LIFE LOG(あおいろ文庫)

シナプス

9作目です。
「空気のように透明な魂でありたい」と願う高校三年生の角田は、サッカーの授業でキーパーをして思いがけず活躍したことをきっかけに、自身の過去を思い出し、本当の生き方に気付き始める。
4,857文字



眼前に蹴られたボールをとっさに弾くと、試合終了のホイッスルが鳴った。

「角田くんって、サッカーやってたの」
僕は黙って首を横に振った。
「……そうなんだ、キーパー上手かったよ」
「……ありがとう」
「……」
「……」

県庁所在地の市内にある進学校
社交性に欠けた高校三年生。
願わくば、空気のように透明な魂でありたい。

前の席の奴がこちらを振り返って訊く。
「角田はシナプスって知ってる」
「脳に関するものである、としか」
ニューロンニューロンとのつなぎ目のことなんだけど」
ニューロンは脳のネットワークみたいなものだっけ」
「そう、ニューロンは迷路みたく複雑に絡み合っていて、シナプスでそれぞれに繋がって信号を伝える――たまに脈絡なく繋がって、無関係な記憶を結び付けてしまうこともある」

僕というくうな存在は、知的好奇心をたぎらせた学徒の、その熱量のはけ口にふさわしく、それゆえ聞き役としての存在意義が与えられている。
たとえばボクサーの家にサンドバックがあるように、無機的でも手ごたえのある存在は、一応、需要があるらしい。
しかしそれは僕の「透明願望」には程遠く、そんなふうに、願望に相反するような行動や思考をしてしまう僕を僕の中に見つけるたび、僕は僕を嫌悪する。

網目構造をしたニューロン――脈絡なく統合する生の活動――

生きるというのは、体系化するということだと思う。
一方、この世界は無秩序であると思う。
つまるところ、生きるというのは、無秩序なものを体系化する、虚しい営みであると思う。
ちょうど今ここにある体が、いつかは灰になるように。

家に帰るために電車を使う。
建物の間隔がだんだんとまばらになり、市をまたいで僕の住む町へと向かう。
十八年間住み続けた町であり、十八年前とは違う町でもある。
降りる駅が近づくと意識が水面から顔を出し、僕は現実を知覚する。
その時までは、いつもと変わり映えしない駅のホームがそこにあることを信じて疑わなかった。

――そこは文化会館の中庭だった、、、、、、、、、、、、、
――僕の体は小学生のそれだった、、、、、、、、、、、、、

広い敷地に、丁寧に整備された芝生が張られていた。
そこに、サッカーボールを持った少年が現れた。
僕らはいつものようにサッカーをした。
僕はこんなところでサッカーをしたらいつか職員に怒られるんじゃないかとビクビクしていた。
少年は「いちいち細けえんだよお前は」と僕を殴った。
少年の名は中道修斗といった。
彼は僕を支配下に置きたがった。

修斗の家は文化会館の隣にあった。
いかにも貧しげなボロ屋敷として有名だった。
僕の家もその近くにあった。
だから小学校への集団登校や家への集団下校で一緒になることは避けられず、彼との関係を絶つことはほぼ不可能だった。

僕らはひとしきりサッカーをして、それから僕の家に向かった。
母が二人分のジュースを持ってきて、
修斗くんは、やっぱり、プロサッカー選手を目指してるの」
と尋ねた。
「もちろん」
修斗は自信満々に答えた。
「それじゃあ、この子が相手だと物足りないでしょ、翔馬くんとは一緒にやらないの」
翔馬というのは、同じ学年にいる、サッカークラブに通っている奴のことだ。
「いやあ、こいつはド素人だから逆にいいんすよ、動きが予測できなくて」
修斗はなぜか熱心に続けた。
「それにこいつ、意外と上手いんすよ、キーパーやらせたら反射神経がよくて」

僕はその時ふと思いついた。
修斗は僕とサッカーがしたいんじゃないし、支配下に置きたいわけでもない?

「あらあら、それは嬉しいわ。そうだ、修斗くんに、今のうちにサイン貰っとかなきゃ」
「え、俺、サインとか書けないっすよ」
「普通に書けばいいじゃん、修斗、しんにょう上手いんだし」
僕はそう言って修斗のご機嫌をとった。
彼は先生に、「中道」の「道」の字のしんにょうが汚いことを注意されて、それからしんにょうばかり練習して、先生に褒められていた。
「しんにょうが上手いって、どういうことなの」
「見ていればわかるよ」
修斗はペンを軽く握り、「中道修斗」と丁寧に描いた。
「ほんとうだ、この『道』のしんにょう、とても上手。ありがとね、修斗くん」

僕は雑学を思い出して、
「ところで、『道』の漢字の成り立ちって知ってる」
と問いかけた。
修斗と母は異口同音に「知らない」と言った。
「しんにょうは道を表している。じゃあ、この『首』は何だと思う」
二人は皆目見当がつかないようだった。
「実は『首』はそのまま『首』を意味していて、その昔、道を歩く時に、刎ねた首を持って悪霊払いしたことに由来するらしい」
修斗は「怖えーよ」と突っ込んだ。

「そういえば、この子の夢が何か、修斗くん知ってる」
「え、知りません」
「そうなの、わたしも知らなくて。小さい頃は『路線図になりたい!』って言ってたのよ」
「ふはは、なんだそれ。てか路線図って。何がいいんだよ、路線図の」
僕は少しうんざりしながら、昔を思い出して、
「いろんな路線がぐちゃぐちゃしているのって、なんだかワクワクしたんだよ。それをでたらめになぞっていったら、何だか知らないところに辿りついたり、同じ場所に戻ってきたり。『あれ、交差しているところで別の路線を辿っちゃったかな』って」
と言って、少し恥ずかしくなった。
「おもしれーな、それ」
修斗は意外にもその話に興味を持ち、笑った。
「実際に、ループして同じ場所に戻ってくる路線もあるけどね、山手線とか」
母も話に乗ってきたので、僕は安心した。
「え! じゃあずっと乗ってたら、一周できるってこと」
修斗は目を輝かせて言った。
「そうね、まあ一周したところでって話だけど」
「え、でももう一周したら、新しい発見があるかもしれないじゃん」
僕はそう言った。
母は「それもそうね」と笑った。

それから修斗は僕を外に連れ出した。
日が傾いていた。
「サッカーをするにはもう遅いぞ」などと思っていると、保育園に辿りついた。
修斗はさも当然のように柵を乗り越えて敷地に入っていった。
僕が戸惑っていると修斗
「はやくこいよ」
と不機嫌そうに言った。
僕が何か言おうとすると修斗
「はやくこいっつってんだろ!」
と怒鳴った。

保育園のグランドは小さかった。
修斗は水道の蛇口を開き、ホースを使って散水し始めた。
グランドは瞬く間に水浸しになり、それが流れて川が作られた。
「なにやってんだよ!」
と僕が堪えかねて叫ぶと、修斗
「楽しいからいいんだよ!」
と声を張り上げた。
水の粒が斜陽に照らされて宝石のように光っていた。
それらが集まって虹の橋を架けていた。
「怒られても知らないぞ!」
と僕がさらに大きな声で言うと、
「怒られるって?! 誰に! 何を?!」
修斗は開き直ったように咆哮した。
あまりにも常識外れの問いにかえって戸惑っていると、
「お前はいちいち考えすぎなんだよ!!」
修斗はホースをこちらに向けた。
水の軌跡が蛇のようにうねって僕を目指した。
その一粒一粒が狂喜的に躍動していた。

ばしゃばしゃばしゃ

冷たい水は朝の目覚めの合図だ。
僕はもう一度水を掬って顔にかけた。
ばしゃばしゃばしゃ
顔を拭いて高校指定の学生服を着る。

駅に向かって歩く。
文化会館の隣にあった修斗の家は更地になってしまった。
修斗は苗字を変えて別の場所に引っ越した。
僕に相談も何もなく、突然に彼はいなくなった。
しんにょうが上手いサインを書く「中道修斗」はもうどこにもいない。
プロサッカー選手になるという彼の夢は、案外、翔馬が叶えてしまいそうだった。
翔馬は僕の通う高校の近くの私立高校に通い、県内唯一のJユースに入っていた。
彼曰く、修斗の名前は聞かないそうだ。

駅前の交差点に、、、、、、、生首を持った青年がいた、、、、、、、、、、、
青年は制服を着て、無表情で立っていた。
彼が持つ生首は紛れもなく、、、、、、、、、、、、少年、、のあ、、の日、、の修、、斗の、、それ、、だった、、、
青年の顔はその修斗の顔の面影を残しつつ、全く別の誰かのようでもあった。
「久しぶり」
と青年は僕に声をかけた。
修斗か」
と僕が言うと、彼はほんの少し笑って、
「何年ぶりかな」
と返した。
彼の態度はいたって紳士的だった。
ひるがえって、彼の手には生首があった。
その生首は、かつて僕を圧伏させた奴のそれだった。
それはあまりに超現実的シュールな光景だった。
僕は堪えかねて吹き出した。
「ふはは、なんだよそれ、何で生首持ってんだよお前、ふはは」
彼は虚を突かれたような顔をして、
「いやいやいや、お前も生首背負っておきながら、何言ってんだよ」
と言った。
「は」
僕は背中に手を回した。
ぬめっとした感触がした。
見ると、それは少年の日の僕だった。
「ふ、ふはははははは!」
僕は恐怖と困惑と、それを上回るおかしみから、腹と生首を抱えて笑った。
「ふはは!」
彼もそこで初めて笑った。
「おいおいマジかよ、何でこんなことになってんの」
僕は笑いながら言った。
「いや知らねーよ、いつの間にかこうなってたんだ俺ら」
彼もおかしそうに言った。
「もうやめようぜ、こんなくだらないこと!」
僕は生首を投げ捨てて叫んだ。
「ああ! こんなもの必要ない!」
彼は僕より大きな声でがなった。
「やめちまおう! こんな少年の日をいけにえにするようなこと!」
僕は学生服を地面に叩きつけて哮りたった。
「さっきから何かいちいちむかつくんだよお前!!」
彼は理不尽にも僕の右頬にパンチを見舞った。
懐かしい痛みがした。
僕は笑った。
彼は泣いた。
僕も泣いた。
彼は笑った。
僕は笑って言った。
「おかえり、修斗

眼前に蹴られたボールをとっさに弾くと、試合終了のホイッスルが鳴った。

「角田くんって、サッカーやってたの」
僕は首を振って、
「小さい頃に友達とよくやってただけ」
と答えた。
「へー、キーパー上手かったよ」
「ありがとう」
そう言って僕は笑った。

前の席の奴をつついて僕は言う。
「なあ、トポロジーって知ってる」
「数学だっけ」
「そうそう」
「どういうやつなの」
「んー、例えば、トポロジカルに言えば数字の『9』とひらがなの『み』は同じだけど、漢字の『九』は仲間外れになる」
「え、どういうこと」
「粘土を想像してほしい。数字の『9』の『ひげ』の部分をぎゅーっと押し込んでいくと、だんだんと形は数字の『0』に近づいていく。ひらがなの『み』も同様だ。でも、漢字の『九』はいくら押し込んでも『輪っか』ができない。だから仲間外れと見なせる」
「あー、確かに」
「ようは穴の数で図形的性質を分けているんだ。これは例えば路線図に応用されていて、見やすくするために縮尺がいくら変わろうと、『路線のどことどこが繋がっているか』という図形的性質が変わらなければ、路線図としての体を成す――」

生きるというのは、体系化するということだと思う。
一方、この世界は無秩序であると思う。
だからこそ、何かを体系化する営みは、生きるということそのものだと思う。
ちょうどニューロンが、無数のシナプスを通じて他のニューロンを刺激するように。
僕らは邂逅を繰り返して生きていく。

青色の時代

高校三年生の夏、所属していた文芸部で最後に書いた作品です。8作目。
絶望を知って大人になりゆくけど君に固執する子供のままの僕もまたそこにあった。
intro:1,397字/みすかしあいしたい:17,580字/outro:483字//計19,480字

【intro】僕が僕だった日々は遠ざかり、だんだんと僕は僕でなくなってゆく

 歩道橋に手をついて、僕は目的も無く雑踏を見下ろしていた。午後八時半。人通りが多い。
 せわしない街の中で立ち止まっているのは、僕と『ビッグイシュー』を売っているおっさんだけだった。かたや制服、かたや赤の蛍光色。どちらもこの場における「異物」だった。
 『ビッグイシュー』が何であるか知っているだろうか。主に社会問題を扱う雑誌で、街角で販売員の手によって売られる。販売員はホームレスであり、雑誌が売れると、その売り上げの多くが販売員のものになる。公式ホームページ曰く、”チャリティではなく、チャンスを提供する事業“とのこと。
 僕はかなり前からここにいるが、『ビッグイシュー』は全く売れていなかった。だから僕は一冊それを買ってやりたかった。それでおっさんに「世の中捨てたもんじゃないぜ」と伝えたかった。しかし、あいにく持ち合わせが無かった。
 だから、世の中なんて捨てたもんだ、と思う

 昨日は始業式だった。桜舞う学び舎の下、何かが始まった気がした。だから今日、恋い慕う君に告白をした。ふられた。桜散る学び舎の下、何かが終わった気がした。
 勘違いしてしまうじゃないか、僕は馬鹿だから

 告白前日――つまり昨日――僕は君に「明日公園に来てほしい」と伝えた。君は「しょうがないなあ」と返した。
 だから僕は翌朝、君と一緒に食べるためのクロワッサンを気兼ね無く買えた

 僕は君の気をひくために、誕生日など節目の折にプレゼントを贈ることを忘れなかった。確実に僕の好意は勘付かれていた。
「私のことかわいいと思う?」
「かわいいと思うよ、普通に」
「どれくらい?」
「そこら辺の猫程度には」
「ふうん」「ねえ」「もう一度かわいいって言ってみてよ」
「はいはい」「『かわいい』」
 だから、プレゼントを買うときに、いつも頭によぎることがあった。
 どうせいい金づるだとか思ってるんでしょ
 別にそれでもいいんだけど
 モノだって愛だって、君の前では安いもんだ

「好きです。付き合ってください」
「ごめんなさい」
「……こちらこそ、ごめんなさい」
「友達としてなら付き合いたいんだけどね」
「ごめん」「とりあえず、クロワッサンだけ渡しておくね」
「わざわざ買ってくれたの」
「うん」
「……おバカさん」「いい人なんだからさ、私みたいなのに騙されてちゃだめだよ」
 騙されてなんかないよ
 騙されたけど、騙されてないんだ

 僕は君のことになると判断が狂ってしまう。君と夜遅くLINEをして、あの返信は良かったのだろうかなどと考えて眼が冴えてしまって、翌朝寝坊して学校に遅れてしまったときには自分で自分に驚いた。君と他の男が仲睦ましげに喋っているのを見た後、数学の問題で全然計算が合わなくて、思わず「なんっでこんなのもできないんだよ!」と叫んで教室が静まり返ったのは忘れられない。
 そんなんだから「しょうがないなあ」も良いふうに解釈してしまったのだ
 「しょうがないなあ」はその言葉通り「しかたないから面倒くさいけどついていってあげるよ」だったのだ
 馬鹿者

 歩道橋は意外と高さがあって、落ちたら打ちどころ次第で死んでしまいそうだ。
 だから僕はそこから飛び降りた。
 数えたら二秒も無かっただろう。けれどもその時間は永遠にも思えるほど長かった。
 僕はそれを確認してから顔を上げ、その場に背を向けて歩き始めた。
 さようなら
 『ビッグイシュー』のおっさんが遠ざかる。きっともう彼に気を留めることも無いのだろう。
 でも、それも僕だったよ





みすかしあいしたい

1. 見透かされている

 高校三年生になった春、僕はクラス替えの掲示を確認して、心の中で小さくガッツポーズを取った。周りにいる友人らはalmost goodとばかりに頷いたり笑ったりアンニュイな表情を作ったりしていた。僕はすました態度をして少し遠くにいる佐藤さんの姿を眺めた。佐藤さんはやはり僕と同じように彼女の友人らに囲まれて、くだらない話でもしているのだろう、こぼれるような笑顔を見せていた。それを隠すように口元に手をやる仕草が愛しい
「同じクラス、いぇい」
 清水はそんな僕を小突いてグータッチを求めてきた。
「うん、同じクラス」
 僕はそう含みを持たせて彼の拳に自分の拳を合わせた。コッ、という鈍い手ごたえと共に新学期が始まる。

 僕の苗字は上野である。新しい教室は左端から出席番号順に席が配置されるので、右利き用に作られている西向きの部屋の中、必然的に僕は窓際の席に座ることになる。だから春の景色を窓越しに見ると新学期なのだなあと実感する。小学校、中学校、高校と、見える風景こそ変われど、麗らかな光に照らされてほんの少し頬が気色ばむ感覚は変わらない。そう、それは去年の春も
「いい光だねー。って、この話去年もしたか」
 佐藤さんも同じようなことを考えていたのだろうか、窓の外と僕とを半々で見るようにして言った。「また隣だね」
 「うん」僕は何か気の利いた答えを返そうとして佐藤さんを見て頭が真っ白になって二の句が継げない。佐藤さんはそんな僕を見てほんの少し目を細めて笑う。
 見透かされている

 学校が終わって僕と清水は校門の横で駄弁っている。始業日であるのでまだ太陽が高い。桜の花びらがワックスでベトベトの清水の頭について、何だそれ、と笑う。
 清水はバスケ部のレギュラーで、僕は文芸部の一部員に過ぎない。彼は僕なんかと一緒にいて何が楽しいのだろう
さとるさとっちとお似合いだと思うんだけどな」
 清水は唐突にそう切り出す。佐藤さんのことをさとっちと呼んだり、僕をフランクに下の名前で呼んだりできる清水の方が、よほど快活な佐藤さんに似合っていると思う。
「いや、僕、佐藤さんに一度フラれてるし」
 僕が佐藤さんに告白したのは去年の秋だ。
「彼氏がいたんでしょ、しょうがなくね」
 佐藤さんのことを好きだと知っているのは清水だけだ。フラれた時もすぐに清水にそのことを言った。
佐藤さんにフラれた理由は「彼氏がいるから」だった。「もし彼氏がいなかったら僕と付き合っていたの」とは怖くて聞けなかった
 「――それにさ、」清水は僕の方を見る。
「さとっち、彼氏と別れたみたいだから」
「え、初耳」
「もう一度告白しなよ」
 清水は妙に急き立てる。
「――今日さ、後ろでお前とさとっちを見ていて思ったんだけど、お前ほんとにさとっちのこと好きだよな。会話の態度でバレバレ。事情を知っているこちらとしてはいたたまれなくて」
 だから今日は恋バナに積極的なのか、と腑に落ちた
「じゃ、俺帰るわ」
 自分の言葉に気恥ずかしくなったのか、清水はそう言って背中を向けた。

 佐藤千尋でさとっち、もしくはちーちゃんと呼ばれる。性格は明るい。○○委員会、というやつに多く所属している――皆の前に立ってしゃべっているのをよく見かける。真面目キャラではない。……と本人は公言する。しかし根が真面目であることは周知の事実である。責任感が強い。――というより、仕事をしなければクラスに居場所がなくなると思っている
〈わたし誰かから頼られている時いちばん生きていられる気がするの〉
 僕はたぶん佐藤さんについて他の人が知らないような側面をたくさん知っている。僕と佐藤さんとはLINEで強く繋がっている。寡黙な僕がLINEで饒舌になるのはともかく、普段から陽気な佐藤さんがLINEでは違うベクトルに自己表現をするというのは、僕にとって少し驚きだった。彼女のLINEはいわゆる陽キャのするような大雑把で薄くてそれ故に誰も傷つけない妥協の塊のような会話とは違って、繊細で濃密でそれでいて自分以外の誰も傷つけないような、厳密な言葉選びをしているものだった。それは現実の会話では確実に空中分解してしまうような内容だった。僕はそんな彼女の言葉を愛した
 佐藤さんの性格は暗い。皆の前に立ってしゃべる時は息継ぎがうまくできていない。真面目ではないと言い張るのは不真面目を憧憬しているからだ。彼女は中学時代に女子からハブられて、委員会で仕事をすることで先生を味方につけて何とか日々を乗り切っていた。生存本能から来る責任感に押しつぶされそうで彼女はいつも泣いているのだ――僕には分かる

「そういえば上野の小説読んだよ」
 昨日とは違って髪をぴょこんと後ろでまとめた佐藤さんは言った。
 小説? 文芸部は毎年夏に文芸部誌を発刊している。佐藤さんが言っているのは僕がそこに寄稿した小説のことだろうか。なんで今さら
 少しだけ戸惑う僕を観察するようにして佐藤さんは続ける。
「ねえ、上野ってさ、本当はああいうことしてみたいの」
 僕が書いたのはラブストーリーだった。心にどこか寂しさを抱える女の子を、男の子が無理矢理に連れ去って離さない、という王道の。
「あっ、もしかして実話とか」
 んなわけねーじゃん
「そんな顔しないでよ、面白かったよ小説」
 そうなんだ
 少しだけ照れるのを隠すために声を出す。
「ありがと」
「やっとしゃべった」
「何て返せばいいか分かんないじゃん」
「うはは」「それもそうだね」

 そっか、読んでくれたんだ
 面白いって言ってくれた
 考え方とか、価値観とか、そういった自分の中の深いものが、佐藤さんと重なり合った気がして、僕はしばらく目を閉じてその幸福感を体全体で味わった。
 今日のために生きてきた気がした

 深夜に佐藤さんとLINEをするのは楽しい。
〈そういえば昨日と髪型変わってたね〉
〈あっ気付いた?〉〈今日朝起きたらすごい寝癖でさ〉
 寝癖のついた佐藤さんを見てみたいと思った
〈そうだ、上野に聞きたいことがあるんだけど〉〈男子ってさ、ショートとロングどっちが好きなの〉
〈ショートかな、でもロングが好きな人もいると思うよ〉
〈ふーん、ありがと〉
 なんでそんなこと聞くの
 僕の言ったことを信じてショートにしてくれたりするの
 フッた奴の言葉で自分を変えていいの
〈ごめん〉
〈ん〉〈なんで謝るの〉
〈いや僕友達と関わり少ないから一般的な男子の傾向とか分からなくて〉
〈いやいや、上野の意見でいいんだよ〉
 それってどういう意味
 今彼氏のいない君が僕の言葉で自分を変えるということと、僕が告白した時に君が「彼氏がいるから」と断って、彼氏がいなかった場合については言及しなかったことの、ふたつを合わせた時に導き出される意味を、僕は額面通りに受け取っていいの
〈ごめん〉〈ありがとう〉
〈また謝る〉〈聞いたのはわたしだから、ありがとうはこっちのセリフだよ〉
 そう言って佐藤さんは僕の失敗を肩代わりしてくれた。
 なんでそんなに優しいの
 深夜に佐藤さんとLINEをするのは、胸が苦しい。
〈ねえねえ上野はさ、SかMかどっちなの〉
〈どうしたのいきなり〉
〈うへへ、いいじゃん別に〉
 酔ったおっさんかよ
〈佐藤さんはどうなの〉
〈わたし?〉〈わたしねえ……名前にSが入っているから、Sってよく言われるの〉
 一瞬画面の向こうに、指を赤い唇に添えて意地悪い表情をする佐藤さんが見えた気がした
〈だからMなわたしは隠れて見えなくなっちゃって、誰もそれを見つけてくれないんだ〉
 意地悪な表情を、上目遣いの甘えた表情に変えて佐藤さんは言った
 僕は佐藤さんが弱いのを知っているのに、僕だけは
〈でも僕も名前にSが入っているけど、どう考えても性格的に僕はSじゃないよ、だから名前なんて関係ないし、Mだって分かってくれている人もいるんじゃないかな〉
〈うむ〉〈確かにそうぢゃな〉〈よう言うた、そちに褒美を遣はす〉〈実際褒美など無いのぢゃがな、ぐはは〉
 ほんとに酔っているんじゃないのか
〈佐藤さん眠そうだけど大丈夫〉〈もうLINEやめる?〉
〈何を言う〉〈夜はまだまだ長いぞ、秋の夜長ぢゃ〉
〈春だけど今〉
〈上野はさあ、まだ私のことが好きなの〉
〈好きだよ〉
〈ほんと?〉
〈うん〉
〈ほんとにほんと?〉
〈ほんとにほんと〉
〈ほんとにほんとにほんと?〉
〈ほんとにほんとにほんと〉
〈わたし性格悪いのに〉
〈佐藤さんは性格悪くなんかないよ、優しいよ〉
〈上野はほんとのわたしを知らないんだよ〉
〈知っても知らなくても僕は佐藤さんのことが好きだよ〉
〈ねえ上野お〉〈なんで上野はそんなに上野なの〉
〈意味が分からないよ、ほんとに寝なくて大丈夫〉
〈うむ〉〈寝るよ〉

 僕はそれから三十分くらいぼんやり佐藤さんのことを考えて、もう完全に寝ただろうかと思って〈おやすみ〉と返信した。画面に映る佐藤さんの言葉をなぞると温かい
なんで上野はそんなに上野なの
 佐藤さんのことが好きな僕が僕だからだよ
 だから大切な佐藤さんを大切にしたいんだ
 僕も意味が分からないや、ごめん
 どうして佐藤さんはSとMの話をしたのだろう。どうして自分にMの要素があることを強調したのだろう。僕が佐藤さんを気遣って早く寝るように勧めたのは正しかったのだろうか。どうして佐藤さんは僕の気持ちが離れていないかを確認したのだろう。どうして最後の〈寝るよ〉だけ言葉遣いが素に戻ってしまった、、、、のだろう。
 僕の佐藤さんを大切に思う態度が、結果的に佐藤さんとの間に距離を置くことになったのだとしたら。それで佐藤さんが醒めてしまったのだとしたら。
 恋とは体温を感じられる距離感の中に生まれるものなのだろうか
 それならば僕は取り返しのつかないことをしてしまった

〈佐藤さん、今度学校一緒に帰らない?〉
〈えっいいけど……方向逆じゃなかったっけ上野〉
〈えーっと、ちょっと駅前のLOFTに用があって、佐藤さんそっちの方向だったなあって思って〉
〈うん、方向はそっち〉〈だけどわたしいつもその手前の駅から乗っていて、わたしは定期使えばタダだけど、上野はわざわざ一駅のために切符買うの勿体無いよね、どうする、歩いてく?〉
〈あーそっか、うーん、じゃあ一緒に歩きたい、ごめん〉
〈ううん、別にいいよ〉
 ほんとは最初から歩くつもりだったなんて言えない

 佐藤さんの歩幅は小さくて、僕はゆっくり歩いてそれに合わせる。
「上野は何買うつもりなの」
「んー鉛筆とか消しゴムとか、あとテープ糊が切れそうだからそれとか」
「あー鉛筆か、この前のマーク模試、わたし鉛筆持ってなくてシャーペンで塗ってた」
「そうそう僕も持ってなくてさ、だから買わなきゃと思って」
「じゃあわたしも寄ろっかな」
 そう言って佐藤さんはどういうわけか僕の方をじっと見た。
「何か顔についてる?」
「ううん。なーんか、もう受験生なんだなー、って」
 僕も佐藤さんの方を見た。佐藤さんはほんの少しだけ悲しそうな表情をして笑った。
「何か顔についてる?」
「ううん。なーんか、もう受験生なんだなー、って」
 あともう少しで佐藤さんに会えなくなっちゃうんだなーって
「ふふ」「もう駅着いちゃった」
 ガラス張りのビルが林立してそれぞれ空に伸びていた。さまざまな表情をした人がさまざまな格好をしてさまざまに歩いていた。僕はその時なぜだかここにいるのは実質僕と佐藤さんの二人だけなのではないかと思った。例えば今ここでガラスが一斉に割れて空に散り、僕たちの上に降り注いだなら。たぶん僕一人が彼女を抱きしめて、破片で切れた彼女の頬を優しくなぞり、それを合図に僕たち以外の世界全てが背景となる。笑っちゃうほどキラキラした空の青と、頬にひとすじ通る血の赤とがコントラストをなし、逃げ惑う人々の中で僕らだけが止まっていて、終わっていく世界の中、二人だけが幸せな結末を迎えるのだ。

「うわあ雑貨がいっぱい」「LOFTあんまり来たことないけど面白いね」「わたし文房具好きかも」
 はしゃぐ佐藤さんがかわいい
「あっ手帳、わたし手帳欲しいと思ってたんだよね」
 そう言って佐藤さんは水色の手帳を手に取った。
「じゃあさ、僕がプレゼントしてあげる」
「えっほんと⁉ いいの?」
「いいのいいの。ちょっとレジいってくるね」
 僕は店員さんにプレゼント用のラッピングを頼んでお金を払い、それから佐藤さんの方に戻った。
「ごめん待たせちゃって」
「こっちこそ、買ってもらっちゃって」
「佐藤さん、」
 僕は佐藤さんをまっすぐに見つめる。佐藤さんもそれに応えて僕に正対する。僕はプレゼントを婚約指輪みたいにして佐藤さんに渡す。
「僕と付き合ってください」

2. ポリシー

「ふふ、ふふふ、はは」
 佐藤さんは心底おかしそうにお腹を抱えて笑った。
「そっかー、そういうことだったのかー、ふはは」
 戸惑う僕をよそにして佐藤さんは笑い続ける。僕はきまりが悪くなってプレゼントを差し出す手を下ろした。佐藤さんはやっとのことで息を整えて、再び僕に向き合う。
「ごめんね、わたし違う人と付き合い始めたの。だから無理」
 世界から色が消えた
「……そうなんだ、それは残念。んーと。もったいないしプレゼントは受け取ってくれると嬉しいな、みたいな」
 僕はそう言って、佐藤さんにプレゼントを半ば押し付けるようにして踵を返した。
「ちょっと待ってよ、出口まで一緒に歩いてこ」
 振り切ることができないから僕は一生佐藤さんにかなわない

「そういえば上野は誰に、わたしが前の彼氏と別れたってこと聞いたの」
「それは……言わない」
「うはは、義理深いね上野は」
 そもそも清水が僕に、佐藤さんが前の彼氏と別れたということを伝えていなければ、こんなことにはならなかったのか、と一瞬思って打ち消した。悪いのは僕だから
「でもびっくりしたよね上野も、わたしがすぐに別の男に切り替えるような軽い女だって」
 卑下しないでよ自分を、僕がみじめじゃないか
「上野にはきっとわたしなんかより似合う人がいるよ」
 なんだよそれ、僕は佐藤さんがいいのに
「ねえ上野」「こんなわたしだけど、嫌いにならないでね」
 僕は僕を見上げる佐藤さんの顔を見た。
 嫌いになれたならどんなにいいだろう
 嫌いになれたならどんなに、嫌いになれたなら

 佐藤さんと別れた後ドラッグストアに寄って眠気覚ましのカフェインと水を買った。喉に水を通してからはじめて喉が渇いていたのだということに気付いた。寝ぼけた自分の考えを醒ますためにカフェイン錠を多めに摂った。見ていた夢は佐藤さんと一緒になることだった
 カフェインの興奮作用でハイになっていたが中身は空っぽだった。笑いが込みあげそうになるほど愉快な気分だったが大声で泣きわめきたいほど悲しくもあった。実際はそのどちらにもなれずに僕はただ顔をひきつらせていた。二つの相反する感情の波が渦を巻いて僕を呑んでいたが僕は普段と変わらない外面をしていた。
 狂いたいのに
 安くもないカフェイン錠をさらに口に含み水で流し込んだ。ほどなくしてガツンと倦怠感の波がきて思考を奪われた。ちょうどボディーブローを食らったような感覚だった。遠のく意識の中でカフェインの臭いが酷かった。感情はまるで街を襲う津波のように、激しさを消しつつ淡々と全てを壊していった。濁流の中で激しい腹の痛みと脱水症状を覚えてトイレに向かった。身体はどうにかして体内の異物を排除しようとしているようだった。つまり僕はまだ生きようとしている
 トイレの個室の中に一人だった。チープなスライド式の鍵で記憶がよみがえる。ここが最小単位だ、僕の砦だ
 幸せって何だっけ
 僕がいちばん幸せだったのはいつだろう。高校、勉強に追われる日々、中学校、仲間外れと踏みにじられた自尊心、小学校、必要とされたのはgoody-goodyな僕だけ、幼稚園、前ならえも歩く時の手の出し方も不自然な僕はだめなの
 違う、幸せは社会にはない
 僕は目を閉じて瞼の裏に映るぼやけた光を見た。その奥で波打つ自分の心臓の音を聞いた。世界が僕の大きさまで小さくなったような錯覚に陥った。だから安心した
 幸せは一人で作るものだった
 遠い昔の記憶――休日の昼下がり、僕はコタツ布団に体を埋めて本を読んでいる。温かさにまどろんで好きな時に目をつむる。瞼の裏の不思議な模様。読み終えたところに挟んだ指から伝わるザラザラした紙の感触。幼い頭で話の内容は数%も分かってはいないのだ、されどここではないどこかに少年は落書きのような夢を見る。きっと外ではサッカーをして遊ぶ子供の声が上がっているのだろう、しかし僕には聞こえない。僕には僕自身の心臓の音やコタツが熱を発する音、紙が擦れる音しか聞こえない。
 それが幸せだ
 それが幸せなんだ、僕にとっての幸せ
 DOMDOMDOM!!!!!!
「おいいつまで入ってやがんださっさとしろ!」
 意識が引き戻される。誰かがここをこじ開けようとしている
 ここは僕の世界だよ鍵があるから壊れない
 僕にはここしかないから壊そうとしないで僕の幸せ
 ――DOMDOMDOM!!!!!!
 気付けばそこは中学校のトイレだった。薄暗い個室、冷たい便座、ドアを叩くけたたましい音。
 それがどうしたというのだろう
 イヤホンで耳を塞ぎ本を開く。それだけで僕は世界から隔絶される。
 僕だけの世界、僕にとっての幸せ
 僕は難解な本を好んだ。分かりやすいストーリーは邪魔だった。僕は、僕の世界を得るためだけに本を読んでいた。その世界は断片的な理解の隙間にあった。誰かが作った物語は一片の塵に過ぎなかった。それを核として僕の世界が結実するのだ、その透明な結晶を僕は愛でた
 DOMDOMDOM!!!!!!
「駅員です! お客様から、ずっとこちらに入っているとお聞きしたので、様子をうかがいに参りました! 大丈夫ですか⁉」
 僕は顔を上げる。頑なに守り続けていた世界に終わりが近いことを知る。
「はい、大丈夫です、すみません」
 ドアを開ける――

「いい光だね」
「えっ」
「だからさ、君、ずっと窓の外見てたでしょ」
「うん、まあ……」
 外を見ていれば教室を見なくて済むからだけど
「それでわたし外を見たの。そしたらきれいだなあって思って」
「そうなんだ」
 僕は本を開いて会話をシャットアウトしようとした。
「えっ、ちょっと、なんで? もっと話そうよ」
 僕はそれに応えて、黙って本を閉じてうつむいた。
 少しくすぐったかった

 僕は自分で自分が分からなかった。どうして僕は佐藤さんを拒まなかったのか。
 人との交わりは不幸になるだけだと知っていたのに!

