LIFE LOG(あおいろ文庫)

氷解

高校二年生の夏に、合同誌に載せる『目隠しと破綻』と並行して書いていた作品です。5作目。
初めてまともなラブストーリーを書いたような気がします。
”氷解”は、ふつう「疑問が氷解する」というふうに使いますが、季語の”氷解(こおりどけ)”としても使われるのですね。
33,152文字




 春――氷に閉ざされた大地は柔らかな日差しによって少しずつその姿を現し、溶けた氷は新たな生命の糧となる。長い眠りから覚めた新芽はそよ風に身を震わし、やがて純な花を咲かせる。僕はその自然摂理の神秘とでも言うものを強く感じさせる春という概念を迎合する世間の風潮に嫌悪感を抱いていた。それは「神がこの世界を支配しているのだ」という教えとそれを支持する人々の胡散臭さにも似ていた。それ故 僕は例えば花見という行為に価値観を見出せないでいたし、クラス替えの感傷的なムードや、新学期に対するどこか浮ついた空気感を全く理解することが出来なかった。或いは一年前――高校に入学する際の高揚感は理解することが出来たかもしれなかったが、それは「自分の人生が変化するターニングポイントに立っているのだ」という自覚に起因するものであったので例外と言えよう。高二の春を迎えるにあたって、僕の心が動かされる要素は この世界に何も無かった。
 僕は例えば神を盲目的に信ずることを好まなかった。真理のみを見つめ神に逆らったガリレオは僕にとっての英雄であった。主義主張を曲げないことこそが僕のアイデンティティを成立させているように思えた。自分の考えを曲げることは、自分を自分でなくしていることと同義であると考えていた。

 その日はいかにも「春爛漫」とでも言いたくなるような、春の到来を告げる清々しい陽気であった。
リビングルームで朝食をとっていると、姉が部屋から寝ぼけ眼で出てきた。いつもなら長い髪を盛大に爆発させているところであるが、今日はそうでは無かった。というのも、姉の髪形がショートカットになっていたのである。その姿を見て僕は声をかけた。
「姉ちゃん髪切った?」
「んー」
 鬱陶しげな様子を前面に出しながら姉は返事をした。
「また恋愛にでも失敗したの」
「……うっせえ、黙れ童貞」
 どうやら図星である。姉は今 大学の二回生であるが、恋愛沙汰には事欠かない様子であった。そして決まって、三か月も経てば彼氏と別れていた。
「そんなんならさ、恋愛なんてしなければいいのに」
「童貞には到底わかんねーよ」
「童貞童貞言うけどさ、色恋沙汰に身を堕として学業に身が入らない姉ちゃんと、そういうことをきちんとコントロールして学業に専念している僕とでは、どっちが賢いんだろうね?」
 姉は僕の方を見て少し苛ついた表情を見せる。
「あのさぁ、恋ってのは止まんねーの。コントロール? ムリムリ。そんなのは恋じゃないね」
「その考えは姉ちゃんが姉ちゃん自身の堕落を正当化しているに過ぎないよ」
 僕は皮肉めいた口調で言った。
「童貞には分かんないだろうけどさ、恋ってのは意識したらそこでおしまいなわけ。その後はもうハンドルもブレーキも効かないわけ。んでもってその恋の自覚は無意識に始まるわけであるから意中の人に出会った時点で誰しもが負け。出会いという偶然の作用に起因する恋愛というものを堕落と決めつけてんじゃねえ たわけ」
 僕はその言葉の意味を半分も理解出来ないでいた。根拠の無い物言い――姉の言葉には中身が無い。だからこそ姉の言葉は僕にとって一グラムの重さも感じられず、であるからしてやはり姉の言葉は姉自身の堕落を隠す言い訳に過ぎない。
「なるほどね、まあそんな姉ちゃんが、これからどんな風になっていくのか、楽しみに見させていただくとするよ」
「あゝ童貞というものは哀しいねえ。そういう皮肉は一度 恋を経験してから言うがいいさ」
 姉は溢れんばかりの皮肉を僕に返し、満足げに食パンを頬張った。


 同日、ロングホームルームでのことである。
「そう言えば、高二になって、クラス替えで新しいクラスになってから、自己紹介みたいなことをしていなかったな――名前と、それから趣味とか部活とか、適当に」
 クラス担任がこのようなことを言い出し、僕は心の中で舌打ちをした。自己紹介ほど無駄なものは無い。時間がかかる上に、自己紹介の目的は他人について知ることであるが、それだけの機会で例えばどれほどの名前を記憶出来るというのだろうか。趣味など尚更である。そもそも、何故 興味も無い他人の趣味を聞かされねばならぬのか。さらに言えば、僕のことなど興味も無い他人に対して何故 趣味を話さなければならぬのか。全てが意味不明である。こんなものはさしずめクラス担任が楽をしたいからやるものであろう。生徒に任せておけば彼・彼女らは話をする必要が無いのである。
「んー、少し時間が無いな。よし、ここは一つ、チャイムが鳴るまで近くの人と適当に自己紹介をしておいてくれ」
 まるで僕の不満を聞いていたかのように先生は方針を修正した。自己紹介をするということには変わり無いが、こちらの方が幾分かマシである。尤も、先生が方針を変更したのは時間が無いからであって、先生を評価する気には到底なれないのであるが。
 誰かが誰かに話しかけたのを契機にして教室内にざわめきが伝播する。適当なペアが自然発生的に形成され、その中で自己紹介が始まる。
「こんにちは」
 そう言葉を発した女子の顔は、いかにも優等生、といったものであった。ショートカットに少し梳かれた前髪が清楚な印象を与える。プラスチックの赤い眼鏡と丸顔からはどことなくあどけなさが感じられる。
「こんにちは」
 社交辞令的に僕は返事をした。
「早沢陽菜って言います。部活はテニス部です」
 形式張った言い方で彼女は自己紹介をした。妙に堅苦しくなってしまったのがおかしかったのか、照れたように笑う。
「七海拓真です。部活は軽音です」
 彼女に倣い、形式張った自己紹介を返す。必要以上に感情が入りすぎないように、かつ必要以上に不愛想にならないように気を使いながら。
「軽音!? 凄い! かっこいい!」
 彼女はテンプレのような反応を僕に返した。「あー、こういう系の人か」と僕は思った。つまりはクラス替えの時に悲しがって見せたり、新学期ではしゃいで見せたりするような人。どうせ本心ではそんなこと思っていないのだ。
「そうかな? そんなこと無いと思うけど」
 僕はなるだけ刺々しくならないように気をつけて言った。
「えー、ギターとか、ドラムとか、かっこいいじゃん」
 彼女は心持ち上気しながら言った。僕はまんざらでもなかった。しかし、同時に「お世辞に違いない」とも思った。
「どんな曲するの? コピー? オリジナル?」
「一応、オリジナル」
「えー凄い! ジャンルは? あ! そもそも誰が作ってるの? あれ、七海君ってバンドだよね」
「うん、バンド。曲は基本 皆で相談して作るけど、大体は僕が作詞作曲して、皆がそれを手直ししていく感じ。バンドの雰囲気に合うように編曲するというか。ジャンルは……ポップスかな」
「ふーん、じゃあ七海君が曲作ってるんだ、凄いじゃん」
「いや、だから皆で作っているから、別に凄くないというか、っていうかそもそも凄いって言われに値する曲 作ってないし」
「うーん、でも七海君が作詞作曲してるんだから、ほとんど全部 自分で作ってるってことでしょ、凄いって」
 いや僕は凄くなくって……と言いかけた時、チャイムが鳴り自己紹介の時間は終了した。
「七海君の曲、聞いてみたいな」
 彼女はチャイムが鳴り終わった後、そう言って笑った。結局 彼女に押し切られた形になり、僕は割り切れない思いを抱いたまま休み時間を迎えた。


 休み時間、クラスは幾つかのグループに分かれる。特にその集団で共有することも無いのに意味も無く集まるのは、きっと皆 独りぼっちになるのが怖いのだろう。或いは「ぼっち」というレッテルを張られるのが怖いのだろう。しかしながら、考えてみれば「ぼっち」であることの何が悪いのだろう。僕らはいつの間にか「ぼっち」が悪であるという雰囲気を共有している。全くもって意味不明である。やれやれ、やはり風潮というやつはどうにも好きになれない。

「結局あいつとどうなったんだよ、拓真」
 そう話しかけてきたのは坂口柊真とうま――彼の周りには常に人がいる。当然、彼が僕に話しかけるということは、僕が彼のグループの関心物オモチャになることを意味する。
「おい七海、答えろよ」
 風潮という点では、最近 男子の間で蔓延はびこっている恋バナを求める風潮も好きになれない。「つまらない学校生活だ、恋でもしてみたいものだなあ」などとうそぶき、また、グループ内に少しでもそういう動きがあると「付き合っちゃえよ」などとけしかける。これが所謂「恋に恋する」というヤツなのだろうか。
 僕は敢えてしらを切ることにした。
「あいつって誰だよ、どうなったって何がだよ」
 柊真はグループに向けて「こんなこと言ってるぜ」とばかりに目配せした。
「誰がって、あいつに決まってんだろ。んで、付き合ったりとかしてねえのか、いっつも一緒に帰ってるくせに」
 あいつ、と言って目をやった先にいるのは高木美都みと――実は彼女と僕とは幼馴染である。しかしその事実を知る者はこの学校の中には恐らくいない。彼女と示し合わせてその事実を隠そうとしている、というわけでは無いのだが、いつかどちらかが言うだろう、いずれバレるだろう、などと思っているうちに、お互い言い出すきっかけを失った、といったところだ。
 実のところ僕は、彼女と付き合っているのを疑われることに対してまんざらでも無い。というのは、恋に恋する鬱陶しい男子グループメンバーにおいて、少しばかり優位に立てる気がするからである。恐らく彼らは、僕が美都と一緒に近くのテーマパークに行ったり、それぞれの家で同時間帯の別のアニメを録画してそれらをシェアしたり、寒い冬にコンビニの肉まんを分け合ったりしたことがあると知ったならば発狂するに違いない。その様子を想像して、僕は密かに優越感に浸っているのだ。僕が美都と幼馴染であることをバラさないのは、こういう理由もあってのことである。
「美都~? そんな感じじゃないなあ」
 僕は口軽く付き合っていることを否定した。


