のためのものだと思うと、背徳感を覚える。「ばか」君は言葉を漏らす。「何で言ってくれなかったんだよ。西野のばか。ばか」その言葉に僕は首を振る。「君には分からないし、分かる必要も無い」――君のおかげで、僕はもう一度知ることができたんだ。向こう側の人間が間違っているんじゃなくて、正しいということもあるんだ、ということに。そして正しさなんてものは不確定で揺らめくものである、ということに。「訳分かんない」君は悲しみと静かな怒りをその言葉に込めて病室を去る。僕はその姿を目で追う。

 本当は君に抱きしめてもらいたかった。僕の全てを肯定してほしかった。行き場の無い僕を留めて欲しかった。――心臓がビートを刻み、伝えたい言葉が溢れ出す。
 でも、それは全て我儘だと知っていた。
 しばらく病室に一人でいて僕は気付いたんだ。――なぜ向こう側の君が僕を見つけ出せたのか、ということに。君はきっと僕にだけじゃなく、全てに対して愛を注いでいたんだ。君は日常の全てを愛している。だから僕に対しても無意識に愛を注いでしまった。僕はそれで勘違いして、多くを望み過ぎていたんだ。
 君に告白した時のことを思い出す。金木犀が綺麗な季節だった。君を抱きしめたなら、その匂いは金木犀のように僕を狂わせるのだろうか。華奢なその体は僕が触れてしまえば散ってしまいそうなほど儚い。だから僕のような人は、君に近づくことすら許されないのだろう。
 きっと僕は金木犀の季節になるたびに、君のことを思い出して泣いてしまう。――僕は一人 病室の中でその許しを乞うた。

 西野のことを知ったのは、それが起きた翌日、学校でのことだった。私はそれを聞いて戦慄した。西野はいつも私の言葉に全て返信をくれる。その彼がトークを途切れさせていた、ということを不自然に思っていた所だったからだ。ロータリーでタクシーに引かれた、という事実が、それが突発的な衝動だったことを示していた。つまり、私のLINEが直接の原因であるということだ。
 幾度と無く自分を責めた。西野の想いを知っていながら、私はそれを無下に扱ったのだ。自分がそんな薄情な人間だということに寒気がした。その罪悪感から西野の病室に向かった。

 「君には分からないし、分かる必要も無い」と言われた時、なぜだか無性に腹が立った。
 思い出していたのは西野と出会った日のことだ――進君と出会った日でもある。私はあの時 撮ったストラップとギターに、西野がぎこちないながらも自分の思いを伝えるために歌を歌っているイメージを込めた。――それを裏切られた気がしたのだ。けれどもその怒りが、罪悪感から自分を守るためのものかもしれない、と想像して寒気がした。
 全てを誰かに打ち明けてしまいたかった。抱えきれない不安が襲う。
気付けば私は進君を求めていた。
 ――間違った私を、それでも良いと肯定してほしい。君に抱きしめられたい。最も情熱的な方法で、それを証明してほしい。
 カフェデートのことを思い出す。――君はあの時、何で私を奪ってくれなかったの?
幾度と無く口に出そうとした。でも嫌われるのが怖くて できなかった。
 ――私はどこに行けばいいの?
 真っ暗闇の中、魔物が私を侵食してゆく――