 ――ドアを開けると、そこには駅員も、トイレに入ろうとしてきた男も、誰もいなかった。僕はゆっくりと周りを見渡した。洗面台が三台。ジェットタオルが一台。大きな鏡が一つ。小さな窓が一つ。小便器が五据。個室が三つ。
 個室が三つあるなら僕の入っていたところのドアを叩く必要はないよな
 あはは、僕は本当に誰かの救いを求めているのだ
 僕に見向きする人などいないのに

 翌日、学校で隣に座る佐藤さんを僕は見ることができなかった。そのまま授業が始まると、僕は教科書を出し、普段とは違って机の右端に置いた。それではじめて佐藤さんの様子をうかがうと、佐藤さんはいつものような動作で教科書を左端に置いた。僕は左利きで佐藤さんは右利きなのでそれらはごく自然の行動だった。
 僕だけ頭がおかしかった
 昼休みは食欲が湧かずに手持ち無沙汰になって顔を伏せて寝た。周りにある全てのものが嫌だった。絶望は空気の色をしている

「上野はわたしに何か言いたいことがあるんじゃないの」
「別に何も」
「うそつき。上野が教科書を壁みたいにしていたのを、わたしが気付いていないとでも思った?」
 なんだ気付いていたのか
「それを指摘するなら佐藤さんが普段から教科書を壁にしていることを言わないと片手落ちだ」
 佐藤さんは一瞬唖然とした表情をして、それから僕を押し倒した。
うるさいうるさいうるさい。『上野が』『わたしを』避けるのがだめなの。ねえ上野、上野の世界にはわたし以外誰がいるって言うの? いるんだったら教えてよ」
 僕は頬を紅潮させた佐藤さんを見た。それ以外には誰もいなかった。何もない灰色の世界の中、佐藤さんだけが色を帯びていた。僕は佐藤さんを押し倒す。
「僕には佐藤さん以外いない、だから」
 佐藤さんは挑戦的な目で僕を見上げる。
「よく言えました」「だけどね上野、わたしの世界には上野以外にもたくさん人がいるの」

 そこで夢が醒めた。周りを見渡したが、そこには佐藤さんも清水もいなかった。
「おい上野、次の授業は化学室だぞ」
 クラスの嫌われ者の多田だけが教室にいた。
 こいつはなんで先にいかなかったのだろう
 僕は多田に興味を抱いて世間話を振った。多田はそれに、やや上機嫌で答えた。正直なところ話はあまり面白くなかった。それでも暇を埋めるには充分だった。暇――その隙間の正体は何だろう

 多田が嫌われている理由は判然とはしなかったが、嫌われているのは何となく納得がいった。
 ただ何となく、だ
 僕が多田に話しかけた日から多田は僕によく絡むようになった。彼は芸能関係の話を好んだ。誰と誰が結婚してどう思ったかを熱心に話した。やがて僕がテレビをほとんど見ないと分かると、彼は律儀に話題を変えた。
 相手のことをちゃんと考えている
 それなのに、何かが違う
 次の授業が体育で彼は僕を誘った。僕が少し机を片付けたくて「先に行っていいよ」と言うと彼は「一緒に行こうや」と僕を待った。トイレの前を過ぎると「しょんべんしたくなったわ、」と僕を見た。何、一緒に行けってか。僕は面倒くさくて「じゃ、先に行ってるね」と彼に告げた。彼は半笑いの微妙な表情を浮かべていた。
 僕が集中して本を読んでいると彼は「なあ、それ何て本」と尋ねた。そういうところだぞ、と僕は思って彼に強くあたった。
「あのさ、本読んでる人に話しかけるのって、かなりの罪だからな」
「あー、」「すんまそん」
 すんまそん
 彼はやはり半笑いでそこに立っているのだった。
 ある日僕は、いつものように僕についてくる彼に言った。
「ねえ多田、別に陰キャの僕と無理してしゃべってくれなくてもいいんだよ?」
 彼がクラスで孤立しているのを見越しての発言だった
陰キャの僕としゃべっている時点で、やばいって思わなきゃ」
 僕は続ける。
 なんでこんなにも彼に攻撃的になれるのだろう
 彼はいつもの通り半笑いだった。その半笑いの口から言葉が漏れ出した。
「俺さー、さみしがりなんだよな。だからさ、許してくれや」
 僕は足を止めて彼を見た。彼は依然として半笑いだった。
 ああそうか
 僕は悟った。
 本当に救うべき人は、救いたくなるような顔をしていない

3. 現実

 僕は小説を書いた。タイトルは『幸せになれない人』。首尾一貫して主人公は不幸であり、最期は自殺なのだが、その結果はなるべくしてなったものとして書いた。そこにはなんの主張もなかった。ただ一個の不幸な人間がいるだけで、その不幸の原因を主人公に押し付けることも、主人公に関わるものに押し付けることもしなかった。小説は新たに文芸部で発刊された部誌に載った。
 下世話な話が好きな多田に「さとっちと清水が付き合っているらしい」と聞いたのはちょうどその頃だった。僕は平静を装ってそれに「へえ」と返した。「いつから付き合ってるんだって?」「春休みからだってさ」――ふーん、始業日にはもう付き合っていたんだ
 「もう一回告白しなよ」と背中を押してくれた清水のことを思い出して口角が上がってしかたなかった。そういえばあの時清水はワックスで髪をキメていたっけ。「じゃ、俺帰るわ」と背中を向けた清水が思い出された。帰ったのは佐藤さんのもとにだろうか
 ほどなくして二人が付き合っているという噂がクラス中に広まり、二人もそれを隠さなくなった。「ちーちゃんあんな奴のどこがいいの」「さっさと別れちゃいなよ」「お幸せになれたらいいね」などと女子は妙に刺々しかった。「女子怖えー」と僕が呟くと、多田はすかさず「まあ一年の時に付き合っていてなかなか酷い別れ方したらしいからね」と返した。え、初耳なんですけど
多田によると清水は佐藤さんに「他に好きな女子がいる」と一方的に告げた後、その女子に告白してフラれ、それだけならまだしも第二、第三と女子に告白をしては当然のごとくフラれ続けたらしい。
 なんだよそれ
 清水は佐藤さんのことを、恋人同士とは思えないほど雑に扱っていた。彼は佐藤さんの身長が低いのを執拗にいじった。それで佐藤さんが言い返すと彼は、自分から話題を始めたのにもかかわらず、適当にそれをいなした。お預けを食らったような顔をした佐藤さんは、それでも彼に話しかけようと試みるのだが、彼はすでに別の友人と話していて聞こえなかったふりをするのだった。「あーあ、かわいそ」多田は言った。「なんであいつら付き合ってんだろ」
 なんであいつら付き合ってんだろ
 上から目線な言葉だ。お前には関係ないだろと言いたくなる。多田が嫌われる原因はそこらへんにあるのだろうか。
 でも僕も今同じことを思った
 僕よりあんな奴の方がいいんだ佐藤さんは
 ……でも僕は口に出していないじゃないか
 心の中で思うのは自由だけど、口に出すのって違うじゃん?
 そんな風に自分自身に無責任な言い訳をした。

「そういうところなんだよね」
 え
「上野ってさ、ナチュラルに人を見下しているところがあるというか」
 そうなんだ
「だから皆お前にむかつくんだよ」
 ずっと友人だった君が言うんだから間違いないね
 去り行く背中が昔とは違って大きい
 バカみたいな話をして笑いあったのはもう昔のことなんだと実感して不意に泣きそうになった
 また一人、友人が消えた

 中学時代から何も変わってないな僕は
 隣に多田がいた。日は傾き辺りは暗くなっていた。生徒は校門から出て帰路についていた。下校までついてくるようになった、もう友人であると言っていい関係になった多田に、僕はかつての僕を見ている
「あっさとっちだ」
 そう言って多田が指で示した先には、人を待っている様子の佐藤さんがいた。
「彼氏でも待っているのか~? ヒューヒュー」
 多田は茶化すように言った。
 お前さ
 そこに清水が来た。二人は何も言わずに、佐藤さんが清水に寄り添うようにして、一緒に帰っていった。僕はそれを見て何となくやるせない気持ちになった。
「ついてこうぜ」
 は?
「馬鹿なの?」
「え? 面白そうじゃん」
 僕は多田の目を見た。多田もそれに応じた。
 まじかこいつ

 辺りはいよいよ暗くなり、街明かりが二人の輪郭をかたどっていた。その夜陰に乗じて僕らは彼らのあとをつけた。彼らは手をつなぐでもなく、楽しげに会話をするでもなく、ただ平行に歩いていた。
「何も起こらずに終わるとかつまんないぞ」
「ふつうそんなもんだろ、現実見ろよ」
 その時不意に風が吹いて、周りのものがカタカタと揺れた。僕は寒気がして少し震えた。
 現実なんて言えた立場じゃないか

 気付くと街灯がまばらになっていた。辺りの建物の背が低くなり、漏れる灯りは無機質な蛍光灯の白から暖色へと変わっていた。生活の気配が僕らにこの小さな冒険の終わりを予感させていた。
 僕らは公園に差し掛かった。その時佐藤さんが二言三言清水に話しかけ、そして二人は相対して立ち止まった。
 その日のファースト・アクションだった。
「おいおい」
 多田が興奮気味に呟いた。
 清水は佐藤さんの腰に手を回し、指で顎を軽く持ち上げた。しばらく二人は見つめ合って、それから長い接吻を交わした。
 潤んだ佐藤さんの瞳が灯りを反射していた
 踵が浮いていた
 余裕なく清水の服を掴んでいた
 どれだけの時間があったのだろう。それは一瞬のようにも、永遠のようにも感じられた。
「もう充分だろ、いくぞ」
 無意識のうちにそう呟いていた。それは多田にというよりはむしろ、自分自身に対しての言葉だった。

「あー羨ましいなあいつら。俺も彼女作りてえ」
 帰りざまに多田が言った。僕はその言葉端に引っかかった。心がささくれ立っていたのだ
「『作りたい』? なんで」
 恋人はなる、、ものじゃないのか
「だってよー、制服着て××できるのって高校生までじゃん」
 僕はそれを聞いて一気に心が冷え込んだ。
「あはは確かにそうだな」
 ヘラヘラ笑いながら人生でいちばん空虚な言葉を吐いた。
 今この時佐藤さんの横にいるのが清水で、僕の横にいるのがこの多田だということが虚しかった

 暗がりの中で佐藤さんと清水のシーンがぐだぐだと繰り返していた。それをバックグラウンドにして今までに佐藤さんが僕に見せた顔が浮かんだり消えたりしていた。たいてい佐藤さんは僕にきれいな笑顔を見せていた。
 そこには渇望の欠片もなかった
 だから僕は「見透かされている」と思ったのかもしれない。

 夜にマイナス思考が始まるとそれは留まることを知らない。
 清水が僕を裏切ったのは事実として、佐藤さんもそれを知っていたのではないか?
 そういえば上野は誰に、わたしが前の彼氏と別れたってこと聞いたの
 うはは、義理深いね上野は
 佐藤さんにとって僕は、自尊心を満たす単なるおもちゃに過ぎなかったのではないか?
 そういえば上野の小説読んだよ
 なんで今さら?

「見てみろよこれ。上野が書いた小説なんだけど」
 清水が部誌を開いて佐藤さんに渡す。佐藤さんがそれを読む。僕はそれをただ見ていることしかできない。
「えー、なにこれー、上野って顔に似合わず、ふふ、ロマンチストなんだね」
「なあ知ってるか、上野、お前のことが好きなんだぜ」
「えっ」
「引くだろ?」

 それで意識が中学生の頃に引き戻される。
「キモいからうちのことじろじろ見ないでくれる」
「ねえこいついっつもうちのこと見てくんの、こわーい」
「性欲丸出しじゃん、笑えるー」
「えー、犯罪者じゃんそれ」
「半径一キロ以内に近寄らないでくれるー?」
「っていうかこんな奴にも恋愛とかいう考えがあるってことがウケるんだけど」
「それな、夢見てないで鏡見れば?」
「はは、マジでそれ」

 佐藤さんとの日々が全く違った意味合いをもって上書きされていく。
 全部遊びだったんだ
 それでも僕は佐藤さんのことが嫌いになれないのだった。
 ほんと?
 うん
 ほんとにほんと?
 ほんとにほんと
 ほんとにほんとにほんと?
 ほんとにほんとにほんと……

4. 答え合わせ

〈いまどこにいる?〉
 突然そんなLINEが来たのは学校が終わって夜の六時を回った頃だった。差出人は遠藤歩実。一個前のメッセージは去年の夏で、それ以来途切れていた。
 油断していた

 遠藤とは一年生の時に同じクラスで、それ以降は別のクラスだった。
 臆病な子だった。高校の環境に適応できていなかった。
 その姿がかつての自分と重なった
 手を差し伸べたらすぐにつかまってきた。それに優越感を覚えていたのかもしれない。僕は彼女と親しくした。なるべく快感を長く味わおうと、気を持たせるようなことも言った。
 僕は僕で飢えていたのだ
 その優越感の対価を払う覚悟もないままにいびつな関係を続けた
 気付けば僕は彼女のために多くの時間を割いていた。彼女の僕を見る目が変わったのはいつからだろう。「帰る方向が一緒だから」「偶然同じ委員会に入ったから」「文化祭の係の相談のために」――僕が彼女の好意に気付くまでに時間はかからなかった。
 彼女はたぶん、僕が彼女に告白するのを待っていた。
 僕はそんな彼女の態度が好きになれなかった
「上野くんはどこかの騎士がお姫様を連れ去るような話好き?」
 ある時彼女はこう言った。僕は彼女の意図を遠ざけるように切り捨てた。
「そういう話はうさん臭くて嫌い」
 彼女は残念そうに肩を落とした。そういう芝居じみた行動が癪にさわった。
 僕はいつしか彼女の束縛を解く方法ばかり考えるようになっていた。しかし彼女を傷つけないような遠回りな方法ではますます彼女の想いが募るばかりだった。僕はずるずると彼女に引き込まれていった。そこには僕自身の意志の弱さもあった。人の温度に飢えた僕の心を、ちょうど彼女に対する優越感が埋めていたのだ。
 それは薄めたカルピスのようだった。いくら飲んでも満足することはない
 二年生になって状況が変わった。佐藤さんのことを好きになったのだ。
 遠藤を容赦なく振り切るだけの理由ができた。それで夏に書く小説をとんでもなくロマンチックなものにしようと決めた。彼女に対する不誠実、それが僕の答えだった。
 小説には佐藤さんに対する恋心を詰め込んだ。僕はもともとロマンチストだった。僕はあっという間にそれを書き上げた。部誌にそれが載ってしばらく経つと、遠藤からのコンタクトはパタリと止んだ。

〈塾で自習してる〉
 僕は遠藤に返信をした。
〈そうなんだ……いつ終わる?〉
〈十時ぐらいかな〉
〈その後会える……?〉
 僕は迷った。断るだけの理由が僕にはない。
〈うん、どこで会えばいい?〉
 僕は観念してそう返した。

 遠藤は明らかに挙動不審だった。いったん家に帰っていたのか私服だったが、それも色合いがちぐはぐだった。その姿を見て、遠藤がパニック障害を発症しているらしいという噂を思い出した。
 その言葉の意味するところを、遠藤と相対してはじめて理解した気がした
「あの……えっと……」
 彼女は言葉を発するのがやっとという様子だった。
「あっ……今日は……来てもらってごめん。その……小説……読んだんだけど……」
 そこで彼女の呼吸が早くなった。
「う……あ……上野くんが自殺しちゃうんじゃないかって心配で」
 遠藤はそれを詰め込むように言ってうずくまった。涙がボロボロこぼれてアスファルトに染みを作った。彼女は苦しそうに息をヒュルヒュルと言わせた。僕はどうすることもできなかった。
 僕のせいだ
 年貢の納め時とはこのことを言うんだとぼんやり思った。きっとパニック障害も二年生の夏に僕がしたことに原因があるのだろう。
 僕は申し訳程度に彼女の背中をさすった。通りかかった女性が「大丈夫ですか」と声をかけ、僕はそれに「たぶん……過呼吸になっているだけなんで」と返した。だけ、、って何だ
 しばらくしてそれが落ち着くと、遠藤は僕をさらに人通りの少ないところに連れていった。
「ごめん……会っていきなりこんなことになって……びっくりしたよね……あと上野くん周りから変な目で見られちゃう」
「いやそんなこと気にしてないし」
「ごめん……」
 ひたすらに謝る彼女を見て、まだ僕は彼女に好かれているのだとなぜだか確信がついた。
「でも上野くんみたいなネガティヴな人も絶対必要とされてるし、この前ツイッターで見たけどネガティヴな人がいたから生き残れた種族があるって言うし……だから自殺する必要はないって言うか……うん」
 彼女の言動は彼女の文脈に依存していて、断片的な理解と推測でしかその意図を汲めなかった。――「でも」は何を受けているんだろう。いつから僕は自殺することになったのだろう。僕は彼女の言うツイートを知らない。「だから」の接続の根拠は闇の中だ。――僕はそういう彼女の独善的なところが好きになれない
 しかし今は目をつぶった。このままでは彼女は
「ありがとう。でも僕は自殺しないよ。小説はフィクションだ。たとえそれが体験に基づいたものだとしても、必ず一度は作者の中で消化されている。そうでないと、まともな物語は成立しない」
 僕は彼女を安心させることに注力した。不安の入る余地を与えないように慎重な論立てをした。
「そっか……私が勘違いしていただけなんだね……ごめん……。……でもやっぱり不安だなあ……私」
 そう言って彼女は媚びた目を向けた。彼女は彼女の論理を曲げない。それは彼女が彼女自身の小さな世界を必死に守ろうとしている産物なのだと、天啓のように悟った
 僕が彼女を嫌悪する理由の根幹がそれだということも
 そして同時に、「自分の世界を守る」という行動は、僕自身のメンタリティと相似形を成しているということも
 つまり僕が嫌悪された理由はそこにあるのだと
 僕に向けられる媚びた目に、嫌悪の正体が分かった今、愛おしさにも似た不思議な感情を抱いた。それは憐みにも近しかった。僕はかすかな興奮と奇妙な万能感の中で自分すら予想だにしなかったことを口走っていた。
「遠藤さ……僕と付き合う?」
 彼女はその言葉に目を見開いた。
「……いいの?」
 そう疑問を口にしつつも彼女は目に見えて上機嫌になっていた。そのあくまで彼女が彼女自身に思い描く彼女のキャラクターを守らんとし、しかし客観視すれば明らかに破綻をきたしている様子に、僕は不快感と慈愛の情を同時に抱いた。高次で統合された矛盾した感情のその刺激の強さに頭が狂いそうだった。
「もちろん」「ハグがしたいな」
 僕は言った。彼女は恥ずかしがって背を向けた。
 いいからとっととしろよ
 どうせ本心では嬉しいんだろ
 僕が三、二、一と脳内でカウントすると彼女はこちらの方を向いて覚悟を決めたように目をつむった。僕は神にでもなった気分で彼女を抱きしめた。それで彼女の心拍が急激に上昇するのが分かった。
 一方、僕はハイになった気持ちが徐々に落ち着いていくのを感じた。彼女の体温が僕の身体に沁み渡って心地良かった。それではじめて僕は僕の心が凍えていたのだと気付いた。
 人って温かいんだな
 バカみたいなことを真面目に思った。

 家に帰ると僕は佐藤さんにLINEをした。
〈今日彼女ができました。だからなんというか、もう大丈夫です〉
 既読と返信はすぐだった。
〈え〉〈とりあえず、おめでとう〉
 返す言葉を考えていると、少し遅れてメッセージが加えられた。
〈その人のこと好きなんだよね?〉
 面白いことを言う

「でもまさか上野くんが私のことを好きなんて。だって私、人から好きって思われるようなタイプの人間じゃないし」
 遠藤は、告白した日の様子など嘘のように自信満々だった。
「あ、でもいつかフラれちゃうんだって思うと、うわあああってなる。あああ、そう思うとなんか不安になってきた……」
 そう言って彼女は僕の方を見た。僕は本当に、彼女を今ここでフってやろうかと思った。それをぐっとこらえて彼女の文脈に僕の言葉を乗せた。
「大丈夫。僕は遠藤のことが好きだからフったりしないよ」
「ほんと……⁉ やったあー」
 そう言って無邪気に喜ぶポーズが鼻につく

 僕が求めているのは体温だった。それさえあれば好きとか嫌いとかどうでもよかった。単純な快感が欲しかった。何も考えたくなかった。
「僕さ……父親が単身赴任で、母親も働いているから、なんというかいつも一人で寂しかったんだよね……」
 事実ではあったが僕自身はそのことについて何も思っていなかった。
 ただの言い訳だ
「だからたぶん異常なほど遠藤を求めてしまうけど、許してね」
「いいよ……そう言ってくれて嬉しい」
 健気な彼女の態度に僕の肉食獣が舌なめずりをする
「じゃあわがままを言ってもいいかな」「キスがしたい」
「え」「うん……」
 キスは空っぽな味がした。僕は彼女の首筋に指を這わせた。中途半端に長いものぐさなショートヘアが手をカササと撫でた。彼女は突然僕から離れた。
「……ごめん……なんか……怖い……」
 その言葉で一気に気持ちが醒めた。
 乙女ごっこかよ

 汚れてしまった、という言葉をたまに聞くが、その意味が分かった気がする。
 好きでもない人と付き合うのは、自分自身に泥を塗りたくっているような気持ちになる。快楽と引き換えに僕は厚い土壁の中に埋もれていく。その感触が心地良くもある。嘘の交わりを重ねれば重ねるだけ、僕は生臭い人間の世界から遠ざかる。引き換えに虚しさが横たわる
 少しだけ佐藤さんに近づけた気がした。清水から離れて別の人と付き合っていた頃、彼女もやはり同じ思いをしていたのだろうか。今なら彼女が僕に取ってきた行動の意味が分かる。僕が恋愛にうつつを抜かす姿は彼女にとってどれだけ空虚に思えただろう
 はじめて佐藤さんを見透かした気がした。その後で彼女の親切が身に染みる。
 その人のこと好きなんだよね?
 掛け値なしで彼女が僕にかけた心配の言葉なのだと分かった。それだけで心が満たされる思いがした。
 今なら佐藤さんとちゃんとした恋愛が始められる気がする。そう思って打ち消した。僕がどうであれ、彼女にとってそれは知ったことではない。
 ――踵を浮かせて必死で清水にしがみつく彼女の潤んだ瞳

 しばらく遠藤とスキンシップを取ることを避けていると、彼女から声をかけてきた。
「前は……ごめん」「その……前は怖くなっちゃったんだけど、やっぱり寂しいっていうか……あ、でも、なんていうか、こう……体と体が触れ合うって……前は嫌だったけど、上野くんと付き合ってから、なんていうか……いいなって思えた」
 とぎれとぎれの言葉を汲んで彼女の頭を撫でた。その時はじめて、いつもと違って彼女が髪を後ろにまとめているということに気付いた。そのぴょこんとした形でいつかの佐藤さんを思い出してしまって、現実の、目の前にいる遠藤を見て気持ちが萎えた。それと同時に気付いたこともあった。頭を撫でるのをやめて彼女に言った。
「後ろで髪をまとめるのって意外と長さがいるんだな、当たり前だけど」
 彼女は不思議そうな顔をしてそれに答えた。
「うん、まとめる位置によるけど、基本それなりに長さはいると思う……長くなったら寝癖とか面倒だし、そろそろ切るか、伸ばそうか、……ってなるよね」
 寝癖
 今日朝起きたらすごい寝癖でさ
 男子ってさ、ショートとロングどっちが好きなの
 なんでそんなこと聞くの
 そういうことだったのか。僕は僕の自意識過剰っぷりに恥ずかしくなった。あれは僕に気を持たせるとかではなく、本当に純粋に意見を聞いていたのだ
「ねえねえ上野くん、何で今日私が後ろで髪をまとめてきたか分かる……?」
「わからない」
「上野くんが……その……いろいろする時に邪魔にならないように」
 正直なところ今日は適当に話をして切り上げようと思っていた。しかし彼女がもの欲しそうな顔をするので、僕は首筋に儀礼的なキスをした。
 サービスのS、満足のM
「上野くん、前に私が貸した本読んだ……?」
 彼女はよく僕に本を勧めた。彼女は少女漫画の延長のような内容の小説を好んだ。
 なんで彼女はナチュラルに時間を束縛するのだろう
「ごめん、まだ読んでない」
 そう言うと彼女は少し残念そうな顔をするのだった。
 罪悪感を押し付けるのも彼女の得意技だった
 彼女といると、僕が佐藤さんにしてきたことの答え合わせをさせられている気分になる。
 考え方とか、価値観とか、そういった自分の中の深いものが、佐藤さんと重なり合った気がして
 遠藤は僕によく似ていた。彼女は思想を共有したいがために僕に本を押し付けるのだ。
 じゃあさ、僕がプレゼントしてあげる
 僕は値段のする手帳を買い与えることで佐藤さんに罪悪感を押し付けつつ、手帳の持つ意味合いによって観念的に佐藤さんの時間を束縛していた
 遠藤は僕の鏡だった。僕は彼女を通してはじめて僕自身の姿を客観的に認識する。解答用紙にペケが並んでいく。最初のマルは最後のマルで、答案を見たならば0点なのだ
 上野にはきっとわたしなんかより似合う人がいるよ
 ねえ佐藤さん、僕と遠藤はお似合いだろ

5.壊れた空

 学校からの帰り、佐藤さんと清水が玄関にいた。
 外は天気雨が降っていた。二人はそれぞれ折り畳み傘を開いて歩いていった。
 僕は傘を持っていなかった。隣にいた遠藤が「私この前傘を忘れて帰ったから、学校に置いてあったんだよね」と言って、僕に傘を渡した。
 相合傘しろってことか
 僕らが歩いていく先の空は済んだ青色をしていた。雨粒は光を反射して白く輝いて見えた。
 いつか妄想したガラスみたいだ、と思った
 青空に散る雨粒は目の前を歩く佐藤さんと清水を彩っていた。僕の隣にいるのは遠藤で、皮肉なことに僕は彼女を傘で守っていた。
 僕は全てどうでもよくなって投げ出したくなる気持ちと、数奇な運命をむしろ楽しむ気持ちの、相反する二つを抱えて歩いた。
 どうせあと少しで大学生になって全てがリセットされるのだ、とふと思いついた。それならここは踊り場だ
 理想と現実のどちらにもいけない僕は、刹那的な青い空ときらめく雨を背景にして、酔狂なダンスを踊っている





【outro】Future Cαndy

掲示板に映る“incident”
止まる列車、溜まる人々
みんなして眉間にシワ寄せちゃって
「ひとりで死ねよ」なんて叫んじゃって
ああ、ほんとバカみたい

そう言えば川崎で人がいっぱい死んで
テレビでコメンテーターが、やっぱりシワ寄せて
同じこと言ってたっけ、「ひとりで死ねよ」って
そしたら東京でヒキニートが親に殺されちゃって
親は「川崎のことが頭をよぎった」なんて
本気マジになったらすべておしまい

だからイヤホンで耳塞いで
わたしは聴くの、“Kawaii” Future Bass
それはコンクリの街を虚飾して
モノクロBlack & WhiteをYellowに染め上げるの

「遅れてごめん!」ってわたしが言うと
君は「なんで遅れたの?」って
その顔がコメンテーターに似ていたから、わたしはビビって
事情を説明したら「ごめん」って抱きしめられて
だから「そういうの流行らないよ」って言い残して去った
愛が重いの、わたしは恋がしたい

“TOKYO 2020”のポスターが街に色を付けていた
やがてそれは剥がされて、虚勢張ったインフレは気が抜けて
そうやってすべてが終わっていくけど
わたしはイヤホンで耳塞いで
Future Bassに身を委ねるの、サルみたいに
それはモノクロBlack & WhiteをYellowに染めて
candyみたく甘さを残して
やがて消えてなくなるの

ブラックホールたべたい

高校三年生の春に書いた作品です。7作目。
遼くんは何か悪いことをしましたか?
13,798文字



 「あら、この子が遼……ちゃん?」
「あ、この子、男の子です」
「遼『くん』か! ごめんごめん」
「髪、長いですよね、切らせた方がいいかしら」
「ごめん遼くん、その、かわいらしかったから、おばさん勘違いしちゃった」
「この子が喋らないからいけないんですよ、もうすぐ小学生になるのに、上手くやっていけるか心配で」
「男の子なんだから、もっと元気じゃなきゃ困るぞ、遼くん」
「……」
「……っすみません不愛想な子で、ほら遼、何か言いなさい」
「……ごめんなさい」

 「お父さん、このエビフライ、おいしい」
「そうか、遼はエビフライが好きか」
「うん、うち、エビフライが好き」
「……その、なんだ、遼は来年から小学生になるんだろ、なあ、お母さん」
「はい、お父さん」
「その、『うち』はそろそろやめた方がいいんじゃないか」
「それもそうね、遼、『僕』か『俺』か、どっちかにしなさい」
「うちは『うち』がいい」
「遼、男の子で『うち』は変だぞ」
「うちは『うち』がいいもん、変じゃないもん」
「遼!」
「……ごめんなさい」

**

 遼は小学生になりました。彼の漢字練習帳は誰よりも使い込まれていて、字も丁寧でした。
「みんなが出してくれたノートを見ました。女の子はいつもと同じで丁寧でした。でも、男の子は、最近ちょっと字が汚いです。男の子は、がんばって、もっと丁寧に宿題をしましょう」
 遼は不機嫌でした。
「それでは、先生の話はこれで終わります。今から掃除をします。男の子は机を、女の子は椅子を、後ろに下げてください。引きずる人がいますが、床が傷つくので、持ち上げてください」
 遼は友人に話しかけます。
「ねえねえ、先生の言っていること、おかしくない? 僕、宿題、丁寧にやっているよ。それに、男の子だから重い机を運ぶとか、女の子だから軽い椅子を運ぶとか、おかしくない?」
 遼は非力でした。
「あっ、それ俺も思った。なんか変だよね」
「ね。僕、そんなの不公平だと思うな」
「フコウヘイって何?」
「うーん、……わかんないや」
「ふーん、遼は、難しい言葉を知っているんだね」

***

 「遼は、野球はしないのか」
 野球中継を見ながら、遼のお父さんは言います。お父さんは阪神タイガースのファンでした。だから、遼も阪神タイガースのファンです。
「昔、お父さんは野球をしていたんだ。小学校ではスポ少に入って、中学や高校では部活に入っていた。どうだ、野球やらないか。楽しいぞ」
 遼はスポ少に入ることにしました。

 スポ少には、遼と同じ学年の子供がいませんでした。最低学年となった遼は、みんなのおもちゃでした。
「悔しかったらかかってこいよ」
「……」
 突き飛ばされたり、迫られたり、まわされたりするくらいで、実害はありません。けれども、遼は泣きました。

 「なあ、お母さん、子供がいない家というものは、とてもさみしいな」
「うん、でも、遼のためだから」
「この寒空に身をさらして遼は大人になっていく。最近はぐんぐんと背が伸びて、少し男らしくなってきた」
「体つきも変わってきて、風邪もひかなくなってきた。一時はどうなることかと思ったけど、ひと安心ね」

****

 遼は四年生になりました。
「おい遼、ちょっと廊下に来い」
 声をかけたのは、最近ちょっと悪ぶっている男子です。廊下に出るとすぐに、男子とその取り巻き数名が遼を取り囲み、壁に追いやりました。
「なあ遼、野球やってるからって、調子乗ってんじゃねえぞ」
「??」
「何とぼけた顔してんだよ!」
 男子は因縁をつけて、遼をひっぱたきます。それを契機にして、取り巻きも遼に暴力をふるいます。
「ちょっと男子、かわいそうじゃない!」
「まあいい、今日はこの辺にしておいてやる」
 遼は開放されました。

 「遼、お母さんから聞いたぞ、今日、いじめられていたんだってな」
 どうやら女子はご丁寧に、先生に今日のことを伝えていたようです。そして先生はそれをお母さんに伝え、そして今に至るようです。
「いじめるやつにはな、やり返してやればいいんだ、わかるか遼?」
 遼は黙っています。
「なあ遼、こういうのは、舐められたらだめなんだ」
「でも僕――」
「でた『僕』。そういうのが舐められるんだ。『俺』にしろ。もっと上手くやれ」
 お父さんは不機嫌そうに続けます。
「お父さんだって悔しいんだ。遼を責めているわけじゃない。わかるよな?」
 遼はうなずきました。お父さんは遼の頭を撫でます。
(でも僕、本気で殴られてはいなかったんだけどな。――今となってはもう痛みが引いたくらいだし。向こうだって、わざわざ昼休みに呼んだのは、先生に気づかれたくなかったんだろうし、そんなに大したことじゃないのにな。女子に言われて止めるぐらいだし、やっぱりぜんぜん本気じゃ無い。女子もおせっかいだな、わざわざ先生に言って事を荒立てて。でもそこまでしてくれるってことは、僕がクラスメイトからひどくいじめられている、みたいなことは起きていないって証拠なのに。――お父さんは悔しいって言っていたけど、僕にはよくわからないや)

*****

 いつの間にか卒業が近づいてきました。このころにはスポ少にも新入部員がたくさん来て、遼は少年団の中でいちばん早くに入ったメンバーとなりました。慣習的に、遼はキャプテンに任命されました。「キャプテンだから」という理由で怒られる日々。でも遼はそれを乗り越えてゆきました。風邪をひくこともほとんどなくなっていました。体つきもがっしりして、そこに非力な少年の面影はありません。
 遼はクラスの中心にいました。例えば、生徒会長選挙に立候補しました。結果は惜しくも三票差で負けましたが、書記という形で生徒会に迎え入れられ、そこで職務を熱心にこなしました。彼が選挙公約にしていた「全校推理集会」は、彼が落選したにも関わらず、行事として取り入れられました。
「――私が公約のひとつとして掲げる『全校推理集会』は、学校のあちこちに奇妙な謎を仕掛け、それを解いていくものです。今まで学校行事というと、『ドッジボール』だったり、『大縄跳び』だったり、体力を使うものばかりでした。でも、それって不公平じゃないですか。体力がなくても活躍できるような行事があるべきです。今までの行事では目立たなかった、例えば本をたくさん読んでいるような人とか、頭の回転が速い人とか、思わぬ人がヒーローになれるのが、この『全校推理集会』のいいところです。あなたの清き一票を、どうぞよろしくお願いします!」

 卒業製作のひとつに、自分の好きな漢字を筆で書く、というものがありました。遼は「正」という漢字を書いていました。
「うわあ、遼の字、コンピュータみたい」
 遼は習字を、絵を描くみたいだ、と思っていました。とめ、はね、はらい、全てに固有のあるべき形があって、その形を描くために、力の入れ具合や墨の量を調節するものだと思っていました。
「ねえ見て、遼の、コンピュータみたい」
 そう他の人に話しかけるのを聞いて、遼は少しだけ嬉しくなりました。
「え? ああ、そうだよね、遼ってコンピュータみたいだよね」
「えっ、違う違う、遼の書いたこの字がコンピュータみたいってことだよ!」
「え、あー、そういうことか。うわ~、ほんとだ、コンピュータみたいな字!」

******

 遼は地元の公立中学校に進学しました。野球部には入りませんでした。遼は野球に対して、必ずしもポジティブなイメージを持っていたわけではなかったようです。
 その中学校は、地元の小学校の持ち上がりがふたつ集まったようなところでした。半分が見知った顔で、半分が見知らぬ顔です。遼はそんな中で学年委員長になりました。立場上、人を注意する場面が生まれてきます。そして、注意すべき人が、悪いことに見知らぬ顔の中にいました。もともと同じ学校にいた人と、違う学校にいた人とで、どちらを支持するかと言えば、前者を支持したくなるのが人情です。かくして半数を敵に回した遼は、なし崩し的に他の人の支持も失い、しまいには孤立しました。そしていじめが始まりました。遼にはこのころの記憶がほとんどありません。

 そんな中、ポスターを描いて本の紹介をする、という企画がありました。応募されたポスターは名前を伏せた上で図書室に掲示され、それを見て良いと思った作品に票を入れる形式です。その企画で遼の作品が選ばれました。景品の栞と、溢れんばかりの感想用紙を手にした遼は、教室でそれを切り刻みました。遼は泣きながら笑っていました。それを見た生徒が先生に言いつけて、先生は遼を叱りました。
「君は人の心がわかっていない。この栞を司書の先生がどんな思いで用意してくれたのか、感想はどのような思いから寄せられたのか。普通の人間なら、それらを切り刻むようなことは絶対にしない。先生だったら、まずは司書の先生に謝りに行くけど、どうするかは君が決めなさい」
 遼は司書の先生に謝りに行きました。
「景品の栞と感想用紙を切り刻んでしまいました。ごめんなさい」
「ひどい、信じられない」
「ごめんなさい」
「ごめんなさいって何よ、何に対してよ。普通そんなことしないでしょ。ありえない。なんでそんなことしたの」
「わからないです。痛快だったんです。すみません」
「意味わかんない。君、人の心が欠けているんじゃないの。謝られても、その言葉を信じていいのかわからない。なんだか君の言葉、薄っぺらく聞こえる」
「本当に反省しています。すみませんでした」
「だから、他になんかないの? どうせうわべだけなんでしょ。見え見えだよ」
 遼は困ってしまいました。本当に反省しているのに、相手には伝わらないのです。悩んだ末に土下座をしようとしましたが、司書の先生はそれを止めました。
「やめて、私がさせたみたいじゃない。そんな感情のこもっていない土下座はいらない。全てが演技臭いのよ。もういい、君のことは許さない。だからずっと反省していなさい。もう帰っていいよ」

*******

 中学校時代は駆け足で過ぎるものです。遼は三年生になっていました。教室内には高校受験ムードが漂っています。いじめは自然消滅していました。遼は頭が良かったので、「頭の良いキャラ」として、少しずつ、クラスに馴染みつつありました。
 遼は「IQが二十以上離れていると、会話が成立しない」という説を信じていました。実際、遼が話すと、みんなは「難しい」「長い」と言って、聞く耳を持たないのです。遼はそれを逆手にとって、誰もわからないような話を持ちかけることで、優越感に浸るようになりました。
「なあなあ、ブラックホールって面白いと思わないか?」
「何でも吸い込むやつでしょ、吸い込まれたら戻ってこないってやつ。面白いよね」
「そこなんだよ。一度吸い込まれたら戻ってこられないと思うでしょ。でも、スティーヴン・ホーキング氏によると、ブラックホールから物質が出てくるように見えることがあるらしい。そして、最終的に、ブラックホールが消えてなくなる、なんてこともあるらしい。ホーキング放射って言うんだけど」
「なんか難しそうだね。あっ、そもそもブラックホールって何なの、何でいろいろ吸い込むの」
「良い質問。答えとしては、重力がめっちゃ強いところで、だから物質が引き寄せられる。トランポリンを想像してほしい。その上にめっちゃ重いものを乗せると、トランポリンはそこを中心に沈んでいく。その状態でボールを置いてみると、重いものに向かってコロコロ転がっていくよね。ブラックホールが物質を吸い込むしくみもこれに似ている。二次元か三次元かの違いなんだ――まあ、次元の話をするとまたややこしくなるんだけど」
「ふーん、よくわかんないや。吸い込まれたらどうなるの」
「これはよくわかっていないんだけど、俺が思うに、一般相対性理論によると、重力が強いところは時間の流れが遅くなるから、ブラックホールの外から見ると、たぶん時間が止まっているような感じになる。逆に言えば、吸い込まれた本人からすれば、ブラックホールの外は、時間がめっちゃ速く流れているように見えるだろうね。要はブラックホールの中では永遠の時間が流れるんだ。ロマンチックだと思わない?」

********

 遼は県で一、二を争う公立進学校に行くことになりました。推薦入試で面接があり、そこでの成績が芳しくなくて、一度その学校には落ちましたが、一般入試で受かりました。
 遼はクラスに馴染めませんでした。会話のしかたを忘れてしまったのです。そこで遼は、そもそも会話は必要なのか、という考えに思い当りました。必要が生じた時だけ会話をすればいい、と思って過ごしていると、遼はほとんど言葉を発しなくなりました。

 ある日、遼は消しゴムを落としました。消しゴムは、隣の女子の椅子の下に転がりました。女子はそれを拾いました。
(女子の椅子の下に転がる消しゴムを拾うと、体勢的に、一種のセクハラになってしまう)
 遼はそんなふうに消しゴムのことをすっかり諦めていたので、女子が消しゴムを拾うのを見て驚きました。だから、女子が消しゴムを差し出すと、それを黙って受け取ってしまいました。それではまずいと思って、遼は慌てて
「ありがとう」
と付け加えました。
 女子は用件が済んだものと思って前を向いていました。そのタイミングで「ありがとう」と言われたので、反射的に振り返ってしまいました。結果的にふたりが見つめ合う形となりました。気まずい沈黙が流れます。
(あっ、「何に対して」ありがとう、と言ったのか、わからなかったのかな)
 遼はそう思いつき、女子に
「消しゴムを拾ってくれて」
と付け加えました。
 女子は不思議そうな顔をして黙礼し、再び前を向きました。

 遼は、消しゴムを拾ってくれた女子のことが、ずっと頭に引っかかっていました。
(最後に見せた不思議そうな表情は何だったのだろう。何かまずいことでも言っただろうか。もしくは、意味が伝わっていなかったのだろうか。俺は「ありがとう」に「消しゴムを拾って」と言う理由を付随させた。つまり「消しゴムを拾ってくれてありがとう」という文意が相手に伝わっている。ここで省略されているのは「『君が』『俺の』消しゴムを拾ってくれてありがとう」ということだ。「君が」「俺の」も補足説明としてつけた方が良かっただろうか。さすがにいらないだろう、と思ったのだが。)

 「君、鈴木くんって言うんだっけ」
 次の日、隣に座っている女子は、遼に話しかけました。
「え、あっ……うん。鈴木であってる。鈴木遼」
「鈴木遼くん。よろしくね」
 女子は楽しげな様子です。
(何がそんなに楽しいんだろう。奇妙な人だ)
 遼は、名簿を見て、女子の名前が反町宇奈である、ということを知りました。
(ウナ。お洒落な名前だ)
 宇奈は少し子供っぽい人でした。背が低く、感情の起伏が激しいのです。
 授業が終わった時、消しゴムのカスを遼の机に置いていくこともありました。
(これはつまりどういうことなんだ。俺がゴミクズであるということをほのめかしているのか)
 遼が黙ってそれを片づけようとすると、
「うそうそ、そんなつもりじゃなかったの」
と言ってそれを拒みます。相変わらずの笑顔で。
「反町さんは何がしたいの。何がそんなに楽しいの」
「え? だって、こうやってコミュニケーションを取るのって、それ自体が楽しいことじゃないの」