「なにそれ、凄い!」
 僕のシャーペンを見て、早沢さんは感嘆の声を上げた。
 授業でグループ活動をしている時のことであった。タスクを済ませ、班内には手持ち無沙汰な雰囲気が広がっていた。早沢さんの声を聞いてグループメンバーの視線が一気に僕に向くのを感じた。やれやれ、面倒だ。
「そのネジみたいなの何に使うの? 何て名前のシャーペン?」
 好奇心に溢れた早沢さんの目を見て、僕は仕方無いな、と思った。
「オートのスーパープロメカってシャーペンで、ネジを動かすと芯の繰り出し量が調節出来る」
 僕は実際にそれを動作させながら説明した。早沢さんだけで無くグループメンバーからも嘆美の声が漏れる。
「凄い、どうなってるの!?」
 僕はそれを出来る限り分かりやすく解説した。そう言えば、このようにシャーペンの話をするのは、高校に入ってからは一度も無かったな、と思った。
「七海君って文房具詳しいんだね」
「いや、詳しいわけじゃないよ」
「え? そんなシャーペン持っているのに?」
「ああ、これは中学の頃の友達に教えてもらったんだ。だから文房具詳しいってわけじゃない。そいつ文房具が好きで、当然これも持ってるから、『おそろだねー』、って」
「へー、そういうのいいね、羨ましい」
 早沢さんはそう言って笑った。僕は中学生の頃が懐かしくなった。あいつは今どうしているのだろう。久々に会いたくなった。僕は早沢さんに少しだけ感謝した。


 「あー、大久保君か、懐かしいね」
 僕はすぐに名前を言い当てた美都に一種の安心感のようなものを覚えた。
 学校からの帰り道、僕は美都にグループワークでの顛末を話した。
 僕は多くの場合 美都と一緒に家に帰る。それは示し合わせているというわけでは無く、帰る方面が一緒であるから互いの姿を自然と見つけてしまう、というのが適切であるように思う。ちなみに朝は、美都がバトミントン部の朝練に行っているということもあり、会うことは少ない。
 美都とは幼馴染であるから当然 僕に文房具好きの友人がいたということも知っている。そんな当たり前だと思っていたことも、案外奇跡的なことなのではないか、という気に僕はなっていた。美都と僕の通っている高校は街中まちなかにあるそれなりの進学校であるが、僕らは元々田舎の公立小学校・中学校に通っていた。美都は僕よりもずっと頭が良く、有名な私立の高校に通う予定だった。しかし美都は受験に落ちてしまい、結果的に滑り止めとして受けていた僕の高校に落ち着いた。
「そうそう、大久保君。懐いよねー」
 僕は懐郷の情に浸り、美都の背中に中学時代を見ていた。美都は高校生になってから髪を下ろした。黒髪ロングのスタイルを確立し、幾分 綺麗になったかもしれないが、その背丈は中学の頃から変わっておらず、どことなく昔の面影を残している。僕にとって美都は幼馴染であり続けているのだ。
 僕は高校生になるにあたって急に背が伸び、昔の面影は消え去ってしまったかのようだ。見上げるような美都の視線を感じ、見降ろされていた中学時代を懐かしく思い出す。
「久々に会ってみたいなー、大久保君に」
 僕は街の喧騒に掻き消されるように小さい声で呟いた。春の陽気が僕らを包んでいた。僕は頬が火照るのを感じた。
「え~、でもLINEでいつでも連絡取れるじゃん」
 美都は身も蓋も無いことを言った。僕はノスタルジーを壊された気がして少しムッとした。
「そんなことよりさ、今度、桜 見に行かない?」
 美都はそう言って話題の転換を図った。「そんなことより」? 僕は懐かしい記憶を「そんなことより」で済ましてしまう美都の精神性を疑った。それに桜だ。どうして人はこうも花見をしたがるのか。僕は懐古からくる法悦が急速に冷めてゆくのを感じた。
「んー、また考えてみるよ」
 僕はやんわりと話題をかわした。

 高校生活最大のイベントと言えば大抵の人が文化祭を挙げるだろう。我が校の文化祭の日取りは八月一日と二日であり、今は四月の中旬であるから約三か月後に文化祭がある。文化祭について本格的に活動が始まるのは七月に入ってからであるが、それに先行して文化祭の委員が募集され、その委員が発表されることになった。委員は二年生から募集される。三年生は大学受験があるため、文化祭を中心となって動かすのは二年生なのである。
 僕は文化祭の委員長を見て少し驚いた。早沢さんが委員長だったのだ。僕は驚いたものの、早沢さんが委員長になることに対して納得もしていた。僕は今朝のことを思い出していた。

 校門前ではよく塾の案内が配られる。それに付属する文房具が高校生の勉強道具の供給源の一つになっているのはよくある話であろう。
教室に入ると早沢さんの話し声が聞こえてきた。
「今日さ、校門前で配ってるパンフの中に付箋が入ってたんだよね、しかも結構かわいいやつ。いつもボールペンが入ってること多いじゃん? 嬉しいなあ」
 そういえばそうだな、と僕は思った。何気なく受け取ったものの、確かに付箋が入っているのは珍しいな、と僕は気付かされた。
 早沢さんが隣に座って半月ほどが過ぎたが、早沢さんには敵わないな、と思うことがたまにある。
 早沢さんはよく笑う。例えば授業中、先生が下らない話をしている時、たまたま少し面白いことを言うと早沢さんは真っ先に笑う。それにつられて皆も笑う。早沢さんは感覚が繊細なのだ。些細な日常の興趣を拾い上げる能力に長けている。早沢さんを起点として生み出される笑顔はクラスの雰囲気を少しだけ明るくし、日常に色彩を添える。僕は早沢さんの隣になってから笑うことが増えた。雰囲気というものは伝播する。日々の泡沫を救い上げ愛でるような彼女の眼差しは世界を変えるのだ。

「不束者ですが一生懸命頑張ります! よろしくお願いします!」
 そう言って早沢さんはお辞儀をした。緊張でガチガチになった早沢さんを温かい拍手が迎える。僕は早沢さんなら文化祭を成功させることが出来る気がした。いつだって物語は彼女から始まるのだから。


 現代文の授業、僕は教科書を取り出し先生の話を聞く。授業は新しい小説に入るらしかった。ふと早沢さんを見ると、早速 今日貰った付箋を貼っていた。彼女は普段から付箋を愛用しているらしく、教科書には今まで授業で取り扱ってきた分だけの付箋が貼ってあった。僕は付箋を付けない主義であり、教科書の上辺を指でなぞると引っかかりなく角に到達するのだが、折角なので早沢さんに倣い、付箋を付けてみた。付箋がぴょこん、と顔を出した。


 「文化祭の委員が決まったことだし、そろそろ文化祭に向けてオリジナル曲の制作に取り掛かるようにしてね」
 柊真は軽音の部員に向けてそう言った。彼は軽音の部長なのである。
「どう? 調子は。俺んとこは全然活動してないけどな」
 柊真は部員の集合を解いてから僕に話しかけてきた。彼の所属するバンド『アイスピック』は軽音にあるバンドの中でも突出した人気を誇る。エッジの効いたメロディに甘い歌詞、そして何といってもボーカルである柊真のカッコよさが光るバンドだ。コンクールでは僕の所属するバンドと賞争いをするのが常だ。
「一応、曲自体はもう作ってはいるんだけどね、編曲はまだだけど」
 僕はそう答え、ギターを掴んだ。「聴く?」
「んじゃ、」そう言って柊真はパイプ椅子に腰かけ演奏を促した。僕は譜面を見つつ、一通り歌った。
「は~、良い曲ですねぇ」
 柊真はさも文句ありげにそう言った。
「なんか文句あるんなら、どうぞ」
 僕はお決まりのように柊真にそう振った。
「いや~、完璧主義な拓真君らしい曲だと思いますよ、隙の無い完璧な曲。音楽理論に沿って練り上げられる完璧な音。――あー相も変わらずつまらない!!」
 柊真はどことなく嬉しそうに僕に暴言を吐いた。
「は? ならどうしろっつーんだよ」
 僕は柊真を煽った。
「例えば、」柊真はそう言ってギターを掴み、
「ここにこういう音を入れてみる」
譜面を指し示しつつギターを弾いた。
「は? 論外だね、そんなものはポップスでも何でもない、聴いてる人を不快にさせるだけだ」
「いーや頭の固い君には分からんかもしれんがこの曲の持つニュアンスを最大限に引き出す音はこれだ。君も感情に任せてこの曲を弾いてみたまえ、きっと俺と同じ音を入れる」
「は? 感情に任せる?? そんなものは作り手の傲慢に過ぎない。聞き手に広く自分の曲を受け入れてもらうためには根拠が必要なんだよ」
 侃侃諤諤、タイプの違う二人が行き着く先はいつも衝突だ。しかしながら僕はこの時間を愛おしくも思っていた。周りの人が「まーたやってるよ」という目でこちらを見る。僕らは完全下校になるまでお互いの意見を衝突させ合った。そして新たなアイデアを胸に校門を出た。


 外に出ると夕焼けに照らされた桜が静かにその身を風に震わせていた。ポストカードにでもなりそうな美しく整ったその景色は僕の心に少しの不安を抱かせる。完璧な風景はその完璧さ故に崩壊の予感を孕んでいる。梶井基次郎は桜の木の下には死体が埋まっていると想像した。いつか崩れてしまうその景色を目に焼き付けようと僕は立ち止まった。
「た~っくん!」
 突然小突かれた僕は驚いて声のした方を振り返った。美都だった。
「な~にしてたの?」
 妙にかわいこぶって見せる美都に少しの違和感を覚えながら、僕は不機嫌そうに言った。
「桜だけど」
「桜!? どこどこ!?」
 美都は恐らくは桜がどこにあるか分かっていながら僕に答えさせた。それがさらに僕の不満を増幅させた。僕は気だるげに桜を指し示した。
「あっ! ほんとだ! だいぶ咲いてきたね、もうすぐ満開だ~」
 美都はわざとらしく声を上げた。
「花見なら、行けないよ」
 僕は耐えかねて言った。美都は一瞬 表情を強張らせたが、すぐに気を取り直して言った。
「え~、何で? 綺麗だよ、きっと」
「軽音があるんだ。土日にはバンドで集まって打ち合わせなどをしたい――文化祭はまだまだ先だけど、早目早目に動いて曲を練り上げて、柊真をぎゃふんと言わせてやりたいんだ」
 僕は決意を持って美都の誘いを断った。美都はなぜか爆笑していた。「どうした?」僕は苛立ちを隠せないまま美都に尋ねた。
「『ぎゃふん』って、うははははは、たっくん、死語だよそれ」
 「あっそう」僕はさも関心なさげに言った。
「『ぎゃふん』って、ははははは、私がいくらでも言ってあげるよふふふふ、ぎゃふん! ぎゃふん!」
 美都は完全に笑いが止まらなくなったようだった。やれやれ。僕は美都に構わず歩き始めた。