*********

 遼と宇奈はLINEを交換しました。宇奈は遼のLINEで九人目の友達でした。遼は、相手が何かを言った状態で会話を終えることができない人でした。
(だって、無視しているみたいじゃないか)
 無視、という言葉を思いついて、遼は無性に胸が苦しくなりました。
 話のキリがついたかと思えば、宇奈はすかさず次の話題を追加します。そんなふたりなので、LINEの会話はダラダラと続きます。遼は宇奈の気が知れません。
〈毎日こうしてLINEして、めんどくさくないの?〉
〈鈴木はめんどくさいの?〉
 こう返ってきて、遼は胸を衝かれるような思いがしました。
〈俺となんか会話してて楽しいの?〉
〈質問を質問で返すのはずるいぞ〉
〈そっちだって質問を質問で返していたくせに〉
〈あーたしかに笑笑〉〈私はめんどくさくないし、鈴木と話していて楽しいよ〉
 遼には宇奈の心境がどうしても理解できませんでした。それと同じくらい、遼自身の心境も理解できませんでした。
(〈鈴木はめんどくさいの?〉と聞かれたけど、俺は、反町さんと会話しているのがめんどくさくないんだ。〈俺となんか会話してて楽しいの?〉と俺は問うたけど、そのまま〈私となんか会話してて楽しいの?〉と返されたらどうしようかと思った。だって俺は反町さんと会話していて――)
 そこで遼は気づいてしまいました。
(――楽しい……?)
 思い出していたのは宇奈の言葉です。
(「え? だって、こうやってコミュニケーションを取るのって、それ自体が楽しいことじゃないの」と反町さんは言った。そうか、コミュニケーションは、楽しいことなのか。なんでそれに気づけなかったんだろう)
 その時、遼は、脳天に稲妻が落ちたような気がしました。
「あああああああああ」
 遼は頭を抱えて、呻きにも似た声を発しました。
「俺は、俺は、俺は、俺は、私は、僕は、僕は、僕は、うちは、あああああああああ」
 脳内、コペルニクス的大転回。

 「おはよう、鈴木くん」
「!」
 遼は宇奈の言葉を返すことができませんでした。ただ、いたずらに胸の鼓動が高まるばかり。
(なんだこれは)
 息さえできないほどに胸が苦しいこの状態に、名前をつけるならば何であるかと考えた時に、遼はまた頭を抱えたくなるような思いがしました。
(あああああああああ)
 それはうすうす勘付いていたことでもありました。
(ぼくは反町さんと会話していて、めんどくさいと思わなかった。そればかりか楽しいとさえ思った。それは「コミュニケーションは楽しいことである」という普遍と思われる事実によって説明がつくが、それはぼくの人生において、今まで普遍でも何でもなかった。そんなぼくに、それが普遍であると教えてくれたのは誰か。その教えを信じられるだけの、ぼくを急き立てるこの感情は何か)

 時は流れて高校一年生も終わりの候、ホワイトデーになりました。バレンタインデーで、遼は宇奈からチョコレートをもらっていません。それにもかかわらず、遼は宇奈にお菓子をあげました。彼の意図は、お菓子に添えられた手紙に詰まっています。
 その夜、宇奈から遼にLINEが来ました。
〈お菓子ありがとう!〉〈手紙についてはともかくとして、春休み、一度どこかに出かけない?〉
〈ともかくとされてしまった笑〉〈ぼく、お金ないから、カフェくらいしか行けないや〉〈それでもいいなら、ぜひとも行きたい〉
〈いいよ! カフェって何だか大人な感じ〉〈楽しみにしてるね〉

 (カフェ店内の雰囲気も相まって、私服の反町さんは大人びて見える。制服姿の快活な姿とはまた違った側面だ。一方ぼくは慣れないおめかしをして、どこか浮ついた気持ちでここにいる。ワックスをつけすぎていないだろうか、などと無駄なことを考えてしまう)
 遼はコーヒーを頼み、宇奈は紅茶とサンドウィッチを頼みました。
(ふだん学校で無邪気な行動をしている反町さんが、白くてつやつやしたティーカップを器用に持ち上げて紅茶をすすっている。ティースプーンに残った紅茶の残滓が、何だかぼくを誘惑しているみたいだ。サンドウィッチのパンの白と、ときおりのぞく反町さんの舌の赤が、コントラストをなしてぼくをクラクラさせる)
「鈴木ってさ、家どこなの」
「……」
「鈴木?」
「え、あっ……うん。何だっけ」
「鈴木って、家どこなの」
「市の東の外れの方。山をひとつ越えて、その中でも外れにあるから、結構な田舎。1LDKの安アパートだし、人様に見せられるような感じじゃない」
「ふーん、私は、実は学校から歩いてすぐなんだよね」
「じゃあ市のど真ん中な感じか、すごい」
「いやー、私も賃貸だし、そんなすごくはないよ」
(賃貸って、それきっとマンションですよね。なんだか身分が違うみたい)
 一通り話をして、ふたりは外に出ようとしましたが、雨が降っていました。
「どうしよう、私、傘持ってない」
「ぼくは折りたたみを持っているけど……」
「なんで鈴木の方が女子力あるのよ。しょうがない、一階にあるコンビニで買うしかないか。なんだか経営戦略に載せられているみたいで釈然としないわ。だけどまあ、コンビニあって助かった」
(ぼくはコンビニを恨みたい気分だ)
 遼は黒い折り畳み傘を、宇奈は透明なビニール傘を開いて、いっしょに街に繰り出します。次第に雨はやみ、空は少しだけかすんだ青色に染まりました。春を先取りしたような温かな空気がふたりを包みます。ふたりは同時に傘を下ろして、それをたたもうとしましたが、遼の方が折りたたみ傘なので、まごついて、ふたりが傘をしまうタイミングは、結局ずれてしまいました。
(なんだかふたりの関係みたいだ)
 いまだに宇奈からの返事を聞いていない遼は、そんなことを思いました。
「もうすぐ春だね~」
「そうですね」
「私、春が好きだな。少しかすんでいて見えないくらいがちょうどいいの。あいまいでも、包まれるような温かさがあれば、それでいい」
 遼は泣きそうになりながらそれを聞いていました。
(ぼくの心は荒れ模様だ。熱く燃えるような、ふたり融けてしまうような夏が来てほしいけど、それまでに春の嵐を何回くぐり抜ければいいのだろうか。そもそも、そんなのただのたとえ話で、夏が来る保証なんてどこにもないのに)

**********

 宇奈を観察していると、彼女は誰にでも愛想よく接しているようです。そんな中、相
も変わらずLINEだけがダラダラと続いています。
(ぼくは反町さんに特別な思いを抱いているからいいものの、反町さんにとってぼくは何でもない存在で、そんなやつとずっとLINEを続けているというのは、やはり彼女にとって苦痛なのではないか。もしくは、何かの拍子にフッと嫌気がさせば、ぼくなど簡単に捨てられてしまうのではないか)
 そこまで考えて、遼は深い闇に落ちるような思いがしました。
(今まで誰かと関わることの楽しさを教えてくれる人はいなかった。もしここで反町さんに捨てられたなら、ぼくは一生、再びその楽しみを知ることなく、灰色の世界を漂うだけなのではないか)
〈ぼくは反町さんにとっての何なの〉
〈どうしたの急に〉
〈ぼくは反町さんに捨てられたら生きていけないかもしれない〉
〈捨てないよ〉
〈いや、いっそ死んでしまいたいな〉
 遼はそう書いてから、「死にたい」という言葉が出てきたことに自分で驚きました。今までいじめられたこともあったのに、死にたいと思ったことはなかったからです。
(きっと、「ぼく」が直面している問題だからこそ、こんなに苦しいのだな)
遼はそう思いました。
〈私もそんな風に思うことあるよ。まるで体の中にブラックホールがあって、その中に吸い込まれていくような気分になることが。そんな時、無性に誰かと話したくなるんだ。でも、できるだけそれを外に出さないようにしている。きっと誰だってそうだから〉
 遼はそれを見て切なくなりました。
(外に出してくれたっていいのに。永遠にぼくが満たしてあげたい。もしだめでも、いっしょに落ちていってあげるのに。深い、深い闇の底へ……)
 むろん、そんなことが言えるはずもなく。

***********

 高校卒業の日。
「もうお別れだね」
「うん」
「そう言えば、鈴木には結局、お菓子をもらいっぱなしだったね」
 そう言って宇奈は一粒のキャンディを遼に渡しました。
「じゃあね」
 遼はキャンディを口に放り込みました。甘い甘い味がして、遼は泣きました。

************

 遼は母親の強い反対を押し切って、奨学金を借りて東京の私立大学に通うことになりました。宇奈の幻影がほのめく街を忘れたかったのです。
 大学にはいろいろな人がいました。
「熊首相が率いる民自党の失政を許してはならないと思うんだ。統計不正によってベアーノミクスの化けの毛皮がはがれた。リフレ政策は失敗だったんだ。物価だけがどんどん高くなって、実質賃金はさほど上がらず。それでも必要最低限の消費は誰だってしなければ生きていけないから、ベアーノミクスでいちばん搾取されたのは、実はシングルマザーをはじめとするワープアなんだ」
 シングルマザーのところで少し反応をしてしまった遼は、話を聞いてくれると勘違いされてしまいました。
「オリンピックなどというマヤカシで好景気を演出しているけど、君たちが就職するころにはオリンピックは終わっている。経済は間違いなく破綻するだろうね。利権ズブズブのオリンピックにどんどんお金が流れて、マヤカシが解けたころにはもう熊政権は逃げ切りだ。ああこんなことだから『イエロー・モンキーは夢を食んで暮らすのか?』なんて言われるのさ。就職氷河期の世代を『ロスジェネ』なんて言うけど、これからもういちど就職氷河期が来ることなんて目に見えている。その意味において僕はこれからの世代を『すでに失われていた世代:ハドジェネ』と呼びたいね。そもそも……」
「……すみません。俺、政治に興味ないです」

 遼は生活費を稼ぐためにバイト漬けの日々を送っていました。しばらくすると無理がたたって倒れました。休養中、友人に無理やり連れていかれた合コンで、あっさり彼女ができました。名前は藤沢琴音。大きな目と痩せた体がアンバランスな女の子です。
「合コンの時、遼さんが多方面に気を配っていたのが印象的でした」
「それはたぶんバイトの癖だと思う」
「あと、みんなガツガツ飲んだり食べたりしていたのに、遼さんだけ上品な感じで」
「俺にとっては薄味すぎて食べるのが難しかった。みんなの手前、調味料をかけまくるわけにはいかない」
「それと、話し方」
「俺の話し方?」
「少し不自然で、引っかかったんです」

 遼はいまだに宇奈のことを忘れられずにいました。正直なところ、琴音のこともどうでもいいと思っていたのです。それを伝えると、琴音は「かまわない」と言いました。

 遼は体力が回復するとバイトをフルで入れました。そしてすぐに倒れました。
 琴音は遼の様子を見にきて、遼の家の片づけをしました。
「遼さんの外着のポケット、ほとんど全部穴が開いてるんですけど、どうしたんですかこれ」
「それはペンを入れているからかな」
「ポケットティッシュがこんなに。女子力高いんですね」
「俺はそうでもないと思うよ」
「『メチルフェニデート』って何ですか。ボトルにいっぱい錠剤が入っていますけど。こんなにあって、さらにボトル単位でストックしてある」
「それを飲むと頭がすっきりするんだ。薬局に売っているよ」
「バイト、今度は入れ過ぎないようにしてくださいね」
「今度は倒れないように気をつけるよ」
「遼さんって、絶対に上、脱がないじゃないですか。なんでですか」
「見せびらかすほど俺は立派な体をしていないから」
「そうですか」

 遼は体力が回復するとバイトをフルで入れました。そしてすぐに倒れました。
 琴音は散らかった部屋を片づけにきました。
「遼さん、決まって家に帰ってから私に助けを求めるんですね。私がいなかったらどうなっちゃうのかしら」
「琴音がいなくても俺にとっては大差ないよ」
「でも、私がいなかったら、遼さん、死んじゃうかも」
「俺が死のうと死ぬまいと、俺にとっては大差ないよ」
「私にとっては大差あります。遼さんが上を脱いだ姿を見たいな」
「それは今、関係ないと思う」
「食器が放りっぱなしになっていました。遼さん、料理するんですね」
「お店で買うより、自炊した方がおいしいからね」
「調味料のストックが大量にありますね。どうしたんですかこれ」
「調味料は切らしたらごはんがおいしくなくなるから」
「今度、食べさせてください」
「俺に時間があったらね」

 遼は体力が回復するとバイトをフルで入れました。そしてすぐに倒れました。
「遼さん、いい加減バイトの入れ方を学んでください」
「俺にとってバイトの入れ方なんてどうでもいいから」
「また倒れますよ」
「俺にとって倒れるか倒れないかなんてどうでもいいから」
「私は遼さんが上を脱いだ姿を見たいんです」
「俺は琴音の愛情表現が独特だと思うよ」
「……この前、こんな封筒が届いていました」
 そこには、遼の出身高校の名前が書いてありました。
「……!」
「それには反応するんですね。私の言葉には、翻訳調みたいな、心ここにあらず、というような言葉を返すのに」
 琴音は少し泣きそうな顔をしながら言いました。
「それはそうと、早くその封筒を俺にくれ」
「いやです。バイトの入れ方を一緒に考えてください」

 遼は体力が回復するとバイトを始めました。そしてすぐに倒れました。
「ボトル、ずいぶん減りましたね。あんなに錠剤が入っているのに。そんなに消費するものなんですか」
「俺は人によると思う。それより封筒を早くください」
「いやです。それと、今度からこのボトルは私が管理します」
「何をすれば封筒をくれるんだ」
「私のために料理をつくってくれたら考えます」

「つくったけど」
「いただきます」
 琴音は目をつぶってそれを食べました。それからひどくせき込みました。
「そんなにひどかった? 大丈夫?」
 琴音は涙目になりながら言いました。
「大丈夫なわけないでしょ。こんな料理をつくっておいて。封筒は渡しません」
 遼は諦め気味にたずねます。
「何をすれば封筒をくれるんだ」
「上を脱いでください」
 遼は観念して上を脱ぎました。手首から腕にかけて、おびただしい数の生々しい傷がついています。
「どうせこんなことだろうと思いました」
 琴音の声は震えています。
「ごめん」
「いいです。私は遼さんのことが好きなので。大好きなので」
(甘くてとけてしまいそうなキスの味も、遼さんは何も分からないんだ。同じ味を共有しているはずなのに、私と遼さんでは、絶望的なほど感じているものが違う)
 琴音は涙が止まりませんでした。
「お願いです、いちど精神科病院にかかってください。きっと遼さん、何かが壊れてしまっている」
「それをしたら泣き止んでくれる?」
「泣き止みません、ばか」

 封筒の中身は同窓会の案内でした。遼はそれに向けて精神科に通い続けました。
「遼さんに適切な病名がついてよかった」
「俺は正式に異常だと認められたわけだ」

*************

 「ひさしぶり、鈴木」
「ひさしぶり、反町さん」
「ねえ鈴木、私さ、結婚したんだ」
「……そうなんだ。おめでとう」
「私、今、とっても幸せなんだ。子供をいっぱいつくりたい。にぎやかな家の中で、いっぱい、いっぱい満たされるんだ」
「それは、うらやましいな」
「夫は裁判官なんだ。国が潰れない限り安心」
「すごい」
「ねえ、鈴木」
 宇奈は遼をまっすぐ見つめて言います。
「私、別に鈴木と付き合ってもよかったよ」

**************

 スーツを着た人々が行き交う東京の街中。遼の手には機関銃。意識はODでトリップしています。
「うわあああああああああ」
 彼を中心として、同心円状に死体が積み重なってゆきます。弾ける血飛沫の赤色が綺麗です。
ズガガガガガガガガガガガ。平和な国にはおよそ似つかわしくない音が鳴り響きます。
「わかんない! わかんないなあ! 俺俺俺ぼくぼくぼく俺俺俺俺私僕僕僕うちにはわかんない! 痛みとか、悲しみとか、苦しみとか、全部、全部、全部!」
 そこに宇奈が現れます。
「あなたは間違ってるわ」
 遼は反論します。
「〈**************〉」
「誰にだって、好きな人と結婚する権利はあるわ」
「〈*************〉」
「せっかく手にした、あなたのことを思ってくれる彼女さんを、大切にできなかったのは誰?」
「〈************〉」
「一粒のキャンディしか貰えない時点で察するべきね」
「〈***********〉」
「急に謎の話を持ちかけて、イタいことを喋っておきながら、最後に遠慮するあたり、鈴木のダサさが顕著に表れているわ」
「〈**********〉」
「春うんぬんのたとえで、あからさまに『あなたとは付き合う気がないですよ』と示唆しているのに、あくまで自分の都合しか考えずに感傷に浸っているさまは、もはやコメディね」
「〈*********〉」
「消しゴムくらい誰だって拾うわ。そんなことで好意を持たれてしまうなんて、面倒くさいことこの上ない」
「〈********〉」
「本当に、意味が分からないとか、難しいとか、そういう理由で聞く耳を持たれていないと思っているの? もともとあなたの話なんて聞く気がないのよ。誰がブラックホールの話なんて聞きたいのよ。それはあなたが話したいだけじゃない。あなたの自己満足に付き合っている暇なんて、誰もないのよ」
「〈*******〉」
「感想用紙と栞を引き裂く意味が分からない。司書の先生と全く同じ意見だわ。そういう奇怪な行動をするような人だから、いじめられるのよ」
「〈******〉」
「コンピュータみたいって、あからさまに人間的でないあなたのことを揶揄しているでしょ。あと、小学校の生徒会選挙なんて人気投票よ。たしかに政策はよかったかもしれないけど、それ以上に鈴木の人望がなかったということね」
「〈*****〉」
「最後の怒涛のポジティブシンキングが笑える。このころから鈴木の自己中心的お花畑理論が炸裂していたのね」
「〈****〉」
「自分で野球部を選んでおきながら、親へあてこすりするような文章が笑える」
「〈***〉」
「不公平なんて難しい言葉を使っておいて、自分で説明できないのは、さすがの友達も呆れるばかり」
「〈**〉」
「社会に出て『うち』だといろいろ不利益があるから、親としては直すのが当り前よ」
「〈*〉」
「あなたが引っ込み思案なせいで、周りに迷惑が掛かっていたのね」
「〈特異点〉」
「あなたは幸せになれない人だった。生まれてきたのが罪だったのよ」
 遼は蒸発しました。辺りは光に包まれ、それがおさまると、死体はなくなり、平和な日常が戻っていました。

 某年某月某日、とある男性が自殺しました。彼はそれを実行する際に、「ブラックホールたべたい」と言いました。
 彼は永遠の時間を今も過ごしているのです。

恋着と狂想のリリック

高校二年生の冬に書いた作品です。6作目。
タイトル決めに苦労した覚えがあります(その割に不評)。略称は『恋リリ』。
分かってほしい人に分かってもらえない話です。
17,710文字



 水溜りに金木犀が浮かんでいた。昨晩の台風が、全てを攫ってしまったのだ。
 星空が綺麗だった。そんな風に万物は、いつかは遠い忘却の彼方へと――
 僕はそれに抗うように、金木犀を見つめ続けた。

 「存在意義が無い」なんて君が言うから、僕はそれを全力で否定した。
 それはただの愛の告白だった。「僕は君に存在してもらわないと困るんだ」
 僕は臆病だから、君について何も知らなかった。多分それ以上に、君は僕について何も知らなかっただろう。だから、勝算なんて無かった。
 それでも僕は、ずっと腑に落ちないことがあるんだ。
 あの時君は「ありがとう」と言った。「――でも、私には彼氏がいるから、ごめん」

 金木犀が滲んで、雨粒に水面が揺らいだ。
 存在意義は、誰より君の彼氏が認めてくれているんじゃないの?

 君は優しい人だ。僕らの距離は、あの告白を経てなお変わらない。「びっくりしたけどね、そんなこと思ってくれていたんだ、って」と笑う顔が眩しい。僕はその優しさに甘えて、そしてきっと、生きる意味さえ宛がっている。それを分かっているからこそ、君が笑うたびに、こんなにも胸が苦しくなる。

 星空の下で、雨など降るはずが無いのだ。止まらない体の震えと、歯の隙間から漏れ出す声が、その証明だ。
 僕は泣いている。君の優しさに、あるいは君の不幸に。君の存在を認めるはずの彼氏は、君を認めきれずに、君に孤独を覚えさせた。もしくは、そもそも彼氏などいなくて、僕を傷つけずにフる口実として、僕に嘘をついたのかもしれない。どちらにせよ、君が寂しい思いをしていたのは動かぬ事実で、それ故 止め処なく想いが溢れ出す。

 ひとしきり泣いた後、水溜りを掬うようにして蹴り上げた。街灯の光が水滴に反射して煌めく。
 いっそ、金木犀など消えてくれて清々した。その腐乱した甘い残り香が胸に絡み、僕はまたしゃくり上げそうになる。それを振り払うようにして背を向けるのだ。――さよなら、君を忘れよう。
 世界から隔絶するように、僕はヘッドフォンをして閉じこもった。


 もう一年と半年が経つのかと思うと不思議な気持ちになるのだが、君が軽音部の扉を開けた日のことを思い出す。
高一の春、借り物のようなブレザーに、大きな一眼レフを下げた君は、少し様子を窺うように、しかし持ち前の快活さを武器にして、「写真部です、先輩から『取り敢えず色んな部活の写真を撮って来い』と言われまして、……入ってもかまいませんか」と言い、その後に僕の姿を認めた。同じクラスだった僕に、君は目配せをし、僕はそれに従って部長を呼んだ。「ああ、どうぞ」と部長が言うと、君は僕に近づき、緊張と安堵と少しの嬉しさが混ざった声で「ありがとね、西野君」と言った。その不安定に揺らいだ音は耳に余韻を残し、僕は頬が熱くなるのを感じて、それを誤魔化すように作業に戻った。「何やってるの?」君はすかさず僕に尋ねたので、僕は「歌詞を考えているんだ」と答えるのに、声が裏返らないように気を付けなければならなかった。君は何かいいことを思いついたように得意な顔になって「じゃあ 西野、君を撮ってやろう」とレンズを向けた。「僕なんて撮っても面白くないよ、先輩がギターを弾いているから、そっちの方が写真映えする」と、僕にしては上出来なくらいの冷静な言葉を返すと、君はくるりと回り、僕の机に軽く腰掛けつつ、申し訳程度に先輩の写真を一枚ぱしゃりと撮って、それから僕の方を振り返り、「西野はギター弾かないの?」と言った。距離が近くなったことにドキドキしつつ、僕は立て掛けてあるギターケースをほのめかしながら、「下手なんだ、ギター」と言うにとどめた。「ふーん」君はケースのチャックを開きつつ、「まあ、西野がギターを掻き鳴らす姿は想像できないけど」とチャックについているストラップを手に取り、「そんな西野を見てみたい気もする」とピカピカのギターに見入りながら言った。それから君は、部活が終わるまで、僕のギターとストラップを撮り続けた。周りはそれを訝るように見たが、君は夢中でそれを撮り続けた。そして最後に、まるで拾ったビー玉を子供が親に渡すような無邪気さで、君は僕に一枚の写真を見せた。キラキラ光るギターを背景に、ストラップが被写体として控えめに収まっているその写真は、僕に何かを強く訴えかけた。「タイトルをつけるとしたら、『君』かな」僕の目を見て そう言う君の控えめな笑顔が、僕の記憶に焼き付いて離れない。


 君はいつでも子供みたいで、そして時にびっくりするほど大人だった。世界に転がるあらゆる日常を、君は鮮やかに切り取って、永遠にして見せるのだ。日常に埋没するきらめきに、君は子供のような無邪気さで反応し、大人のような理知的で深みのある感性を以て具現化する。分かりやすい例が写真であるだけで、それは君の生き方だった。君は嫌味の無い真っ白な笑い方をする。その顔は驚くほど繊細で、僕は時々それを「泣いているみたいだ」と思う。どうしようもなく矛盾に満ちた世界の中で、君は瞬間を永遠にする。触れようとすれば消えてしまうような笑顔の、その崩壊の予感を内包する性質が、僕に泣いているような印象を与える。そしてその笑顔は、僕の脳裏に刻み込まれる、一種の永遠の形だった。僕は君の笑顔を、多分一生忘れることはできないのだろう。それでも僕は不安になるのだ。「永遠なんて無い」と誰かが言う。「永遠はある」と僕は反論する。ほら、ここに永遠が存在するじゃないか。君が笑えば、世界は永遠だ。僕はその笑顔を、繊細なその笑顔を、壊れてしまいそうなその笑顔を、守りたいんだ、どうしようもなく、守りたいんだ、この手で。――また胸が苦しくなる。

 台風が街を襲った夜、窓ガラスを叩く雨の音が私の心を掻き立てていた。それを抑えるように、私はカメラのレンズを念入りに拭いていた。時計の針は一時を回り、思いがけず夜更かしをしてしまった私は、真夜中の雰囲気にあてられて、わけも無く感傷的になっていた。
 私たちは、ともすれば簡単に、夜の魔物に呑まれてしまう。人はそんな弱さを内に隠しつつ、泣き笑いで生きるのだ。きっと人に優しくできるのは、そんな痛みを私たちが共有しているからだと思う。
 痛みを超えて笑っていられるように、私は魔物をひた隠しにする。真夜中は魔物のテリトリーだ。変な癖がつかないうちに、さっさと寝てしまうのがいい。やがて朝が来る。
 真っ黒なレンズの奥に自分の影を見つけて、不意に心が揺らいだ。
 ――私はどこにいるのだろう?
 その影に私は「魔物を包摂する私」を見出す。しかし他人は「魔物から切り離された私」を認識する。それは私では無い。ならば私は――胸に手を当てる。鼓動が速まるのを感じる。発作的に、カメラを手に取っていた。パチン、とモードを連写に切り替え、シャッターを当ても無く切った。カシャカシャカシャ、と乾いた音が響く。私の見た世界が保存される――
 その時、LINEの通知が届く。〈台風大丈夫?〉送信主は西野だった。彼氏だったらよかったのに、となんとなく思う一方、優しいな、と微笑ましくも思う。それから、会話は部活に移った。〈ギターは上手くなった?〉いつだったか、西野のギターとストラップを撮ったことを、ずっしりとした一眼を弄びつつ思い出す。〈やめた ギターも売っちゃった〉〈歌詞を書いているのが性に合うよ〉私はピカピカのギターを思い出し、それから引っ込み思案な西野の性格を思い出して、少し残念な気持ちになり、〈ストラップはどうなったん?〉と送った。〈あれは筆箱についてる〉という返信が画面に灯り、私はなぜだか安心した。〈加藤さんは、二年なのに部長で、大変そうだね〉西野がそう言うのに対して、私は〈三年がいない弱小部だからね~〉と打ってから、しばらくカメラを見つめて、思いつきで、〈写真部が無かったら、私の存在意義は無いのかも〉と続けた。しばらくの沈黙――。しまった、重かったな、と思うのもつかの間、堰を切ったように返信が来た。〈加藤さんに存在していて欲しい人は多いと思うよ〉〈少なくとも僕は加藤さんに存在してもらわないと困る〉〈だから、存在意義が無いとか、そんな寂しいこと言わないでよ〉――西野の返信に少々気圧されつつ、〈おいおい、それじゃまるで告白みたいだぞ〉とふざけて返すと、〈告白だけど何〉と不愛想な返事に、西野のぶすっとした顔まで想像がついてしまって、あちゃー、と内心思いつつ、〈私に彼氏がいるの、知ってる?〉と笑いをこらえながら送ると、数秒の沈黙の後に、〈マジで〉とだけ返って来て、いよいよ面白くなってきた、イジり倒してやろう、とSっ気が顔を出しそうになるのを抑えつつ、〈私のことを認めてくれてありがとう。付き合うのはできないけど、今までみたいに友達として接してくれたら嬉しいな〉と打つと、相手から了承の返事が来て、それから私たちは「いつから好きだったの?」だとか、「なんで好きになったの?」だとか、そんなことを延々と話した。毛布をかぶり、いつでも寝られるようにしながら、ずっとトークを交換し続けたのは、きっと私が寂しかったからだと思う。〈今日の告白は、無かったことにした方が良いかな?〉〈加藤さんの心の内に留めてくれると嬉しい〉というやりとりを確認してから目を閉じた。明日からは、寂しがらない私になろう、と心に決めて。


 鏡の前で笑顔を作って見せる。よし、今日の私は、きっと誰よりもかわいい。
 外に出ると、光が眩しくて、世界がキラキラして見える。
 待ち合わせはカフェの前だ。胸がドキドキして、ソワソワして、手のやり場が無くて、髪の毛を弄りたくなって、せっかくセットしたのに、と思って引っ込める。待ち合わせ時間は昼だというのに、朝からずっと落ち着かなくて、ずいぶん早く着いてしまったのは失敗だった。店員さんから変な目で見られたらどうしよう。もしかしたら、こういう時は、先に席を取っておいた方が良いのかな。店内をのぞき込んで、君に電話をしようかと思った時、後ろから肩を叩かれて、「ひゃっ」と変な声が出た。
 君が笑っていた。私はきっと真っ赤な顔をしているのだろうな。そんなことを思うと、恥ずかしさが増して、もっと顔が火照ってしまう。そんな私を見て、君は無邪気な顔で「かわいい」って言うんだからずるいな。
 カフェデートは初めてだった。君と付き合ってもう一年が経つ。気付けば今までの中で一番付き合いの長い彼氏だ。私たちの間に、例えばジェットコースターやお化け屋敷のような、そんなアミューズメントは不要だった。ただ君だけを見ていたかった。カフェデートを提案してみたのは、そんな理由があってのことだ。
 店内はカジュアルな雰囲気だった。私たちはテーブルを挟み、隣の椅子に荷物を置いて、向かい合って座った。「空は何頼むの?」と君がメニューをこちらに向けてくれたのに、私は君の口から発せられるS音にうっとりしてしまって、ぼーっと君の顔を見ていた。「空さーん、聞いてますかー」とおどけて君が言うと、私は我に返って、「うわっ、ごめん」とメニューを見るけれど、内容が頭に入ってこない。「これなんかいいんじゃないかな」と君が特大のパフェを指さして、「太るじゃん!」と私が思わず返すと、君は笑って「知ってた」と言うから、どうにも調子が狂ってしまう。「進君は何にするの?」と対抗して尋ねると、「取り敢えずアイスコーヒー頼んでから考える」と あっさり答えが返ってきて、あ、そんな感じで良いのか、と妙に腑に落ちて、「じゃあ私は紅茶を頼もうかな」と言った。
 ――カフェデートを提案したのは私なのにな。
 これじゃあ私だけが空回っているみたいだ。君はゆっくり私との時間を楽しみたいと思ってくれているのに、私だけが落ち着かない。

 胸が高鳴っているのは、紅茶のカフェインのせいなのか、それとも――。
 君と話して三時間が過ぎた。昼食だか間食だか分からないフルーツサンドウィッチを食べた時、君は「アニメみたいに『口にクリームがついているよ』って指で掬うやつ、やりたい」という謎発言をして、私はおふざけ半分でそれに乗ったのだが、君の指が唇に触れた時の動揺が、ずっと頭の中をぐわんぐわんしているみたいで、それをどうにかしたいと思って「ちょっとトイレ行ってくる」と言った。
 冷水で手を洗い、首に手をやると、その温度差でスーッと心地良い気分になり、それが今まで私が舞い上がっていた故であると気付いた時、口から零れるように「はー、しんど」と呟いていた。その時スマホが震えて、開いてみると“susumu”とあって、すぐそこにいるのに送るか~? と何だか楽しい気分になってタップすると、カフェの中で隠し撮りしたみたいな私の写真があった。えっ、気付かなかった、と恥ずかしく思いつつ、その写真をぼんやりと見て、その紅潮した頬や、少し潤んだような目から、ああ私、本当に君のことが好きなんだなあ、と理解して、その理解したことすら君を好きになる材料になりそうな気がして、このまま恋のインフレーションに陥るのが怖くて、無理にでも思考を断ち切ろうとドアに手をかけた。
 ニヤニヤと笑う君に、「さっきの写真いつ撮ったの? 恥ずかしいよ~」とお決まりのような言葉。私は君の手の上で転がるオモチャだ。それを知って自分を縛りたくなるのは、君だけに思うことなんだよ。「サンドウィッチを頼む少し前くらいかな」と素直に言う君の、その素直さが何だかまどろっこしい。「荷物、どけてよ」と言う私は、微熱に侵されていたのかもしれない。「え、なんで」と戸惑う君。「進君の隣に座りたいの」と言うのはわがままだろうか? 「あ、ああ」と少し訝しみながら荷物を下ろす君の、その態度が私から離れてゆくみたいで寂しい。その距離を埋めたいから、私は必死に次の会話の糸口を探す。「あれ、コーヒーおかわりしたの?」と言う声が不自然に上ずって聞こえていたらどうしよう。「え、さっき頼んだじゃん」と言う君は、いよいよこちらの変調に気付き始めたようだ。「コーヒーってさ、美味しいの?」「うーん、初めは美味しくないんじゃないかな」――君のコーヒー、君のコーヒー、と頭の中でぐるぐる巡る狂想。君の口に絡んで溶けるコーヒー。「――どんな味がするんだろう」という言葉で、君を惹き寄せられたなら。君は少し躊躇って「……飲む?」とグラスを差し出す。――揺れるストロー。「あ!」と言う君の、普段より少し高い声で、私は君の動揺を感じ取る。「甘い方が飲みやすいかな」と惜しげもなくミルクを入れて、せっかく今まで飲んでいたコーヒーを台無しにしてしまう君の優しさが、私を狂わせる。ストローを咥えて飲むコーヒーで、私の脳が、体が、蕩けてしまいそうだった。「苦いし、甘い」と私は感想を伝えて、それから君を見上げた。君も私をじっと見つめた。――後は君から動いてほしかった。私の全てを受け止めて、支配して。
 「――今日の空、とってもかわいいよ」と君は、肩を軽くポン、と叩いて、それからストローを使わずにコーヒーを煽るようにして飲んだ。「――甘っ~」と飲み干して笑う。私はポカーンとそれを見ていた。「甘すぎて、どうにかなりそうだわ~」と君は伸びをしながら言う。私はその言葉で、急に夢から醒めたような気がして、「ごめんねー、私のために」と席を立って、元いた場所に座りなおした。
 それからずっと、コーヒーの苦い後味が私を支配していた。


 デートの帰りに寄ったスーパーでブリが異常に安かった。アラかな? と一瞬思ったが、小ぶりながら ちゃんとした切り身だった。それで何だか救われた気がして、そのまま買って帰った。
 ――日常にだって、キラキラしたものはたくさんあるんだ。
 このことを“デートの帰り”と言う部分を省いて西野に伝えてやったら、〈加藤さんってさ、僕みたいに地味な奴からはモテるけど、イケイケな感じの男からはモテないでしょ〉と少々失礼な返信が来た。ただ、悲しいかな、それは事実でもあった。〈そうだよ、地味な奴からはそれはもうモテまくるよ。君で告白されたのは八回目。五回付き合って四回別れた。二回告白して撃沈して、唯一の成功が今の彼氏〉とうっかり饒舌になってしまう。〈そうなんだ〉と妙にノリの悪い返信が来て、そういう所が西野だなあ、とおかしくなって、少しだけ愛おしくなった。〈ブリなんて小さいことだけど、そういう積み重ねがあるから、私は幸せなのかもしれない〉〈いいこと言うね〉〈西野みたいな感じかな〉〈どういうこと?〉――少しだけくすぐったいやりとりをして、上向いた気持ちで一日が終わった。

 学校からの帰り道、いつだって考えるのは君のことだ。金木犀の香りが絶えてしまった寂しい街を歩きながら、僕はそんなことを思う。

 僕は君が教室を出るのを待ってから部活に行ったり家に帰ったりする。それは一分一秒でも長く君の姿を目に焼き付けていたいからだ。君はいつも彼女の友人に向けて軽く手を振り、心持ち悲しそうな声とそれを取り繕うような笑顔で「バイバイ」と言う。髪の毛が少しだけ揺れて、背中を向けて歩き出した時に、ほんの少しだけ、上からフタを被せるタイプのリュックの、そのフタの部分が浮く。それはフタと本体とを繋ぐチャックが壊れているからだ。彼女は基本的にまじめな性格なのだが、少し抜けている所がある。そう言えば今週の初めには上靴を忘れて学校用のスリッパを履いて学校に来ていたのだが、それを隠すような仕草をする君がとてもかわいかった。

 ――僕は君を知ってから、それまでどうやって生きていたのか、忘れてしまったみたいだなあ。
 僕は常に君のことを考えてしまうんだ。――しかし彼女には彼氏がいる。この恋は許されない。どうしようもないこの心をどこへやろう。
 ――閉じ込めればいいじゃないか、あの時 誓ったみたいに。
 そうだ、思い出した、僕はそうやって生きてきた。君のことなど忘れてしまえばいい。耳の側で鳴る感傷的な音楽は、僕の鬱屈を引き剥がすためのツールに過ぎない。

 ――「あのさ、とおる、少しはお前の立場ってものを考えたら?」

 僕はきっと、あの時の言葉から耳を塞いでいる。


 僕は中学校の一年生から二年生の頃にかけて虐めを受けていた。――と言っても、虐めと言うほど酷いものでは無い。しかし、後から当時を知る人に「あれは虐めだったよ、いつお前が自殺するか、俺ヒヤヒヤしてたもん」と言われたので、一応“虐め”としておく。
 事の発端は覚えていない。多分、些細なことだろうと思う。虐めと言うのは恐らく、そのきっかけよりも、その場にある複雑に絡まり合った要素――端的に言ってしまえば背景――に依存するものだ。恐らく大小はあれど誰もが火種を持っていて、その中で気まぐれな風に煽られたものが炎上する。きっと「虐めは虐められる側にも問題がある」と言う人は、その火種の大きさに文句をつけているのだろう。確かにそれも変数になり得るのだから。
 思えば、小学六年生の時、担任の先生に「徹君は優秀なお子さんですが、中学受験はなさらないんですか」と聞かれたのも、そういう性質を当時の先生が経験的に知っていた、ということかもしれない。僕はその時、「それは無いです。ね、お母さん」と言った程には、学校に馴染んでいたし、むしろ人気者ですらあった。当時親友だった――名前を“F”としておく――男子をはじめとして、休日にはいつも家に人が遊びに来ていた。そのことを知っていた母親の同意もあって、めでたく僕は地元の公立中学校に進学した。そこには同じ小学校だった奴も多く進学していた。そのまま高校まで持ち上がることを信じて疑わなかった。
 中学校に入って状況は一変した。ちょうどその頃、僕は音楽や本などの文化系の魅力に感化されて、少し難しい言葉を覚え始めていた。きっとそれが良くなかったのだろう。
「こいつ何言ってるかわかんねえや」
 それは中学校で新しく知り合ったグループから始まった。最初にそれを口にした人は、ちょっとしたからかいの意味で言ったのだろう。しかし、それは緩やかに軽蔑の意味へと移り変わっていった。偶然発現した言葉によって、僕に対するネガティブなイメージが思いがけず顕現し、そこに皆の考えが寄り集まってゆき、やがてそれは総意となった。言葉に実が伴ったのだ。
 新しく知り合った人たちはともかくとして、堪えたのは古くから見知っている人たちの手の平の返しようだった。中でもFの言葉を僕は忘れない。

 それは廊下での出来事だった。中学校は五クラスあり、僕は一組であり、Fは五組であったから、小学校の頃と比べてFに会う機会はめっきり減っていた。そんな中、偶然に僕はFを見かけて、何だか懐かしい気持ちになった。実際、Fと会うのは久しぶりだったのだ。後で分かったことだが、その頃Fは意識的に僕と会うのを避けていた。
「F~!」
 手を挙げてそう呼ぶ僕を見て、Fは苦い表情を浮かべた。僕はその理由が分からず、かまわずそのまま他愛も無い話をした。Fも僕の手前、それに対応した。
 「久々に放課後会おうや」Fは別れ際に軽くそう言った。僕はそれに違和感を持たず応じた。むしろそれは嬉しいことだった。

 放課後、僕らは小学校の集団下校の頃みたいに並んで帰った。Fはそのルートだと微妙に遠回りになるということをよく嘆いていた。そうは言っても数十、数百メートルの差だろうが、Fは変な所にきっちりした男だった。自分の身に関わることに関しては特に。
 「あのさ、徹」そうFが切り出した時、僕は廊下の時と同種の苦々しげな顔を見出した。「何」僕は少しだけ緊張してFの言葉を待った。Fは少し俯いて、それから僕の方をはっきり見て言った。
「あのさ、徹、少しはお前の立場ってものを考えたら?」

 「――今日廊下で僕の名前を大声で呼んだろ、ああいうのやめてくれ。あれをされた僕が次ターゲットになるかもしれないってことを想像してくれ。お前は小学校の時とは立場が違うんだ。少しはそこんとこ考えて行動しろ」――Fの言葉を僕は衝撃を持って受け止めた。「今日お前を呼んだ理由はそれだけだ。俺はこの角を曲がらせてもらう。あんまり一緒にいると何を言われるか分からないし、こっちの方が近道だ」と畳みかけるFに僕は何の言葉も返せなかった。ただ彼の言葉は大きな爪跡を残し、その痛みが波打って何度も僕に襲いかかった。
 家に帰った後も僕はFの言葉を反芻していた。そのうちに、何かが僕の中でプツリと切れた。
 ――ああ、そうか、僕がいけなかったんだ。
 虚しい気持ちでそんなことをぼんやりと思って、それから僕は頭の中で殺人鬼を描いた。黒いマントに黒い仮面、大きなカマを持った空想殺人鬼を。
 Fの言葉の傷口をかばうように僕は目をつぶり、胸を押さえて言った。
「どうか僕を殺してください。その大きなカマを一振りして全てを消し去ってください」
 フッと軽い風が吹いた気がして目を開けると、そこは何も変わらない風景が広がっていた。
 ――ただ、、感情だけが消えていた、、、、、、、、、、

 程無くして僕は虐められなくなった。Fはそれを見計らって、再び僕に話しかけるようになった。「あれは虐めだったよ、いつお前が自殺するか、俺ヒヤヒヤしてたもん」Fは平然と言った。「それを正当化するわけじゃないけどさ、みんな虐められないように立場をわきまえてんだよ。あと個性を消すっていうのは日常生活を円滑に過ごすために必要なことでもある。歯車は没個性で滑らかに動くのが良い。クセのあるトガった歯車は多くの場合 使い道が無い。それが分かっていて、それでみんな幸せに暮らしてるのに、お前だけなんでできないんだって、深層心理ではみんな思ってて、それが虐めとして現れた。ただそれだけのことだと思うね」親が工学系で、自身もその道に進みたいと思っている、彼らしい例えだった。「もし僕が本当に自殺していたらどうする? 実際、死にたいと思うことは何度かあった」僕は、少なくとも意識できる範囲では、嫌味では無く興味本位でそれを訊いた。
Fは少し考えて、それから何か上手い返しを思いついたような笑顔を一瞬見せて言った。
「死にたい、死にたい、って言う奴いるけどさ、本当に死にたい奴はもう死んでるよな」
 薄ら笑いを浮かべつつ、Fは続けた。「――そういうことだと思うよ。……ほら、生きてる!」僕の方に両手を広げ、口角を上げてFは言った。


 突然、ヘッドフォンを突き抜ける怒号。顔を上げると、ビル街の一角に人だかりができていた。近づいてみると、野次馬を制止する警官の向こう側にブルーシートがあった。コントラストに眩暈がして、思わず上を見上げる。
 ――ああ、あそこから。
 僕はシルエットを見た。それが建物の縁を蹴る一瞬を。驚くほど速い自由落下を。コンクリートに打ちつけられた体が、グシャリと潰れる、その無味乾燥なやるせなさを。

 ――「死にたい、死にたい、って言う奴いるけどさ、本当に死にたい奴はもう死んでるよな」
 歪んだ笑顔――吊り上がった口元――。

 僕は突然、叫び出したい衝動に駆られた。ブルーシートにカメラを向ける群衆の中で、たった一人頭を抱える。歯を噛みしめてそれを堪える。唇が嘘みたいに震える。

 中学生活がフラッシュバックする。教室とベランダを隔絶するドアの鍵が閉められる。群衆、ドアを隔て、教室の中で僕を見る。面白い、と誰かが感想を漏らす。
 ――消えてしまいたかった。思考なんて働かなかった。いっそここから飛び降りれば、全てが終わるだろうか?