 次の日も美都は僕を驚かせた。「たっくんビビりだね」美都の言葉に構わず僕は歩みを進めた。「待ってよ、たっくん」美都は笑った。「たっくんさ、ちょっと『ぎゃふん』って言ってみてよ」美都は両手を合わせ、お願い、というポーズをとった。「……ぎゃふん」僕は嫌々ながらにそう言った。美都はたちまち笑い始めた。「ぎゃはははは」笑い転げる美都をよそに僕は歩みを速めた。「待ってよお」美都は僕の肩を掴んで言った。僕は振り返った。美都はしばらく僕の顔を見た後、再び笑い出した。僕はやれやれ、とため息をついた。

 翌日、駅でスマホを見ながら電車を待っていると後ろから「たあっくん~」と美都が低い声で僕を驚かせた。そのテンションのまま「ぎゃふん! ぎゃふん!」と続け、振り返る僕の顔を見て笑った。僕は無言でスマホを続けた。その時、画面に通知が現れた。「LINE [美都] ぎゃふぎゃふぎゃふぎゃふぎゃふ……」僕は大きくため息をついた。美都は後ろで笑い転げていた。「ぎゃふぎゃふぎゃっふー」美都は酔っているかのように歌った。僕はうんざりしてヘッドフォンを耳にあてがった。

 次の日、軽音の用事で完全下校を大幅に過ぎてしまった僕は、すっかり暗くなってしまった街を一人で歩いていた。さすがに今日は美都に会わないだろう、と駅のホームで電車を待っていると「ぎゃふー」という声がしたので僕は思わず飛び上がった。「なんでこんな時間にここにいるんだよ」僕は叫んだ。美都は一瞬 困ったような顔をして「まあさ、いろいろあるんだよ」と言った。「いろいろあるってなんだよ」僕は美都を鬱陶しくさえ思い始めていた。「ぎゃふぎゃふ」美都は僕の気持ちをよそにそう言い続けた。僕の心の中に一つの疑念が浮かんだ。それは思いつきのような些細なものであったが、墨が染みてゆくようにだんだんと心の中を覆っていった。

 あくる日も僕は軽音の用事で遅くに帰った。ライトをつけた車が次々に目の前を通り過ぎてゆく――僕はその無機質さに感化されたように冷ややかな心持ちで小路に入った。
 僕はしばらくして自販機のそばにある、小さな影に気が付いた。夜陰に紛れたその姿はなるほど意識して見なければ分からない。その後ろ姿はやはり美都のものであった。僕の心の中に複雑な感情が漂った。疑念は確証に変わった。僕はそれを成し遂げたことに対する痛快感と美都の感情を垣間見たことに対する罪悪感とがぜになった感情を抱いた。僕はそれを持て余し、ついには見なかったことにして自販機の横を通り過ぎた。
 美都が後をつける気配を感じた。それは日常の中に奏でられる小さな不協和音であった。それは気づいてしまったなら際限無く増幅されて聞こえるものだ。僕は美都の気配がだんだん大きくなってゆくように感じた。T字路が現れ、僕は顔を上げた――目の前は民家のガラスであった――明かりは無く、それ故そこには色彩無きおぼろな景色が反射していた――僕の顔の後ろに美都の姿を認めることができた――その顔は奇妙に歪められている――笑っていたのだ、道化師ピエロのような不気味さで――耳の奥、不協和音が最大音量で鳴り響く――僕は叫びたくなる衝動を抑え、歩みを速めた――それより早い歩調で何か、、が近づく――肩にポン、と手が置かれる――

 翌日は土曜日であった。強い日差しを肌に感じ僕は目覚めた。時計の針は午後二時を回っていた。昨日覚えた嫌悪感はひとまず収まっていたようだった。不思議な感覚だった。昨日の記憶はまるで高感度で撮った写真のようだ。ザラザラとした感触――所々に飛んだカラーノイズ――暗闇に紛れた美都の不明瞭な顔――僕には昨日の出来事が現実のものなのか、それとも夢の中のものなのか判別がつかなくなっていた。
 昼食を兼ねた朝食を終え、僕は漠然と勉強机に向かう。何から手をつけていいのか分からずに教科書を漁る。午後の陽光が部屋の陰影を明瞭にしていた。僕はそれ故 雑多に並べられた教科書の中から一つの異質なものを見出すことが出来た。額に汗を感じた。それはいつの間にか僕の生活の中に組み込まれていたのだ。現代文の教科書を手に取り、屹立するそれを僕は凝視する。意識はすっかりクリアになっていた。心臓が高鳴っていた。僕は気づいてしまった、、、、、、、、、、

 その日からというもの、僕の調子は狂ってしまった。日曜日はほとんどそのことしか考えられなかった。不意に来る胸が締め付けられるような感情――僕はそれに何度も何度も襲われた。月曜日、平静を装うことを心に誓ったものの、それは教室に入った瞬間に破綻した。
「おはよっ! 七海君」
 早沢さんは屈託の無い笑顔を僕にくれた。

 板書をしている時、僕の意識は視界の端にいる早沢さんに集中していた。僕は普段 眼鏡をかけているのだが、この時ばかりはコンタクトにしなかったことを後悔した。眼鏡の視界は狭い――早沢さんを捉えるためにはレンズに重なるまで首を曲げなければならないのだが、そんなことをしてしまえば当然 早沢さんに訝しまれてしまう。眼の端とレンズとの間に不明瞭な早沢さんの影を追い、僕はもどかしい思いを募らせた。

 休み時間、僕は平常を装い、窓際にもたれかかるようにした。傍から見れば教室を概観しているように見えたかもしれないが、しかし僕は真っ直ぐ一点を見つめていた。早沢さんの一挙手一投足が僕の胸を締め付けた。苦しくってしょうがなかった。しかし僕は早沢さんを永遠に見てもいたかった。僕はその相反する心の動きを理解出来ず戸惑っていた。困惑の中にあって一つだけ、僕はどうやら早沢さんに恋をしているらしい、ということだけが確かだった。その事実に僕は頭を抱えたくなった。おい七海拓真、これはどういうことだ、と自分自身を問い質したかった。不意に早沢さんがこちらを向いた。僕は驚いて目を逸らした。――失敗した、と思った。教室を概観しているという建前において、目を逸らすという行為は不自然極まりないものではないか。僕は動揺していた。早沢さんのことを考えると頭が真っ白になってしまうのだ。彼女の濁りの無い目がこちらを捉える時、僕の脳内はたちまち雪がれて、、、、しまう。それは逆説的に僕が早沢さんを特別な存在として認識していることの証明となってしまっているじゃないか。なんてことだ。


 恋に浮かされた僕は平静をすっかり失っていた。筆箱を三回も落とした。シャーペンをノックしようとしてペン先を指に刺した。軽音では普段なら間違えないようなコードをミスった。――そんな熱に浮かされた頭は、下校時に自動販売機が見えると、急に醒めてしまった。
 美都が昨日と同じようにそこに隠れていた。一瞬にして僕の脳裏に美都の顔が――狂気の顔がフラッシュバックした。僕は強い嫌悪感を覚えながら美都に近づいた。
「うわあっ!」
 僕が美都の肩に手を置くと、美都は飛び上がった。
「なななな何!?」
 驚く美都と対照的に、僕の心はやけに静まっていた。美都を自販機の陰に見つけた際に覚えた嫌悪感はどこかへと消え去ってしまった。美都の肩に触れた時の手に残った感触――力を籠めれば崩れてしまいそうな繊細な感触に僕は当惑していた。触れてはいけないものに触れてしまった気がした。美都のことを今までずっと幼馴染として見てきた――しかし、手に残った感触は紛れもない女子のそれであった。
「ごめん……何でもない」
 僕がそう言うと、美都は意表を突かれたような表情を見せた。ああ、そうかと僕は思った。美都は僕が、「なぜここにいるのか?」と問うてくることを想定したのだろう。それで肩透かしを食らったのだ。
「――いや、間違えた、何でここにいるんだ?」
 美都は一瞬過ぎ去ったかに思えた問いが時間差で来たことに対して固まった――時間にして一秒にも満たないものであったのだが。それから「うーん、」と間を繋ぎ、思いついたように言った。
「……そう! 桜! 桜を見に行くかどうか、結局うやむやなままじゃん? それ聞きたくて!」
 あっ、成程――僕は美都の主張に納得しかけたが、すぐにその論の綻びに気付いた。
「それなら、ぎゃふんぎゃふん言っていたあの数日の間に、何故それを尋ねかったんだい?」
「それは……」美都は答えに詰まった。
「そ、そういうこともあるって!」
 美都は意味不明な口述をした。その論理立てられていない物言いに、僕は再び嫌悪の情が湧き上がるのを感じた。
「そう、……前に言った通り、軽音があるから桜は見に行きません」
 言葉にした瞬間、しまった、と思った。言葉に相手を突き放すニュアンスを籠めすぎた。
 美都はそれを聞いた時、微かに顔を歪めた。しかしすぐに笑顔になり、
「そう、ならしょうがないね」
と言った。僕はそれが本心では無いことを見抜いていた。僕は前に花見を断った時と同じ理由しか述べていないのだから、美都がその説明で納得出来るはずなど無いのだ。それが分かっているからこそ僕は心苦しさも抱いていた。本心ではない物言いをさせてしまったことは、すなわち美都に我慢をさせてしまったこともまた意味するのだ。「仕方ないだろう? 美都がしたことは言わば『ストーキング』だ。遠慮する必要など無い」――心の中で誰かが囁く。しかし僕はそれに同意しかねていた。心の中で何かが引っかかっていた。それが美都を完全に突き放してしまうことを拒否していた。それが得体の知れぬ心苦しさに繋がっていた。美都は僕から離れ女性専用車両の列に並んだ。すぐに電車が来て美都の姿は人混みに紛れて消えた。


 火曜日は体育があった。それにかこつけて僕はコンタクトレンズをつけることが出来た。それに真っ先に気付いたのは美都であった。
「コンタクトなんて珍しいね、イメチェン?」
 昨日のことがあるので二人の間には微妙な空気が流れていた――と言うよりむしろ、その微妙な距離感を早く埋めようと、コンタクトを口実にして美都が話しかけてきた節があった。
「いや、今日体育があるじゃん? ずっと不便だなーって思ってたんだよね。それでこの際コンタクトを試してみるのもアリかなー、って」
「へえ、そうなんだ、……似合ってるよ、コンタクト」
 美都は少し躊躇ってそう言った。周りの空気が変わるのを感じた。
「ありがと」
 僕はその空気を避けるように礼を言ってその場を切り上げた。これはきっと――

「おい拓真」
 嬉しそうな顔で柊真が僕を小突いた。
「何だよ」
 僕は極めて不機嫌に言った。
「お前さあ、早くあいつと付き合えよ。絶対あいつ、お前のこと好きだぜ」
 柊真とその取り巻きがニヤニヤとこちらを見つめる。
「……お前らさあ、付き合えれば誰でもいいと思ってるだろ、恋っていうのはさ、そういうんじゃねえんだよ」
 柊真はそれを聞いて一瞬真面目な顔つきになった。それをよそにグループの一人は言う。
「いやあ、今の言葉を高木さんに聞かせてやりたいねえ、本当は好きなんだろ、高木さんのこと」
 僕はその根無し事に対して堪忍袋の緒が切れるのを感じた。
「あのさあ……、僕は今、この世で最大級にカチンとくる事例の一つを思いついたよ。それはズバリ、『自分が好きでも無い人――むしろ嫌いなくらいの人のことを好きだと勘違いされること』だ」
 そう言ってから、また失敗した、と思った。
「お、おう」
 グループの男子はそう言って口をつぐんだ。ムキになって引かれてしまった。僕はいつからこんなに感情的になってしまったのだろう?