 あの時チャイムが鳴って、鍵は開き、群衆は整然と着席した。そんな生ぬるいなぶり方だったから、僕は死にきれなかった。
 幾度と無く想像するんだ。悪夢が起きていない世界線を。きっと今よりもずっと綺麗な世界がそこには待っているのだろう。だが、僕の世界は歪んでしまった。
 真似事をしているみたいなんだ、殺人鬼が僕を殺したあの時から。僕は普通の人間になるためにそうしたのに、その体験自体が僕に普通の人間であることを許していないような感覚があるんだ。
 ――いっそ僕を殺しておくれよ。
 この世界には虐める人間とそれを傍観する人間と虐められる人間がいる。虐める人間がその対象を殺すことは稀だ。気付いているだろうか? 虐められる人間は自分で自分を殺す。本当の意味で、そのことに気付いていなかっただろう? それは知らず知らずのうちに「虐められていない」という恩恵にあずかっているからだ。だから傍観者というのは無意識の「虐めている側」なのだ。この搾取-被搾取の関係は、この世界に在る限り常に成立している法則だ。その無常を知って、搾取される側の人間はそっとこの世界から姿を消す。搾取する側の人間はそれに気付かないまま、自分たちはある種の枠の中に居るということを確認し、再び枠外の人間を隔絶するのだ。――そんなことは、とうの昔に知っていた。知っていたはずなのに、なぜ惑っているのだろう?

 ――“お久しぶり、西野徹君”
 黒ずくめのその姿に、僕は懐かしさを覚えた。
 空想殺人鬼が、そこに立っていた。


 駅に着くと部長が声をかけてきた。彼は三年生であるため、僕の部活での先輩にあたる。
「飛び降り死体があったな」
 開口一番、そう切り出した部長は、そう言って僕の方を見た。その顔に深刻さは無く、質問は興味本位らしかった。「そうですね」と僕は素っ気無い返事をする。部長は少し笑って、それから「どう思うんだ、お前は」と聞いてきた。「どうって、どういうことですか」「いや、飛び降りって、どんな気持ちでするんだろうなって」「何で僕に聞くんですか」――部長は少し考えてから言った。
「いやさ、お前の書く歌詞って、こう何て言うか暗いじゃんか、ぶっちゃけ言うと理解できないって言うかさ、まあそこがミステリアスな感じで魅力的だし、お前もそこら辺を狙ってるんだろうけどさ、その感じが自殺する人の気持ちの想像し難さに似てるなー、ってそう思っただけ」
 僕は一瞬 目を見開いて、それからそれを隠すように俯いた。「どうかしたか?」と言う声を遮るようにして、「多分、」と声を発する。
「――多分、そうですね……半分、思考停止しているんだと思います。その一方、冷静に状況を見つめてもいるんだと思います。この世界は無常で、どうやらそれをひっくり返すことはできないらしい、と気付いてしまった時、圧倒的な無力感に襲われて、もう人生の歩みを進める活力が湧いてこなくなってしまった時、人は自殺するんだろうと思います」
 僕は部長に言葉を尽くしてそれをぶつけた。先輩は興味深そうにそれを聞いてから、「うん……よく分からんな」と呟いた。
 やっぱり、と僕は思った。僕と部長の間には壁がある。部長は向こう側の人間なのだ。僕がいくら言葉を尽くしても、向こう側にいる人間に、その言葉の本意は伝わらない。それを見て“ミステリアス”だとかいう薄っぺらい言葉で面白がって、そして飽きて捨てるのだ。
 ――“それを知ってなお、君は歌詞を書き続けるんだね”空想殺人鬼が顔を出し、皮肉な笑みを浮かべる。
 「まあ、死んだ奴のことなんて俺達には、、、、分からんよな、死んだこと無い俺達からしてみれば全ては想像に過ぎない」――先輩はそう言って肩に手を回そうとした。僕は反射的にそれを避けてしまう。「――やっぱお前、変な奴だな」先輩は困ったように笑った。
 ――僕は枠の中の人間じゃ無い。
 「何もそんなに避けなくても」と言いかけた部長は、僕を見てその言葉を止めた。
 脳内で言葉が反響する。――「死にたい、死にたい、って言う奴いるけどさ、本当に死にたい奴はもう死んでるよな」
 酷い気分だった。過去に言われた言葉と意味が似ている、と言う理由だけで、こんなに動揺するとは、自分でも思ってもみなかった。
 ポン、と背中に手が当てられた。それから部長は僕をさすった。「何があったかは知らないけど、少しで良いから聞かせてくれないか、言葉にすると楽になることだってあるだろ?」――唐突なその優しさに、服を隔てて なお伝わるその温もりに、僕は不意打ちを食らって泣きそうになる。恐らく目は充血しているのだろう。少し恥ずかしい。――部長に対してと、現金な自分に対して。
 溢れ出そうな思いを言葉にしたかった。しかしそれをしてしまえば傷ついてしまうということも分かっていた。伝わらないことを再確認するだけなのだから。
 「ゆっくりでいいからさ」という言葉に僕は強く首を振る。この人なら分かってくれるんじゃないか、という淡い期待を振り払うように、強く。
 「そっか、ごめんな」と部長は言った。僕の中で何かが溶けてしまいそうな気がした。気付けば僕は泣いていた。数本の電車が行ってしまったが、部長は黙ってそのままでいた。その優しさに甘えて僕もしばらくそうしていた。


 泣き疲れた僕は自室のベッドに腰掛けて、その反対側に立て掛けてあるギターケースを――結局売らずにいたそれを――ぼんやりと眺めていた。

 ――「西野君の家にお邪魔したいものだなあ」突然脳内で鳴る嫌味ったらしい笑い声に僕の心は揺らぐ。例の黒ずくめがニヤリとこちらを見た気がした。「もちろん、いいよなあ?」頬を掴まれた時の痛みが甦る。「へー、随分と良い趣味をお持ちで」無断で部屋に乗り込み、ギターを見て誰かが言う。「似合わねえな」別の誰かが嘲笑する。「この面だぜ?」と髪の毛を鷲掴みにしつつ誰かが言う。「見たくもない」誰かが吐き捨てる。

 唐突に僕は自分の体を打ちつけたい衝動に駆られてベッドから飛び降りた。鈍い痛みが体を貫き、意識がそちらに集中する。「うう」僕は拳を握り、それを床に振り下ろす。「ううう」揺らめいて立ち上がる。「うああ」バサッ、とベッドに飛び込む。「うあ、うああああああああああ」布団に頭を突っ込んで僕は呻いた。息が荒くなる。泣いていたのがぶり返す。過呼吸になるのを抑えようと、より深く布団に顔を埋める。息が苦しくなって仰向けになる。白い天井に青や赤の光がチカチカする。それを追っていたら少しだけ心が静まった。
 ――“こんな世界、生きてたって意味ないよ”黒ずくめが囁く。
 ――“そうかもね”僕はカッターを探して起き上がる。少しサクッとやったら、気分がスッとする気がしたのだ。
 ――“そんなことは、とうの昔に知っていた”引き出しからカッターを取り出して掴む。
 ――“知っていたはずなのに、なぜ惑っているのだろう?”カッターの刃が手首に触れた瞬間、酷く冷え冷えとした気持ちになる。手が震え、刃が皮膚に付いたり離れたりを繰り返す。
 ここまで苦しみながら、なお生に執着している。一度自分を殺しておきながら、まだ僕は生きている。感情は死んだはずなのに、僕はまた泣いている。
 ――「西野がギターを掻き鳴らす姿は想像できないけど、そんな西野を見てみたい気もする」
 ああ、と僕は涙を拭う。
 ――死んでいた僕を見つけ出してくれたのは君だったんだ。
 僕は筆箱のキーホルダーを外し、ちっぽけなそれを抱きしめる。
 ――やはりギターは捨ててしまおう。僕にとって必要なのは君だけだ。


 泥のように眠り、目が覚めたのは昼だった。僕は朝も昼も食べないままギターを売りに出した。帰りにコンビニで買ったおにぎりが美味かった。今を生きている、、、、、、、、という感じがした。
 家に帰ったくらいに君からLINEが来た。ブリの切り身という生活感溢れる話題に苦笑いしつつも、むしろそれが今の状況にマッチしていてテンションが上がった。日常にもキラキラしたものはある、と言う君と僕は同じ思想を共有している。そのことがたまらなく嬉しくて、今すぐにでも君を抱きしめたい。〈加藤さんってさ、僕みたいに地味な奴からはモテるけど、イケイケな感じの男からはモテないでしょ〉この気持ち、誰にでも分かってたまるものか。――そんな思いを婉曲的に伝える。
 〈そうだよ、地味な奴からはそれはもうモテまくるよ。君で告白されたのは八回目。五回付き合って四回別れた。二回告白して撃沈して、唯一の成功が今の彼氏〉返信を読んで、僕は動揺した。八回目、八回目かあ。そうか、そうだよな、加藤さんほど素敵な人が、八回くらい告白されていないなんておかしいよなあ。――頭では分かっていても、心の整理が追い付かない。〈そうなんだ〉と返す言葉も そぞろになってしまう。なぜ自分が動揺しているのか分からなかった。ただ君が急速に遠のいてゆくのだけを感じた。〈ブリなんて小さいことだけど、そういう積み重ねがあるから、私は幸せなのかもしれない〉という言葉に、何も考えずに〈いいこと言うね〉という言葉を当てはめる。〈西野みたいな感じかな〉という返信で僕は胸が苦しくなる。〈どういうこと?〉――僕は君にとって日常に転がる“積み重ね”に過ぎないのか。
 ――僕はこんなに君のことを想っているのに。
 ――僕は君にとっての one of them に過ぎないのか。
 僕は急速に安定を失ったかのようだった。現実を前に、僕はただキーホルダーにすがるしかなかった。いつしかそれさえも空しくなって、切なくなった。
 ――君が欲しい。
 君の真っ白な笑顔を僕の色で染め上げたい。
 ――君が欲しい。
 君を抱きしめて、そのままどこかへ連れ去りたい。
 ――君が欲しい。
 もう誰かのもとへ転がらなくていいように――
 ――君が欲しい。
 ――もう寂しさなんて感じさせない、、、、、、、、、、、、、、
 きっと君はまだ本当の愛を知らないんだ。僕が包んで溶かしてあげたい。君の悲しみも、君の優しさも、君の強がりも、全部、全部、全部――。そのまま一緒に溶けて消えてしまえたなら、きっとそれは僕らだけの永遠になるのに。


 その日は冬を予感させるような底冷えのする晴天であった。草木は色を失い、緩やかに死へと向かっていた。吐く息は白く、それは刹那的なきらめきを見せて消えた。
 君は一日中緊張した様子だった。先生からある封筒を渡されていたのだ。それは写真部で出したコンクールの結果だった。開けてみてよ、という周りの願いを君は頑なに拒否した。部活動の時間に開ける、と言って聞かなかった。「えー、じゃあ私 教室に残る」と誰かが言った。写真部は部室が倉庫しか与えられていないため、活動場所を教室にしていた。

 僕はと言えば、軽音を辞めようかと悩んでいた。ギターを捨てたとはいえ、歌詞を書くという仕事は残されていたのだが、過去と決別するには、完全に身を引いてしまうのが良い気がしていた。しかしながらそれを部長に言うのが少し躊躇われた。部長の優しさを裏切ってしまう気がしたのだ。結局、そのことを言えずに部活が終わった。その時はじめて、教室に忘れ物をしていたことに気がついた。それほどに僕にとって重要な決断だった。
 教室に戻ると不自然な人だかりができていた。僕の視線はすぐにその真ん中にいる君に集中した。君の睫毛と髪が濡れていた。「はいはい、男子は帰った帰った」とこちらに近寄って女子が言う。僕はそれに従ってそのまま帰路に着いた。肌を刺すような空気の冷たさが僕の無力を責めていた。忘れ物のことはその後に思い出した。

 僕は何度も今日見た君の顔を思い描き、そのたびにやるせない気持ちになった。ついにはそのことを君に尋ねてしまった。最低だ、と自己嫌悪に陥るのも束の間、すぐに既読がついて、返信が来た。金賞を逃した、という内容だったが、調べてみると、なかなかに権威のありそうなコンクールだったので、銀賞でも凄いのではないか、という印象を持った。それを婉曲的に伝えると、すぐに〈ばか〉とだけ返ってきた。目先を変えて〈写真を見せてよ〉と送るが、〈やだ〉〈何も分かってない〉と頑なだった。そのいつもとは明らかに違う君の態度に、切なさや逆説的な愛しさ、守ってあげたいという気持ちなどが絡まり合って、それは焦燥感へと変わった。今すぐに家を飛び出して、電車に飛び乗って、君の街へ――そして君を抱きしめて、頭を撫でて頑張りを認めるのだ。一人で寂しさを感じさせるには今夜の空気は冷たすぎる。
 僕は本当に家を飛び出した。駅へと走る――肺が凍り付きそうなほど痛くなる。駅に着く――切符を買うのがまどろっこしくて、慌てて落とした小銭などどうでもよくて、ただ君の顔だけが見たくて――。電車に乗って一息つくと、君から返信が来た。
 〈まあ見せてやってもいいけど〉という返信とともに、一枚の写真が送られていた。
 ――それは部長の写真だった。見慣れた制服姿では無く、そして普段見せたことが無いような種類の楽しそうな表情だった。
 車内のアナウンスで僕は目的の駅に着いたことを知った。混乱した状態で駅を降り、ロータリーの前でひとまず立ち止まる。〈女子たちにばれちゃったから、西野にばれるのも時間の問題かな、と思って〉〈隠す前に涙が溢れちゃってさ〉背中をさすってくれたその大きくて暖かい手が優しく差し出されている。光を和らげるフィルターは君の愛だ。その二人の間で完結している、写真という本当の愛の形を見て僕は打ちひしがれる。
 色々なことを思った。きっと二年生にして写真部の部長になった、気負いがちな君を導いていたのは部長だったのだろう。君が悔しくて泣いていたのは、君自身の技量に対してではなくて、大好きな部長が被写体となった写真が、一番では無いと評価されてしまったことに対してなのだろう。そんなことを考えるたびに、必要とされているのは部長の愛であって、僕の愛では無いということを実感する。僕は思わず座り込んだ。――“必要なのは君じゃ無い”黒ずくめは笑う。“彼女にとっての本当の愛は部長のものだ”それは畳みかける。“自己満足な愛など誰にも届くはずが無い”それが近づく。“君の思いは誰にも届かない”――。
 気付けば僕は立ち上がっていた。景色が滲んで歪む。それがそっと背中を押す。ふらつくように僕は車線へと飛び出す。ゴン、と鈍い痛みが体を貫く――


 病室で僕はあの時のことを思い出す。そしてそのたび自己嫌悪に陥る。僕はあの時、朦朧とした意識の中で、こんなことを思っていたんだ。
 ――“自殺したなら君は振り向いてくれるだろうか”――。

 きっと優しい君は見舞いに来てくれる。そのことが僕を苦しめる。
 ――「死にたい、死にたい、って言う奴いるけどさ、本当に死にたい奴はもう死んでるよな」とFが言った時、僕はきっとこう言い返したかったんだ。
 ――“苦しんでいることの証明が死ぬことしか無いなんて絶望だ”――。
 いつだって気付いた時にはもう手遅れなんだ。
 海の底のように、心は冷え冷えとして、それでいて凪いでいた。

 病室のドアが開いて、君の姿が見える。今にも泣き出しそうなその顔が、僕のためのものだと思うと、背徳感を覚える。「ばか」君は言葉を漏らす。「何で言ってくれなかったんだよ。西野のばか。ばか」その言葉に僕は首を振る。「君には分からないし、分かる必要も無い」――君のおかげで、僕はもう一度知ることができたんだ。向こう側の人間が間違っているんじゃなくて、正しいということもあるんだ、ということに。そして正しさなんてものは不確定で揺らめくものである、ということに。「訳分かんない」君は悲しみと静かな怒りをその言葉に込めて病室を去る。僕はその姿を目で追う。

 本当は君に抱きしめてもらいたかった。僕の全てを肯定してほしかった。行き場の無い僕を留めて欲しかった。――心臓がビートを刻み、伝えたい言葉が溢れ出す。
 でも、それは全て我儘だと知っていた。
 しばらく病室に一人でいて僕は気付いたんだ。――なぜ向こう側の君が僕を見つけ出せたのか、ということに。君はきっと僕にだけじゃなく、全てに対して愛を注いでいたんだ。君は日常の全てを愛している。だから僕に対しても無意識に愛を注いでしまった。僕はそれで勘違いして、多くを望み過ぎていたんだ。
 君に告白した時のことを思い出す。金木犀が綺麗な季節だった。君を抱きしめたなら、その匂いは金木犀のように僕を狂わせるのだろうか。華奢なその体は僕が触れてしまえば散ってしまいそうなほど儚い。だから僕のような人は、君に近づくことすら許されないのだろう。
 きっと僕は金木犀の季節になるたびに、君のことを思い出して泣いてしまう。――僕は一人 病室の中でその許しを乞うた。

 西野のことを知ったのは、それが起きた翌日、学校でのことだった。私はそれを聞いて戦慄した。西野はいつも私の言葉に全て返信をくれる。その彼がトークを途切れさせていた、ということを不自然に思っていた所だったからだ。ロータリーでタクシーに引かれた、という事実が、それが突発的な衝動だったことを示していた。つまり、私のLINEが直接の原因であるということだ。
 幾度と無く自分を責めた。西野の想いを知っていながら、私はそれを無下に扱ったのだ。自分がそんな薄情な人間だということに寒気がした。その罪悪感から西野の病室に向かった。

 「君には分からないし、分かる必要も無い」と言われた時、なぜだか無性に腹が立った。
 思い出していたのは西野と出会った日のことだ――進君と出会った日でもある。私はあの時 撮ったストラップとギターに、西野がぎこちないながらも自分の思いを伝えるために歌を歌っているイメージを込めた。――それを裏切られた気がしたのだ。けれどもその怒りが、罪悪感から自分を守るためのものかもしれない、と想像して寒気がした。
 全てを誰かに打ち明けてしまいたかった。抱えきれない不安が襲う。
気付けば私は進君を求めていた。
 ――間違った私を、それでも良いと肯定してほしい。君に抱きしめられたい。最も情熱的な方法で、それを証明してほしい。
 カフェデートのことを思い出す。――君はあの時、何で私を奪ってくれなかったの?
幾度と無く口に出そうとした。でも嫌われるのが怖くて できなかった。
 ――私はどこに行けばいいの?
 真っ暗闇の中、魔物が私を侵食してゆく――

触れようとすれば消えてしまう

高校二年生の春に書いた作品です。3作目。
『目隠しと破綻』を新歓号に載せるつもりでしたが、締め切りに間に合わず、ストックしてあったこの小説を提出した思い出があります。
この物語自体の話をすると、これは実際にあったことを元にした作品です。
「結局 ポン・デ・リング どこ行ったの?」と聞かれたことがあるのですが、さあ、どこ行ったんですかね。どうでもいいじゃないですか。
1,313文字



 平成三十年、一月二十六日。京都。僕の住む街は市街地の少しはずれにある住宅街である。
 塾からの帰り道、僕はミスター・ドーナツに寄った。だいぶ前から僕には食べたいものが二つある。ポン・デ・リングとランチパックのピーナツバターである。
 それにしても前回の塾の時は最悪であった。塾の帰りにどちらかを買おうと思い、まずファミリーマートに入ったのだが、ランチパックはタマゴしかなかった。仕方ないなと思い、ミスター・ドーナツに向かったのだが、不幸なことに、ミスター・ドーナツの閉店時間は夜の十時であった。塾が終わるのは夜の九時五十分。ファミリーマートに寄っていた僕がミスター・ドーナツに到着したのは夜の十時八分であった。まだ店内は明るく、しかし自動ドアは開かない。店内では従業員が何やら大きな袋にドーナツをガサゴソと入れていた。あのドーナツは僕に食べられるべきであった。雑に扱われるドーナツを見て、悲しいやら、憎らしいやら、そんな感情が湧いてきた。僕はここに戻ってくるぞ。そう誓ったものだ。
 今日、めざましテレビの占いで、ラッキーアイテムがドーナツだった。僕は運命のようなものを感じテレビの前で震えた。ポン・デ・リングが僕を呼んでいる。だがピーナツバター、お前は違う。
 さて、僕はミスター・ドーナツの前に立っている。午後九時五十七分。辺りは厳しい冷え込みで、顔のあたりが少し痛い。意を決して店内に入る。ぼくは迷わずポン・デ・リングを掴みレジに向かう。一〇八円。小銭が不足気味で、一〇円があと二枚足りず、結局僕は八円と千円札を渡した。店員には悪い事をした。閉店間近にもかかわらず面倒なことをさせてしまった。どうにも冴えない。
 外に出ると雪が舞っていた。僕はイヤホンを耳につけて、曲をシャッフルで流した。大滝詠一の雨のウェンズデイが流れる。雨でもなければウェンズデイでもない(僕の塾は毎週金曜日にある)。その奇妙さに少し笑う。粉雪が肌に触れるのが、なんだか少しくすぐったい。しばらく歩くと、防火バケツが目に入ってきた。中の水は凍っていて、その上に粉雪が舞い降りており、その氷の上で形を保っていた。僕はスマホで写真を撮った。荒い画質で感度も良くないが雰囲気は伝わるはずだ。スマホに思い出を閉じ込めてから歩き出す。アスファルトにもうっすらと雪が積もってきた。
コートにも雪がついていた。後ろを振り返ると、街頭に照らされてまばらに積もった雪が白く光っていた。とても良い雰囲気だった。僕はそれも写真に収めた。
 帽子をかぶったおじさんが僕の横を通り過ぎる。首をちぢこめ、ポケットに手を突っ込んでちょこちょこと歩く。まるでペンギンのようだ。
 僕の住むアパートに到着する。ちょうど入れ違いでエレベーターが上に行ってしまった。中にいた女性が少し驚いた表情をし、ボタンに手を伸ばすが間に合わない。僕が塾の帰り道にしたことの、そのどれかが無かったならば、エレベーターとすれ違うこともなかったのだな、と思った。なんだか不思議な気持ちになった。外では相変わらず粉雪が舞っていた。その粉雪一粒一粒とは、もう二度と会うことは無いのだな。ふとコートを見ると、雪はもう全て溶けてしまっていた。

氷解

高校二年生の夏に、合同誌に載せる『目隠しと破綻』と並行して書いていた作品です。5作目。
初めてまともなラブストーリーを書いたような気がします。
”氷解”は、ふつう「疑問が氷解する」というふうに使いますが、季語の”氷解(こおりどけ)”としても使われるのですね。
33,152文字




 春――氷に閉ざされた大地は柔らかな日差しによって少しずつその姿を現し、溶けた氷は新たな生命の糧となる。長い眠りから覚めた新芽はそよ風に身を震わし、やがて純な花を咲かせる。僕はその自然摂理の神秘とでも言うものを強く感じさせる春という概念を迎合する世間の風潮に嫌悪感を抱いていた。それは「神がこの世界を支配しているのだ」という教えとそれを支持する人々の胡散臭さにも似ていた。それ故 僕は例えば花見という行為に価値観を見出せないでいたし、クラス替えの感傷的なムードや、新学期に対するどこか浮ついた空気感を全く理解することが出来なかった。或いは一年前――高校に入学する際の高揚感は理解することが出来たかもしれなかったが、それは「自分の人生が変化するターニングポイントに立っているのだ」という自覚に起因するものであったので例外と言えよう。高二の春を迎えるにあたって、僕の心が動かされる要素は この世界に何も無かった。
 僕は例えば神を盲目的に信ずることを好まなかった。真理のみを見つめ神に逆らったガリレオは僕にとっての英雄であった。主義主張を曲げないことこそが僕のアイデンティティを成立させているように思えた。自分の考えを曲げることは、自分を自分でなくしていることと同義であると考えていた。

 その日はいかにも「春爛漫」とでも言いたくなるような、春の到来を告げる清々しい陽気であった。
リビングルームで朝食をとっていると、姉が部屋から寝ぼけ眼で出てきた。いつもなら長い髪を盛大に爆発させているところであるが、今日はそうでは無かった。というのも、姉の髪形がショートカットになっていたのである。その姿を見て僕は声をかけた。
「姉ちゃん髪切った?」
「んー」
 鬱陶しげな様子を前面に出しながら姉は返事をした。
「また恋愛にでも失敗したの」
「……うっせえ、黙れ童貞」
 どうやら図星である。姉は今 大学の二回生であるが、恋愛沙汰には事欠かない様子であった。そして決まって、三か月も経てば彼氏と別れていた。
「そんなんならさ、恋愛なんてしなければいいのに」
「童貞には到底わかんねーよ」
「童貞童貞言うけどさ、色恋沙汰に身を堕として学業に身が入らない姉ちゃんと、そういうことをきちんとコントロールして学業に専念している僕とでは、どっちが賢いんだろうね?」
 姉は僕の方を見て少し苛ついた表情を見せる。
「あのさぁ、恋ってのは止まんねーの。コントロール? ムリムリ。そんなのは恋じゃないね」
「その考えは姉ちゃんが姉ちゃん自身の堕落を正当化しているに過ぎないよ」
 僕は皮肉めいた口調で言った。
「童貞には分かんないだろうけどさ、恋ってのは意識したらそこでおしまいなわけ。その後はもうハンドルもブレーキも効かないわけ。んでもってその恋の自覚は無意識に始まるわけであるから意中の人に出会った時点で誰しもが負け。出会いという偶然の作用に起因する恋愛というものを堕落と決めつけてんじゃねえ たわけ」
 僕はその言葉の意味を半分も理解出来ないでいた。根拠の無い物言い――姉の言葉には中身が無い。だからこそ姉の言葉は僕にとって一グラムの重さも感じられず、であるからしてやはり姉の言葉は姉自身の堕落を隠す言い訳に過ぎない。
「なるほどね、まあそんな姉ちゃんが、これからどんな風になっていくのか、楽しみに見させていただくとするよ」
「あゝ童貞というものは哀しいねえ。そういう皮肉は一度 恋を経験してから言うがいいさ」
 姉は溢れんばかりの皮肉を僕に返し、満足げに食パンを頬張った。


 同日、ロングホームルームでのことである。
「そう言えば、高二になって、クラス替えで新しいクラスになってから、自己紹介みたいなことをしていなかったな――名前と、それから趣味とか部活とか、適当に」
 クラス担任がこのようなことを言い出し、僕は心の中で舌打ちをした。自己紹介ほど無駄なものは無い。時間がかかる上に、自己紹介の目的は他人について知ることであるが、それだけの機会で例えばどれほどの名前を記憶出来るというのだろうか。趣味など尚更である。そもそも、何故 興味も無い他人の趣味を聞かされねばならぬのか。さらに言えば、僕のことなど興味も無い他人に対して何故 趣味を話さなければならぬのか。全てが意味不明である。こんなものはさしずめクラス担任が楽をしたいからやるものであろう。生徒に任せておけば彼・彼女らは話をする必要が無いのである。
「んー、少し時間が無いな。よし、ここは一つ、チャイムが鳴るまで近くの人と適当に自己紹介をしておいてくれ」
 まるで僕の不満を聞いていたかのように先生は方針を修正した。自己紹介をするということには変わり無いが、こちらの方が幾分かマシである。尤も、先生が方針を変更したのは時間が無いからであって、先生を評価する気には到底なれないのであるが。
 誰かが誰かに話しかけたのを契機にして教室内にざわめきが伝播する。適当なペアが自然発生的に形成され、その中で自己紹介が始まる。
「こんにちは」
 そう言葉を発した女子の顔は、いかにも優等生、といったものであった。ショートカットに少し梳かれた前髪が清楚な印象を与える。プラスチックの赤い眼鏡と丸顔からはどことなくあどけなさが感じられる。
「こんにちは」
 社交辞令的に僕は返事をした。
「早沢陽菜って言います。部活はテニス部です」
 形式張った言い方で彼女は自己紹介をした。妙に堅苦しくなってしまったのがおかしかったのか、照れたように笑う。
「七海拓真です。部活は軽音です」
 彼女に倣い、形式張った自己紹介を返す。必要以上に感情が入りすぎないように、かつ必要以上に不愛想にならないように気を使いながら。
「軽音!? 凄い! かっこいい!」
 彼女はテンプレのような反応を僕に返した。「あー、こういう系の人か」と僕は思った。つまりはクラス替えの時に悲しがって見せたり、新学期ではしゃいで見せたりするような人。どうせ本心ではそんなこと思っていないのだ。
「そうかな? そんなこと無いと思うけど」
 僕はなるだけ刺々しくならないように気をつけて言った。
「えー、ギターとか、ドラムとか、かっこいいじゃん」
 彼女は心持ち上気しながら言った。僕はまんざらでもなかった。しかし、同時に「お世辞に違いない」とも思った。
「どんな曲するの? コピー? オリジナル?」
「一応、オリジナル」
「えー凄い! ジャンルは? あ! そもそも誰が作ってるの? あれ、七海君ってバンドだよね」
「うん、バンド。曲は基本 皆で相談して作るけど、大体は僕が作詞作曲して、皆がそれを手直ししていく感じ。バンドの雰囲気に合うように編曲するというか。ジャンルは……ポップスかな」
「ふーん、じゃあ七海君が曲作ってるんだ、凄いじゃん」
「いや、だから皆で作っているから、別に凄くないというか、っていうかそもそも凄いって言われに値する曲 作ってないし」
「うーん、でも七海君が作詞作曲してるんだから、ほとんど全部 自分で作ってるってことでしょ、凄いって」
 いや僕は凄くなくって……と言いかけた時、チャイムが鳴り自己紹介の時間は終了した。
「七海君の曲、聞いてみたいな」
 彼女はチャイムが鳴り終わった後、そう言って笑った。結局 彼女に押し切られた形になり、僕は割り切れない思いを抱いたまま休み時間を迎えた。


 休み時間、クラスは幾つかのグループに分かれる。特にその集団で共有することも無いのに意味も無く集まるのは、きっと皆 独りぼっちになるのが怖いのだろう。或いは「ぼっち」というレッテルを張られるのが怖いのだろう。しかしながら、考えてみれば「ぼっち」であることの何が悪いのだろう。僕らはいつの間にか「ぼっち」が悪であるという雰囲気を共有している。全くもって意味不明である。やれやれ、やはり風潮というやつはどうにも好きになれない。

「結局あいつとどうなったんだよ、拓真」
 そう話しかけてきたのは坂口柊真とうま――彼の周りには常に人がいる。当然、彼が僕に話しかけるということは、僕が彼のグループの関心物オモチャになることを意味する。
「おい七海、答えろよ」
 風潮という点では、最近 男子の間で蔓延はびこっている恋バナを求める風潮も好きになれない。「つまらない学校生活だ、恋でもしてみたいものだなあ」などとうそぶき、また、グループ内に少しでもそういう動きがあると「付き合っちゃえよ」などとけしかける。これが所謂「恋に恋する」というヤツなのだろうか。
 僕は敢えてしらを切ることにした。
「あいつって誰だよ、どうなったって何がだよ」
 柊真はグループに向けて「こんなこと言ってるぜ」とばかりに目配せした。
「誰がって、あいつに決まってんだろ。んで、付き合ったりとかしてねえのか、いっつも一緒に帰ってるくせに」
 あいつ、と言って目をやった先にいるのは高木美都みと――実は彼女と僕とは幼馴染である。しかしその事実を知る者はこの学校の中には恐らくいない。彼女と示し合わせてその事実を隠そうとしている、というわけでは無いのだが、いつかどちらかが言うだろう、いずれバレるだろう、などと思っているうちに、お互い言い出すきっかけを失った、といったところだ。
 実のところ僕は、彼女と付き合っているのを疑われることに対してまんざらでも無い。というのは、恋に恋する鬱陶しい男子グループメンバーにおいて、少しばかり優位に立てる気がするからである。恐らく彼らは、僕が美都と一緒に近くのテーマパークに行ったり、それぞれの家で同時間帯の別のアニメを録画してそれらをシェアしたり、寒い冬にコンビニの肉まんを分け合ったりしたことがあると知ったならば発狂するに違いない。その様子を想像して、僕は密かに優越感に浸っているのだ。僕が美都と幼馴染であることをバラさないのは、こういう理由もあってのことである。
「美都~? そんな感じじゃないなあ」
 僕は口軽く付き合っていることを否定した。


「なにそれ、凄い!」
 僕のシャーペンを見て、早沢さんは感嘆の声を上げた。
 授業でグループ活動をしている時のことであった。タスクを済ませ、班内には手持ち無沙汰な雰囲気が広がっていた。早沢さんの声を聞いてグループメンバーの視線が一気に僕に向くのを感じた。やれやれ、面倒だ。
「そのネジみたいなの何に使うの? 何て名前のシャーペン?」
 好奇心に溢れた早沢さんの目を見て、僕は仕方無いな、と思った。
「オートのスーパープロメカってシャーペンで、ネジを動かすと芯の繰り出し量が調節出来る」
 僕は実際にそれを動作させながら説明した。早沢さんだけで無くグループメンバーからも嘆美の声が漏れる。
「凄い、どうなってるの!?」
 僕はそれを出来る限り分かりやすく解説した。そう言えば、このようにシャーペンの話をするのは、高校に入ってからは一度も無かったな、と思った。
「七海君って文房具詳しいんだね」
「いや、詳しいわけじゃないよ」
「え? そんなシャーペン持っているのに?」
「ああ、これは中学の頃の友達に教えてもらったんだ。だから文房具詳しいってわけじゃない。そいつ文房具が好きで、当然これも持ってるから、『おそろだねー』、って」
「へー、そういうのいいね、羨ましい」
 早沢さんはそう言って笑った。僕は中学生の頃が懐かしくなった。あいつは今どうしているのだろう。久々に会いたくなった。僕は早沢さんに少しだけ感謝した。


 「あー、大久保君か、懐かしいね」
 僕はすぐに名前を言い当てた美都に一種の安心感のようなものを覚えた。
 学校からの帰り道、僕は美都にグループワークでの顛末を話した。
 僕は多くの場合 美都と一緒に家に帰る。それは示し合わせているというわけでは無く、帰る方面が一緒であるから互いの姿を自然と見つけてしまう、というのが適切であるように思う。ちなみに朝は、美都がバトミントン部の朝練に行っているということもあり、会うことは少ない。
 美都とは幼馴染であるから当然 僕に文房具好きの友人がいたということも知っている。そんな当たり前だと思っていたことも、案外奇跡的なことなのではないか、という気に僕はなっていた。美都と僕の通っている高校は街中まちなかにあるそれなりの進学校であるが、僕らは元々田舎の公立小学校・中学校に通っていた。美都は僕よりもずっと頭が良く、有名な私立の高校に通う予定だった。しかし美都は受験に落ちてしまい、結果的に滑り止めとして受けていた僕の高校に落ち着いた。
「そうそう、大久保君。懐いよねー」
 僕は懐郷の情に浸り、美都の背中に中学時代を見ていた。美都は高校生になってから髪を下ろした。黒髪ロングのスタイルを確立し、幾分 綺麗になったかもしれないが、その背丈は中学の頃から変わっておらず、どことなく昔の面影を残している。僕にとって美都は幼馴染であり続けているのだ。
 僕は高校生になるにあたって急に背が伸び、昔の面影は消え去ってしまったかのようだ。見上げるような美都の視線を感じ、見降ろされていた中学時代を懐かしく思い出す。
「久々に会ってみたいなー、大久保君に」
 僕は街の喧騒に掻き消されるように小さい声で呟いた。春の陽気が僕らを包んでいた。僕は頬が火照るのを感じた。
「え~、でもLINEでいつでも連絡取れるじゃん」
 美都は身も蓋も無いことを言った。僕はノスタルジーを壊された気がして少しムッとした。
「そんなことよりさ、今度、桜 見に行かない?」
 美都はそう言って話題の転換を図った。「そんなことより」? 僕は懐かしい記憶を「そんなことより」で済ましてしまう美都の精神性を疑った。それに桜だ。どうして人はこうも花見をしたがるのか。僕は懐古からくる法悦が急速に冷めてゆくのを感じた。
「んー、また考えてみるよ」
 僕はやんわりと話題をかわした。

 高校生活最大のイベントと言えば大抵の人が文化祭を挙げるだろう。我が校の文化祭の日取りは八月一日と二日であり、今は四月の中旬であるから約三か月後に文化祭がある。文化祭について本格的に活動が始まるのは七月に入ってからであるが、それに先行して文化祭の委員が募集され、その委員が発表されることになった。委員は二年生から募集される。三年生は大学受験があるため、文化祭を中心となって動かすのは二年生なのである。
 僕は文化祭の委員長を見て少し驚いた。早沢さんが委員長だったのだ。僕は驚いたものの、早沢さんが委員長になることに対して納得もしていた。僕は今朝のことを思い出していた。

 校門前ではよく塾の案内が配られる。それに付属する文房具が高校生の勉強道具の供給源の一つになっているのはよくある話であろう。
教室に入ると早沢さんの話し声が聞こえてきた。
「今日さ、校門前で配ってるパンフの中に付箋が入ってたんだよね、しかも結構かわいいやつ。いつもボールペンが入ってること多いじゃん? 嬉しいなあ」
 そういえばそうだな、と僕は思った。何気なく受け取ったものの、確かに付箋が入っているのは珍しいな、と僕は気付かされた。
 早沢さんが隣に座って半月ほどが過ぎたが、早沢さんには敵わないな、と思うことがたまにある。
 早沢さんはよく笑う。例えば授業中、先生が下らない話をしている時、たまたま少し面白いことを言うと早沢さんは真っ先に笑う。それにつられて皆も笑う。早沢さんは感覚が繊細なのだ。些細な日常の興趣を拾い上げる能力に長けている。早沢さんを起点として生み出される笑顔はクラスの雰囲気を少しだけ明るくし、日常に色彩を添える。僕は早沢さんの隣になってから笑うことが増えた。雰囲気というものは伝播する。日々の泡沫を救い上げ愛でるような彼女の眼差しは世界を変えるのだ。

「不束者ですが一生懸命頑張ります! よろしくお願いします!」
 そう言って早沢さんはお辞儀をした。緊張でガチガチになった早沢さんを温かい拍手が迎える。僕は早沢さんなら文化祭を成功させることが出来る気がした。いつだって物語は彼女から始まるのだから。


 現代文の授業、僕は教科書を取り出し先生の話を聞く。授業は新しい小説に入るらしかった。ふと早沢さんを見ると、早速 今日貰った付箋を貼っていた。彼女は普段から付箋を愛用しているらしく、教科書には今まで授業で取り扱ってきた分だけの付箋が貼ってあった。僕は付箋を付けない主義であり、教科書の上辺を指でなぞると引っかかりなく角に到達するのだが、折角なので早沢さんに倣い、付箋を付けてみた。付箋がぴょこん、と顔を出した。


 「文化祭の委員が決まったことだし、そろそろ文化祭に向けてオリジナル曲の制作に取り掛かるようにしてね」
 柊真は軽音の部員に向けてそう言った。彼は軽音の部長なのである。
「どう? 調子は。俺んとこは全然活動してないけどな」
 柊真は部員の集合を解いてから僕に話しかけてきた。彼の所属するバンド『アイスピック』は軽音にあるバンドの中でも突出した人気を誇る。エッジの効いたメロディに甘い歌詞、そして何といってもボーカルである柊真のカッコよさが光るバンドだ。コンクールでは僕の所属するバンドと賞争いをするのが常だ。
「一応、曲自体はもう作ってはいるんだけどね、編曲はまだだけど」
 僕はそう答え、ギターを掴んだ。「聴く?」
「んじゃ、」そう言って柊真はパイプ椅子に腰かけ演奏を促した。僕は譜面を見つつ、一通り歌った。
「は~、良い曲ですねぇ」
 柊真はさも文句ありげにそう言った。
「なんか文句あるんなら、どうぞ」
 僕はお決まりのように柊真にそう振った。
「いや~、完璧主義な拓真君らしい曲だと思いますよ、隙の無い完璧な曲。音楽理論に沿って練り上げられる完璧な音。――あー相も変わらずつまらない!!」
 柊真はどことなく嬉しそうに僕に暴言を吐いた。
「は? ならどうしろっつーんだよ」
 僕は柊真を煽った。
「例えば、」柊真はそう言ってギターを掴み、
「ここにこういう音を入れてみる」
譜面を指し示しつつギターを弾いた。
「は? 論外だね、そんなものはポップスでも何でもない、聴いてる人を不快にさせるだけだ」
「いーや頭の固い君には分からんかもしれんがこの曲の持つニュアンスを最大限に引き出す音はこれだ。君も感情に任せてこの曲を弾いてみたまえ、きっと俺と同じ音を入れる」
「は? 感情に任せる?? そんなものは作り手の傲慢に過ぎない。聞き手に広く自分の曲を受け入れてもらうためには根拠が必要なんだよ」
 侃侃諤諤、タイプの違う二人が行き着く先はいつも衝突だ。しかしながら僕はこの時間を愛おしくも思っていた。周りの人が「まーたやってるよ」という目でこちらを見る。僕らは完全下校になるまでお互いの意見を衝突させ合った。そして新たなアイデアを胸に校門を出た。


 外に出ると夕焼けに照らされた桜が静かにその身を風に震わせていた。ポストカードにでもなりそうな美しく整ったその景色は僕の心に少しの不安を抱かせる。完璧な風景はその完璧さ故に崩壊の予感を孕んでいる。梶井基次郎は桜の木の下には死体が埋まっていると想像した。いつか崩れてしまうその景色を目に焼き付けようと僕は立ち止まった。
「た~っくん!」
 突然小突かれた僕は驚いて声のした方を振り返った。美都だった。
「な~にしてたの?」
 妙にかわいこぶって見せる美都に少しの違和感を覚えながら、僕は不機嫌そうに言った。
「桜だけど」
「桜!? どこどこ!?」
 美都は恐らくは桜がどこにあるか分かっていながら僕に答えさせた。それがさらに僕の不満を増幅させた。僕は気だるげに桜を指し示した。
「あっ! ほんとだ! だいぶ咲いてきたね、もうすぐ満開だ~」
 美都はわざとらしく声を上げた。
「花見なら、行けないよ」
 僕は耐えかねて言った。美都は一瞬 表情を強張らせたが、すぐに気を取り直して言った。
「え~、何で? 綺麗だよ、きっと」
「軽音があるんだ。土日にはバンドで集まって打ち合わせなどをしたい――文化祭はまだまだ先だけど、早目早目に動いて曲を練り上げて、柊真をぎゃふんと言わせてやりたいんだ」
 僕は決意を持って美都の誘いを断った。美都はなぜか爆笑していた。「どうした?」僕は苛立ちを隠せないまま美都に尋ねた。
「『ぎゃふん』って、うははははは、たっくん、死語だよそれ」
 「あっそう」僕はさも関心なさげに言った。
「『ぎゃふん』って、ははははは、私がいくらでも言ってあげるよふふふふ、ぎゃふん! ぎゃふん!」
 美都は完全に笑いが止まらなくなったようだった。やれやれ。僕は美都に構わず歩き始めた。

 次の日も美都は僕を驚かせた。「たっくんビビりだね」美都の言葉に構わず僕は歩みを進めた。「待ってよ、たっくん」美都は笑った。「たっくんさ、ちょっと『ぎゃふん』って言ってみてよ」美都は両手を合わせ、お願い、というポーズをとった。「……ぎゃふん」僕は嫌々ながらにそう言った。美都はたちまち笑い始めた。「ぎゃはははは」笑い転げる美都をよそに僕は歩みを速めた。「待ってよお」美都は僕の肩を掴んで言った。僕は振り返った。美都はしばらく僕の顔を見た後、再び笑い出した。僕はやれやれ、とため息をついた。

 翌日、駅でスマホを見ながら電車を待っていると後ろから「たあっくん~」と美都が低い声で僕を驚かせた。そのテンションのまま「ぎゃふん! ぎゃふん!」と続け、振り返る僕の顔を見て笑った。僕は無言でスマホを続けた。その時、画面に通知が現れた。「LINE [美都] ぎゃふぎゃふぎゃふぎゃふぎゃふ……」僕は大きくため息をついた。美都は後ろで笑い転げていた。「ぎゃふぎゃふぎゃっふー」美都は酔っているかのように歌った。僕はうんざりしてヘッドフォンを耳にあてがった。

 次の日、軽音の用事で完全下校を大幅に過ぎてしまった僕は、すっかり暗くなってしまった街を一人で歩いていた。さすがに今日は美都に会わないだろう、と駅のホームで電車を待っていると「ぎゃふー」という声がしたので僕は思わず飛び上がった。「なんでこんな時間にここにいるんだよ」僕は叫んだ。美都は一瞬 困ったような顔をして「まあさ、いろいろあるんだよ」と言った。「いろいろあるってなんだよ」僕は美都を鬱陶しくさえ思い始めていた。「ぎゃふぎゃふ」美都は僕の気持ちをよそにそう言い続けた。僕の心の中に一つの疑念が浮かんだ。それは思いつきのような些細なものであったが、墨が染みてゆくようにだんだんと心の中を覆っていった。

 あくる日も僕は軽音の用事で遅くに帰った。ライトをつけた車が次々に目の前を通り過ぎてゆく――僕はその無機質さに感化されたように冷ややかな心持ちで小路に入った。
 僕はしばらくして自販機のそばにある、小さな影に気が付いた。夜陰に紛れたその姿はなるほど意識して見なければ分からない。その後ろ姿はやはり美都のものであった。僕の心の中に複雑な感情が漂った。疑念は確証に変わった。僕はそれを成し遂げたことに対する痛快感と美都の感情を垣間見たことに対する罪悪感とがぜになった感情を抱いた。僕はそれを持て余し、ついには見なかったことにして自販機の横を通り過ぎた。
 美都が後をつける気配を感じた。それは日常の中に奏でられる小さな不協和音であった。それは気づいてしまったなら際限無く増幅されて聞こえるものだ。僕は美都の気配がだんだん大きくなってゆくように感じた。T字路が現れ、僕は顔を上げた――目の前は民家のガラスであった――明かりは無く、それ故そこには色彩無きおぼろな景色が反射していた――僕の顔の後ろに美都の姿を認めることができた――その顔は奇妙に歪められている――笑っていたのだ、道化師ピエロのような不気味さで――耳の奥、不協和音が最大音量で鳴り響く――僕は叫びたくなる衝動を抑え、歩みを速めた――それより早い歩調で何か、、が近づく――肩にポン、と手が置かれる――

 翌日は土曜日であった。強い日差しを肌に感じ僕は目覚めた。時計の針は午後二時を回っていた。昨日覚えた嫌悪感はひとまず収まっていたようだった。不思議な感覚だった。昨日の記憶はまるで高感度で撮った写真のようだ。ザラザラとした感触――所々に飛んだカラーノイズ――暗闇に紛れた美都の不明瞭な顔――僕には昨日の出来事が現実のものなのか、それとも夢の中のものなのか判別がつかなくなっていた。
 昼食を兼ねた朝食を終え、僕は漠然と勉強机に向かう。何から手をつけていいのか分からずに教科書を漁る。午後の陽光が部屋の陰影を明瞭にしていた。僕はそれ故 雑多に並べられた教科書の中から一つの異質なものを見出すことが出来た。額に汗を感じた。それはいつの間にか僕の生活の中に組み込まれていたのだ。現代文の教科書を手に取り、屹立するそれを僕は凝視する。意識はすっかりクリアになっていた。心臓が高鳴っていた。僕は気づいてしまった、、、、、、、、、、

 その日からというもの、僕の調子は狂ってしまった。日曜日はほとんどそのことしか考えられなかった。不意に来る胸が締め付けられるような感情――僕はそれに何度も何度も襲われた。月曜日、平静を装うことを心に誓ったものの、それは教室に入った瞬間に破綻した。
「おはよっ! 七海君」
 早沢さんは屈託の無い笑顔を僕にくれた。

 板書をしている時、僕の意識は視界の端にいる早沢さんに集中していた。僕は普段 眼鏡をかけているのだが、この時ばかりはコンタクトにしなかったことを後悔した。眼鏡の視界は狭い――早沢さんを捉えるためにはレンズに重なるまで首を曲げなければならないのだが、そんなことをしてしまえば当然 早沢さんに訝しまれてしまう。眼の端とレンズとの間に不明瞭な早沢さんの影を追い、僕はもどかしい思いを募らせた。

 休み時間、僕は平常を装い、窓際にもたれかかるようにした。傍から見れば教室を概観しているように見えたかもしれないが、しかし僕は真っ直ぐ一点を見つめていた。早沢さんの一挙手一投足が僕の胸を締め付けた。苦しくってしょうがなかった。しかし僕は早沢さんを永遠に見てもいたかった。僕はその相反する心の動きを理解出来ず戸惑っていた。困惑の中にあって一つだけ、僕はどうやら早沢さんに恋をしているらしい、ということだけが確かだった。その事実に僕は頭を抱えたくなった。おい七海拓真、これはどういうことだ、と自分自身を問い質したかった。不意に早沢さんがこちらを向いた。僕は驚いて目を逸らした。――失敗した、と思った。教室を概観しているという建前において、目を逸らすという行為は不自然極まりないものではないか。僕は動揺していた。早沢さんのことを考えると頭が真っ白になってしまうのだ。彼女の濁りの無い目がこちらを捉える時、僕の脳内はたちまち雪がれて、、、、しまう。それは逆説的に僕が早沢さんを特別な存在として認識していることの証明となってしまっているじゃないか。なんてことだ。


 恋に浮かされた僕は平静をすっかり失っていた。筆箱を三回も落とした。シャーペンをノックしようとしてペン先を指に刺した。軽音では普段なら間違えないようなコードをミスった。――そんな熱に浮かされた頭は、下校時に自動販売機が見えると、急に醒めてしまった。
 美都が昨日と同じようにそこに隠れていた。一瞬にして僕の脳裏に美都の顔が――狂気の顔がフラッシュバックした。僕は強い嫌悪感を覚えながら美都に近づいた。
「うわあっ!」
 僕が美都の肩に手を置くと、美都は飛び上がった。
「なななな何!?」
 驚く美都と対照的に、僕の心はやけに静まっていた。美都を自販機の陰に見つけた際に覚えた嫌悪感はどこかへと消え去ってしまった。美都の肩に触れた時の手に残った感触――力を籠めれば崩れてしまいそうな繊細な感触に僕は当惑していた。触れてはいけないものに触れてしまった気がした。美都のことを今までずっと幼馴染として見てきた――しかし、手に残った感触は紛れもない女子のそれであった。
「ごめん……何でもない」
 僕がそう言うと、美都は意表を突かれたような表情を見せた。ああ、そうかと僕は思った。美都は僕が、「なぜここにいるのか?」と問うてくることを想定したのだろう。それで肩透かしを食らったのだ。
「――いや、間違えた、何でここにいるんだ?」
 美都は一瞬過ぎ去ったかに思えた問いが時間差で来たことに対して固まった――時間にして一秒にも満たないものであったのだが。それから「うーん、」と間を繋ぎ、思いついたように言った。
「……そう! 桜! 桜を見に行くかどうか、結局うやむやなままじゃん? それ聞きたくて!」
 あっ、成程――僕は美都の主張に納得しかけたが、すぐにその論の綻びに気付いた。
「それなら、ぎゃふんぎゃふん言っていたあの数日の間に、何故それを尋ねかったんだい?」
「それは……」美都は答えに詰まった。
「そ、そういうこともあるって!」
 美都は意味不明な口述をした。その論理立てられていない物言いに、僕は再び嫌悪の情が湧き上がるのを感じた。
「そう、……前に言った通り、軽音があるから桜は見に行きません」
 言葉にした瞬間、しまった、と思った。言葉に相手を突き放すニュアンスを籠めすぎた。
 美都はそれを聞いた時、微かに顔を歪めた。しかしすぐに笑顔になり、
「そう、ならしょうがないね」
と言った。僕はそれが本心では無いことを見抜いていた。僕は前に花見を断った時と同じ理由しか述べていないのだから、美都がその説明で納得出来るはずなど無いのだ。それが分かっているからこそ僕は心苦しさも抱いていた。本心ではない物言いをさせてしまったことは、すなわち美都に我慢をさせてしまったこともまた意味するのだ。「仕方ないだろう? 美都がしたことは言わば『ストーキング』だ。遠慮する必要など無い」――心の中で誰かが囁く。しかし僕はそれに同意しかねていた。心の中で何かが引っかかっていた。それが美都を完全に突き放してしまうことを拒否していた。それが得体の知れぬ心苦しさに繋がっていた。美都は僕から離れ女性専用車両の列に並んだ。すぐに電車が来て美都の姿は人混みに紛れて消えた。


 火曜日は体育があった。それにかこつけて僕はコンタクトレンズをつけることが出来た。それに真っ先に気付いたのは美都であった。
「コンタクトなんて珍しいね、イメチェン?」
 昨日のことがあるので二人の間には微妙な空気が流れていた――と言うよりむしろ、その微妙な距離感を早く埋めようと、コンタクトを口実にして美都が話しかけてきた節があった。
「いや、今日体育があるじゃん? ずっと不便だなーって思ってたんだよね。それでこの際コンタクトを試してみるのもアリかなー、って」
「へえ、そうなんだ、……似合ってるよ、コンタクト」
 美都は少し躊躇ってそう言った。周りの空気が変わるのを感じた。
「ありがと」
 僕はその空気を避けるように礼を言ってその場を切り上げた。これはきっと――

「おい拓真」
 嬉しそうな顔で柊真が僕を小突いた。
「何だよ」
 僕は極めて不機嫌に言った。
「お前さあ、早くあいつと付き合えよ。絶対あいつ、お前のこと好きだぜ」
 柊真とその取り巻きがニヤニヤとこちらを見つめる。
「……お前らさあ、付き合えれば誰でもいいと思ってるだろ、恋っていうのはさ、そういうんじゃねえんだよ」
 柊真はそれを聞いて一瞬真面目な顔つきになった。それをよそにグループの一人は言う。
「いやあ、今の言葉を高木さんに聞かせてやりたいねえ、本当は好きなんだろ、高木さんのこと」
 僕はその根無し事に対して堪忍袋の緒が切れるのを感じた。
「あのさあ……、僕は今、この世で最大級にカチンとくる事例の一つを思いついたよ。それはズバリ、『自分が好きでも無い人――むしろ嫌いなくらいの人のことを好きだと勘違いされること』だ」
 そう言ってから、また失敗した、と思った。
「お、おう」
 グループの男子はそう言って口をつぐんだ。ムキになって引かれてしまった。僕はいつからこんなに感情的になってしまったのだろう?


 体育前のショートホームルーム。僕らは体操服に着替えて着席していた。予定の時間は過ぎていたのだが、先生はまだ来ていなかった。
「七海君、」
 早沢さんが話しかけてきたので僕はそちらを向いた。早沢さんは眼鏡をかけていなかった。僕は驚いた。
「七海君が眼鏡かけてないの初めて見た~、七海君も体育の時はコンタクトにする派?」
 僕は混乱していた。
「うん。……? あれ、早沢さんって、部活、テニス部だよね、いちいちつけたりするの、めんどくさくない?」
「うん、……あ! でも、テニス部って言っても、マネージャーだよ」
 そう言って笑う早沢さんの顔がいつもと違って僕は目が回りそうだった。早沢さんの目、二重だったんだ――いつもと違う早沢さんの姿は僕にとって新たな気付きを得るきっかけにもなっていた。僕は早沢さんのことをどれだけ知っているのだろう? これからどれだけ距離を縮めてゆけるのだろう?
「そう……だったんだ」
 僕は上の空な返事をした。
「うん、七海君と私さ、おそろだねー」
 早沢さんは自分の目を指し示してイタズラっぽく笑った。「七海君のお友達の話 聞いてからさ、言ってみたかったんだー」なんて言いながら。僕はメッシュの体操服の裾をぎゅっと握った。そうしていないと、早沢さんに触れてしまいそうな気がしたから。


 「ごめんな、今まで」
 柊真が謝ってきたのは軽音でのことだった。
「何が?」
 僕は少し驚いて聞き返した。
「いや、ずっと高木さんのことでいじってきたこと」
 柊真は軽音の時だけ僕に本音を話す。それは男子グループという呪縛から解き放たれるからだと僕は推測している。それはそれでどうかと思うのだが。
「柊真がそういうのじゃないってこと、僕が一番知ってるから」
 面と向かって話すのが何だか気恥ずかしくて、窓の外を見やりながら僕は言った。
「良かった」
 柊真はそう言って持ち場に戻った。それを確認して僕も持ち場に戻った。ギターが鳴く音が聞こえた。僕らは欠けてしまっている何かを埋め合わせるために弦を震わせているのかもしれない――ふとそんなことを思った。


 帰り道に美都は現れなかった。なんだよ、コンタクトの件では大分攻めた発言したくせに、帰り道には来ないのかよ――いや、むしろ彼女にとっては昨日のことを強く想起させる、帰り道で待ち伏せすることの方が「攻めている」ことなのかもしれない――僕は複雑な思いを抱いた。

 深夜。僕は発作のように早沢さんに会いたくなった。胸が締め付けられるような思いがして、思わず布団を深くかぶった。早沢さんの笑顔が目の前から離れなかった。早沢さんに触れたいと思った。同時に、強い罪悪感が心の中に渦巻いた。そんな自分に呆れている自分もいた。唐突に、いつか姉と交わした会話を思い出した。「色恋沙汰に身を堕として学業に身が入らない姉ちゃんと、そういうことをきちんとコントロールして学業に専念している僕とでは、どっちが賢いんだろうね?」――確かにあの時僕は言った、得意げに――僕はその発言の浅はかさに頭を抱えた。そのムカつく顔をブッ飛ばしてやりたかった。そして姉の発言は今となっては全面的に正しかった。今となっては恋を止めることは不可能だった。気がどうにかなりそうだった。早沢さんを手に入れたい。彼女を抱きしめて、その柔らかそうな頭を撫でることが出来たならどれだけいいだろう。――それでふと、僕は美都のことを思い出した。彼女は僕をストーキングしていた。それを僕は心底気持ち悪いと思った。しかしその熱情は、僕の早沢さんに対して抱いた妄想と何が違うのだろう? そこで僕は、彼女に取ってきた行動を振り返ってみた。一緒に近くのテーマパークに行ったこと。それぞれの家で同時間帯の別のアニメを録画してそれらをシェアしたこと。寒い冬にコンビニの肉まんを分け合ったこと。それら全てにおいて僕は美都を幼馴染として扱ってきた。僕にとってそれらは幼稚園でおままごとをしていたことの延長だった。しかし美都にとってはそうでは無かった。幼稚園から今に至るまでのどこかのタイミングで美都は僕を恋愛対象として見始めたのだ。僕は再び頭を抱えた。それならば、僕が美都にしてきたこと――男子グループでマウントを取るために美都と時間を共にしてきたという事実は美都にとってどれだけ残酷なものだろう。僕は強い罪悪感を覚えた。僕は何もわかっていなかった。僕もまた、恋に恋していたのだ。

 僕は次の日、学校に眼鏡をかけて行った。早沢さんを盗み見ないことを決意したのだ。昨日のことがあったにもかかわらず、僕の早沢さんに対する思いは募るばかりであった。何気なく過ごしていても、ふと視界に早沢さんが迷い込むと僕は自然とその一点を見つめてしまう。その瞬間に僕は目を逸らす。罪悪感に身が引き裂かれてしまいそうで、しかしそれに反して早沢さんの姿を見られたことに対する幸せな感情が体中を駆け巡ってもいる。呼吸がままならず苦しい。胸が張り裂けそうだ。恋煩いって、本当にあるのだな、と実感する。

 帰り道、美都に会った。駅でのことだ。会った時、美都は驚いた表情をしたのだから、きっと僕らは本当に偶然 出会ったのだろう。美都と僕はそこで他愛の無い話をした。まるで幼稚園と今とが滑らかな曲線で結ばれていて、その軌跡の延長線を描いているかのような時間だった。しかしそのような軌跡は存在しないということもまた僕は知っていた。それ故 僕は美都との会話に懐かしさを覚えていた。僕はずっとこうしていたかったのだ。「一日、下校で会わなかっただけで何を大げさな」と心の中で誰かが呟く。僕は文字通り一日千秋の思いで待っていた、幼馴染としての美都との日々を。しかしそれは長くは続かないと僕は気付いていた。僕は美都に幼馴染であることを求めているが、美都は僕に恋人であることを求めているのだ。いくら僕が見えないふりをしたって、いつかそれは顕在化し、決着をつけなければならなくなる。その序章が美都のストーキングに気付いたあの夜だったということなのだ。

 いつ終わるとも知れない平和な空間の中で、僕は日常を送っていた。僕はいつしか学校に来るのが楽しみにすらなっていた。霞がかった柔らかな青空――隣で笑う早沢さん――なだらかに流れゆく日々に僕は何も望みはしなかった。このままでいい、このままがいい――例えば早沢さんを見ずとも、隣にいるというその事実だけで僕は満足だった。直接話をしなくても、気配から早沢さんを感じられればそれで充分だった。――それなのに。


 ある日、早沢さんがペンを落とした。僕は反射的に音のした方向を見やり、ペンに手を伸ばした。その刹那、唐突に影が――ペンを拾おうとした僕と早沢さんは残り数センチの距離まで接近した。
「あっ」
 僕らはほぼ同時に同じ言葉を発した。その後、早沢さんはクスクスと笑った。「拾ってくれてありがとねー」
 僕は「いや、」と意味不明な返しをして笑った。その表情とは裏腹に心臓はドキドキしていた。早沢さんの匂いがしたのだ――それはダウナー系の麻薬のように脳に絡みつく――夢見心地、とでも言おうか――多幸感、それは柔らかく僕を包み――しかしそれ以外について考えることを許さない。僕は訳が分からなかった。僕は他人の匂いで悦ぶような変態だったのか? 僕は僕自身に秘められている危うさが恐ろしくなった。

 その授業は極めて退屈なものだったが、僕の目は冴え冴えとしていた。動悸が治まらなかった。静かな水面に石が投げ入れられた時のように僕の心は大きく揺れていた。その時、早沢さんが動いた気配がした。僕は驚いて目の端に意識を集中した。朧げな早沢さんの像がうつ伏せになっているように見えた。退屈な授業に眠ってしまったのだろうか――僕はそんな推測をした。それが僕の心をより大きく揺さぶった。「今なら早沢さんをチラ見してもいいのではないか」――そんな考えが頭に浮かんだ。そして僕は早沢さんの方を見やった――すぐに目を逸らすつもりだった――僕は一瞬、何が起きたのか判別出来ず、視線を早沢さんに向けたままにしてしまった――端的に言えば「固まった」のだ――早沢さんはうつ伏せになっていた。そして首を曲げてこちらに視線を向けていた、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、。僕らはしばらく見つめ合っていた。二重瞼をした目がメガネのレンズを通してこちらを正確に捉えて、、、いた。僕は見目麗みめうるわしくも幼気いたいけさを秘めている、刹那的な美しさに満ちたその姿に囚われて、、、、いた。早沢さんはしばらくしてから笑顔を僕に見せた。僕はこの笑顔を超える美しさを持つものを知らない。


 下校の道すがら、僕は打ちひしがれていた。届かない。遠すぎる。早沢さんの美しさ――美しい心根から生まれる真の美しさ――それにセブンティーンという不安定で繊細な美しさが加わる――その美しさに対して僕はあまりにも不釣合いだ。よこしまな考えを以て一つの乙女心を弄び、それでいながら無自覚でいた僕にはあまりにも――その時、あたかも神が計らったかのように美都の姿が見えた。美都がこちらを振り向いて笑う。やはり、早沢さんの笑顔の方が僕にとって数百倍美しい。しかしながら僕は美都とおしゃべりをする。
 唐突に合点がいった気がした。僕が美都を突き放さない理由だ。
 怖いのだ、突き放されるのが。何の根拠も無いが、美都を突き放してしまったなら、僕も早沢さんから突き放されてしまうような気がしているのだ。今日の授業中のあの早沢さんの行動は、あの笑顔はどういう意味だったのだろう。――見透かされている気がした、何もかも。僕が早沢さんのことを好きだということも――彼女はどう思っているのだろうか、ずっと僕が早沢さんをチラチラ見続けてきたことを――それは僕が美都にストーキングされていたと気付いた時に抱いた憎悪と同種の感情を抱かせる行動ではないのか? その恐ろしい仮説は、僕が美都を、憎悪を以て突き放してしまった時に、一気に証明されてしまう気がするのだ。それ故 僕は美都を目の前にして、自分の感情についても、早沢さんの気持ちを推察することについても、これからどうすべきなのかということについても結論を出せないままでいた。

 平和な日々は突然に終わりを告げた。
「それでは、席替えをしたいと思います。前の席の人から順番にクジを引いていって下さい」
 クラス委員がそう話した時、僕はあまりに簡単に日々が瓦解してゆくさまを感じ、力が抜けるような思いを抱いた。くじを引いて、結局 早沢さんは僕の席から遠く離れてしまった。僕は突然、生きる意味を奪われたような気がした。早沢さんのいない学校生活など何の意味があるのだろうか。僕は世界から急速に色彩が失せてゆくのを感じた。「戻るだけだろ」誰かが僕の心の中で囁いた。「元の世界に、七海拓真の過ごしてきた世界に、自分だけを信じてきた世界に」――僕は叫んだ。「嫌だ、今更戻ることなんて! 戻れと言うのか!? あの灰色の冷たい世界に!」――その言葉は心の中でグワングワンと反響し、僕の心をかき乱した。

 学校が終わると、僕はギターを引っ掴み、軽音にも行かず走り出した。空には低い雲が立ち込め、今にも雨が降り出しそうであった。光を失った無機質な街の中を僕は駆け抜ける。灰色、灰色、灰色――コンクリートで出来た街は灰色に満ちていた。僕一人でどうやってこの世界に色彩を見出せるというのだろう? 僕は走り疲れ、近くのカラオケに入った。唐突に、文化祭で披露する曲を練習しようと思いついたのだ。光量不足のボックス内ではギターさえ色彩を失って見えた。僕は譜面を広げた。アンプの繋がっていないエレキは今にも消え入りそうな音を鳴らした。僕はギターに耳を近づけ、譜面に示された最初の音を出した。――それをするまでもなく、既に気付いていたのだ。僕は黙って譜面を引き裂いた。なんてつまらない曲なんだ! ――僕は柊真に言われた言葉を思い出していた。成程、僕の歌は何も歌っていないに等しいじゃないか。何が音楽理論だ、何がポップスだ。この思いだよ、この胸を引き裂く得体の知れないモヤモヤとした感情を歌に吐き出せないでどうして歌と言えるんだよ! 僕は譜面を徹底的にバラバラにした――その譜面が僕の中にある灰色を象徴している気がしたから。僕はギターを掻き鳴らした。アンプを欠いたエレキはその熱情に対してふざけたような陳腐な音を返した。それ故 僕はギターを掻き鳴らした、より強く――それでは飽き足らず僕は歌った、めちゃくちゃな歌詞で――時には言葉に出来ず、叫びにも似たスキャットを歌った。突然、ギターの弦が弾け飛んだ。僕はそれでも歌い続けた。それは歌とは言えないものだったかもしれないが、僕にとってそれは今まで歌ってきた中で最も正しく「歌」であった。途中、このままいくと声が枯れてしまうのではないか、という予感が頭をよぎった。それでもいい、と思った。早沢さんと隣り合って話すことが出来ないのなら、こんな声など枯れてしまった方がマシだ。


 家への帰り道は土砂降りだった。僕はギターを守りつつ雨に濡れて帰った。家に帰ると姉がいた。姉は僕を見ると「たーくん、どうしたのそれ!?」と声を上げた。僕は久々に姉から発せられる家での呼び名に懐かしさと違和感を覚えつつ「いやちょっと雨が」と答えた。「そう言うことじゃなくって」姉はバスタオルを僕に被せつつ言った。
「お前さ、絶対なんかあっただろ」

 いったん僕は風呂に入り、それからリビングへ向かった。お風呂に入って気付いたことなのだが、右手に切り傷があった。ギターの弦が切れた時のものだろうか。僕は新しい弦を張りながら姉に尋ねた。
「僕になんかあったって、何で思ったの」
「何でもなにも、たーくんの目が真っ赤だったからじゃないか」
「そうかな」
「あちゃー、気付かないほど深刻な感じなの? 何があったのか、姉ちゃんに話してみ」
「そう……」僕は胸の中にあるモヤモヤした感覚を誰かに伝えたいという衝動に襲われていた。苦しいのだ、恋と言うのは。恋をする前、僕は例えば望みが薄いにもかかわらず告白をしてしまう人の気持ちが全く理解出来なかった。しかし今ならそれを理解出来る気がする。彼らは断られるために告白しているのだ。断られて恋にケリをつけ、胸の苦しさを、好きでたまらないのに届かないもどかしさを解消しようとして告白するのだ。僕はまさにそのような衝動に襲われ、苦しんできた。ならば姉に話して心を軽くするのはお得なことなのかもしれない――僕はそう思いつき、姉に全ての顛末を話した。姉は黙ってそれを聞いていた。バカにされるとばかり思っていたので、僕は肩透かしを食らった気分になった。唐突に姉は手を広げた。
「おいで、童貞」
「は?」
「いいから、」姉は最終的に僕の方に近づき、僕を抱きしめた。
「いいか童貞、これが人の温かさだ」
 僕は急展開に頭がついていかなかった。しかし感覚的に、僕は救われたような気になった。
「人というのは自分で自分の存在を確かめることが出来ない生き物だ」
 姉はそう囁き、僕をより強く抱きしめた。
「だから、こうして誰かがその存在を認めてやる必要があるんだ」
 その声は確かな響きを持って僕に届いた。
「そしてそれは誰しも同じだ――たーくんは誰の存在を認めてあげたい?」
 姉はそう続けた。
「ちょっとギター貸して」
 僕は姉にギターを渡した。「これでいいんだっけ」姉はたどたどしく弦を抑えた。

――Hey Jude, don't make it bad(ヘイ ジュード、悪く捉えるなよ)
Take a sad song and make it better(悲しい歌も明るい歌にするようにさ)
Remember to let her into your heart(彼女を受け入れるんだ)
Then you can start to make it better ……(そうすれば上手くいくさ)

 姉は歌い出した。か細く高い声で。しかし、確信を持って。

――And anytime you feel the pain, hey Jude, refrain(胸が張り裂けそうならさ、ヘイジュード、繰り返せ)
Don't carry the world upon your shoulders(何もかも背負い込まないで)
For well you know that it's a fool who plays it cool(分かるだろ、クールにやるのは愚かだ)
By making his world a little colder ……(そうやって世界を冷たくしてゆくんだ)

 「Nah nah nah ……」姉が歌い上げると同時に、僕は嗚咽を漏らした。今まで堰き止めていたものが溢れ出し、それは止まることを知らなかった。姉はそれに構わず歌い続けた。微かに紅潮した頬に、確かな意思を潜ませながら。

 季節は移ろい僕らは梅雨を迎えた。空には雲が立ち込め世界は陰に包まれる。色彩を失った街はますます暗鬱な表情を見せ、醸成されるペトリコールは僕らの脳内に絡みつき離れない。それはまるで早沢さんのいない日々を象徴しているかのようだった――僕の生活は今までに戻った――しかし僕は色彩を知ってしまったが故に灰色の日々を愛することが出来なくなってしまっていた。だからと言って何か行動を起こせるわけでもなく、僕は悶々とした日々を積み重ねるのみだった。
 変わったことといえば軽音だ。僕はビートルズHey Judeを聞いたあの日から曲のスタイルを一変させた。より自分の心に正直な曲を作ろうと試み始めたのだ。音楽理論は手段に過ぎないと分かった時、僕は新たな世界を見た気がした。

 文化祭まで残り一か月半――クラス委員が話し始めた。
「文化祭に向けて、監督と脚本係を募集します」
 僕の学校の文化祭は、一日目、講堂を舞台としてクラスごとに劇を作りその完成度を競い合う。その中でも重要な役割がこの二つである。監督の指揮が劇の出来を左右するのはもちろんのこと、脚本の出来は劇の出来に直接影響するものである。そして脚本の条件はオリジナルであることだ。それ故 クラス委員が募集をかけても手は挙がるはずが無い。
「それでは、推薦はありますか」
 僕は耳を疑った。推薦!? そんな決め方をしたら禍根が残るではないか――クラス委員の早く仕事を済ませたい魂胆が見え透いた気がして、僕は不快になった。
 その時、一人が高らかに手を挙げた。柊真だった。嫌な予感がした。柊真はこちらを見てニヤリと笑った。
「七海君を脚本係に推薦します」
 どよめくクラスをよそに、柊真は続けた。
「脚本というのは普段から文章によって何かを表現している人でないと書くのは難しいものです。しかしながらこの学校にはあいにく文芸部というものがありません。そこでそのような条件を満たしている人を考えた時、歌詞を普段から練り上げる経験をしている軽音部員が考えられるのではないでしょうか。それならば坂口よ、君が書けばいいじゃないか、という人がいるかもしれません。しかし繰り返しになりますが僕は七海君を推薦したい。彼の曲をずっと僕は見てきたのですが、最近急に曲が深くなった――月並みな表現しか出来ないのがもどかしいのですが――曲に奥行きが出てきつつあるのです。何があったのかは分かりませんが……ともかく、現時点において僕は七海君こそが脚本に最もふさわしい人だと思うのです」
 男子グループがこちらを見て薄ら笑いを浮かべる。僕は柊真に裏切られた気分になった。僕はいつだってクラスから距離を置いてきた。そんな僕にクラスの大仕事を吹っ掛けるというのがどんなに残酷なことか――そのことは誰より柊真が一番知っていると思っていた。しかし彼はそれよりもグループにおける彼自身の地位を優先させたのだ。僕はグループの薄ら笑いを見てふと思いついた――柊真はもしかしたらグループ内に出た僕を貶めようとする動きに同調せざるを得なかったのではないだろうか? そこで思い出すのは数週間前の出来事――美都について聞かれた時の僕の受け答えだ。「僕は今、この世で最大級にカチンとくる事例の一つを思いついたよ。それはズバリ、『自分が好きでも無い人――むしろ嫌いなくらいの人のことを好きだと勘違いされること』だ」――もしかしたら、この言葉が契機となり、僕に対する「なんかあいつ気に入らないよね」という負の感情が、グループという閉鎖的な環境の中で少しずつ増幅されたのではないか――その顕現が柊真の言葉だということなのではないか? 僕はその思いつきにある程度の自信を持っていた。そしてその思いつきは続く柊真の言葉で確信に変わった。
「……なんなら、僕が監督になってやってもいい」
 柊真はそう呟いた後、少し鼻の下をこするような動作をしてから前を向き直した。柊真は彼に出来る最大限のフォローを僕に示したのだ。
「七海君はそれでいいですか」
 クラス委員は同情と賤しみの入り混じった目を僕に向けて言った。僕はこの数分でクラスにおける僕の立ち位置が急速に固まったような気がした。
 いっそのこと、断ってやろうかと思った。何故 僕が柊真の尻拭いをしなければならないのか――僕は何ともやるせない状況の中でふと早沢さんを見た――僕は「救い」を求めたのかもしれない――早沢さんは透き通った目でこちらを見つめていた――早沢さんが何を思っていたのかは分からない。しかし僕はそれを見て呟いた。
「はい」