 体育前のショートホームルーム。僕らは体操服に着替えて着席していた。予定の時間は過ぎていたのだが、先生はまだ来ていなかった。
「七海君、」
 早沢さんが話しかけてきたので僕はそちらを向いた。早沢さんは眼鏡をかけていなかった。僕は驚いた。
「七海君が眼鏡かけてないの初めて見た~、七海君も体育の時はコンタクトにする派?」
 僕は混乱していた。
「うん。……? あれ、早沢さんって、部活、テニス部だよね、いちいちつけたりするの、めんどくさくない?」
「うん、……あ! でも、テニス部って言っても、マネージャーだよ」
 そう言って笑う早沢さんの顔がいつもと違って僕は目が回りそうだった。早沢さんの目、二重だったんだ――いつもと違う早沢さんの姿は僕にとって新たな気付きを得るきっかけにもなっていた。僕は早沢さんのことをどれだけ知っているのだろう? これからどれだけ距離を縮めてゆけるのだろう?
「そう……だったんだ」
 僕は上の空な返事をした。
「うん、七海君と私さ、おそろだねー」
 早沢さんは自分の目を指し示してイタズラっぽく笑った。「七海君のお友達の話 聞いてからさ、言ってみたかったんだー」なんて言いながら。僕はメッシュの体操服の裾をぎゅっと握った。そうしていないと、早沢さんに触れてしまいそうな気がしたから。


 「ごめんな、今まで」
 柊真が謝ってきたのは軽音でのことだった。
「何が?」
 僕は少し驚いて聞き返した。
「いや、ずっと高木さんのことでいじってきたこと」
 柊真は軽音の時だけ僕に本音を話す。それは男子グループという呪縛から解き放たれるからだと僕は推測している。それはそれでどうかと思うのだが。
「柊真がそういうのじゃないってこと、僕が一番知ってるから」
 面と向かって話すのが何だか気恥ずかしくて、窓の外を見やりながら僕は言った。
「良かった」
 柊真はそう言って持ち場に戻った。それを確認して僕も持ち場に戻った。ギターが鳴く音が聞こえた。僕らは欠けてしまっている何かを埋め合わせるために弦を震わせているのかもしれない――ふとそんなことを思った。


 帰り道に美都は現れなかった。なんだよ、コンタクトの件では大分攻めた発言したくせに、帰り道には来ないのかよ――いや、むしろ彼女にとっては昨日のことを強く想起させる、帰り道で待ち伏せすることの方が「攻めている」ことなのかもしれない――僕は複雑な思いを抱いた。

 深夜。僕は発作のように早沢さんに会いたくなった。胸が締め付けられるような思いがして、思わず布団を深くかぶった。早沢さんの笑顔が目の前から離れなかった。早沢さんに触れたいと思った。同時に、強い罪悪感が心の中に渦巻いた。そんな自分に呆れている自分もいた。唐突に、いつか姉と交わした会話を思い出した。「色恋沙汰に身を堕として学業に身が入らない姉ちゃんと、そういうことをきちんとコントロールして学業に専念している僕とでは、どっちが賢いんだろうね?」――確かにあの時僕は言った、得意げに――僕はその発言の浅はかさに頭を抱えた。そのムカつく顔をブッ飛ばしてやりたかった。そして姉の発言は今となっては全面的に正しかった。今となっては恋を止めることは不可能だった。気がどうにかなりそうだった。早沢さんを手に入れたい。彼女を抱きしめて、その柔らかそうな頭を撫でることが出来たならどれだけいいだろう。――それでふと、僕は美都のことを思い出した。彼女は僕をストーキングしていた。それを僕は心底気持ち悪いと思った。しかしその熱情は、僕の早沢さんに対して抱いた妄想と何が違うのだろう? そこで僕は、彼女に取ってきた行動を振り返ってみた。一緒に近くのテーマパークに行ったこと。それぞれの家で同時間帯の別のアニメを録画してそれらをシェアしたこと。寒い冬にコンビニの肉まんを分け合ったこと。それら全てにおいて僕は美都を幼馴染として扱ってきた。僕にとってそれらは幼稚園でおままごとをしていたことの延長だった。しかし美都にとってはそうでは無かった。幼稚園から今に至るまでのどこかのタイミングで美都は僕を恋愛対象として見始めたのだ。僕は再び頭を抱えた。それならば、僕が美都にしてきたこと――男子グループでマウントを取るために美都と時間を共にしてきたという事実は美都にとってどれだけ残酷なものだろう。僕は強い罪悪感を覚えた。僕は何もわかっていなかった。僕もまた、恋に恋していたのだ。

 僕は次の日、学校に眼鏡をかけて行った。早沢さんを盗み見ないことを決意したのだ。昨日のことがあったにもかかわらず、僕の早沢さんに対する思いは募るばかりであった。何気なく過ごしていても、ふと視界に早沢さんが迷い込むと僕は自然とその一点を見つめてしまう。その瞬間に僕は目を逸らす。罪悪感に身が引き裂かれてしまいそうで、しかしそれに反して早沢さんの姿を見られたことに対する幸せな感情が体中を駆け巡ってもいる。呼吸がままならず苦しい。胸が張り裂けそうだ。恋煩いって、本当にあるのだな、と実感する。

 帰り道、美都に会った。駅でのことだ。会った時、美都は驚いた表情をしたのだから、きっと僕らは本当に偶然 出会ったのだろう。美都と僕はそこで他愛の無い話をした。まるで幼稚園と今とが滑らかな曲線で結ばれていて、その軌跡の延長線を描いているかのような時間だった。しかしそのような軌跡は存在しないということもまた僕は知っていた。それ故 僕は美都との会話に懐かしさを覚えていた。僕はずっとこうしていたかったのだ。「一日、下校で会わなかっただけで何を大げさな」と心の中で誰かが呟く。僕は文字通り一日千秋の思いで待っていた、幼馴染としての美都との日々を。しかしそれは長くは続かないと僕は気付いていた。僕は美都に幼馴染であることを求めているが、美都は僕に恋人であることを求めているのだ。いくら僕が見えないふりをしたって、いつかそれは顕在化し、決着をつけなければならなくなる。その序章が美都のストーキングに気付いたあの夜だったということなのだ。

 いつ終わるとも知れない平和な空間の中で、僕は日常を送っていた。僕はいつしか学校に来るのが楽しみにすらなっていた。霞がかった柔らかな青空――隣で笑う早沢さん――なだらかに流れゆく日々に僕は何も望みはしなかった。このままでいい、このままがいい――例えば早沢さんを見ずとも、隣にいるというその事実だけで僕は満足だった。直接話をしなくても、気配から早沢さんを感じられればそれで充分だった。――それなのに。


 ある日、早沢さんがペンを落とした。僕は反射的に音のした方向を見やり、ペンに手を伸ばした。その刹那、唐突に影が――ペンを拾おうとした僕と早沢さんは残り数センチの距離まで接近した。
「あっ」
 僕らはほぼ同時に同じ言葉を発した。その後、早沢さんはクスクスと笑った。「拾ってくれてありがとねー」
 僕は「いや、」と意味不明な返しをして笑った。その表情とは裏腹に心臓はドキドキしていた。早沢さんの匂いがしたのだ――それはダウナー系の麻薬のように脳に絡みつく――夢見心地、とでも言おうか――多幸感、それは柔らかく僕を包み――しかしそれ以外について考えることを許さない。僕は訳が分からなかった。僕は他人の匂いで悦ぶような変態だったのか? 僕は僕自身に秘められている危うさが恐ろしくなった。

 その授業は極めて退屈なものだったが、僕の目は冴え冴えとしていた。動悸が治まらなかった。静かな水面に石が投げ入れられた時のように僕の心は大きく揺れていた。その時、早沢さんが動いた気配がした。僕は驚いて目の端に意識を集中した。朧げな早沢さんの像がうつ伏せになっているように見えた。退屈な授業に眠ってしまったのだろうか――僕はそんな推測をした。それが僕の心をより大きく揺さぶった。「今なら早沢さんをチラ見してもいいのではないか」――そんな考えが頭に浮かんだ。そして僕は早沢さんの方を見やった――すぐに目を逸らすつもりだった――僕は一瞬、何が起きたのか判別出来ず、視線を早沢さんに向けたままにしてしまった――端的に言えば「固まった」のだ――早沢さんはうつ伏せになっていた。そして首を曲げてこちらに視線を向けていた、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。僕らはしばらく見つめ合っていた。二重瞼をした目がメガネのレンズを通してこちらを正確に捉えて、、、いた。僕は見目麗みめうるわしくも幼気いたいけさを秘めている、刹那的な美しさに満ちたその姿に囚われて、、、、いた。早沢さんはしばらくしてから笑顔を僕に見せた。僕はこの笑顔を超える美しさを持つものを知らない。


 下校の道すがら、僕は打ちひしがれていた。届かない。遠すぎる。早沢さんの美しさ――美しい心根から生まれる真の美しさ――それにセブンティーンという不安定で繊細な美しさが加わる――その美しさに対して僕はあまりにも不釣合いだ。よこしまな考えを以て一つの乙女心を弄び、それでいながら無自覚でいた僕にはあまりにも――その時、あたかも神が計らったかのように美都の姿が見えた。美都がこちらを振り向いて笑う。やはり、早沢さんの笑顔の方が僕にとって数百倍美しい。しかしながら僕は美都とおしゃべりをする。
 唐突に合点がいった気がした。僕が美都を突き放さない理由だ。
 怖いのだ、突き放されるのが。何の根拠も無いが、美都を突き放してしまったなら、僕も早沢さんから突き放されてしまうような気がしているのだ。今日の授業中のあの早沢さんの行動は、あの笑顔はどういう意味だったのだろう。――見透かされている気がした、何もかも。僕が早沢さんのことを好きだということも――彼女はどう思っているのだろうか、ずっと僕が早沢さんをチラチラ見続けてきたことを――それは僕が美都にストーキングされていたと気付いた時に抱いた憎悪と同種の感情を抱かせる行動ではないのか? その恐ろしい仮説は、僕が美都を、憎悪を以て突き放してしまった時に、一気に証明されてしまう気がするのだ。それ故 僕は美都を目の前にして、自分の感情についても、早沢さんの気持ちを推察することについても、これからどうすべきなのかということについても結論を出せないままでいた。

 平和な日々は突然に終わりを告げた。
「それでは、席替えをしたいと思います。前の席の人から順番にクジを引いていって下さい」
 クラス委員がそう話した時、僕はあまりに簡単に日々が瓦解してゆくさまを感じ、力が抜けるような思いを抱いた。くじを引いて、結局 早沢さんは僕の席から遠く離れてしまった。僕は突然、生きる意味を奪われたような気がした。早沢さんのいない学校生活など何の意味があるのだろうか。僕は世界から急速に色彩が失せてゆくのを感じた。「戻るだけだろ」誰かが僕の心の中で囁いた。「元の世界に、七海拓真の過ごしてきた世界に、自分だけを信じてきた世界に」――僕は叫んだ。「嫌だ、今更戻ることなんて! 戻れと言うのか!? あの灰色の冷たい世界に!」――その言葉は心の中でグワングワンと反響し、僕の心をかき乱した。

 学校が終わると、僕はギターを引っ掴み、軽音にも行かず走り出した。空には低い雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうであった。光を失った無機質な街の中を僕は駆け抜ける。灰色、灰色、灰色――コンクリートで出来た街は灰色に満ちていた。僕一人でどうやってこの世界に色彩を見出せるというのだろう? 僕は走り疲れ、近くのカラオケに入った。唐突に、文化祭で披露する曲を練習しようと思いついたのだ。光量不足のボックス内ではギターさえ色彩を失って見えた。僕は譜面を広げた。アンプの繋がっていないエレキは今にも消え入りそうな音を鳴らした。僕はギターに耳を近づけ、譜面に示された最初の音を出した。――それをするまでもなく、既に気付いていたのだ。僕は黙って譜面を引き裂いた。なんてつまらない曲なんだ! ――僕は柊真に言われた言葉を思い出していた。成程、僕の歌は何も歌っていないに等しいじゃないか。何が音楽理論だ、何がポップスだ。この思いだよ、この胸を引き裂く得体の知れないモヤモヤとした感情を歌に吐き出せないでどうして歌と言えるんだよ! 僕は譜面を徹底的にバラバラにした――その譜面が僕の中にある灰色を象徴している気がしたから。僕はギターを掻き鳴らした。アンプを欠いたエレキはその熱情に対してふざけたような陳腐な音を返した。それ故 僕はギターを掻き鳴らした、より強く――それでは飽き足らず僕は歌った、めちゃくちゃな歌詞で――時には言葉に出来ず、叫びにも似たスキャットを歌った。突然、ギターの弦が弾け飛んだ。僕はそれでも歌い続けた。それは歌とは言えないものだったかもしれないが、僕にとってそれは今まで歌ってきた中で最も正しく「歌」であった。途中、このままいくと声が枯れてしまうのではないか、という予感が頭をよぎった。それでもいい、と思った。早沢さんと隣り合って話すことが出来ないのなら、こんな声など枯れてしまった方がマシだ。


 家への帰り道は土砂降りだった。僕はギターを守りつつ雨に濡れて帰った。家に帰ると姉がいた。姉は僕を見ると「たーくん、どうしたのそれ!?」と声を上げた。僕は久々に姉から発せられる家での呼び名に懐かしさと違和感を覚えつつ「いやちょっと雨が」と答えた。「そう言うことじゃなくって」姉はバスタオルを僕に被せつつ言った。
「お前さ、絶対なんかあっただろ」

 いったん僕は風呂に入り、それからリビングへ向かった。お風呂に入って気付いたことなのだが、右手に切り傷があった。ギターの弦が切れた時のものだろうか。僕は新しい弦を張りながら姉に尋ねた。
「僕になんかあったって、何で思ったの」
「何でもなにも、たーくんの目が真っ赤だったからじゃないか」
「そうかな」
「あちゃー、気付かないほど深刻な感じなの? 何があったのか、姉ちゃんに話してみ」
「そう……」僕は胸の中にあるモヤモヤした感覚を誰かに伝えたいという衝動に襲われていた。苦しいのだ、恋と言うのは。恋をする前、僕は例えば望みが薄いにもかかわらず告白をしてしまう人の気持ちが全く理解出来なかった。しかし今ならそれを理解出来る気がする。彼らは断られるために告白しているのだ。断られて恋にケリをつけ、胸の苦しさを、好きでたまらないのに届かないもどかしさを解消しようとして告白するのだ。僕はまさにそのような衝動に襲われ、苦しんできた。ならば姉に話して心を軽くするのはお得なことなのかもしれない――僕はそう思いつき、姉に全ての顛末を話した。姉は黙ってそれを聞いていた。バカにされるとばかり思っていたので、僕は肩透かしを食らった気分になった。唐突に姉は手を広げた。
「おいで、童貞」
「は?」
「いいから、」姉は最終的に僕の方に近づき、僕を抱きしめた。
「いいか童貞、これが人の温かさだ」
 僕は急展開に頭がついていかなかった。しかし感覚的に、僕は救われたような気になった。
「人というのは自分で自分の存在を確かめることが出来ない生き物だ」
 姉はそう囁き、僕をより強く抱きしめた。
「だから、こうして誰かがその存在を認めてやる必要があるんだ」
 その声は確かな響きを持って僕に届いた。
「そしてそれは誰しも同じだ――たーくんは誰の存在を認めてあげたい?」
 姉はそう続けた。
「ちょっとギター貸して」
 僕は姉にギターを渡した。「これでいいんだっけ」姉はたどたどしく弦を抑えた。

――Hey Jude, don't make it bad(ヘイ ジュード、悪く捉えるなよ)
Take a sad song and make it better(悲しい歌も明るい歌にするようにさ)
Remember to let her into your heart(彼女を受け入れるんだ)
Then you can start to make it better ……(そうすれば上手くいくさ)

 姉は歌い出した。か細く高い声で。しかし、確信を持って。

――And anytime you feel the pain, hey Jude, refrain(胸が張り裂けそうならさ、ヘイジュード、繰り返せ)
Don't carry the world upon your shoulders(何もかも背負い込まないで)
For well you know that it's a fool who plays it cool(分かるだろ、クールにやるのは愚かだ)
By making his world a little colder ……(そうやって世界を冷たくしてゆくんだ)

 「Nah nah nah ……」姉が歌い上げると同時に、僕は嗚咽を漏らした。今まで堰き止めていたものが溢れ出し、それは止まることを知らなかった。姉はそれに構わず歌い続けた。微かに紅潮した頬に、確かな意思を潜ませながら。

 季節は移ろい僕らは梅雨を迎えた。空には雲が立ち込め世界は陰に包まれる。色彩を失った街はますます暗鬱な表情を見せ、醸成されるペトリコールは僕らの脳内に絡みつき離れない。それはまるで早沢さんのいない日々を象徴しているかのようだった――僕の生活は今までに戻った――しかし僕は色彩を知ってしまったが故に灰色の日々を愛することが出来なくなってしまっていた。だからと言って何か行動を起こせるわけでもなく、僕は悶々とした日々を積み重ねるのみだった。
 変わったことといえば軽音だ。僕はビートルズHey Judeを聞いたあの日から曲のスタイルを一変させた。より自分の心に正直な曲を作ろうと試み始めたのだ。音楽理論は手段に過ぎないと分かった時、僕は新たな世界を見た気がした。

 文化祭まで残り一か月半――クラス委員が話し始めた。
「文化祭に向けて、監督と脚本係を募集します」
 僕の学校の文化祭は、一日目、講堂を舞台としてクラスごとに劇を作りその完成度を競い合う。その中でも重要な役割がこの二つである。監督の指揮が劇の出来を左右するのはもちろんのこと、脚本の出来は劇の出来に直接影響するものである。そして脚本の条件はオリジナルであることだ。それ故 クラス委員が募集をかけても手は挙がるはずが無い。
「それでは、推薦はありますか」
 僕は耳を疑った。推薦!? そんな決め方をしたら禍根が残るではないか――クラス委員の早く仕事を済ませたい魂胆が見え透いた気がして、僕は不快になった。
 その時、一人が高らかに手を挙げた。柊真だった。嫌な予感がした。柊真はこちらを見てニヤリと笑った。
「七海君を脚本係に推薦します」
 どよめくクラスをよそに、柊真は続けた。
「脚本というのは普段から文章によって何かを表現している人でないと書くのは難しいものです。しかしながらこの学校にはあいにく文芸部というものがありません。そこでそのような条件を満たしている人を考えた時、歌詞を普段から練り上げる経験をしている軽音部員が考えられるのではないでしょうか。それならば坂口よ、君が書けばいいじゃないか、という人がいるかもしれません。しかし繰り返しになりますが僕は七海君を推薦したい。彼の曲をずっと僕は見てきたのですが、最近急に曲が深くなった――月並みな表現しか出来ないのがもどかしいのですが――曲に奥行きが出てきつつあるのです。何があったのかは分かりませんが……ともかく、現時点において僕は七海君こそが脚本に最もふさわしい人だと思うのです」
 男子グループがこちらを見て薄ら笑いを浮かべる。僕は柊真に裏切られた気分になった。僕はいつだってクラスから距離を置いてきた。そんな僕にクラスの大仕事を吹っ掛けるというのがどんなに残酷なことか――そのことは誰より柊真が一番知っていると思っていた。しかし彼はそれよりもグループにおける彼自身の地位を優先させたのだ。僕はグループの薄ら笑いを見てふと思いついた――柊真はもしかしたらグループ内に出た僕を貶めようとする動きに同調せざるを得なかったのではないだろうか? そこで思い出すのは数週間前の出来事――美都について聞かれた時の僕の受け答えだ。「僕は今、この世で最大級にカチンとくる事例の一つを思いついたよ。それはズバリ、『自分が好きでも無い人――むしろ嫌いなくらいの人のことを好きだと勘違いされること』だ」――もしかしたら、この言葉が契機となり、僕に対する「なんかあいつ気に入らないよね」という負の感情が、グループという閉鎖的な環境の中で少しずつ増幅されたのではないか――その顕現が柊真の言葉だということなのではないか? 僕はその思いつきにある程度の自信を持っていた。そしてその思いつきは続く柊真の言葉で確信に変わった。
「……なんなら、僕が監督になってやってもいい」
 柊真はそう呟いた後、少し鼻の下をこするような動作をしてから前を向き直した。柊真は彼に出来る最大限のフォローを僕に示したのだ。
「七海君はそれでいいですか」
 クラス委員は同情と賤しみの入り混じった目を僕に向けて言った。僕はこの数分でクラスにおける僕の立ち位置が急速に固まったような気がした。
 いっそのこと、断ってやろうかと思った。何故 僕が柊真の尻拭いをしなければならないのか――僕は何ともやるせない状況の中でふと早沢さんを見た――僕は「救い」を求めたのかもしれない――早沢さんは透き通った目でこちらを見つめていた――早沢さんが何を思っていたのかは分からない。しかし僕はそれを見て呟いた。
「はい」