 「いやあ、前からさ、監督やりたいと思ってたんだよね。ちょうどよかったからさ、最後の一押しとして使ってみたわ」
 柊真は男子グループの中でそう笑った。僕はそれを複雑な目で見ていた。その時、誰かが肩をトントン、と叩いた。僕は思いがけないその感触に振り向いた。早沢さんがそこに立っていた。僕は心拍数が上昇するのを感じた。感情の読み取れない顔を向けて早沢さんは言った。
「頑張ってね、脚本」
 返事を考えているうちに早沢さんは女子のグループに紛れて消えてしまった。僕は早沢さんの言葉をしばらく転がしていた。次の授業が始まる頃には、キャンディをなめた後のようなほんのりと甘い感覚だけが心の中に残っていた。

 それから半月、僕は狂ったように脚本を書き続けた。脚本を書くというのは予想以上に大変な仕事だった。筋書きを考えるのは簡単なのだ。しかしそれを言葉にするというのは途方もない仕事なのだ。僕はテレビや本などそこらじゅうに転がる物語が大変な苦労の上に成り立っているものなのだと気付かされた。僕は全てを脚本に捧げた。文字通り全てだ――時間だけでなく思想・哲学さえも。恐らくそれは子供を生み出すようなものだったのだろう。脚本が出来上がるにつれて、僕はその脚本に僕の魂が宿ってゆくような錯覚に陥った。


「よく書いたよな、こんなにさ」
 脚本に目を通した柊真は感心した様子で僕に言った。
「よく言うよ、お前が書かせたくせに」
 僕は皮肉を込めて言った。
「その代わりに、こうして監督になってやったじゃないか」
 柊真は手を広げ、おどけて見せた。
「あー、そうだね」
 僕は適当な返事をした。
 クラスは休み時間だった。いくつかのグループで固まり、それぞれで昼ご飯を食べながら談笑している。僕らはそれから少し離れた教室の角で、劇について話し合っている。
「何で柊真はそんなに僕にかまうの」
 僕は少し真面目なトーンで切り出した。
「かまってるか?」
 柊真はなんとなく僕の言っていることを理解しながらも、敢えて一歩引くような物言いをした。
「わざわざ監督になってまで」僕はそう言いかけて、説明を補足した。
「柊真にとって、僕がどうなろうと、究極的にはどうってこと無い。むしろ監督になるっていうのは、自分のすべき仕事を増やすことになるし、男子グループにおける柊真の立ち位置を危なくする可能性がある。僕と男子グループとは、今や対極にあるからね。それにもかかわらず、柊真は監督になった。どうして僕にかまうんだ?」
「監督になったのは、俺がやりたかったからだ。男子グループ云々の話は、俺には全く分からんね」
 柊真はとぼけて見せた。「ふーん」僕は脚本が印刷された紙を机の上で整えた。
「――本音で語れる人を、手放したく無かった、ってことかな」
 僕がその場を立ち去ろうとすると、柊真はそう呟いた。僕は黙って柊真を見た。柊真は困ったような表情を浮かべた。
「ま、同じ名前に『真』がある同士だし?」
 柊真はわざとらしくそう言って笑った。僕も少し笑った。タイミング良く、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。


 「文化祭の脚本が出来ました。書きたてホヤホヤです。今から配ります」
 柊真はそう言って紙を配り始めた。その間にクラス委員が言う。
「明日までに全員、一度 目を通してきてください。また、今から劇の役割分担をしますが、キャストになった人は特にしっかりと読んでくること。よろしくお願いします」
 クラス委員は気だるげにそう言い、手元のメモを見た。
「続いて、劇の細かい役割決めに移ります。大道具、小道具、衣装、音響、照明――以上五つに、監督である坂口君以外 全員 入っていただきます。また、これらの役割が決定した後は、劇関連の仕事は監督に移行するものとします。この理由から、役割決めについて監督の意向がございましたらお聞きしたいと思いますが、坂口君、いかがですか」
 堅いクラス委員の物言いに、柊真は頭を掻きつつ立ち上がった。
「えーと、取り敢えず、七海君にはギリギリまで脚本を詰めてほしいと思っているので、あー、でも脚本をよく理解してくれている貴重な人材なので、仕事が少ないけれども重要な役割である照明に回ってほしいですかね。照明、極端なことを言ってしまえば、仕事は本番と二回ある講堂での練習しかないじゃないですか。同様に、やる気はあるけど忙しい、みたいな人は照明に入ってほしいですかね」
「ありがとうございます。今のことを踏まえて、照明をやりたい人はいますか」
 僕は驚いて柊真を振り返った。そんなことを言ったら――
「私は委員長の仕事があって忙しいので――でも出来る範囲でクラスに貢献したいと思っているので、照明、いいですか?」
 早沢さんはそう言って照明に立候補した。
「はい、他には……いないですかね。照明は二人で充分なので、早沢さんと七海君が照明ということで良いですか」
 柊真は満面の笑みで僕に小さく親指を突き立てた。クラス委員の提案は拍手を以て承認された。


 その日の放課後のこと、僕は美都に呼び出されて街中のカフェにいた。美都は「たっくんの脚本が出来上がってからでいいから」と言って僕に予約を取っていたのだ。僕はアイスコーヒーを注文し、それをひたすらストローで掻き混ぜ続けていた。エアコンが良く効いているのか、氷はそれでも一向に解ける気配が無い。コーヒーの苦さがやけに口につく。美都は黙り込んで紅茶を啜っている。似合わねえ。美都に似合うのは小さい頃から今までずっと、髪を後ろに纏めバトミントンをしている時に飲むスポドリだ、と僕は何故か意地になりつつ思う。
「あのさ、たっくん」
 脈絡無く美都は切り出した。
「何?」
 僕は返事をした。必要以上に感情が入りすぎないように、かつ必要以上に不愛想にならないように気を使いながら。
 今にも泣き出しそうな美都の顔。それを見て僕の決意は少しだけ鈍る。それを誤魔化すようにコーヒーを流し込む。苦い。
「小さい頃から今まで私、ずっと、ずっと、ずっと……」
 美都はそう言って下を向いた。耳まで赤くなったその顔に僕は美都と遊んだ日々を思い出していた。美都の顔は運動をするとすぐに火照ってしまうのだ。頑張れ、美都。僕は心の中でそう呼びかける。まるで当事者じゃないみたいだな――少しだけ自分に呆れながら。美都は意を決して僕に向き直す。
「たっくんのことが好きです!」
 その声は過不足無く僕の心に響く。真っ直ぐ僕を見つめる美都の視線が痛い。
 僕は戦略的な困惑顔を浮かべ、頭を少し掻く。
「ありがとう、凄くうれしい――そして、ごめん。このことは、誰も言わないでほしいんだけど、僕、ゲイなんだよね」
「へ?」
 美都はあからさまに当惑した表情で僕を見る。時間を置いて、状況を飲み込めたのか表情を素早く整える。
「そう……なんだ、初めて知った――気付かなかった」
 美都は思い出したようにティーカップに手を伸ばす。カチャカチャ、と音を立てて持ち上がる白い容器。
「難しいかもしれないけどさ、幼馴染として、今までと同じように付き合ってくれたらうれしいな」
 僕は託すように美都に言葉を投げかけた。
「もちろん。たっくんを手放すなんて、出来るはず無いじゃんか」
 美都はそう言って笑った。


 「お前は本当にそれでいいの?」
 美都とカフェに行く約束をした次の日の放課後、僕と柊真しかいない軽音の活動場。柊真は僕にそう問いかけた。
「いやさ、さっきは反射的に叩いちゃったけどさ、それは本当にごめんだけどさ……あー、なんつーか、すっげーお前らしいよ、うん」

 軽音の活動が終わった後、僕は柊真を呼び止めた。そこで、僕は柊真に自分の葛藤を伝えた。早沢さんのことが好きでたまらないということ。美都に好意を向けられており、恐らくカフェで告白されるであろうこと。僕としては美都と幼馴染として友人のままでいたいということ。
 僕はそれらのことについて、美都からカフェに誘われた日、夜通し悩んだ。それでふと思いついたのが柊真のことだった。

「覚えてるか? いつか柊真が僕に、美都のことで謝ってきた時のこと。僕はふと、あの時のことを思い出したんだ。あの時 僕は柊真に『柊真がそういうのじゃないってこと、僕が一番知ってるから』って言った。だって、柊真はずっとそういうことで苦しんできたんだもんな」
「俺はゲイだ。確か拓真に――一年生の時だったかな――こう言ったことがあるよな、『ゲイであるってことを、笑いのネタに出来るくらいの社会になればいいのに』ってさ。俺、あの時のことを拓真が意識して、軽音終わりに俺を呼び止めて『美都から告白されたらゲイって答えたい』って言ったのかと思ったんだ。何知ったような口叩いてんだ、って反射的に拓真の頬をはたいちゃったけどさ、理由を聞いてみたら、誰もが不幸にならないような選択として、そんな嘘をつこうとしているんだ、って分かった。優しい嘘だと思った」
「僕がゲイだって美都に言えば、美都は恋を諦めざるを得ない――もの凄く心苦しいけど。それでもきっと、友人のままでいてくれるだろう。早沢さんの方は――僕は早沢さんを純粋に好きなままでいられるなら、それでいい」
「誰も傷つかないように配慮するところ、ほんっと拓真らしいよ」
 柊真はそう言ってから、呟くように付け足した。
「――自分が傷つかないようにするところも」

 「ごめんね、時間が無いからって、こんな休日に打合せすることになっちゃって」
 早沢さんはそう言って本当に済まなそうな顔を僕に向けた。僕は「いやいや」と首を振って応じた。「そんなに首 振らなくても」早沢さんの顔がほころぶ。

「夜、主人公が孤独に悩むシーンがあるじゃん? 『僕がこの世界にいる意味って、どこにあるんだろう。僕がいなくなっても、この世界は変わらずまわり続けるんだ』――って。照明を考える上で、このシーンについて詳しく知りたい。七海はさ、このシーン、どういうニュアンスを出したいと思って書いたの?」
 早沢さんはテキパキと僕に質問を飛ばしてきた。ああ、仕事が出来る人だ。僕はそう思った。そしてそれ以上に――僕は早沢さんを見た。
「早沢さん、すっごい脚本 読み込んできてくれているよね」
 早沢さんは一瞬きょとん、とした表情を見せ、それから僕に言った。
「当たり前でしょ、七海が苦労して書いてきてくれた脚本だもん。ちゃんと受け止めないと、失礼でしょ」
 「それに――」早沢さんは少しだけ僕から目を逸らして言った。
「凄い共感できるから、主人公の悩みとか、感じ方とか――」
 僕はトクン、と心臓が波打つのを感じた。その一瞬で僕は早沢さんと思想を共有したような錯覚に陥った。
「早沢さんはこの主人公みたいに、夜に不安になること、あるの」
 僕はかなり攻めた質問をした。
「あるよ。夜はいっつも不安で、さみしくって、泣きそうになる。――私の友達、結構早く寝ちゃう人多いし、LINEで喋ることも出来ない」
「そうなんだ――」僕は場が暗くなりすぎる前に切り上げるのは僕の役目だと感じた。
「まさに主人公もおんなじことを考えていて、僕らはそれを照明で上手いこと表現する必要があるよね」
 わざと明るいトーンで言った。早沢さんの顔も少しだけ明るくなる。
「ちょっと紫を入れた薄暗い光とかどうかな――青に寄った紫」
「なるほど、それはいいかもしれない。スポットライトは入れる?」
「普通なら入れるけど……無くしてみても面白い」
 早沢さんとの会話はまさに弾むように進んだ。終わりには、僕と早沢さんはすっかり打ち解けて、LINEも交換した。早沢さんのプロフィール画像やステータスメッセージを読んで、密かに幸せな気持ちになっていたのは秘密だ。

 講堂練習。初めて扱う照明器具に戸惑いながら、僕と早沢さんはなんとかその仕事をやり遂げた。「やったね」うれしそうに言う早沢さんの笑顔が眩しい。「うん」僕の顔も自然にほころんでしまう。マズいな、平常心、平常心……そう心に言い聞かせる。


 講堂から教室に帰り、「ちょっと脚本について」と柊真に呼ばれた。僕らはそれからしばらく脚本について議論し合った。後で周りから「坂口君も七海君もあんな風に話すことあるんだ」と驚かれた。「いや、軽音では大体あんな感じだよ」僕は少し上機嫌にそう言った。


 「頑張ってるね、文化祭」
 カフェで告白された直後と比べると、下校中の美都との会話もだんだんと普段の落ち着きを取り戻していった。僕はその幸せさをしみじみかみしめていた。
「そうだね、柊真が良くやってくれているからね」
「うん、ほんっとうに、そうだよね」
 美都はわざとらしくそう頷いた。僕はその態度に少しの違和感を抱いた。
「あ、お前さ、俺が柊真を好きだって思ってるだろ。俺はゲイだけどさ、柊真は友人として好きなだけだぞ」
 美都は静かにかぶりを振った。
「たっくんさ、そんな嘘、つかなくていいから」
 僕は表情が強張るのを感じた。バレてた――?
「バレたって心配してるでしょ? 安心しなよ、全部 坂口君から聞いた」
「え?」
 僕は困惑を隠せなかった。
「本当は好きな人がいるんでしょ。でもそれを言って私と気まずくなるのが嫌で、わざと嘘をついたんでしょ」
 やれやれ、柊真の奴――僕は何だか柊真の手の上で踊らされていたような気がした。その時、ふと疑問に思った。柊真がゲイであることは、美都に説明したのだろうか?
「まあ、うん。……柊真は何か言ってた?」
「何かって?」
 そっか、言わないのか――僕は何となく複雑な気持ちになった。

 夏本番。照りつける太陽は僕らの体力をじりじりと奪ってゆく。しかし、生命が最も輝くのもまたこの季節である。自己主張を続ける蝉の声の中、僕は太陽を睨み付ける。
 勝負だ、太陽――


 早沢さんは見るからに夏バテしていた。本人は気丈にふるまうものの、明らかに笑顔が減っている。これまでの仕事の疲れが一気に出ているような感じだった。そんな中、二回目の講堂練習が始まった。

 早沢さんはミスを連発した。練習が終わってから、早沢さんが僕に詫びてきた。
「ごめんね、言い訳するわけじゃないけど、昨日、調子が悪くて、照明の動き、ほとんど確認出来てなかったの……」
 僕は「早沢さんが大変なの知ってるから」と静かに首を振った。「ごめんね」早沢さんは少しだけ目を潤ませてそう言った。僕は何も言うことが出来なかった。


 真夜中。僕は早沢さんの泣き目が忘れられずLINEを開いた。「最近更新されたプロフィール」に早沢さんのアカウントがあり、僕はそれを開く。『文化祭がんばろー』いつもと変わらぬそのメッセージに、いつもとは違って続きがあることに気付いて僕はスクロールする。何も書かれていないスペースが続き、最後にちょこん、とメッセージがあった。
『潰れちゃいそうだよ』
 僕はそれを見て、胸が締め付けられるような思いがした。そのままの勢いで、早沢さんにメッセージを送りたい衝動に駆られた。「大丈夫?」「起きてるー?」「がんばろうね」――考えた言葉がこの上なく陳腐なものに思えて、僕は結局それを送るのをやめた。

 朝、早沢さんのステータスメッセージを見ると、『文化祭がんばろー』という言葉が残っているのみだった。


 「早沢さん」
 僕は休み時間、早沢さんを少しだけ呼び止めた。
「仕事、大変そうだから、ちょっと照明の担当箇所をいじってみた」
 僕は早沢さんにその紙を渡した。
「ありがとう……」
 早沢さんは複雑な顔でそれを受け取った。僕はそんな早沢さんを ただ見ることしか出来なかった。もどかしさが体の中を駆け巡っていた。遠ざかる早沢さんの体がひどく小さく見えた。あんな小さな背中に大きな仕事を背負わせているのか――僕は自分が情けなくなった。僕に出来ることは――僕は拳を握った。
 僕に出来ることは、クラス劇で金賞を取ることだ。

 それから文化祭まで どのように過ごしてきたのか、僕は全く覚えていない。柊真に聞いてみても、全く同じ答えが返ってきた。僕らはクラス劇に文字通り全身全霊を注いでいた。美都曰く「あの時の雰囲気は異常だった。皆 熱に冒されていたんじゃないかな」とのことだ。
 劇のことも全く覚えていない。そのくせハプニングだけは強烈に覚えている。キャストの一人が小道具を机から落としてしまったりだとか、背景のスクリーンの巻き上げが一瞬止まったりだとか。僕らはその舞台に一つの世界を表現することだけに全神経を集中していた。だからこそ、そのような記憶しか残らないのだろう。
 はっきりと覚えているのは、劇が終わった後の虚脱感だ。僕らは他のクラスの劇を見るでも無く、ただただ疲弊しきって教室でぐったりとなっていた。表彰式があると聞いて、僕らは重い体を持ち上げて講堂へと向かった。行動は綺麗に片づけられていた。そこには劇の面影は無かった。

 結果発表になると、皆 疲れ切っていながらも、ボルテージは否応なしに上がっていった。前評判では、僕らは金賞候補の筆頭だった。しかし、大道具賞や監督賞、主演女優賞など様々な賞が発表される中で、その自信は薄れていった。僕のクラスは他の金賞候補のクラスに比べて明らかに賞が少なかった。そんな中、いよいよ全体での賞の発表が始まった。
 銅賞は話題にすら挙がっていなかった、所謂ダークホースだった。それが発表されると、講堂内はざわめきに包まれた。それから、大きな歓声と拍手が鳴り響いた。
 銀賞。僕はこのタイミングで名前を呼ばれることを覚悟した。しかし、名前を呼ばれたのは僕のクラスと並べて金賞候補として挙げられていたクラスだった。会場は大きくどよめいた。柊真が僕の肩に手を置いて、確信に満ちた顔を向けた。講堂内の熱気は最高潮に達していた。僕らはたった一つの名前を聞くためだけにその場にいた。結果発表者の口が開く――

 正直、何と言われたのか聞こえなかった。雪崩れ込むような歓声だけが聞こえた。頭をもみくちゃにされて、何が何だか分からなかった。息さえできないような状況の中、柊真の姿を確認出来た。柊真ももみくちゃにされていた。柊真がこっちを見て笑った気がした。僕は泣いていいのか笑っていいのか分からずに、またその感情を抑え込もうとして、顔の痙攣が止まらなかった。何なんだよ、これ。


 場が落ち着くと、柊真と僕は壇上に上がることを求められた。僕は夢見心地で壇に上った。柊真はうれしくってしょうがないと言った様子だった。
『それでは皆さん、まずは脚本を担当した七海拓真君にインタビューをしたいと思います! 七海君、今の気持ちをお聞かせください!』
 僕は話の結論を考えること無く、そのまま感情のままに話し始めた。
「この物語はハッピーエンドなんです。この物語は僕の理想というか、願望みたいなものを詰め込んだところがあるんです。僕、現実はこうはうまくいかないよなあ、なんて書きながら思っていたんですよ。でも……」
 僕は突然 言葉に詰まった。溢れ出す感情を止めようと必死に唇を噛む。口元が、肩が、いや、もはや体全体が小刻みに震える。
「ハッピーエンドって、本当に、あるんだな、って……」
 会場から歓声が上がる。僕は大粒の涙を目から溢れさせた。それは溢れ出したなら止まらなかった。立っているのもままならないほど僕は泣いた。
『監督の坂口柊真君! いかがですか?』
「僕はね、もう作品に関係無いこと言いますけどね、拓真に脚本を任せて、本当によかったなあ、ってて思うんですよ。こいつ、シャイなくせにクールを装おうとするから、全然クラスに馴染めて無かったし、自分の意見を言わないし。面白い奴なんですよ? それなのに誤解されまくるし……あれ、何を言おうとしたんだっけ、そう、そんな拓真がですよ! 主体的に劇を作り上げて、しかも公衆の面前でこう号泣してる! もう、これだけで金賞ですよ、何言ってるか分からないですけど。本当に、この劇を作り上げてくれた関係者各位に感謝しかありません。ありがとうございました!」
 大歓声。僕は顔から火が出るような思いがした。涙は収まる気配が無かった。
 そのままの流れで、インタビュアーがアナウンスした。
『それでは最後に、文化祭委員長の早沢陽菜より、ひとことです』
 早沢さんは肩を震わせて泣いていた。「すみません、七海君からもらい泣きして……」僕は何だか早沢さんに済まない気がして、また少しうれしい気もしていた。
「皆さん、本日は、ありがとう、ございましたっ……個人的には、自分の、クラスが、金賞を取るなどっ……うれしい、結果でした……明日もっ、文化祭は、続くので、皆さんっ、体調管理には、気を付けて……以上ですっ」
 早沢さんが頭を下げると、講堂は温かい拍手で包まれた。早沢さんは安心したのか、一段ギアを上げて泣いた。「お前ら泣き虫だな、お似合いだよ」僕にだけ聞こえるように言う柊真が何だかずるく思えた。お前だって声 震えているくせに。


 「クラス劇の金賞を祝して、かんぱーい!」
  グラスの音が高く響き、僕らは祝杯を挙げた。とあるバイキング店。僕らは打ち上げで互いの苦労をねぎらった。四・五人が集まるテーブルが複数あり、歓談の声が断続的に耳に入る。時折、劇中のセリフが聞こえてくる。クラス全員が共有している話題なのだから当然といえば当然なのだが、自分が紡ぎだした言葉が、大地に水が染み込むようにクラスに根付いているという事実は不思議なものがある。
 早沢さんの座るテーブルはコーヒーメーカーの近くにあった。僕がコーヒーを抽出しようとすると、早沢さんのテーブルの会話が聞こえた。
「それでさー、そのドラマに、『私のこと好きでしょ?』ってセリフがあるんだけどさー、男子ってそれでも気付かないもんなの?」
 普段 早沢さんと仲の良い女子が、最近のドラマについて語っていた。早沢さんは不思議そうに尋ねる。
「え? 何で『私のこと好きなの?』って言葉だけで、その女子が男子を好きって分かるの?」
 早沢さんの友人はわざとらしく溜め息をつく。
「あーもう早沢はほんっと早沢だなあ、これだから早沢は」
「え? え?」
 困惑する早沢さん。テーブルのメンバーは黙って微笑む。
「『私のこと好きなの?』って、嫌いな相手に向かって言える? そんなこと言えるってことは、満更でもないってことでしょ」
 早沢さんはその言葉をかみ砕いて、「ん~! 確かに!」と叫んだ。「早沢ニブすぎでしょ~」周りもそんな早沢さんを弄るのが楽しそうな様子だ。
「え~、でもそんなの、男子絶対わかんないって!」
 早沢さんが負けず嫌いを覗かせる発言をしたと同時に、コーヒーの抽出が終わった。
「七海はどう思う!?」
 早沢さんがそう叫んだ時、僕はコーヒーカップを掴み損ねそうになった。
「え!?」
 僕は素っ頓狂な声を上げて早沢さんを見た。テーブルにいるメンバーが僕の返答を待つ。おいおい。
「う、うーん、何というか……例えば僕の好きな人からのメッセージだったら、気づくかもしれない……」
 僕はそれを言った瞬間、耳が熱くなるのを感じた。女子たちは「う~ん、成程お」とうなった。「結局そういうことなんだよー」誰かが呟く。
 僕はそそくさとその場を立ち去り、テーブルに着くと同時にコーヒーを啜った。全く味を感じられなかった。


 「二次会行く人~」
 僕は明日 軽音のライブがあるので、二次会に行くのを少し躊躇っていた。二次会はカラオケということで強く誘われていたのだが、カラオケとなればなおさら行きたくは無い。
 手を挙げたのはクラスの三分の一ほどだった。早沢さんは行かなさそうだな、などとそれを眺めていると、小さく手を挙げる早沢さんの姿が見えたので少し驚いた。
「それじゃ、カラオケボックスに入るメンバーとして、三つにグループ分けします。適当に近くで三人グループを作ってグーチョキパーしてください」
 見る見る間に固まってゆくグループ。――あ、一人になるやつだ。そう思ったとき、柊真が僕の服をぐいっと引っ張った。お前もカラオケ行くのかよ。
 僕はチョキの手を挙げて仲間を探した。小さな手がチョキを掲げているのが見えて、僕はその人を見た。
「やった! 七海だ!」
 早沢さんは僕に笑顔を向けた。少しだけセットが崩れた髪さえも愛おしい。無理しなくていいのにな、と僕は思う一方、無理をするのも早沢さんらしいな、と思う。
「やっと七海の歌が聞ける! ――あ、まあ明日ライブやるんだろうけど、仕事で見に行けないかもしれないからさ」
 早沢さんはそう言って別のチョキを探した。自己紹介の時の言葉はお世辞じゃなかったんだな、と僕は思った。


 カラオケのグループは四人だった。僕と早沢さん以外の二人が積極的に歌いたがる人たちだったので、僕は喉を休めることができた。
「七海君、歌ってよ」
 二人が歌い疲れた頃合いを見て、早沢さんは提案した。僕は仕方ないかな、と思い曲を選んだ。
 早沢さんしか見ていなかった。

――君はロックなんか聴かないと思いながら
少しでも僕に近づいてほしくて
ロックなんか聴かないと思うけれども
僕はこんな歌であんな歌で
恋を乗り越えてきた……

 僕は灰色の日々を振り払うように、音程にかまわず感情の赴くままに歌った。歌い終わった後、早沢さんがぱちぱちと手をたたき、それにつられて二人も手をたたいた。
「さーて早沢、次はあんたの番だよ」
 歌いたがりの二人は早沢さんにそう嗾けた。
「七海の後だと下手に聞こえるからってそれはずるい! ずるいずるい!」
 早沢さんは駄々をこねた。僕は自然に上がってしまう口角を隠すためにお茶を飲む。やがて観念した早沢さんは曲を歌い始める。
「ヘイ ベイベー、ノッってるか~い!?」
 早沢さんがそう叫んだ時、ボックス内は爆笑に包まれた。早沢さんがリクエストしたのはゴリゴリのロックだった。小さな体から発せられるデスボイスが不釣り合いすぎて笑える。僕の早沢さんに対する過大な幻想・妄想が心地よく崩壊する。それは失望では無い。むしろ僕の心は高鳴っていた。
 早沢さんには敵わないな、と思うことがたまにある。
 僕には前に歌った人の返歌をしつつデスボイスで爆笑を誘い、さらには人をノせることなんて絶対できない。


 カラオケから出て、僕と早沢さんはたまたま帰る方向が一緒だった。夜にもかかわらずジトッとした熱気が僕らを包む。僕は早沢さんにコンビニに行くことを提案した。早沢さんはそれに賛成した。コンビニでは拒む早沢さんを制してアイスを奢った。アイスを手にした早沢さんは見るからに目が輝いていた。無邪気だ。
「今日はありがとう。とっても楽しかった」
 コンビニから出たところで、僕は早沢さんに頭を下げた。
「――それに、文化祭の委員長の仕事も。照明も」
 僕はコンビニの前で頭を下げ続けた。傍から見れば完全に不審者だ。それでも僕は頭を下げ続けた。僕は早沢さんに色彩を貰ったのだ。
「そういえばさ、写真、七海と撮ってなかったよね」
 頭を下げ続ける僕をよそに、思いついたように早沢さんは言った。
「え? ああ、そうだね――早沢さんとは撮ってない」
「撮らない? 後で送るよ」
 間髪入れず早沢さんはそう言い、僕に体を寄せた。
「七海ってさー」
 スマホのインカメを向けつつ、早沢さんはシャッターを押す。
「私のこと嫌い?」

「えっ」
 僕は頭が真っ白になり絶句した。顔が強張り、なぜか怒りが湧き上がった。
「そっ、そんなわけないじゃん!! 僕は、僕は、……早沢さんを、とっても尊敬している。凄いと思っているんだ。嫌いなわけ、無い」
 早沢さんは二重の目をこちらに向けて、それを静観していた。そしてふふっ、と笑った。
「七海~、怖いよう~」
 僕はハトが豆鉄砲を食らったようになった。「え、ああ、ごめん」なんでこんなに上手く話せないんだろう。
「七海ってさ、絶対私のことを『早沢さん』って呼ぶよね。呼び捨て、してくれないよね」
 早沢さんは少しだけ不満げにそう言った。僕は何て言えばいいのか分からなくなり口を閉ざした。
「七海ってさ、なんか冷たい。クールを装ってるけど本当は面白くって、優しくって、本音を話すことができる人なのに、何というか、ほんっとうの心の中、核心のドロドロした部分だけが隠されている気がする。まるでそこだけが氷の壁に閉ざされているようにさ――ごめん、何言ってるのか分からないけど」
 「そんなことない」僕は上辺だけの否定をして見せた。僕は困惑していた。僕の本当の心は――
「じゃあさ、七海はさ、私のことが好きなの!?」
 早沢さんは下を向いて叫んだ。僕はバイキングのことが即座に頭によぎり、いよいよ訳が分からなくなって、思わず口に出してしまった。
「す、好きに決まってんじゃんか!」
 早沢さんが顔をあげて僕を見た。僕はその上気した顔を見て、恥ずかしくなって言葉を続けた。
「早沢さんの、夏バテしてるくせに頑張り続けるところとか、ラインに弱音を夜中にはくくせに朝になったら消してるところとか、もうなんか、『早沢さんはがんばってるよ』って、『そんなに頑張らなくていいんだよ』って抱きしめたくなるんだ」
 その言葉を言い終えるか言い終えないかというタイミングで、早沢さんは僕に抱きついた。肩を震わせて、泣いていた。
「私、頑張ってるよね? 辛いよお、明日、学校行きたくないよお。行きたいけど、行きたくないよ、行きたいけどお」
早沢さんは冗談めかしながらも泣きじゃくりながら言った。僕は早沢さんを恐々としつつ抱きしめた。そして頭をポンポンと撫でた。その全てが繊細で溶けてしまいそうだった。
「七海がこの世界にいて良かった」
 早沢さんはそう呟いた。僕は心の中で何かがほどけた気がした。
「――早沢がこの世界にいて良かった」

目隠しと破綻

高校二年生の夏に、文化祭号に載せる『氷解』と並行して書いていた作品です。4作目。
掲載された『UNVIRTUAL PAPER』は初めての取り組みだったのですが、それにふさわしく実験的な小説です。
51,066文字

1 目隠し

 ここは京都、夜の街。洛中外れの住宅街。駅を離れしばらく歩けば、やがて喧騒遠ざかり、一人ぼっちの夜の街。寒い首元隠すため、僕は上までボタン留め、フードをかぶり縮こまる。息をふうっと吐き出せば、刹那舞い散る白き花。先週買ったイヤホンが、感傷的な音を鳴らせば、僕は何故だかより強く、空っぽの心を感じるのだ。僕は時たま妄想に駆られる。「この世界は無意味で、空虚で、虚無なのではないか」そしてその度こう思う。「包まれたい、抱きしめられたい、繋ぎ止められたい」
 本当はいつだって死んだっていいと思っているのだ。あるいは河原町をはしごして、夜通し遊んだっていい。僕は常にここにいて、いなくなることも出来るのだ。この世界は紛れもなく法則に満ちていて、それに基づき息をして、またそれを知ることすら出来る。けれども僕は空っぽで、疑問は心にこびりつき、幾ら拭っても拭い去れないのだ。


 家に帰ると室内は暗く、家族は静かに明日に備える。部屋は暖かいが無機質だ。明かりを灯してコードを探り、スマホを取り付け充電する。ポンと小さな音立てて、それは僕に合図する。彼が電気で満ち足りるなら、僕も食事で満ち足りたい。冷蔵庫開け手探りで、食糧探しレンジでチンする。へたったパンをモソモソ食べ、茶を流し込み一息つく。束の間の暖かさ、しかしそれはすぐに消え去る。静かに暖房は動き続け、僕は一人 部屋で震えた。自分で自分を抱きしめる。さっきよりは幾分か、否 随分とましな気がして、僕はずっとそうしていた。

 スマホのアラームで目が覚めて、僕は急いで支度する。学生服に袖通し、一切れのパンを口にする。親はとっくに家を出て、辺りは静まり返っていた。僕はふと考え込んで、そして静かに胸を押さえた。喉の奥の奥の方、何かがこみ上げてくる気配。僕は急いでイヤホンをつけ、アップテンポの曲を聴く。何かが誤魔化され消えてゆく。ドアに手をかけ家を出る。

 朝の街は肌寒い。京都に越して もうすぐ一年になるが、京都の特徴を一つ挙げるならば、この底冷えだろうと思う。京都は母方の実家で、今は母と僕でその実家の近くに住んでいる。僕は三人家族の一人息子で、父は現在 山梨に単身赴任。
 僕は今 高一だが、中学の頃は山梨に、家族揃って暮らしていた。わざわざ家族が離れてまで、京都に引っ越したのはわけがあり、それは家族で決めたこととして、三つの理由に分けられる。一つ目は祖母の面倒を見るためで、ニつ目は父が転勤族であるためである。高校に入ってから転勤となると、僕が勉強・人間関係において、色々大変になるだろうから、いっそ実家の京都に帰り、そこに定住してしまおうと考えたのだ。三つ目は単純に、僕が京都で暮らすことを、かなり強く望んだためだ。

 人間という生き物は、どうも隣の芝の青さだけに目を奪われ、その欠点を見ない性質があるらしい。
 山梨にいた頃の僕にとって、京都という街は楽しい記憶と紐付けられているものだった。長期休暇には必ず京都に帰省し、父は名所に僕を連れていった。美しい街・美しい風景。成熟した文化に新しい風。それはキラキラと輝きを放ち、影の部分に蓋をする。


 特急列車が目の前を過ぎ、僕は風を肌に感じる。システマチックに動く世界、それに合わせて動く僕。電光掲示板に目をやれば、次の列車は三分後らしい。僕は静かにそれを待つ。それと同時に期待をする。「人身事故でも起きないかなあ」
 予定調和に電車は来て、満員列車に身を投げる。体に揺れを感じながら、僕はゆっくり目を閉じる。プレイリストの順番通りにイヤホンからは曲が流れ、僕はただそれを聞く。何の変哲も無い平凡な一日。三駅過ぎたら電車を出て、そこから歩いて学校に着くのだ。まるで機械にでもなった気分だ。

 学校に着き教室に入り、コートを脱いで支度をする。支度が済んだらチャイムが鳴り、一限目がスタートする。先生が教科書を解説し、僕はそれを聞き流す。「どうか当てられませんように」なんて願い事をするのも馬鹿らしく、僕はただ空虚を見つめる。


 あれは中三のこと、僕は大きな野望を抱いていた。「京都に行って、一流大学に受かり、一流企業に入ってやるんだ」そして山梨の奴らに対してはこう思っていた。「君達は山梨でのうのうと暮らしているがいい」「僕は君達たちとは違うんだ」――。僕はあの時「何か」に取り憑かれていた。「何か」とは「爽快感」であったり「復讐心」であったり、そういうものが複雑に混ざり合った、例えて言うならば、ラノベを読んでいる時のような、生存者バイアス丸出しの、気分がスカッとするような、何も考えなくていい感覚であった。

 中一から中二の初めにかけて、僕はいじめを受けていた。小学校で人気者だった僕は、中学で複数の小学校の文化が混じりあった時、そこでの覇権争いに敗れた。小学校で仲良しだった奴らは、簡単に新たな覇者に寝返り、僕を寄ってたかっていじめた。それは見知らぬ人にいじめられるより、ずっとこたえるものだった。先生は僕の味方をしてくれたが、やがて矛先が先生に向き、先生に関する根無し事がまことしやかに囁かれ始めると、先生は僕を「学校の風紀を乱すもの」として扱い始めた。「なるほど、僕の人生はここで終わったらしい」僕は意識朦朧としつつそんなことを思い、自我を殺し、されるがままにいじめられ続けた。やがて僕の反応に飽きたのか、いじめは学年が変わると同時にうやむやになった。
 いじめが無くなり、自分の頭で物事を考える余裕が出てきた頃、僕に残されたのはねじ伏せられた自尊心だった。僕はもとの自尊心を取り戻すべく、新たな戦いを始めた。学校ではぼんやりと、「あと二年で高校受験」という意識が漂っていた。僕はそこに自分の活路を見出した気がして、受験を見据えて勉強を始めた。僕をいじめたすべての人を見返すべく、僕は必死に努力を重ねた。結果はすぐに現れた。中三になる頃には学校で三本の指に入る「優秀な生徒」に成長した。中三の後半、受験でひいひい音をあげている奴らを見て、正直 笑いをこらえられなかった。おかしくってしょうがなかった。その頃にはもう京都で受験することを決めていて、それを学校で公言していた。山梨にいた頃の僕にとって、京都という街は楽しい記憶と紐付けされているものだったが、それは修学旅行で京都に行っている皆にとっても同じだった。それに、山梨から見れば、京都は圧倒的に都会である。都会というものが田舎の人々にとってどれだけ魅力のあるものか、それは例えば日本人がヨーロッパのシンメトリーの建物群に憧れるのと同じようなものであろう。その京都で受験すること、そこで暮らすことがどれだけ羨望の的になるか、それを僕はよく知っていた。だからこそ、僕は京都で受験すること、そこで暮らすことを強く望んだのだ。


「それではテストを返します」
 先生の声が聞こえ、僕はテストを受け取る。平均点より少し下の点数であった。僕はほんの少しの恥ずかしさを覚える。中学時代ならこの恥ずかしさは恥辱とも言うべきものだっただろう。しかし今は違う。どういうわけか素直に現状を受け入れている。いや、受け入れているというよりは、麻痺していると言った方が良いだろうか。
 京都に来てから、出来ることに気付くよりも、出来ないことに気付く方が多くなった。そしてその出来ないことに対して、それは当然だとどこかで諦めている自分がいるのだ。中学と高校での一番の違いは、紛れもなく周りの環境である。僕の周りには優秀な生徒が多くいて、僕はそれに、無意識のうちに屈服しているのかもしれない。


 七限目の授業が終わり、僕は部活の教室に向かう。所属している部活は文芸部だ。小説や詩歌などを書き、それを交換して意見交流をしている。僕は小説をメインに書いていて、最近新しい短編を書き上げたばかりだ。今日は友人に、その短編についての意見をもらうことになっている。
 よく、「あなたが小説を書く理由は何ですか」と問われる。この問いに対する僕の答えはぼんやりとしていて、うまく言い表すことが出来ない。しかし逆に言えば、ぼんやりとしてはいるが「答え」はあるのだ。その「答え」を出来るだけ正確に言い表すならば、感覚的になってしまうが、「認められている」気がするのだ。僕が僕であるということ、この世界が空虚では無いということ――そのすべてが小説を通して証明されている気がするのだ。そうだ、その感覚は、夜の街を歩いている時と対極にあると言っていい。どういうわけか、小説を書いている時、僕の心は得体の知れない「何か」で満たされてゆく。その「何か」とは「満足感」だろうか、それとも「達成感」だろうか。


おり
 名前を呼ばれて顔を向ける。文芸部の友人だ。
「織の小説、読ませてもらったよ。まあ詳しいことは部室で言う」
 多くの人は僕を苗字で呼ぶ。「高橋」「高橋君」等。僕を名前で呼ぶ人は、高校の中では彼だけではないだろうか。というのも、京都での、僕と付き合いのある人間は、下手したら片手で済んでしまうほどの数しかいない。何故 彼が僕を名前で呼ぶのか、その理由は聞いたことが無いのでわからない。
 僕にとって彼は貴重な友人である。しかし、彼にとって僕は多くいるうちの一人の友人に過ぎないかもしれない。彼は誰にでも好かれているからだ。彼は常にポジティブシンキングで、周りを明るくする存在である。それ故彼は老若男女全方位から好かれている。しかし、僕は、彼が僕のことを一友人としてしか見ていないわけがないと信じている。
 彼は僕と話す時だけ口調が変わるのだ。彼は他の人と話す時、意識的なのか無意識なのか、僕は意識的であると思うのだが、発言をした時、結論が後ろ向きなものになることが無い。また、きついことは言わない。「宿題マジだりー、とっとと終わらせてゲームしよーぜ」「今日の数学全然分からんかったー、後で教えてー」等。しかし、僕と話す時は違う。結論が後ろ向きになることもあるし、きついことを言うこともある。それは彼が本音で話しているからだ。彼は僕にだけ本音でものを語ってくれる。そう思えるからこそ、僕は、彼が僕のことを一友人としてしか見ていないわけがないと信じているのだ。

 彼が部室の扉を開け、僕はその中に入る。後から彼が入り、椅子に座りながらこう言った。
「織の小説ね、いつも通り面白かったよ。面白いというのはあれだ、Interestingの方ね」
「具体的に、どういうところが面白かったの」
「まあ……何つーか、織の世界観が出ていてよかったよ」
 僕はその言葉に彼の本心が含まれていないことを直感的に悟った。一呼吸おいて、一言一句はっきりと言う。はぐらかすな、というニュアンスを込める。
「前回と比較して良かった点等、具体的に」
 彼は困った顔をして僕を見た。複雑な顔だった。予想外の質問が来たことに戸惑っているというよりは、むしろ予測していた質問が来て、それに答えなければならないことに戸惑っている顔だった。
「あのさ、織」
「ん」
 彼は ほんの一瞬言葉に詰まるようにしつつも、それを振り払うように、はっきりとこう言った。
「織ってさ、いつも同じような小説を書くよね」
 彼が僕を見つめる。彼自身の放った言葉が、僕にどんな影響を与えるのか、それを彼は観察する。
「構成も、長さも、文体さえも小説ごとに異なるのに、『同じ』である、と? 」
「や、俺が言っているのはそういうことじゃないんだ。要は織の小説を形作る、割と重要な部分が、いつも同じだってことを俺は言っているんだ。そうだな、わかりやすく言ってしまえば、俺は、書けと言われれば、織のような小説を簡単に書ける」
「と言うと」
 彼は少し考え込んで、そして唐突に立ち上がった。人差し指をわざとらしく立て、演技口調でこう言う。
「一人称小説で、主人公は男子高校生。人と関わるのが苦手で、いつでも社会に不満を持っている。学校に関することをバックボーンにして、主人公の様々な体験が描かれる。そしてその体験を基に彼は新たな哲学を作り出していく。物語の最後に取る彼の行動や、彼の物の見え方は、傍から見ると意味不明で滑稽ですらあるんだけど、文脈から推測するに、どうやら彼の築き上げた哲学が基になっているらしい」
 そこまで言って彼は再び椅子に腰かけた。
「つまり、何が言いたいかっていうと、織の小説は『独りよがり』なんだよね。
 さっきの物語を読者側から見てみよう。一人称小説っていうのは、『読者が感情移入出来る部分』と『読者が感情移入出来ない部分』に分けられる。前者の割合が大きければ大きいほど、読者はぐいぐい小説に入っていける。でも、織の小説の場合、後者の割合が大きいから、読者はどんどん置いてけぼりを食ってしまう」
 彼が僕の表情を窺う。僕は続けるように促す。
「俺は、織の小説が『独りよがり』になっていることの原因は、織自身にあるんじゃないかって仮説を立てているんだよ。初めに俺は言ったよね、『主人公は男子高校生。人と関わるのが苦手で~』って。『人の小説のことを、よくそんなに覚えていられるな』って思ったかもしれないけど、実は、織の書く主人公を思い出すことは、かなり簡単に出来るんだよね。何故かって言うと、織の書く主人公は、決まって織自身を書いているから。つまりは何が言いたいかっていうと、仮説の話に戻るけど、織は普段、一人で学校に行って帰って……っていうことしかしていなくて、つまりは友人とUSJに行ったり、カラオケでバカ騒ぎしたり……っていう経験が無くて、普段の生活で自分ばっかりに目がいっているから、そういう小説しか書けなくなっているんじゃないか? ってこと。間違いやったらほんとごめんやけど。俺にはそんな風に思えるし、織の生活でそれ以外知らないから」
 彼が関西弁のニュアンスを出す時は、決まって本気で話してくれる時だ。それに対して、僕は真正面から向き合う必要がある。
「恐らく、その通りだと思う。僕が『独りよがり』な思考に陥るような生活しかしていないのは事実だ。外に出るのは、学校の登下校と、塾の登下校くらい。もっと見聞を広める必要があるかもしれない」
 彼は微笑んで、それから椅子を少し引いて、背もたれにもたれかかるようにした。ふうっと息を吐いた後、いつもの彼と変わらない様子でこう言った。
「さっきは結構きつく言ったけど、俺は織の小説を面白いと思っているよ。小説の魅力の一つに『自分と違う思想を垣間見ることが出来る』ことがあると勝手に思っているんだけど、織の小説はその点において、とっても魅力的だよ」
 小説を書くことの醍醐味の一つに「自分の小説を褒められる」ことがある。むず痒いような、甘ったるいような、恥ずかしいような――。しかし、僕は彼の褒め言葉を、少しシニカルにも見ていた。それはつまり、彼の言葉に関西弁のニュアンスが入っていなかったことであり、いつもの調子で放った言葉のことであり、ふうっと吐いた息のことであった。
 彼が様子を窺うような目で僕を見る。僕は話題を変えるために、適当な言葉を探る。そういえば。
「ところでさ、話題は変わるんだけど、何で君は僕を『織』って呼ぶのかな。普通の人は僕のことを苗字で呼ぶんだけど」
 彼は予想外の質問が来たことに対して、少し驚いたような顔をした。そしてその後、とても嬉しそうな顔をした。
「そうだな、単純に、俺は『織』って名前を気に入っているんだ。そして、その名前を、君が忘れないようにしてほしいから、俺は君に『織』って言い続けるんだよ」


 家に帰ると母が夕飯を作っていた。僕と母が顔を合わせる時間は少ない。母は京都で介護の仕事を始めた。それ故 彼女の朝は早い。僕はと言えば夜型なので、必然的に顔を合わせる時間は少なくなる。あるいは一軒家に住む人ならば、それは当然のことなのかもしれない――それぞれがそれぞれの部屋を持っているなら、リビングに集わない限り、互いに顔を合わせることはないかもしれない。しかし万年 安アパート暮らしの転勤族にとって、そのような状態は非日常なのだ。
僕は京都に来るまでに自分の部屋を持ったことが無かった。アパートに三人分の部屋があることなどなかったからである。しかし、母と二人暮らしをしている今、僕は自分の部屋を持っている。それもまた、僕にとって非日常である。
 僕が京都で受験に合格すると、父は一人暮らしの準備を始め、母は介護の仕事先を探し始めた。「家族で決めたベストの選択」に向けて、それぞれがそれぞれに動いた。困難があると両親は決まって「織の将来に期待しているからな」と言った。


 スマホTwitterを開く。
 僕のアカウントは「ふぁぶ」という名であり、「飛行機界隈」というものに属している。飛行機が好きな人たちが集まってコミュニティを形成しているのが「飛行機界隈」である。僕は「飛行機界隈」の中では古参にあたる。最近では、「飛行機界隈」と言いながらも、古参コミュニティの中で日常生活を垂れ流すアカウントに成り下がっているのであるが。

ふぁぶ🔒 @fabric_airplane
飛行機垢的な 知らない人フォロリク通しません
📍もと富士山のふもと 🔗http://www.fujifabric.com/
79 フォロー中 120 フォロワー

 僕は画面をスクロールし、TLを流し読みする。その中で、少し引っかかるツイートがあった。

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・12時間
ロープ探してきた😎
あ、言ってなかったけど自殺することに決めたんだ~
いざ覚悟を決めると、なんか世界が違って見えるね😆
〈ロープの写真が一枚。それは編み込まれていて、白く太い。質感はつるりとしている。ポリエステルだろうか。〉
💬1 ♻︎2 ♡11

 いとたそ。本名を「狭山 糸」と言う。糸は、僕が通っていた山梨の中学校の生徒の中で、僕のアカウントとFF関係にある、数少ない一人である――と言っても、僕と糸とは、特別仲良しであるわけでは無い。僕の家は転勤族なので、山梨で暮らしていた動因も転勤なのだが、山梨に引っ越してきたばかりの、小学校四年生の時に、糸と僕は同じクラスだった。当時、珍しいもの見たさ故か、僕は山梨の奴らの間で、持ち回りで遊ばれていた。そして、糸と遊んだ記憶と言えば、その機会でのこと程度である。その後、僕と同じ中学に通った糸との親交は、同じ塾に通っていたということが挙げられるぐらいで、やはり僕と糸とは、特段仲良しというわけでは無い。
 糸の人生は高校受験で狂ってしまった。先程「僕と糸は同じ塾に通っていた」と言ったが、そこでの見聞から言えることは、「糸はそこそこ勉強が出来る」ということである。詳しくは聞いていないが、僕の中学では五番目くらいの成績であったはずだ。そんな糸であるが、糸は家庭の事情で、私立高校を併願せずに公立高校を受けて、その受験に落ちてしまった。二次募集で別の公立高校に受かったようだが、糸が最初に受けた高校と比べると、かなりレベルが下の高校であることは言うまでもない――田舎故に二次募集をする高校が多いとはいえ、だ。不合格通知を受け取った後からの、糸の荒み方は、異常なものがあった。僕は京都に行ってしまったので、詳しいことはわからないが、Twitterを通して知ることが出来るのは、髪の色を抜いたり、化粧をしたりすることは勿論のこと、夜に糸の高校仲間と遊びまわったり、喫煙したり、飲酒したりと、いろいろ派手な生活を送っているらしいということだ。しかし、そのような行動を取る人は、決まってその行動と同時に空虚感を抱いているものなのであろうか、糸のツイートの中には、リストカットの画像や、中には、家の中をめちゃくちゃにした画像も見受けられる。
 そのような糸であるが、自殺をするというのは流石に冗談だろう――そんなことを僕は思っていた。これで本当に自殺してしまったら、所謂「胸糞案件」だな……なんて思いつつ、またそんな風に思っている自分に少しの違和感を覚えながら、糸のツイートに「いいね」を押してTLをスクロールする。

ヒューズ🔒 @HughesH4・9時間
らいたあの住所特定したwww
東京都新宿区○○×‐△△
ストリートビューの画像。白を基調とした外見の一軒家。〉
💬9 ♻︎- ♡23

 「らいたあ」とは飛行機界隈で炎上した人物で――飛行機で炎上とは皮肉だ――多くの界隈民から恨みを買った人物である。そのらいたあの住所が特定されたという。いいねの数もリプライの数も鍵垢にしては異常だ。タップしてリプ欄を見る。

F3H @Demon_F3H・4時間
俺今夜凸るわw
0時、キャス楽しみにしとけよ~
💬3 ♻︎9 ♡11

 時計を確認する。今は夜の十一時だ。僕はお湯を沸かしてインスタントコーヒーを入れる。

 Twitterを閉じ、はてなブックマークを開く。ホットエントリを見つつ、気になったものをタップする。「野党は与党を批判してばかりで、自分たちの政策をまともに考えようとしない。口を開けばモリカケモリカケ。マスメディアと組んで国民を騙そうとしているみたいだけど、国民はそんなにバカじゃないよ。まず野党は自分たちの反省から始めてみるといいかもね」というツイート――リプ欄を見てみると、「本当にそうですよね。パヨク共に国民の貴重な税金を使う必要なんてありません。マスゴミの扇動に乗る情弱にこのことを教えてあげたい」等、擁護のツイートが並ぶ。
 はてブのコメント欄を開く。「ネトウヨ思想が綺麗にまとめられているツイート」「アクロバティック陰謀論に凝っている前に現実を見たらどうですか」「"自分たちの政策をまともに考えようとしない"それ、あなた方が知ろうとしていないだけでしょ」等のコメントにスターをつける。
 日本は右に寄りすぎているのではないかと思う。右翼が守っている世界は高く積み上げられただけの虚構に過ぎず、意味の無いものにしがみついているだけのように思える。

 スマホを閉じ、ノートパソコンを開く。新しい小説の構想を練る。政治的な要素を入れてみようと思った。それこそが、僕の「明日の小説」なのではないかと思った。
 主人公は左の思想を持った人にしよう。ターゲットは若い世代だ。ネトウヨ的政治観に代わる新たな思想を提案したい。それを小説に組み込むためには、現状の不満を丁寧に追ってゆく必要があるのではないか。例えば「土曜日が来るのを待ち遠しく思う」生活を六十歳になるまで続けるのか、ということであったり、物量主義的な考えに基づいて動く社会の中で、精神的な満ち足りなさを感じる主人公であったり、……とそこまで書いて気付いた。これはいつも書いている小説と、何ら変わりが無いのではないかと。「織ってさ、いつも同じような小説を書くよね」彼の言葉が甦る。そう、紛れも無く僕は、切り口は違えど、僕自身を主人公にする物語を書こうとしていたのである。そのことに気付いた瞬間、小説を書いている中で、今までに経験したことの無い、ぞっとするような思いがした。ノートパソコンを閉じてスマホを開く。それはほとんど現実逃避だった。スマホを開くまでに指紋認証で戸惑う。僕は焦っていた。何かがこみ上げてくる気配。
 僕は小説を通して、何も伝えられていなかったのではないか? すべては「独りよがり」で、僕は小説を書くことで僕自身を慰めているに過ぎなかったのではないか? そんな疑問が頭をもたげる。
 スマホが開く。僕は少しの安らぎを覚える。スマホを使う時、何故か僕の心は安らかになる。心が得体の知れない「何か」で満たされるのだ。そう、その多幸感は、まさに小説を書いている時に感じる「何か」に似たものであった。しかし、僕は小説を書く中で、その「何か」を感じることはもう二度と無い気がしていた。

 はてなブックマークを開き、適当なところをタップする。増田のエントリが表示された。「占いは何故当たるのか」と題されたそのエントリは、意外と面白く、僕はほんの少し占いに興味を持った。試しに「京都 占い」で検索してみると、河原町が占いスポットであることがわかった。明日、河原町に行ってみるのもいいかと思った。というのも、僕はやはり彼の言葉が引っかかっていたのだ。「君は普段、一人で学校に行って帰って……っていうことしかしていなくて、自分ばっかりに目がいっているから、そういう小説しか書けなくなっているんじゃないか?」――もしかしたら、僕は本当のところ、占いになんて興味がないのかもしれない。

 時計を見ると、丁度 二本の針が頂点で重なろうとしていた。僕はTwitterを開き、TLを更新する。時計の針が午前零時を示すと、一つのツイートがTLに表れた。

F3H @Demon_F3H・13秒
モイ!iPhoneからキャス配信中‐らいたあ邸凸る cas.st/18324928
💬0 ♻︎2 ♡0

 リンクをタップしキャスを開く。F3Hの声が聞こえる。
『えー、今らいたあ邸近くのコンビニです。まさかあいつが新宿住まいのお坊ちゃんだとはねー』
 コメントが次々に舞い込む。「やあ」「マジかwww」「伝説のキャスになりそうだ」「らいたあ邸は確認したのか?」等。
「らいたあ邸? ああ、見ましたよ。スクショ通りの一軒家。んで、車が前に止まっていたんだけど、なんとそれ、ポルシェでしたよ」
 コメント欄がどよめく。「ええ…」「ガチお坊ちゃまやん」「ポルシェwww」
「そうだな、写真を一応撮ったのでツイートしとくわ。ちょっと待っててね」
 スマホをタップするような音が響く。しばらくしてツイートが投稿された。

F3H @Demon_F3H・15秒
〈画像一枚のみのツイート。懐中電灯の光だろうか、夜の闇の中、大きな光の円の領域だけに おぼろげな景色が浮かび上がっている。二階建ての箱型の家で、窓ガラスの向こうにはカーテンがかかっている。家の一階部分を縦に二等分して右が玄関、左が窪むような形になっており、そこにポルシェが駐車している。玄関には、モダンな作りの家にはあまり似つかわしく無い盆栽がいくつか並んでいる。また、プランター――植物は生えていないが、支柱が刺さっている――今は三月である――が並んでいる。〉
💬0 ♻︎0 ♡3

 『で、だ。俺、ノープランなんだよね。てなわけで、皆さん、なんかご提案下され』
「ノープランかよw」「ピンポンダッシュやろ」「不幸のお手紙投函」「卵でも投げれば」「卵を盆栽の養分にしてやれ」「卵かけ盆栽やんけ」「卵かけ盆栽は草」「卵かけ盆栽www」コメント欄がとてつもない勢いで埋まってゆく。
『あのー、もうちょい現実的な案を考えてくれます? 実行犯の気持ちも考えよう』
 F3Hが呆れた声で言う。かすかに語尾が震える。
「チキッてんじゃん」「チキンやんけ」「チキンということでやはり卵かけ盆栽」「卵かけ盆栽とかいうパワーワード」「チキンが卵かけ盆栽は草」僕は文字をフリック入力し、コメントを投稿する。「とりま支柱でも奪ってこいや」僕のコメントに皆が反応する。「いたのかふぁぶ」「いたのかペリーみたいなノリやめろ」「それフィニアスとふぁぶやん」「そうさフィニアスとふぁぶに任せておけば大丈夫」「支柱は名案」「強盗とかにならんの?」「窃盗やろ」「まあ支柱くらいならよくね?」
『なるほど、じゃあ支柱奪ってくるわ。キャスいったん切りまーす』

 数分後、キャスの放送が再開された。荒い息づかいのF3H。「どうだ?」「支柱、奪ったのかな?」ぽつぽつと投稿されるコメント。スマホをタップするような音。映像が映し出される。夜闇に染まったアスファルト。唐突にそれが懐中電灯で照らし出されると、緑色の棒が映し出される。「まじでやったんかww」「まあこれくらいはやらんとな、わざわざ新宿に来たんだから」「そりゃそうだ」コメント欄の動きが活発になる。
『えー、今らいたあ邸からそれなりに離れたところにいるんだけど、問題は、この支柱、結構長いから、どうしようってこと』
「そんなんどっかに放っときゃよくね?」すぐさまコメントが付く。
『そっか』
 F3Hが言う。明らかに落ち着きが無い様子である。「取り敢えず一服しとけって」「落ち着け落ち着け」とコメ欄。ちなみにF3Hは未成年である。
『あ、映像切っていいっすか……そうだな、とりま一服するわ』
 シュボッ、という特徴的な音。ガサゴソという音がした後、すー、はー、とF3Hの息づかいが聞こえる。「一服」が何を意味しているかは明らかである。
 しばらくして、平静を取り戻した声でF3Hが言う。
『さて、この後どうしよ』
「やはり卵かけ盆栽」「卵かけ盆栽いっちゃいます?」「花火ねえかなあ、ロケット花火でも打ちこみてえな」「花火は時期的に無いだろ」今は三月である。僕はスマホを操作しコメントを投稿する。「もういっそのこと盆栽焼いちゃえば?」コメント欄に反応が現れる。「ちょwふぁぶ過激w」「花火の代わりにはなる」「松ならよく燃えそうだな」
 アジテーションであることなどわかっていた。しかしそれを自制する力を上回る衝動のようなものが激しく僕を突き動かしていた。そしてそれは紛れもなく僕の心を満たしてもいた。満たしているものが何であるか、それはわからないのだが。
 「やっぱここは卵かけ盆栽だな」コメント欄にこう書き込まれた時、僕はほっとしたような、がっかりしたような、複雑な感情に襲われた。コメント欄にはそれに賛同する意見が並んだ。結局、F3Hは卵を買いにコンビニに行った。空白の時間。コメント欄には意味の無いやり取りがなされている。僕の理性が叫んでいた。「これ以上自分の感情をコントロール出来なくなる前に寝ろ」と。僕は後ろ髪を引かれつつスマホを閉じ、そのまま眠りに落ちた。

 柔らかな布団の中でぬくぬくと、眠りと目覚めの間を漂う。今は三月、春の兆しを感じる季節である。アラームは鳴らない。今日は土曜日である。しばらく布団のぬくもりを楽しんだ後、ゆっくりと目を開く。窓から日の光が差し込んでいる。時計の針は十一時を指していた。
 母は午前で仕事を終えて帰ってくるだろう。僕は昨日の出来事を思い出していた。支度を整え外に出る。
 コンビニに寄り、昼食を兼ねた朝食を買う。そのまま駅へと向かい、電車に乗る。今日の目的地は学校ではない。小さな切符を握りしめる。

 Twitterを開くと、TLがやけに進んでいた。なんとなく嫌な予感がして見てみると、こんなツイートがされていた。

F3H @Demon_F3H・3時間
わたくしFH3は本日午前3時頃××警察署に逮捕されました
今は取り調べ的なことをされています
くれぐれも皆様らいたあ邸には近づかないように
💬4 ♻︎19 ♡11

 僕は困惑した。支柱を盗むことや盆栽に卵をかけることは、やんちゃな子供たちがどこでもやっていそうなもので、まさか逮捕に至るとは思ってもみなかったのだ。

俺は無事🔒 @ajfnxSIk_21xL・1時間
俺とFH3が牛丼屋にいた時、サツと思わしき奴らがこちらを窺っていた、俺はFH3に目くばせしたがFH3は申し訳なさそうにこちらを見ていたので逃げるのを諦めた、俺は何故か携帯の履歴等取られただけで済んだ、だからこうしてツイート出来ているわけだが――まあ俺は奴と牛丼を食べただけだから事情を知らないで牛丼食べに誘われただけと思われたのかもな、最終的に松を焼いたのもあいつだし、キャスでも発言してねえし、そう、キャスと言えばキャスで発言していた奴は警察が入念に調べてたんで気をつけろよ、放火魔を煽った扱いだからな
💬2 ♻︎- 24

 その後のツイートを見てみると、どうやらキャスがあの後盛り上がり、FH3が煽られエスカレートして盆栽に火を放つまでに至ったらしい。その後、近くに住んでいる@ajfnxSIk_2lxLと牛丼を食べている時に逮捕されたらしい。
 僕は今までに覚えたことの無い感情を抱いた。心がすうっと冷えるような心地がした。結果的にではあるが、僕の言葉がこの世界のどこかで現実となって表れたのだ。

 不穏な心を乗せたまま、電車は河原町駅に到着した。僕はグーグルマップを起動し、昨日調べた占いの店を目的地にセットする。
 河原町は京都一の繁華街である。土曜日ということもあり、街は人で賑わっていた。メインストリートを外れると、建物の影で少し暗い雰囲気が漂う。こんなところにあるのか、と辺りを見渡す。その時、物陰に屋台のようなものが見えた。近づいてみると、手書きで「占い」と書かれた張り紙と共に、一人の髭を生やした男性がいた。マップで確認すると、どうやら探していた占いの店ではなさそうだが、僕は興味をそそられた。こんなところに店を構えても、人は誰一人として来ないはずである。そもそもこんなところに屋台を構えて、法的に大丈夫なのだろうか。その男性はうつむいて本を読んでいた。ホームレスのような風貌である。僕は思い切って声をかけた。
「あの」
 男性が振り向いた時、僕は何やら奇妙な感覚を覚えた。僕は彼の顔を観察した。目だ。目がおかしい。彼の目はこちらを向いているが、焦点が合っていない。いや、焦点があっていないというのは正しくない。別のところに焦点がいっている、と言った方が適切だ。
「なんでしょうか」
 彼が口を開く。僕は不意を突かれたような思いがした。次の言葉を探る。
「ここで、何をやっているんですか」
 もしかしたら占いというのは間違いで、もっとアングラな――例えば麻薬のような――そんなものを取り扱っているのではないか。それならば目の焦点に関する疑問が一応は解決される。
「まー、見ての通りですね。妖しさだけは一級品でしょう? 」
 張り紙の方を指し示して彼は言った。語尾で少し笑っていたので、僕もつられて笑った。意外と気さくな人だなと思った。依然として目の焦点は合っていないが。
「どちらから来られたんですか」
 今度は彼の方から質問をしてきた。
「京都の西の方ですかね」
 僕はあいまいな返事をした。彼は特に興味も無さそうな様子でそれを聞いた――それなら訊くなよ。
「どうです、占い、やってみませんか」
 僕は頷いた。話を切り上げづらかったというのもあるが、それよりはむしろ彼のする占いに興味があった。
「珍しいですね~、普通のお客さんなら、『この辺にある有名な占い店に行きたいので』って去って行かれるんですよ」
 僕は苦笑いした。この人も同じ占い師であろうに。世間は自分より立場が低いと思わしき人に対して厳しい。
「どうしてここで占いをしていかれようと思ったんですか」
 彼の目がまっすぐに僕、から遠く離れたどこかを捉える。
「単純に興味があったからです……そうですね、特に、目」
「目ですか」
 彼は笑った。

 それから、彼は僕に幾つか質問をした。生年月日、好きな食べ物、生い立ち等。ほとんど世間話のような感じだったが、彼は聞き上手で、僕は僕自身についてほとんどすべて語り尽したような気持ちになった。
「占いっていうのは、とても難しいんですよ」
 一通り質問を終えると、彼はこう切り出した。
「占いっていうのは、ある程度この世界を支配している法則のようなもの、まあ『運命』とでも言うべきもの、それを読んで、その人にとって利益があるような方法を伝える仕事なわけなんですけど、それを知ってしまうと、本来その人がしたであろうことが起きなくなるわけですから、『運命』が捻じ曲がるわけなんですよ。それによって世界が不規則に動き出して、その人や周りにどんな災いが降りかかるかわからない。つまるところ、この世界のシステムをハックするわけですから、バグって言うのはつきものなんですね。ですから、占い師っていうのはその責任逃れじゃないですけど、敢えてそのハックの方法をあいまいに示唆するようなことをするわけです」
「そんなこと言っちゃっていいんですか」
「私が必要だと思ったから言っているんですよ」
 彼はこちらを向いて言った。焦点は、相変わらず遠くの方に合っていた。
「あなたは、『知らぬが仏』についてどう思いますか」
 話題が変わって、僕は少し戸惑った。
「んー、『知らぬが仏』という考え方は、人生を楽に過ごす上で、重要であるとは思います。しかし、例えば僕が余命三か月だとして、それを伝えてほしいか、それとも伝えてほしく無いかと考えた時に、やはり伝えてほしいなあと思います……残りの三か月を有意義に過ごすためにも、そして新たな世界を見るためにも。ですから、僕は『知らぬが仏』と言う考え方には反対ですね」
「ですよね」
 すぐさま彼はこう返事した。「ですよね」? 彼は僕の意見に同意したのだろうか、それとも僕がそう答えるとわかっていたのだろうか。
「さっきの話に戻るんですけど、たとえシステムをハックしたとしても、三六〇度全く違う世界をお見せすることは勿論出来なくて、ハックした結果現れた世界は、その人の思想や特性から導き出された、あるいはもっと前の、遺伝的なものや慣習的なものに沿った、その人にとって『有り得た』世界なのです。この世界というのは微妙な均衡の上に成り立ったもので、例えば『多くの日本人がある程度幸せに暮らせている』という状況は、実はほぼ奇跡的な偶然の積み重ねからなっているのです。しかしながら、この世界の人は――特に日本人はその傾向が顕著なのですが――こう思いがちです。『まあ、とてもいいことは起こらないかもしれないけど、最悪なことも起きないだろう、なるようになるし、なるようにしかならないだろう』と。それは『運命』と偶然の重なりによって成り立っていることなんですけど、彼らはそれを知らない。いわば『目隠し』をしているような状態です。私は、占い師というのは、その目隠しを取ってあげる仕事だと思っています。そこに広がる現実というのは、あまりにも複雑で、あまりにも残酷です。しかし、目隠しを取らないと、わからない世界があると私は思います」
 彼はそう言って、一呼吸置いた。
「占いの結果をお伝えしますね。『東ニ幸運アリ』――勿論、ここで言う『幸運』とは、あなたにとっての、ということでしょうね」
 ニヤリと彼が笑う。そして、思い出したように名刺を渡してきた。
「渡す人と渡さない人がいるんですよ」
 最後に彼は僕の方を見てこう言った。
「ぜひ、『目隠し』を取って見た世界をお楽しみください。お気をつけて」

 僕はメインストリートに向けて歩き出す。彼に渡された名刺を見る。深い紺色に、まるで星が煌めくかのように白い文字が並ぶ。僕はそれを見て、突然、重力子のことを思い出した――というのも、スティーブン・ホーキング氏が死んでから、僕は宇宙物理学に興味を持っていたのである。
 この世界は三次元であるが、本当はもっと高次元で、その別次元は小さくこの世界に丸め込まれているそうだ。この世界には「強い力」「弱い力」「電磁力」「重力」という四つの力があるが、その力のうち、重力だけが圧倒的に弱いらしい。それは、一説には、重力をつかさどる重力子だけが、四つの力をつかさどるものの中で唯一、高次元の方向へも移動出来る粒子であるから らしい。それと同じような考え方で、もしかしたら彼も、僕が見ている次元とは別の次元が見えているのではないかと思った。そしてそれこそが、彼の目の焦点が合わないことを説明する仮説になり得るのではないかと思った。僕は名刺を再び見る。彼の名前は一文字だった。「青」――これが彼の名前だ。


 近くのマクドナルドに入り、チーズバーガーとコーヒーを注文する。薄いアメリカンコーヒーをすすりながら、僕は「東ニ幸運アリ」について考えていた。考えに詰まって、Twitterを開こうとスマホに手を伸ばした時、唐突に、昨日のツイートを思い出した。「自殺することに決めたんだ~ いざ覚悟を決めると、なんか世界が違って見えるね😆」そうか、山梨は京都の東にある。Twitterを開き、糸のページへ行く。新しいツイートがあった。

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・12時間
もやい結び簡単って書いてあるけどむずかしすぎんよ~😔
うちがぶきっちょなだけか😇
〈先日のツイートの、編み込まれた白いロープが、もやい結びされている画像〉
💬0 ♻︎0 ♡6

 僕は河原町駅から、なんとなく京都駅に向かっていた。京都駅の駅ビル内で色んな物を見て楽しもうと思ったのだ。しかしながら、実のところ京都駅に行くというのは、山梨が気になっての行動であった。――そうは言うものの、まさかこのまま山梨に行くわけにもいくまい。
 電車を乗り継いで京都駅にたどり着く。だだっ広いガラス張りの駅。行き交う人々。その中で無性に孤独感を覚えて、僕はTwitterを開いた。そして、目を疑った。

あしすと🔒 @assistassistttt・12分前
やばいやばいなんか警察が来てお話を伺えませんかとか言ってきた親が対応してるけど今
💬4 ♻︎- ♡3

 あしすとはキャスでFH3を煽っていたメンバーの一人だ。そのあしすとが警察に呼ばれている。とするならば、僕を警察が訪ねてもおかしくない。時計を見る。もう母親が家に帰っている頃だ。僕はもしかして、FH3が盆栽を焼いた時にはキャスにいなかったので警察に目をつけられていないのではないか? いやしかしそもそも盆栽を焼こうと言い始めたのは僕だぞ? しかしあの場においてそれが本気だと受け取られるのか? ネタだと受け取られる可能性の方が高いのではないか? そもそもかなりの割合でネタとしてコメントしたし、コメント欄もネタとして受け取っていたし、悪い冗談程度で済む話ではないのか? ……などと考えていると、突然 電話が鳴った。心臓が飛び上がるような心地がした。気が動転して、それに出るべきか否かを考えているうちに、留守番電話サービスに接続された。しばらくたって、恐る恐るスマホを開くと、留守番電話が一件入っていた。深呼吸してそれを開く。
「もしもし、織? 今 警察の人が来て、織と話がしたいって言っている。織には色々 聞きたいことがあるけど、取り敢えず折り返し電話しなさい。そして、今すぐ帰ってくること。今ならやり直せるから。ね? 織、私は織がそんなことする人じゃないって知っている。だから、だから、ね? 早く帰ってきて……」
 「このメッセージを消去する場合は……」という機械音声が流れだす。僕は放心状態だった。Twitterを開く。

あしすと🔒 @assistassistttt・3分前
ほう助罪? になるらしい
詰んだ
サツ行くわ
💬2 ♻︎- ♡1

 僕はすがるような思いで占い師の言葉を思い出していた。

 東ニ幸運アリ。

 東ニ幸運アリ。


 僕は山梨に行くだけの切符を買い、新幹線に乗り込んだ。

ペトリコール 作:高橋 織

 雨が激しく降っていた。苔の感触を手に感じた。立ち上る香り――鼻の奥を、さらに奥を刺激する――ペトリコール。
 森が現れる。美しく深い緑。ノイズのように見えるのは雨だ。いや、ノイズという表現は適当か? 雨が森を造っている、つまり雨がこの景色を造っているのだ。立ち上がり、もう一度世界を見る。憂鬱な雨もこの景色の一部であるということを僕は理解する。雨が、生まれて初めて美しく見えた。ここから僕の、この世界の上書きが始まるのだろう、と予感した。
 足元に奇妙なものがあった。苔の上にある、枯れかけた葉のようなくすんだ色のジャケット――僕の血で幾分赤く染まってしまってはいるが――拾い上げると、見覚えがあった。
 ミリタリージャケット――軍服だ。サリサリとした麻の感触。教科書で見たことのある、国防色をした日本の軍服。目の前に掲げてみる。森の深緑を背景とし、緑がかった茶色のジャケットの縁を、赤い血を絡めた雨の雫が伝い、滴る。やぶれた隙間から、光が淡く漏れる。
 僕はそれを、美しいと思った。

 机の上で朝を迎えた。突っ伏したまま右手を伸ばし眼鏡を探る。思いがけず指先が硬質なものに触れ、それが床に落ちる。首を右に曲げつつ赤と青の混じった瞼の裏の模様を見ながら、光に注意してゆっくりと目を開ける。しばらく光に目を慣らして椅子を引く。惰性で腰を上げる。立ち眩みを起こさないよう腰を曲げたまま移動する。冷めたコーヒーとプラスチックのコップが落ちているのを見る。左手で机上の眼鏡を手繰り寄せそのままかける。ベージュの床とコーヒーの茶色、コップの赤をしばし見つめる。

 母の実家を思い出していた。大きな居間とほんのり日焼けした障子紙。自宅とは違う匂い。ゆったりと流れる時間。
 豊穣な出汁の香りが鼻をくすぐり、僕の目を覚ます。開いたまま置いた本が何故か閉じられていて少し苛立つ。続きを見ないように注意してページを探す。魚の煮付けが運ばれる。母が「蓮、手伝いなさい」と言う。本を開いて床に置く。よくお茶を注ぐ手伝いをした。その時の僕のコップが、プラの赤だった。

 零れたコーヒーを処理してコップを洗う。コップに母親の面影が見えて少し心が乱れる。それをごまかすようにしてラジオをつける。
 顔を洗い、歯を磨きながらラジオに耳を澄ませる。ラジオの横に置いてある母の写真は見なかったことにする。世界情勢について専門家が語っているのを聞き、いつもより遅く起きてしまったことを実感する。黒い制服に袖を通す。
世界からの求心力と自身の夢を失う夢の国の話をしていた。専門家曰く「ここ数年の世界情勢の変化は過去に類を見ない」らしい。
 例えば世界中でテロが起こっている、と言われても、実際のところ、どうにかなるだろうと思っている。断言できる根拠は無いので、どうにかなるだろう、という言葉でもやもやした感情を流し込む。そんなことよりも、今は自分の世界の平和を保つことが大切だ。学校に遅れてはならない。支度をして、家を出る。無人の家に「いってきます」と言って。

 パンを買いにコンビニに寄る。空は暗く、今にも雨が降り出しそうだ。コンビニでは傘や防災グッズが売られていた。台風が接近しているらしいが、どうなっているのだろうか。寝過ごしたことを改めて後悔した。ラジオでヘッドラインニュースを聞けなかったのは痛い。コンビニのワイファイにつなげるのをいいことにしてスマホで天気を確認する。今日から明日にかけて二十四時間降水量二百ミリの予報、通勤通学に影響する可能性もある、という簡単な要約文を読み、窓の外を見る。いつの間にか雨が降り出していた。苦笑いをしてスマホをしまう。

 口に菓子パンを咥え、コンビニで買ったビニール傘をさす。地面を蹴って空気を切る。水たまりを飛び越える。漫画のような光景だが振り返る人はいない。現実世界なんてそんなものだよな、と思った。そしてそれに甘えて菓子パンを咥えている僕がいた。少し漫画世界の気分を味わった後、よだれと雨で湿気たパンを、息を整え歩きながら食べる。こんなことをしている暇なんてあるのだろうか、と時計を見る。それと同時に、後ろから子供達の声が聞こえる。まずい、さっきの光景を見られていたか、と焦って菓子パンを隠す。隠したところでどうにかなるものでも無いな、と再び朝食をとり始めた僕の横を短パンの男子二人が通り抜ける。何が楽しいかわからないが、走り、小突きあい、笑う。あははは。
 ああ、いいなあ、と思った。彼らは傘もささず、ただ純粋に今を楽しんでいた。彼らの周りに雨は降っていなかった。彼らにとって雨は美しくないものだったし、彼らに雨は不似合いだった。何故僕の周りには雨が降っているのだろう。まるで壁でもあるかのようだな。そんなことを考えていると、突然後ろから自転車が飛沫を上げて突き抜ける。驚き、傾く視界の隅で、さらに驚く子供達を捉える。
 猛スピードで遠ざかる濡れた水色。それが警官であることに気付くと、僕は突然怒りを覚えた。雨が降り出したので急いで交番に帰ろうとしているのだろうか。自転車をこぐ前傾姿勢が、その警官の視野の狭さを象徴しているように見えた。うつむいてこぶしを握る。楽しげな子供達の世界が壊れたのが、悔しかった。雨が眼鏡の内側に打ち付けレンズを曇らせる。
「けいーーーーーーれいっ!」
 突然の声に僕は身を乗り出すようにして顔を上げた。子供達は警官に向かって敬礼していた。数秒、世界から音が消えた。そして彼らは互いを見て、あはははは、と笑った。
 僕は前を向いたまま呆気に取られた。間抜けな前傾姿勢のまま自分自身の浅慮を恥じた。子供達の世界は壊れてなんかいなかった。彼らは警官に夢を見ていた。純粋に警官に憧れを抱いていた。彼らの世界が壊れると危惧した僕の、その思考自体が、曇ったフィルタを通したものだと気付かされた。しかし、僕はそれと同時に、危険だな、とも思った。子供達は警官を無条件に肯定している。それは素晴らしいことではあるが、危険でもある、と思った。極端な話、彼らは警官が銃を持ってこちらに構えたとしても抵抗しないだろう。これも曇った考えなのだろうか。
 警官に対する怒りはどうやら収まりそうもなかった。夢を守れない警官に、将来を守れない警察に、存在意義などあるのだろうか。