 「いやあ、前からさ、監督やりたいと思ってたんだよね。ちょうどよかったからさ、最後の一押しとして使ってみたわ」
 柊真は男子グループの中でそう笑った。僕はそれを複雑な目で見ていた。その時、誰かが肩をトントン、と叩いた。僕は思いがけないその感触に振り向いた。早沢さんがそこに立っていた。僕は心拍数が上昇するのを感じた。感情の読み取れない顔を向けて早沢さんは言った。
「頑張ってね、脚本」
 返事を考えているうちに早沢さんは女子のグループに紛れて消えてしまった。僕は早沢さんの言葉をしばらく転がしていた。次の授業が始まる頃には、キャンディをなめた後のようなほんのりと甘い感覚だけが心の中に残っていた。

 それから半月、僕は狂ったように脚本を書き続けた。脚本を書くというのは予想以上に大変な仕事だった。筋書きを考えるのは簡単なのだ。しかしそれを言葉にするというのは途方もない仕事なのだ。僕はテレビや本などそこらじゅうに転がる物語が大変な苦労の上に成り立っているものなのだと気付かされた。僕は全てを脚本に捧げた。文字通り全てだ――時間だけでなく思想・哲学さえも。恐らくそれは子供を生み出すようなものだったのだろう。脚本が出来上がるにつれて、僕はその脚本に僕の魂が宿ってゆくような錯覚に陥った。


「よく書いたよな、こんなにさ」
 脚本に目を通した柊真は感心した様子で僕に言った。
「よく言うよ、お前が書かせたくせに」
 僕は皮肉を込めて言った。
「その代わりに、こうして監督になってやったじゃないか」
 柊真は手を広げ、おどけて見せた。
「あー、そうだね」
 僕は適当な返事をした。
 クラスは休み時間だった。いくつかのグループで固まり、それぞれで昼ご飯を食べながら談笑している。僕らはそれから少し離れた教室の角で、劇について話し合っている。
「何で柊真はそんなに僕にかまうの」
 僕は少し真面目なトーンで切り出した。
「かまってるか?」
 柊真はなんとなく僕の言っていることを理解しながらも、敢えて一歩引くような物言いをした。
「わざわざ監督になってまで」僕はそう言いかけて、説明を補足した。
「柊真にとって、僕がどうなろうと、究極的にはどうってこと無い。むしろ監督になるっていうのは、自分のすべき仕事を増やすことになるし、男子グループにおける柊真の立ち位置を危なくする可能性がある。僕と男子グループとは、今や対極にあるからね。それにもかかわらず、柊真は監督になった。どうして僕にかまうんだ?」
「監督になったのは、俺がやりたかったからだ。男子グループ云々の話は、俺には全く分からんね」
 柊真はとぼけて見せた。「ふーん」僕は脚本が印刷された紙を机の上で整えた。
「――本音で語れる人を、手放したく無かった、ってことかな」
 僕がその場を立ち去ろうとすると、柊真はそう呟いた。僕は黙って柊真を見た。柊真は困ったような表情を浮かべた。
「ま、同じ名前に『真』がある同士だし?」
 柊真はわざとらしくそう言って笑った。僕も少し笑った。タイミング良く、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


 「文化祭の脚本が出来ました。書きたてホヤホヤです。今から配ります」
 柊真はそう言って紙を配り始めた。その間にクラス委員が言う。
「明日までに全員、一度 目を通してきてください。また、今から劇の役割分担をしますが、キャストになった人は特にしっかりと読んでくること。よろしくお願いします」
 クラス委員は気だるげにそう言い、手元のメモを見た。
「続いて、劇の細かい役割決めに移ります。大道具、小道具、衣装、音響、照明――以上五つに、監督である坂口君以外 全員 入っていただきます。また、これらの役割が決定した後は、劇関連の仕事は監督に移行するものとします。この理由から、役割決めについて監督の意向がございましたらお聞きしたいと思いますが、坂口君、いかがですか」
 堅いクラス委員の物言いに、柊真は頭を掻きつつ立ち上がった。
「えーと、取り敢えず、七海君にはギリギリまで脚本を詰めてほしいと思っているので、あー、でも脚本をよく理解してくれている貴重な人材なので、仕事が少ないけれども重要な役割である照明に回ってほしいですかね。照明、極端なことを言ってしまえば、仕事は本番と二回ある講堂での練習しかないじゃないですか。同様に、やる気はあるけど忙しい、みたいな人は照明に入ってほしいですかね」
「ありがとうございます。今のことを踏まえて、照明をやりたい人はいますか」
 僕は驚いて柊真を振り返った。そんなことを言ったら――
「私は委員長の仕事があって忙しいので――でも出来る範囲でクラスに貢献したいと思っているので、照明、いいですか?」
 早沢さんはそう言って照明に立候補した。
「はい、他には……いないですかね。照明は二人で充分なので、早沢さんと七海君が照明ということで良いですか」
 柊真は満面の笑みで僕に小さく親指を突き立てた。クラス委員の提案は拍手を以て承認された。


 その日の放課後のこと、僕は美都に呼び出されて街中のカフェにいた。美都は「たっくんの脚本が出来上がってからでいいから」と言って僕に予約を取っていたのだ。僕はアイスコーヒーを注文し、それをひたすらストローで掻き混ぜ続けていた。エアコンが良く効いているのか、氷はそれでも一向に解ける気配が無い。コーヒーの苦さがやけに口につく。美都は黙り込んで紅茶を啜っている。似合わねえ。美都に似合うのは小さい頃から今までずっと、髪を後ろに纏めバトミントンをしている時に飲むスポドリだ、と僕は何故か意地になりつつ思う。
「あのさ、たっくん」
 脈絡無く美都は切り出した。
「何?」
 僕は返事をした。必要以上に感情が入りすぎないように、かつ必要以上に不愛想にならないように気を使いながら。
 今にも泣き出しそうな美都の顔。それを見て僕の決意は少しだけ鈍る。それを誤魔化すようにコーヒーを流し込む。苦い。
「小さい頃から今まで私、ずっと、ずっと、ずっと……」
 美都はそう言って下を向いた。耳まで赤くなったその顔に僕は美都と遊んだ日々を思い出していた。美都の顔は運動をするとすぐに火照ってしまうのだ。頑張れ、美都。僕は心の中でそう呼びかける。まるで当事者じゃないみたいだな――少しだけ自分に呆れながら。美都は意を決して僕に向き直す。
「たっくんのことが好きです!」
 その声は過不足無く僕の心に響く。真っ直ぐ僕を見つめる美都の視線が痛い。
 僕は戦略的な困惑顔を浮かべ、頭を少し掻く。
「ありがとう、凄くうれしい――そして、ごめん。このことは、誰も言わないでほしいんだけど、僕、ゲイなんだよね」
「へ?」
 美都はあからさまに当惑した表情で僕を見る。時間を置いて、状況を飲み込めたのか表情を素早く整える。
「そう……なんだ、初めて知った――気付かなかった」
 美都は思い出したようにティーカップに手を伸ばす。カチャカチャ、と音を立てて持ち上がる白い容器。
「難しいかもしれないけどさ、幼馴染として、今までと同じように付き合ってくれたらうれしいな」
 僕は託すように美都に言葉を投げかけた。
「もちろん。たっくんを手放すなんて、出来るはず無いじゃんか」
 美都はそう言って笑った。


 「お前は本当にそれでいいの?」
 美都とカフェに行く約束をした次の日の放課後、僕と柊真しかいない軽音の活動場。柊真は僕にそう問いかけた。
「いやさ、さっきは反射的に叩いちゃったけどさ、それは本当にごめんだけどさ……あー、なんつーか、すっげーお前らしいよ、うん」

 軽音の活動が終わった後、僕は柊真を呼び止めた。そこで、僕は柊真に自分の葛藤を伝えた。早沢さんのことが好きでたまらないということ。美都に好意を向けられており、恐らくカフェで告白されるであろうこと。僕としては美都と幼馴染として友人のままでいたいということ。
 僕はそれらのことについて、美都からカフェに誘われた日、夜通し悩んだ。それでふと思いついたのが柊真のことだった。

「覚えてるか? いつか柊真が僕に、美都のことで謝ってきた時のこと。僕はふと、あの時のことを思い出したんだ。あの時 僕は柊真に『柊真がそういうのじゃないってこと、僕が一番知ってるから』って言った。だって、柊真はずっとそういうことで苦しんできたんだもんな」
「俺はゲイだ。確か拓真に――一年生の時だったかな――こう言ったことがあるよな、『ゲイであるってことを、笑いのネタに出来るくらいの社会になればいいのに』ってさ。俺、あの時のことを拓真が意識して、軽音終わりに俺を呼び止めて『美都から告白されたらゲイって答えたい』って言ったのかと思ったんだ。何知ったような口叩いてんだ、って反射的に拓真の頬をはたいちゃったけどさ、理由を聞いてみたら、誰もが不幸にならないような選択として、そんな嘘をつこうとしているんだ、って分かった。優しい嘘だと思った」
「僕がゲイだって美都に言えば、美都は恋を諦めざるを得ない――もの凄く心苦しいけど。それでもきっと、友人のままでいてくれるだろう。早沢さんの方は――僕は早沢さんを純粋に好きなままでいられるなら、それでいい」
「誰も傷つかないように配慮するところ、ほんっと拓真らしいよ」
 柊真はそう言ってから、呟くように付け足した。
「――自分が傷つかないようにするところも」

 「ごめんね、時間が無いからって、こんな休日に打合せすることになっちゃって」
 早沢さんはそう言って本当に済まなそうな顔を僕に向けた。僕は「いやいや」と首を振って応じた。「そんなに首 振らなくても」早沢さんの顔がほころぶ。

「夜、主人公が孤独に悩むシーンがあるじゃん? 『僕がこの世界にいる意味って、どこにあるんだろう。僕がいなくなっても、この世界は変わらずまわり続けるんだ』――って。照明を考える上で、このシーンについて詳しく知りたい。七海はさ、このシーン、どういうニュアンスを出したいと思って書いたの?」
 早沢さんはテキパキと僕に質問を飛ばしてきた。ああ、仕事が出来る人だ。僕はそう思った。そしてそれ以上に――僕は早沢さんを見た。
「早沢さん、すっごい脚本 読み込んできてくれているよね」
 早沢さんは一瞬きょとん、とした表情を見せ、それから僕に言った。
「当たり前でしょ、七海が苦労して書いてきてくれた脚本だもん。ちゃんと受け止めないと、失礼でしょ」
 「それに――」早沢さんは少しだけ僕から目を逸らして言った。
「凄い共感できるから、主人公の悩みとか、感じ方とか――」
 僕はトクン、と心臓が波打つのを感じた。その一瞬で僕は早沢さんと思想を共有したような錯覚に陥った。
「早沢さんはこの主人公みたいに、夜に不安になること、あるの」
 僕はかなり攻めた質問をした。
「あるよ。夜はいっつも不安で、さみしくって、泣きそうになる。――私の友達、結構早く寝ちゃう人多いし、LINEで喋ることも出来ない」
「そうなんだ――」僕は場が暗くなりすぎる前に切り上げるのは僕の役目だと感じた。
「まさに主人公もおんなじことを考えていて、僕らはそれを照明で上手いこと表現する必要があるよね」
 わざと明るいトーンで言った。早沢さんの顔も少しだけ明るくなる。
「ちょっと紫を入れた薄暗い光とかどうかな――青に寄った紫」
「なるほど、それはいいかもしれない。スポットライトは入れる?」
「普通なら入れるけど……無くしてみても面白い」
 早沢さんとの会話はまさに弾むように進んだ。終わりには、僕と早沢さんはすっかり打ち解けて、LINEも交換した。早沢さんのプロフィール画像やステータスメッセージを読んで、密かに幸せな気持ちになっていたのは秘密だ。

 講堂練習。初めて扱う照明器具に戸惑いながら、僕と早沢さんはなんとかその仕事をやり遂げた。「やったね」うれしそうに言う早沢さんの笑顔が眩しい。「うん」僕の顔も自然にほころんでしまう。マズいな、平常心、平常心……そう心に言い聞かせる。


 講堂から教室に帰り、「ちょっと脚本について」と柊真に呼ばれた。僕らはそれからしばらく脚本について議論し合った。後で周りから「坂口君も七海君もあんな風に話すことあるんだ」と驚かれた。「いや、軽音では大体あんな感じだよ」僕は少し上機嫌にそう言った。


 「頑張ってるね、文化祭」
 カフェで告白された直後と比べると、下校中の美都との会話もだんだんと普段の落ち着きを取り戻していった。僕はその幸せさをしみじみかみしめていた。
「そうだね、柊真が良くやってくれているからね」
「うん、ほんっとうに、そうだよね」
 美都はわざとらしくそう頷いた。僕はその態度に少しの違和感を抱いた。
「あ、お前さ、俺が柊真を好きだって思ってるだろ。俺はゲイだけどさ、柊真は友人として好きなだけだぞ」
 美都は静かにかぶりを振った。
「たっくんさ、そんな嘘、つかなくていいから」
 僕は表情が強張るのを感じた。バレてた――?
「バレたって心配してるでしょ? 安心しなよ、全部 坂口君から聞いた」
「え?」
 僕は困惑を隠せなかった。
「本当は好きな人がいるんでしょ。でもそれを言って私と気まずくなるのが嫌で、わざと嘘をついたんでしょ」
 やれやれ、柊真の奴――僕は何だか柊真の手の上で踊らされていたような気がした。その時、ふと疑問に思った。柊真がゲイであることは、美都に説明したのだろうか?
「まあ、うん。……柊真は何か言ってた?」
「何かって?」
 そっか、言わないのか――僕は何となく複雑な気持ちになった。

 夏本番。照りつける太陽は僕らの体力をじりじりと奪ってゆく。しかし、生命が最も輝くのもまたこの季節である。自己主張を続ける蝉の声の中、僕は太陽を睨み付ける。
 勝負だ、太陽――


 早沢さんは見るからに夏バテしていた。本人は気丈にふるまうものの、明らかに笑顔が減っている。これまでの仕事の疲れが一気に出ているような感じだった。そんな中、二回目の講堂練習が始まった。

 早沢さんはミスを連発した。練習が終わってから、早沢さんが僕に詫びてきた。
「ごめんね、言い訳するわけじゃないけど、昨日、調子が悪くて、照明の動き、ほとんど確認出来てなかったの……」
 僕は「早沢さんが大変なの知ってるから」と静かに首を振った。「ごめんね」早沢さんは少しだけ目を潤ませてそう言った。僕は何も言うことが出来なかった。


 真夜中。僕は早沢さんの泣き目が忘れられずLINEを開いた。「最近更新されたプロフィール」に早沢さんのアカウントがあり、僕はそれを開く。『文化祭がんばろー』いつもと変わらぬそのメッセージに、いつもとは違って続きがあることに気付いて僕はスクロールする。何も書かれていないスペースが続き、最後にちょこん、とメッセージがあった。
『潰れちゃいそうだよ』
 僕はそれを見て、胸が締め付けられるような思いがした。そのままの勢いで、早沢さんにメッセージを送りたい衝動に駆られた。「大丈夫?」「起きてるー?」「がんばろうね」――考えた言葉がこの上なく陳腐なものに思えて、僕は結局それを送るのをやめた。

 朝、早沢さんのステータスメッセージを見ると、『文化祭がんばろー』という言葉が残っているのみだった。


 「早沢さん」
 僕は休み時間、早沢さんを少しだけ呼び止めた。
「仕事、大変そうだから、ちょっと照明の担当箇所をいじってみた」
 僕は早沢さんにその紙を渡した。
「ありがとう……」
 早沢さんは複雑な顔でそれを受け取った。僕はそんな早沢さんを ただ見ることしか出来なかった。もどかしさが体の中を駆け巡っていた。遠ざかる早沢さんの体がひどく小さく見えた。あんな小さな背中に大きな仕事を背負わせているのか――僕は自分が情けなくなった。僕に出来ることは――僕は拳を握った。
 僕に出来ることは、クラス劇で金賞を取ることだ。

 それから文化祭まで どのように過ごしてきたのか、僕は全く覚えていない。柊真に聞いてみても、全く同じ答えが返ってきた。僕らはクラス劇に文字通り全身全霊を注いでいた。美都曰く「あの時の雰囲気は異常だった。皆 熱に冒されていたんじゃないかな」とのことだ。
 劇のことも全く覚えていない。そのくせハプニングだけは強烈に覚えている。キャストの一人が小道具を机から落としてしまったりだとか、背景のスクリーンの巻き上げが一瞬止まったりだとか。僕らはその舞台に一つの世界を表現することだけに全神経を集中していた。だからこそ、そのような記憶しか残らないのだろう。
 はっきりと覚えているのは、劇が終わった後の虚脱感だ。僕らは他のクラスの劇を見るでも無く、ただただ疲弊しきって教室でぐったりとなっていた。表彰式があると聞いて、僕らは重い体を持ち上げて講堂へと向かった。行動は綺麗に片づけられていた。そこには劇の面影は無かった。

 結果発表になると、皆 疲れ切っていながらも、ボルテージは否応なしに上がっていった。前評判では、僕らは金賞候補の筆頭だった。しかし、大道具賞や監督賞、主演女優賞など様々な賞が発表される中で、その自信は薄れていった。僕のクラスは他の金賞候補のクラスに比べて明らかに賞が少なかった。そんな中、いよいよ全体での賞の発表が始まった。
 銅賞は話題にすら挙がっていなかった、所謂ダークホースだった。それが発表されると、講堂内はざわめきに包まれた。それから、大きな歓声と拍手が鳴り響いた。
 銀賞。僕はこのタイミングで名前を呼ばれることを覚悟した。しかし、名前を呼ばれたのは僕のクラスと並べて金賞候補として挙げられていたクラスだった。会場は大きくどよめいた。柊真が僕の肩に手を置いて、確信に満ちた顔を向けた。講堂内の熱気は最高潮に達していた。僕らはたった一つの名前を聞くためだけにその場にいた。結果発表者の口が開く――

 正直、何と言われたのか聞こえなかった。雪崩れ込むような歓声だけが聞こえた。頭をもみくちゃにされて、何が何だか分からなかった。息さえできないような状況の中、柊真の姿を確認出来た。柊真ももみくちゃにされていた。柊真がこっちを見て笑った気がした。僕は泣いていいのか笑っていいのか分からずに、またその感情を抑え込もうとして、顔の痙攣が止まらなかった。何なんだよ、これ。


 場が落ち着くと、柊真と僕は壇上に上がることを求められた。僕は夢見心地で壇に上った。柊真はうれしくってしょうがないと言った様子だった。
『それでは皆さん、まずは脚本を担当した七海拓真君にインタビューをしたいと思います! 七海君、今の気持ちをお聞かせください!』
 僕は話の結論を考えること無く、そのまま感情のままに話し始めた。
「この物語はハッピーエンドなんです。この物語は僕の理想というか、願望みたいなものを詰め込んだところがあるんです。僕、現実はこうはうまくいかないよなあ、なんて書きながら思っていたんですよ。でも……」
 僕は突然 言葉に詰まった。溢れ出す感情を止めようと必死に唇を噛む。口元が、肩が、いや、もはや体全体が小刻みに震える。
「ハッピーエンドって、本当に、あるんだな、って……」
 会場から歓声が上がる。僕は大粒の涙を目から溢れさせた。それは溢れ出したなら止まらなかった。立っているのもままならないほど僕は泣いた。
『監督の坂口柊真君! いかがですか?』
「僕はね、もう作品に関係無いこと言いますけどね、拓真に脚本を任せて、本当によかったなあ、ってて思うんですよ。こいつ、シャイなくせにクールを装おうとするから、全然クラスに馴染めて無かったし、自分の意見を言わないし。面白い奴なんですよ? それなのに誤解されまくるし……あれ、何を言おうとしたんだっけ、そう、そんな拓真がですよ! 主体的に劇を作り上げて、しかも公衆の面前でこう号泣してる! もう、これだけで金賞ですよ、何言ってるか分からないですけど。本当に、この劇を作り上げてくれた関係者各位に感謝しかありません。ありがとうございました!」
 大歓声。僕は顔から火が出るような思いがした。涙は収まる気配が無かった。
 そのままの流れで、インタビュアーがアナウンスした。
『それでは最後に、文化祭委員長の早沢陽菜より、ひとことです』
 早沢さんは肩を震わせて泣いていた。「すみません、七海君からもらい泣きして……」僕は何だか早沢さんに済まない気がして、また少しうれしい気もしていた。
「皆さん、本日は、ありがとう、ございましたっ……個人的には、自分の、クラスが、金賞を取るなどっ……うれしい、結果でした……明日もっ、文化祭は、続くので、皆さんっ、体調管理には、気を付けて……以上ですっ」
 早沢さんが頭を下げると、講堂は温かい拍手で包まれた。早沢さんは安心したのか、一段ギアを上げて泣いた。「お前ら泣き虫だな、お似合いだよ」僕にだけ聞こえるように言う柊真が何だかずるく思えた。お前だって声 震えているくせに。


 「クラス劇の金賞を祝して、かんぱーい!」
  グラスの音が高く響き、僕らは祝杯を挙げた。とあるバイキング店。僕らは打ち上げで互いの苦労をねぎらった。四・五人が集まるテーブルが複数あり、歓談の声が断続的に耳に入る。時折、劇中のセリフが聞こえてくる。クラス全員が共有している話題なのだから当然といえば当然なのだが、自分が紡ぎだした言葉が、大地に水が染み込むようにクラスに根付いているという事実は不思議なものがある。
 早沢さんの座るテーブルはコーヒーメーカーの近くにあった。僕がコーヒーを抽出しようとすると、早沢さんのテーブルの会話が聞こえた。
「それでさー、そのドラマに、『私のこと好きでしょ?』ってセリフがあるんだけどさー、男子ってそれでも気付かないもんなの?」
 普段 早沢さんと仲の良い女子が、最近のドラマについて語っていた。早沢さんは不思議そうに尋ねる。
「え? 何で『私のこと好きなの?』って言葉だけで、その女子が男子を好きって分かるの?」
 早沢さんの友人はわざとらしく溜め息をつく。
「あーもう早沢はほんっと早沢だなあ、これだから早沢は」
「え? え?」
 困惑する早沢さん。テーブルのメンバーは黙って微笑む。
「『私のこと好きなの?』って、嫌いな相手に向かって言える? そんなこと言えるってことは、満更でもないってことでしょ」
 早沢さんはその言葉をかみ砕いて、「ん~! 確かに!」と叫んだ。「早沢ニブすぎでしょ~」周りもそんな早沢さんを弄るのが楽しそうな様子だ。
「え~、でもそんなの、男子絶対わかんないって!」
 早沢さんが負けず嫌いを覗かせる発言をしたと同時に、コーヒーの抽出が終わった。
「七海はどう思う!?」
 早沢さんがそう叫んだ時、僕はコーヒーカップを掴み損ねそうになった。
「え!?」
 僕は素っ頓狂な声を上げて早沢さんを見た。テーブルにいるメンバーが僕の返答を待つ。おいおい。
「う、うーん、何というか……例えば僕の好きな人からのメッセージだったら、気づくかもしれない……」
 僕はそれを言った瞬間、耳が熱くなるのを感じた。女子たちは「う~ん、成程お」とうなった。「結局そういうことなんだよー」誰かが呟く。
 僕はそそくさとその場を立ち去り、テーブルに着くと同時にコーヒーを啜った。全く味を感じられなかった。


 「二次会行く人~」
 僕は明日 軽音のライブがあるので、二次会に行くのを少し躊躇っていた。二次会はカラオケということで強く誘われていたのだが、カラオケとなればなおさら行きたくは無い。
 手を挙げたのはクラスの三分の一ほどだった。早沢さんは行かなさそうだな、などとそれを眺めていると、小さく手を挙げる早沢さんの姿が見えたので少し驚いた。
「それじゃ、カラオケボックスに入るメンバーとして、三つにグループ分けします。適当に近くで三人グループを作ってグーチョキパーしてください」
 見る見る間に固まってゆくグループ。――あ、一人になるやつだ。そう思ったとき、柊真が僕の服をぐいっと引っ張った。お前もカラオケ行くのかよ。
 僕はチョキの手を挙げて仲間を探した。小さな手がチョキを掲げているのが見えて、僕はその人を見た。
「やった! 七海だ!」
 早沢さんは僕に笑顔を向けた。少しだけセットが崩れた髪さえも愛おしい。無理しなくていいのにな、と僕は思う一方、無理をするのも早沢さんらしいな、と思う。
「やっと七海の歌が聞ける! ――あ、まあ明日ライブやるんだろうけど、仕事で見に行けないかもしれないからさ」
 早沢さんはそう言って別のチョキを探した。自己紹介の時の言葉はお世辞じゃなかったんだな、と僕は思った。


 カラオケのグループは四人だった。僕と早沢さん以外の二人が積極的に歌いたがる人たちだったので、僕は喉を休めることができた。
「七海君、歌ってよ」
 二人が歌い疲れた頃合いを見て、早沢さんは提案した。僕は仕方ないかな、と思い曲を選んだ。
 早沢さんしか見ていなかった。

――君はロックなんか聴かないと思いながら
少しでも僕に近づいてほしくて
ロックなんか聴かないと思うけれども
僕はこんな歌であんな歌で
恋を乗り越えてきた……

 僕は灰色の日々を振り払うように、音程にかまわず感情の赴くままに歌った。歌い終わった後、早沢さんがぱちぱちと手をたたき、それにつられて二人も手をたたいた。
「さーて早沢、次はあんたの番だよ」
 歌いたがりの二人は早沢さんにそう嗾けた。
「七海の後だと下手に聞こえるからってそれはずるい! ずるいずるい!」
 早沢さんは駄々をこねた。僕は自然に上がってしまう口角を隠すためにお茶を飲む。やがて観念した早沢さんは曲を歌い始める。
「ヘイ ベイベー、ノッってるか~い!?」
 早沢さんがそう叫んだ時、ボックス内は爆笑に包まれた。早沢さんがリクエストしたのはゴリゴリのロックだった。小さな体から発せられるデスボイスが不釣り合いすぎて笑える。僕の早沢さんに対する過大な幻想・妄想が心地よく崩壊する。それは失望では無い。むしろ僕の心は高鳴っていた。
 早沢さんには敵わないな、と思うことがたまにある。
 僕には前に歌った人の返歌をしつつデスボイスで爆笑を誘い、さらには人をノせることなんて絶対できない。


 カラオケから出て、僕と早沢さんはたまたま帰る方向が一緒だった。夜にもかかわらずジトッとした熱気が僕らを包む。僕は早沢さんにコンビニに行くことを提案した。早沢さんはそれに賛成した。コンビニでは拒む早沢さんを制してアイスを奢った。アイスを手にした早沢さんは見るからに目が輝いていた。無邪気だ。
「今日はありがとう。とっても楽しかった」
 コンビニから出たところで、僕は早沢さんに頭を下げた。
「――それに、文化祭の委員長の仕事も。照明も」
 僕はコンビニの前で頭を下げ続けた。傍から見れば完全に不審者だ。それでも僕は頭を下げ続けた。僕は早沢さんに色彩を貰ったのだ。
「そういえばさ、写真、七海と撮ってなかったよね」
 頭を下げ続ける僕をよそに、思いついたように早沢さんは言った。
「え? ああ、そうだね――早沢さんとは撮ってない」
「撮らない? 後で送るよ」
 間髪入れず早沢さんはそう言い、僕に体を寄せた。
「七海ってさー」
 スマホのインカメを向けつつ、早沢さんはシャッターを押す。
「私のこと嫌い?」

「えっ」
 僕は頭が真っ白になり絶句した。顔が強張り、なぜか怒りが湧き上がった。
「そっ、そんなわけないじゃん!! 僕は、僕は、……早沢さんを、とっても尊敬している。凄いと思っているんだ。嫌いなわけ、無い」
 早沢さんは二重の目をこちらに向けて、それを静観していた。そしてふふっ、と笑った。
「七海~、怖いよう~」
 僕はハトが豆鉄砲を食らったようになった。「え、ああ、ごめん」なんでこんなに上手く話せないんだろう。
「七海ってさ、絶対私のことを『早沢さん』って呼ぶよね。呼び捨て、してくれないよね」
 早沢さんは少しだけ不満げにそう言った。僕は何て言えばいいのか分からなくなり口を閉ざした。
「七海ってさ、なんか冷たい。クールを装ってるけど本当は面白くって、優しくって、本音を話すことができる人なのに、何というか、ほんっとうの心の中、核心のドロドロした部分だけが隠されている気がする。まるでそこだけが氷の壁に閉ざされているようにさ――ごめん、何言ってるのか分からないけど」
 「そんなことない」僕は上辺だけの否定をして見せた。僕は困惑していた。僕の本当の心は――
「じゃあさ、七海はさ、私のことが好きなの!?」
 早沢さんは下を向いて叫んだ。僕はバイキングのことが即座に頭によぎり、いよいよ訳が分からなくなって、思わず口に出してしまった。
「す、好きに決まってんじゃんか!」
 早沢さんが顔をあげて僕を見た。僕はその上気した顔を見て、恥ずかしくなって言葉を続けた。
「早沢さんの、夏バテしてるくせに頑張り続けるところとか、ラインに弱音を夜中にはくくせに朝になったら消してるところとか、もうなんか、『早沢さんはがんばってるよ』って、『そんなに頑張らなくていいんだよ』って抱きしめたくなるんだ」
 その言葉を言い終えるか言い終えないかというタイミングで、早沢さんは僕に抱きついた。肩を震わせて、泣いていた。
「私、頑張ってるよね? 辛いよお、明日、学校行きたくないよお。行きたいけど、行きたくないよ、行きたいけどお」
早沢さんは冗談めかしながらも泣きじゃくりながら言った。僕は早沢さんを恐々としつつ抱きしめた。そして頭をポンポンと撫でた。その全てが繊細で溶けてしまいそうだった。
「七海がこの世界にいて良かった」
 早沢さんはそう呟いた。僕は心の中で何かがほどけた気がした。
「――早沢がこの世界にいて良かった」