 駅に着くと同時に、学校に行かなければならないという憂鬱な感情が襲う。息苦しくなり、吐きそうになる。目の前を通勤特急が通過する。いっそ線路に飛び込めば、と思う。自分が車輪に潰され、分断されるところを想像した。何故か愉快になった。死への憧憬。どうせならバラバラになって吹き飛ぶのがいい。学校に行っても落ちこぼれとして存在を黙殺されるのみなんだ。地元の、偏差値五十くらいの、普通の高校に通えばよかった。こんなはずじゃなかった。自分自身の努力不足の結果だから、文句も言えない。落としどころの無い負の感情は、火災現場の煙のように僕の心の中にたまってゆく。やがて僕はその煙で窒息死するんだ。ゆっくりと僕は死んでゆく。何て息苦しいんだろう。吐き気がする。煙を外に出してくれ。バラバラに、粉々にこの胸を砕いてくれ。
 死に対する恐れや痛みはどこから来るのだろう。冷めた考えかもしれないが、答えは「人間が生物だから」となるのではないか。人類が絶滅しないように、必死になって個々が生き抜くために、死に対する苦しみが設定されているのではないか。種の保存。しかし今僕はこうして電車に撥ねられることを想像し、死への憧憬を抱いている。もしかしたら僕は人間として不良品なのかもしれない。生きるために造られた人間の中に、死ぬために造られた不良品の僕が一個。ならば撥ねられるのは当然なのかもしれない。
 普通列車を待ってベンチに座る。電車を降りたら走らなければならないな、と確認していると、駅員が慌ただしくホームに降りてきた。半ば絶望的に掲示板を見る。人身事故が起きたらしい。文句や舌打ちが聞こえる。それらが全て僕に向けられているようで居たたまれない。それにしても困った。学校に間に合わないことは確定した。問題はどれくらい遅れるかだ。到着はバスの方が速くなるのではないか、と期待をしつつスマホでマップ検索する。それによると、バスを使った場合、人身事故が無かった場合の到着時間から大体四十分遅れになるようだ。人身事故の処理を待った方が速いかもしれない。処理――電車を待つ側にとって、それは処理でしかない。
 僕はベンチで脱力していた。とても疲れた。これまで学校で落ちこぼれながらも必死でもがいてきた。しかし今回の人身事故が僕にゲームオーバーを告げているように思えた。昨夜の睡眠不足がここにきて効いてきた。僕は黒いスクールバッグを抱えて、落ちるように寝入った。

 いつからこの森にいるのかわからない。小さい頃の記憶を辿れば、どろりとしたスープのような映像が、水面を漂うように細切れに甦る。あの頃の森は小さく、楽しいものだった。転んだら母が温かく抱きしめてくれた。その温もりで体が溶けそうだった。そのまま体重を母に預けてまどろんだ。
 いつからか、森に階段が現れた。石でできた、偶然がかみ合わさったような、古くて頼りない階段。母たちが見ている中でゆるい階段を上る。好奇心から、一段、また一段と登る。同じ大きさの子供達が付いてくる。母に包まれるのとは別の安心感を覚えた。そして、安心感とは別の、心の底の方から、震えるように、わくわくするような気持ちが現れた。この気持ちを表すなら「勇気」となるだろう。僕の隣について、「あっちへ行ってみようぜ!」と誘いかける友達。先に行って皆が知らないようなことを次々に吸収する友達。皆が一体となって階段を上る。少し険しい階段を乗り越えると達成感を感じた。そしてそれを再び得るために僕らは階段を上る。僕らに敵はいなかったし、僕らは互いに仲間だった。
 あるいは、親に褒められるから上っていた人もいるかもしれない。階段を一段上ると、母は抱きしめてくれたし、父は頭をなででくれた。階段を上ることは、楽しく生きることと同じだった。

 いつからだろう、階段は急になり、分岐点も増えてきた。しかし、確実に誰かが踏んだ道でもあった。集団は分散し、その人数も少なくなっていった。隣にいたあいつは近道を探って険しい道を進んだ。息も絶え絶えになりながら階段を上ろうとしている人もいた。僕はそれを横目に、足を踏み外さないよう慎重に進んだ。上から人を巻き込んで転げ落ちる人もいた。僕は人通りの多いところから一定の距離を置いた。かつて勇気を与えてくれた友達は、迷惑な存在になりつつあった。楽な道にそれる人、それについてゆく人。その集団の流れに巻き込まれないよう、前を見据えて僕は上り続けた。だんだん踏み慣らされた階段が少なくなってきた。滑り落ちないように、持てる力を効率よく使い、僕は上った。
 他の道から合流した新たな仲間との出会いは楽しいこともあり、煩わしいこともあった。協力しながら登れば早く進めるが、馴れ合いになってしまうこともあった。結局自分自身しか信頼出来ず、僕は一人で上った。そのほうが、余計なことを考えずに済む。
階段を上ることが僕の使命だ、と思った。

 そして今、僕は疲れ切って、しかし落ちないように階段にしがみついている。いや、もう階段と呼べないほどに急な岩場だ。雨が僕を非難するように打ち付けた。どこに手を伸ばせば良いかわからない。そんな僕の横をぴかぴかの靴を履いた誰かが上ってゆく。覚えたてのクロールで息継ぎをするように空気を肺に入れる。自分の才能の無さを痛感する。どうして僕だけが先に進めないのだろう。情けなくて、みっともなくて、辛くて、吐き気がする。最後の悪あがきとばかりに地面を蹴って岩をつかむ。岩は体重を支えきれずにもろく砕ける。体が空中に浮くのを感じた。手に岩の余韻を感じながら自由落下する。突然、背中に鈍い痛みを感じる。それを契機として僕は階段を転げ落ちる。様々な場所に痛みを感じ、それが麻痺してゆく中で本能的に手を頭にやる。かけていた眼鏡がどこかに消え、視界がぼやける。同時に解放感が襲い、階段が消える。ベッドに片手で置かれる枕のように、肩から足へと時間差で接地し、優しく身体が地面に置かれる。

 目が覚めた。五十分ほど寝ていたようだ。まだ掲示板は人身事故のアナウンスを続けていた。それを見て僕は静かな気持ちになった。
 学校に行かなければならないという謎の使命感に駆られ僕はバスステーションに向かう。これは刷り込みのようなものなのだろうか、と思う。刷り込み、という言葉が引っ掛かり、頭の中でその言葉をしばらく噛み砕く。何故刷り込み、という表現をしたのだろうか。学校に行かなければならない、という思いに対して、普通は常識、という言葉を使うはずだ。自分の意識とは関係の無いところで、ごく当たり前のように思っている、というところが刷り込みと似ているような気がしたのだ。ごく当たり前のように思っている、というのは常識から来る判断だ。「刷り込み」と「常識」は繋がっていそうだな、と思った。
社会が僕らに対して行う刷り込みが常識で、その常識に従って僕は学校に行くのだろう。社会というぼんやりした輪郭に、今日も僕は踊らされているのだろうか。

 外に出ると雨は僕の予想よりはるかに激しく降っていた。雨粒がアスファルトをはじく音だけが響いていた。まるで僕を非難しているようだな、と思った。風当たりが強いな、なんて洒落を考えつつ、屋根のある場所を慎重に進む。
 市内には大雨洪水警報が発令されていた。雨雲レーダーは僕の街の上を赤く染めていた。スマホを見ながら数分待つと、朧げなライトを携えてバスがやってきた。ブザーが鳴り、空気を抜くような音と同時に車体が少し傾きドアが乱暴に開く。僕は整理券を取り、二人掛けのシートの窓側に座る。雨はますます強さを増しているように見えた。ガラスに反射して自分の姿が映る。
 バスに乗ってから重大なことに気付いた。財布の中身を改めて確認する。百円玉が二枚と、十円玉と一円玉が少し。電車では定期を使っているが、それと同じ感覚でバスに乗ってしまったようだ。
 料金が二百円の区間スマホで確認し、泣く泣く途中下車する。ここから六キロは歩かなければならないな、と思った。絶望と共に外に出ると、雨が激しく傘に打ちつける。それと同時に、むせるような匂いが生暖かい空気と共にやってくる。鼻の奥、さらに奥に絡みつく匂い。その匂いは僕の記憶を呼び起こす。

 雨の街を、母と二人で歩いていた。

 実家から家に帰る時は、いつも新幹線と地下鉄を使っていた。新幹線の窓にビルの群れが現れると、僕は自分の生活する場所に帰ってきた、と感じた。二時間半も新幹線に乗っているとさすがに話すことも無くなって、僕はよく、窓を流れる風景を見ていた。
 その日も僕は新幹線に乗るのに飽きて、窓の外を見ていた。窓に自分の姿が二重になって反射する。その日の帰りは夜だった。ただその日はいつもと違って、乗り始めから母と会話をしていなかった。
 新幹線を降り、いったん改札を出る。地下鉄に乗り換えるものと思って帰宅ラッシュの人ごみをくぐっていると、突然母が立ち止まった。同じ顔をした黒い服の人々が、黒いカバンを持って僕らを避けて歩く。
 母は振り返ってこう言った。
「ねえ蓮、歩いて帰らない?」
 正気か、と思った。家まで六キロはある。僕は母に「お金でも無くなった?」と尋ねた。母は首を横に振った。
「運動不足の都会っ子にはいい機会だと思うんだ」
 嫌な予感がしていた。新幹線の乗り始めから母と会話をしていなかったことだ。

 母の実家で、僕はいつものように好きなだけ本を読んでいた。今宵は電気を消されることは無い。その充実感を味わいつつ、本を読み切った。
 次に読む本をカバンから取り出しに、僕は跳ねるように立ち上がった。その時、ふと部屋にある本棚が気になった。
 本棚を見ると、色々な専門書が入っていた。そう言えばこの部屋はもともと母の部屋だったな、と思った。母はこんな本を読んでいたのか、と思いつつ、上に置いてある紙筒が気になり、椅子を使って背伸びしてそれを取った。
 椅子を降りて筒の中を見ると、卒業証書が入っていた。どうやら高校のものらしい。それには誰もが知っている有名私立大学の名前が入っていた。どうやらその付属高校のようだ。僕は、半ば尊敬の目で、その卒業証書を通して母を見た。
 本棚にはもう一本筒が置いてあった。僕は高校の卒業証書を握ったまま椅子に乗り、その筒を取った。いそいそとそれを見ると、中には大学の卒業証書が入っていた。しかし、大学名を見ても見覚えが無い。期待外れの結果にがっかりして後ろに下がる、と同時に僕は椅子から落ちた。
 その音を聞いて母が部屋に入ってくる。僕は証書を隠そうとしたが、間に合わない。母はいったん僕を見、次に高校の証書を見、そして大学の証書を見た。母の顔が厳しくなり、そしてかすかに歪んだ。それを見て僕は全てを把握した。後日談になるが、調べるとその大学は私立だった。Eランク、と出ていた。
 それから駅まで、僕らは会話をせずにいた。それにもかかわらず母は六キロある帰り道を歩こうと言ってきた。絶対に怒られると思った。僕は言い訳を考えながら母の後を付いていった。
 母はビルの光を見ていた。楽しそうに笑っていた。僕はビルの下を走る黒猫を見ていた。黒猫は点になって街に吸い込まれていった。
 黒猫を見送って顔を上げる。ビルの光が一瞬レンズに反射し、そして消える。その過程で僕は、レンズに汚れがあることを知る。右手をズボンのポケットに突っ込む。ハンカチを握り、少しポケットの入り口で手をつかえさせながらそれを取り出す。ポケットが反対になってしまった。軽い苛つきを覚えながらハンカチを左手に持ち替え、右手でまごまごとポケットをなおす。両手を使いなさい、と母の声。
 クリングス下のレンズを拭くのに苦労しながら、ハンカチでレンズをなぞる。その指は地面と平行に流れる。

 父は今、アメリカにいる。
 IT関連の仕事をしているらしいが、詳しいことは知らない。家には一定のお金が入ってくる。僕らはそれで生活をしている。入ってくる額は、あまり多いとは言えないが。
 父は日本の会社に五年ほど勤めてから、アメリカに行った。父は母に「アメリカはどんな人でも受け入れる。だからこそアメリカンドリームがあり、それを守るために世界の警察であり続けるんだ。僕はそんなアメリカで働きたい」と語っていたそうだ。僕の父の記憶は、古いフィルムの映像を見ているみたいに朧げだ。もしかしたら、その姿かたちはアルバムの写真で補完されたものかもしれない。
 母はよく僕が四歳の時の話をする。僕は小さい頃から極度の人見知りだったそうだが、四歳ごろになるとその傾向が顕著に現れ出したそうだ。理由を聞いてみると、皆人形に見えるから、怖いんだ、と返ってきたそうだ。
 僕のフィルムの中では、駅の光景が鮮明に残っている。同じ顔をした、黒い服を着ている、黒いカバンを持った人形たちが、操られているかのように群れを成して蠢く。体中の毛が一斉に立つような、ぞわっとするような感覚。
 そんな僕に、父は眼鏡をプレゼントしたらしい。
「君は守られている。君の目はちょっと特殊だから、普通なら見えないものが見えてしまうんだ。だけどもう大丈夫。この眼鏡は君のピントを普通の人のものに修正してくれるし、君自身を守ってくれるんだ」
母は少し低い声で、父の声をまねていつもそう言う。

 度の入っていない薄っぺらな眼鏡をかけ、ハンカチをポケットにしまい顔を上げると、雨の匂いが僕を囚える。鼻の奥を、さらに奥を刺激する匂い。僕は母に、折り畳み傘はあるか、と尋ねた。母はリュックから傘を取り出し、僕に渡した。リュックを背負いなおす母を見て、素直に、カジュアルなファッションが似合う人だなあ、と思った。
 間もなく雨が降ってきた。アスファルトに雨粒がはじけて吸い込まれてゆく。やがて雨の匂いは消えていった。
 雨の街を、母と二人で歩いていた。
「雨が降った時の独特な匂いに名前があるのを、知っているかい?」
と母が言った。
「ペトリコールのこと?」
と僕は答えた。
「君の年齢でどうしてペトリコールを知っているのかな。将来を考えると末恐ろしいね」
と母は言った。僕は前を向いたまま「本」とぶっきらぼうに言った。母は少し上を向いて、
「じゃあ、ペトリコールのメカニズムは知っているかい?」
と僕に尋ねた。
「植物の油とかが土についてどうとかそんな感じだったと思う。匂い自体はそれに加えて雷によるオゾンだとかとりあえず色々」
「まあそんな感じだったと思う。ようは色々なものが混ざり合ってあの匂いが造られているんだ。それで君は、その知識をどういうことに使うのかな? もしくはそれを覚える意味とか」
 僕は少し黙った。比較するならまだ後者の質問の方が簡単そうだ。何のために僕は知識を増やしているのだろうか。
「知りたい、からかな」
「漠然としているね」
「そういうものだと思うんだけど」
 僕は少し不機嫌そうに言った。母は傘をくるくる回して少し考えた。
「確かに、知りたい、っていうのは大切なことだと思うんだ。だけどいつか君が知りたくなくなったら……例えば高校生になったあたりで、勉強が辛くなったりして、知りたい、って意欲が無くなったら、君は知ることを放棄するのかい?」
 僕はいよいよ不機嫌になって「いいや」と言った。僕の心の中で、二種類の不機嫌になる要素が渦巻いていた。一つは純粋な、もう一つは不純なものだった。わからないことを指摘されている不快感、これが純粋な方だ。そしてもう一つは、母が僕に過去の自分を見ているのではないか、という考えだった。
「君は知りたい、っていう純粋な気持ちだけで動いているけれど、そうじゃない力にもまた動かされているわけだ。動かされている、っていうのは気持ちのいいものじゃない。だから動かされている人間は不満を感じるわけだ。自分の人生を生かされている、ってことにね。
 今君は、純粋な気持ちの方が強いからしんどさを感じないかもしれないけど、いずれその純粋な気持ちは消えるはずだ。空っぽの箱に吸い込まれるように。後に残るのは動かされている自分だけだ。君は頭がいいから疑問を感じるはずだ。そして動かされることさえ放棄するかもしれない。言い換えるならば知ることの放棄だね。その時君は錯覚しているはずなんだ。その道は自分で選んだ、と。実際は動かされているから放棄しようとしているのにね。
 そうならないために君は君自身が持つ純粋な気持ちを固定することを考えなくちゃいけない。純粋な気持ちはとても美しいものだけれども、すぐに壊れてしまうものなんだ。自分の気持ちを分析するんだよ。そしてその気持ちを風化させない理論を創るんだ。それが君の知識を得る意味になるんだ。そしてそこから知識を何に使うかを導き出せると思うんだ。目的や理論を持たないまま生きるのは終わりの無い階段を歩いているようなものだよ」
母はこれだけのことを一気に話した。それは遺書を読み上げているようでもあった。
 一方、僕は、母に対する嫌悪感を強くしていた。母は母自身の甘えを綺麗に昇華して、高尚な理論にしているのではないか。そして厚かましくもそれを以て僕の生き方に意見しようとしているのではないか。僕はそんな道は辿らないはずだ。平たく言えば、一緒にするな、と思った。僕はこの話を早く切り上げようと、適当なことを言った。
「終わりの無い怪談は、確かに怖いね」
 それを聞いて、母は二秒ほど考えて、言った。
「私のような人にしかわからないことがあるんだ。そこは真摯に受け止めてほしい。
 そして、終わりの無い怪談は、確かに怖いね」

 小さい頃の六キロはとても長かった記憶があるが、高校生になるとさほど長くないように感じた。小さい頃と今では、見える景色が違うんだな、と思った。学校までのこり一キロほどになった。
 僕はニュースを見るためにスマホを開く。見出しだけが並んだネットニュースを流し読みする。大雨のニュースや児童二人が失踪したニュース。相変わらず大国の大統領はSNSで炎上していた。僕はそれを他人事のようにスワイプしてスマホを閉じる。学校に着いた。

 学校には同じ顔をした人形が並べられていた。のっぺりとした蝋人形のような顔。黒い制服。それを閉じ込める箱のような教室。僕は半ば確信的な気持ちで眼鏡を外し、その箱を見渡した。そこには何も無かった。ただ、空き地が広がっていた。

 雨が激しく降っていた。苔の感触を手に感じた。立ち上る香り――鼻の奥を、さらに奥を刺激する――ペトリコール。
 森が現れる。美しく深い緑。ノイズのように見えるのは雨だ。いや、ノイズという表現は適当か? 雨が森を造っている、つまり雨がこの景色を造っているのだ。立ち上がり、もう一度世界を見る。憂鬱な雨もこの景色の一部であるということを僕は理解する。雨が、生まれて初めて美しく見えた。ここから僕の、この世界の上書きが始まるのだろう、と予感した。
 足元に奇妙なものがあった。苔の上にある、枯れかけた葉のようなくすんだ色のジャケット――僕の血で幾分赤く染まってしまってはいるが――拾い上げると、見覚えがあった。
 ミリタリージャケット――軍服だ。サリサリとした麻の感触。教科書で見たことのある、国防色をした日本の軍服。目の前に掲げてみる。森の深緑を背景とし、緑がかった茶色のジャケットの縁を、赤い血を絡めた雨の雫が伝い、滴る。やぶれた隙間から、光が淡く漏れる。
 僕はそれを、美しいと思った。
 しばらく僕は、そこにミリタリージャケットがある意味を考えた。自分の頭で、理論を構築する。世界を創る仲間の声が聞こえた。
 創造された世界を見渡して、浮かんだ考えを少しずつ頭にしみこませる。この世界を造る一人から、この世界を創る一人になる。再びやぶれてしまわないように、慎重にミリタリージャケットを着る。
 物語を終わらせ、僕自身の世界を創るんだ。

 目が醒めた。

2 破綻

 新幹線が静かに街を駆け抜ける。窓の外、流れる風景を眺めながら、僕は京都で受験した頃のことを思い出していた。

 高校受験を終え、僕と、付き添いの母は、新幹線に乗り山梨へと向かっていた。「試験の手ごたえは?」「んーまずまずかな」なんて会話をしながら。
「織には感謝しているからね、織のおかげで、問題がおおかた解決する。皆が幸せになる。京都のおばあちゃんの面倒を見ることが出来るし、転勤をしないで済む。それに、山梨にいるよりも、京都にいる方が、明らかに織にとってチャンスが多い。織は家族の問題を解決しただけでなく、自分自身の運命まで変えてしまった。すごいよ、織は」
「もう受かったみたいに言わないでよ」
「いや、織はきっと受かってる。お母さん、そんな気がする」
 母は笑った。僕はそんな母の無責任さが嫌いだった。

 名古屋駅につき、「ワイドビューしなの」に乗り換え、塩尻駅に着いたのが午後の五時。そこから「スーパーあずさ」に乗り換え、甲府駅に着いた頃には、辺りは薄暗くなり、時計の針は午後六時を回っていた。

 山梨は一年ぶりだった。父とは数か月に一回ほど会っていたが、その場所はいつも京都であった。冷え込みは京都より厳しかった。そうか、僕は山梨の寒さを忘れていたのだな、と思った。
 お金が無かったのでネカフェを探す。調べてみると、駅近くにネカフェは無かった。最寄りのネカフェは郊外の昭和町にあるらしい。それ、マジで言ってます?
 ネカフェに行くためにバスを待つ。甲府駅のバスターミナルは、京都駅のそれとは比べ物にならないほどこじんまりとしているが、帰宅ラッシュと重なっているからか、それなりの賑わいを見せていた。バスがターミナルに着く。プシュー、と音を立ててドアが開く。僕は順番を待ってバスに乗り込み、整理券をとる。ドアが乱暴に閉まり、車掌が「発進しまーす」と無気力な声を出せば、バスは気だるげにエンジンを鳴らす。信号・並木道・停留所――止まっては進み、進んでは止まり、バスは甲府駅から遠ざかってゆく。ビルも立ち枯れる黄昏の街。物悲しい雰囲気に誘われて、僕は束の間 感傷に浸る。「ハリボテの街」――何故か口をついて出たこの言葉は、しかし「甲府」という街を忠実に表している気がした。都道府県庁所在地の中で人口最下位。立ち並ぶビルの多くは空きビルと聞く。
 バスは駅前のビル街を抜け郊外へと向かう。山の向こうの明かりは消え、暗澹とした街に街灯はまばらである。そういえば、山梨県は空き家率が日本一らしい。停留所と停留所の間隔が広くなり、バスは加速する。
 甲府駅前が廃れているのには、人口減少のほかに、今まさに僕が行こうとしている「昭和町」の存在がある。甲府の中心街から見て南西に位置する小さな町で、平成の大合併において、どことも合併しなかった町でもある――つまり、お金を持っている。釜無工業団地が町に対して多くの恩恵を与えていることはもとより、昭和町には県内唯一のイオンモールと県内唯一のイトーヨーカドーがあるため、休日になると、ほとんどの山梨県民は昭和町に行くため、町の財政が潤わないわけがない。最近、イオンモールの規模が拡大したらしく、山梨から東京に行った友人が「ぶっちゃけ東京にいるよりイオンにいる方が便利なんじゃね?」と言っていた。確かに、店内には映画館から眼科まであると聞くし、ある意味それは当たっているのかもしれない。ともかく、甲府が廃れるのも無理はない。


 バスを降り、数分歩きネカフェに着く。会員登録で住所等を書く時は、一応 警察に追われている身として一抹の不安があったが、意外なほどにすんなりと手続きは通り、僕は提示されたプランの中から必要最低限のものを選び、その分のお金を払った。
 入室すると、狭い部屋に白いシートが置いてあり、それが目を引く。汚れが目立ちそうなものなのにな……なんて思いつつ、僕はこの部屋で夜を過ごすということに、少しの高揚感のようなものを覚えていた。まるで秘密基地を手に入れたかのような――さしずめ、受付で渡された、パソコンへのログインIDやパスワードは、秘密基地でいうところの「合言葉」といった所だろうか。

 スマホを充電しようとして、充電器を持ってきていないことに気付いた。そういえば、忘れがちであるが、僕は家を衝動的に飛び出してきたのだ。部屋を出て、フロントで一時退出の許可を得る。

 外に出ると、オレンジ色の街灯が街を静かに照らしていた。人はほとんど歩いておらず、代わりに車が音を立てて走っていた。僕は横断歩道の前に立ち、ぼんやりとそれを見ていた。
 信号が青になり、僕は横で信号を待っていた車と平行に歩き出す。横にいた車は加速して、後続車に被さるようにして見えなくなっていった。
 街には車の音のみが響いていた。人が織り成す騒めきのようなものが、この街には一切 無かった。底無しの沼のように空が広がり、車の音はそこに虚しく響くのみだった。僕は唐突に、あの夜――京都の住宅街で感じた空虚を、この山梨で追体験したような気分になった。「包まれたい、抱きしめられたい、繋ぎ止められたい」――山梨の、この底無し沼のような空に対して、僕はあまりに無防備であった。そしてそんな僕を守ってくれる人は、ついには誰一人としていなくなってしまったのだ! 僕はその肝心かなめの重大な事実について、今更 気付いてしまった。


 コンビニでスマホの充電器と食べ物を買い、ネカフェに戻る。先程「秘密基地」と形容したその部屋は、僕にとって魅力のない何者かに成り下がってしまった気がした。ログインIDとパスワードは「合言葉」になり得るはずもなかった。何故なら、合言葉とは、複数人いて初めて成立するものなのだから――しかし何故か、それを入力する時、僕は一縷の望みのようなものをそれに託していた。そしてまた、それが何に対する望みであるのかわからないでもいた。
 ネットに接続し、Twitterのページを開く。Twitter IDを入力し、パスワードを欄に入れて、ログインしようとした時、はたと一つの考えが頭をよぎり、僕は先にスマホアプリでTwitterを開いた。
 ――やはり。僕の考えは現実のものとなっていた。アカウントが凍結されていたのだ。
「マジか」
 「ふぁぶ」フォロワーの話題を拾うためには、一つ一つアカウントを検索してゆかねばならぬし、何より、鍵垢が見られない。ならば、新しいアカウントを取得すれば? 捨てアドでアカウントを取得してみようとしたが、上手くいかない。仕方ないので、フォロワーのアカウントを検索する。検索窓に何を入れるか、少し迷った後、僕はキーボードで入力を始めた。
"いとたそ。"

 表示されたアカウントを選び、クリックする。ツイートの一覧が表示され、僕はそれを昨日まで遡り、そこからツイートを読み始める。

♻︎いとたそ。さんがリツイート
山梨のやりまん @l_u4y・5時間
山梨のエロい情報や
やりちん、やりまんを
広めていきます!
山梨のやりまん: いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i
💬0 ♻︎6 ♡3

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・5時間
は?まぢありえないんだけど?
>RT
💬0 ♻︎2 ♡5

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・5時間
お前に何がわかるっつーんだよ
まぢで氏ねや卍
💬0 ♻︎0 ♡5

♻︎いとたそ。さんがリツイート
サイマジョ @s1mcj・18時間
今日もメンヘラは国民の血税を吸い尽くす😇
生活保護を受給している旨が書かれたTwitterのプロフィールと、その人がアップしたリストカットのツイートを合わせた画像が四枚〉
💬368 ♻︎2.3万 ♡1.5万

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・1時間
明日自殺しまーす卍卍卍
💬2 ♻︎8 ♡5

いとたそ。 @bOxpshcisYzjc62i・1時間
自殺前に、フォロワーさんとのオフ会をしたいと思いまーす😆
明日の十時半 富岳風穴売店のソフトクリーム屋の前で集合!
富岳風穴売店の画像〉
💬2 ♻︎9 ♡5

 僕はツイートを読んだ後、えも言われぬ感情に襲われた。過去に会ったことのある人が、今まさに命を捨てようとしている。その事実が、何故だか現実味を持ったものとして受け止められない。それはまるで不幸な殺人事件を、テレビ画面越しにニュースで見ているかのような――その時気付いた。僕が画面を通して知ることが出来るのは、どこか遠くの、他人の出来事なのだ。僕はその他人と手を繋ぐことが出来ない。他人も僕と手を繋ぐことが出来ない。そこにどれほどの悲しみがあろうと、憎しみがあろうと、僕らはそれをどこか遠くの他人事として受け止めるしかないのだ。――そう思った時、唐突に空虚な感情に襲われた。僕はこの世界のどこかにいる、「らいたあ」や「ヒューズ」、「FH3」、「@ajfnxSIk_2lxL」、「あしすと」、その他 飛行機界隈のメンバー、そして「いとたそ」に思いを馳せた。しばらくそうした後、僕はトイレにスマホを沈めた。その後、PCで少し調べものをしてから、僕は早々と白いシートに背中を預けて寝た。

 翌日、僕はネカフェ最寄りの国母駅から始発に乗り込み甲府駅に向かった。駅に着き、近くのコンビニでカロリーメイトと水を幾らか買い、また朝ご飯用にパンを買った。朝食をとってから、七時二十三分の高速バスに乗り込む。一度の乗り換えを経て、九時四十分に河口湖駅前のバス停に着く。凍えるような寒さの下、コートを着つつバスを待ち、九時五十八分、本栖湖行きのバスに乗る。「次は、風穴、風穴――」車内に流れるアナウンスを聞き、それから僕はボタンを押す。「次、止まります。お降りのお客様は――」バスが停車し、運賃箱にお金を入れて外に出る。
 「富岳風穴」と書かれた大きな看板が目に入る。それなりに広い駐車場があり、その奥に木でできた建物がある。白のクリームに黄色のコーンの、よくあるソフトクリームの模型が置いてあり、それにもたれかかるように一人の女子が立っていた。僕は確かな足取りでそれに近づき、声をかけた。
「お久しぶり、狭山さん」


 富岳風穴は青木が原樹海にある風穴で、観光地の一つである。富士山の噴火に伴って出た溶岩の中に形成されたトンネルの一部が残ったもので、風穴内は夏でも零度ほどであるため、避暑地として人気がある。
 しかしながら、自殺志願者の間では、富岳風穴自体よりむしろ、その横にある遊歩道が有名である。というのも、その遊歩道から一歩道を逸らせば、そこに広がるのは一面の樹海であり、一人で朽ちることを望む自殺志願者にとって、格好の自殺の場となるからである。それ故、青木が原樹海は自殺の名所であり、ここで自殺する人の多くは、富岳風穴横の遊歩道から樹海に侵入する。

 「お久しぶり、狭山さん」――声を聞き、糸は一瞬ビクン、と体を震わせ、そしてこちらを恐る恐る伺った。糸の目は信じられないほど真ん丸に見開かれており、またほとんど状況を呑み込めていない様子であった。
「僕のこと、覚えてる?」
 その言葉で我に返ったのだろうか、糸は小さな声で
「……高橋君?」
と口にした。
 糸はさっぱりとした服装で、着飾っている、という印象は無かった。Twitterで糸の派手な生活を知っていたので、僕にとっては、少し意外であった。特筆すべきは背負っているリュックサックの大きさである――相対的に糸の華奢な体が強調されていた――中に自殺用の縄が入っているのだろうか、などと想像して、僕はなんとなく暗鬱な気分になった。
「どうしてここに来たの」
 今度は僕が困る番だった。僕は何故ここに来たのだろう。ここに至るまでに起きた出来事を考えると、理由は様々ある気がしたが、一方で核心的な部分――どういう思いを持ってここに来たのか、という部分においては、理由など何も無いような気がしていた。
「何故だかわからない」
 僕が素直にこう口にすると、糸は訝しんだ様子でこちらを見た。
「冷やかしなら、帰って」
「冷やかしなんかじゃ――」
 僕はとっさに出た言葉を呑み込み、次の句を考えた。
「疲れたんだ、人生に」
 零れ落ちた言葉は自分でも予想外のもので――しかし僕は僕自身の感情を正確に伝えられたと思った。
「時々こんな妄想に駆られるんだ。周りには人も、物も、高さも、奥行きも、何も無くて、僕はそんな世界をただひたすら歩いている。どうして歩いているのかすらわからなくて、それでも歩いている意味を考え続けている。そこに意味など無いのかもしれない、と薄々勘づきながら、歩き続けたなら歩き続ける意味が見つかるのではないか、手掛かりくらいなら現れるのではないか、なんて思いながら歩き続けることしか出来ない」
 糸は静かにこちらを見据えて口を開いた。
「それで、高橋君は歩き続けるのに疲れた、と」
 僕は頷いた。
 その時、予想外の方向から声が上がった。
「はあ~~~~~~っ、きっっっっっっっっっっっっっっっっっも!」
 そう言いながら一人の女子が近づいてきた。
「とっとと死んじゃえよ! あ~もう何かキモ過ぎてゾワゾワしてきた」
 そして僕らを指さす。
「お前らみたいなの、とっとと死んじゃったほうが社会のためだよ。私たちのために死なせてあげるから御託並べてないで早いとこ首吊って死んじゃえよ空気を汚すな蛆虫」
 僕は突然登場した彼女に面食らいながら、中一の頃を思い出していた。清水知央ちお――彼女は僕をいじめたグループの二番手だった。
「織~~~、お久しぶり~~~。都会の生活に疲れて首吊りですかあ~~~、ざまあねえなあ~~~」
 中学生の頃から見るとずいぶん垢抜けたが、吊り上った目が昔の面影を残しているな、と近づく知央を見てぼんやりと思った。確かに「人生に疲れた」とは言ったが、首吊りをしようと決めているわけじゃないんだけどなあ、と僕は苦笑いする。
「その笑い方。相変わらずキモいなあ織は。もっとちゃんと指導、、するべきだったよ、ごめんねえ、織ちゃん」
 そう言って知央は指で僕の頬をなぞる。吊り上った目が、まるで獲物を見る猛禽類のように僕を捉える。
 ゴッ、と鈍い音がして、知央の指が僕の頬を離れる。糸が知央を足蹴にしたのだ。地面に倒れた知央は糸を見て言った。
「何すんだよ落ちこぼれの不良女!」
 糸は知央に近づき、何かを拾った。
「こういうことするためにここに来たのね、お疲れ様」
 彼女の手にはICレコーダーが握られていた。
「っ返せよ!」
 ICレコーダーを見た知央はわかりやすく動揺した。
「取り返してみなよ、ほら」
 ICレコーダーを掲げて糸は言った。知央はそれにとびかかった。糸はその鳩尾に的確な蹴りを入れた。折れ曲がる知央の体。間髪入れずに糸は倒れ込んだ知央を踏みつけた。繰り返し、繰り返し。
「糸! やめろって!」
 僕は後ろから糸を羽交い絞めにした。
「離せよ!」
 ほとんど絶叫に近いその声を聞いた時、初めて僕は糸が泣いていることに気付いた。静かに嗚咽が響くのを、僕はただ黙って聞くことしか出来なかった。知央はその場に固まっていた。緑色の服を着た警備員がこちらに駆けてくるのが見えた。
「大丈夫ですか、何かありましたか」
 知央はうつむいて喋ることを拒否した。糸は肩を震わせて溢れ出る感情を抑えていた。僕は「大丈夫です、何でもありません」と呟いた。
「そうですか、何かありましたらお声がけ下さいね」
 警備員がそう言って戻ってゆくのを僕はぼんやりと見ていた。知央はぎこちなく体を起こし、その場を立ち去った。僕は糸の羽交い絞めを解いた。糸は支えを失い、その場に崩れ落ちた。僕はその小さな背中に言葉を投げかけた。
「行こっか、樹海」


 青木ヶ原樹海はバスで通ってきた国道139号線の南に広がっており、富岳風穴はその樹海の中にある。風穴に至る道は整備が行き届いており、人気も多いため、自殺者を多く呑み込んできたという背景は微塵も感じられない。それに付随する遊歩道もまた然りであるが、樹海の奥へ入ってゆくごとに、人気が無くなり、やがて本性、、が現れる。
「そう言えばさ、何で知央はICレコーダーを持っていたんだ? 何がしたかったのだろう」
 遊歩道の道が狭くなるにつれて糸は平静を取り戻していったが、その分 気まずい沈黙が際立つようになってきた。僕は半分答えの見当がついているものの、彼女に問いを投げずにはいられなかった。
「あいつ、新聞記者になりたいんだって」
 糸から返ってきた答えは想定していた答えとは全く別の角度からのものであった。
「え、そうなのか」
 僕は素っ頓狂な声を上げた。
「だから記者の真似事をするためにICレコーダーを持って行ったんじゃないかな。それで自分のアフィブログにでも上げるつもりだったんでしょ」
 糸の答えは僕の想像の遥か上を行っていた。何とも恐ろしい時代になったものだ。
「権力監視機能をジャーナリズムの重要な要素だと考えると、知央の社会的弱者をあげつらうような態度はジャーナリズムらしくない気がするんだけどな……」
 僕は呟いた。加えて、素朴な疑問が湧いた。
「……知央はどこの新聞社に入りたいんだろう」
産経新聞って言ってた気がするよ」
 糸は素知らぬ顔で言った。

 樹海は雑然とした雰囲気を増し、道はますます幽々としてきた。遊歩道には「命を大切に」といった趣旨の看板がそこらじゅうに立てられ、それがこの樹海の特殊性を際立たせていた。
「そろそろ、」
 糸がそう言い出した時、僕は複雑な感情に襲われていた。それは予想だにしない言葉が来たからでは無かった。むしろ、その言葉がいつ来るのかと、僕はずっと待ち構えていた。そして、それでいながら僕は覚悟を決めること、、、、、、、、を保留にしていたのだ。
 糸が遊歩道から樹海の中へと踏み出した時、僕はどうしていいかわからなくなった。糸がこちらを振り返る。僕の目は宙を泳ぐ。その時、視界を人影がよぎった。目を凝らしてみると、はるか遠くにいる、豆粒のような人を視認することが出来た。心臓がトクン、と鳴ったのが分かった。次の瞬間、どこから現れたのか人影は二つになり、影が重なり、刹那、一つの影が地面に崩れ落ちた。それがトリガーとなった、、、、、、、、、、、。僕は樹海へと足を踏み入れ、糸に鋭く囁いた。
「逃げろッ!」
 糸は状況が呑み込めないといった様子だったが、僕の様子を察してか、すぐに走り出した。足場は最悪だった。しかし何故か転ぶことは無かった。頭が冴え冴えとして、例えばトレイルランなどしたことも無いにもかかわらず、滑りやすい場所や木の根などが手に取るように分かった。しばらく走ると大きな窪地が現れた。僕と糸はそこで身を潜めた。恐る恐る外を見ると、辺りに人影は無かった。それを確認すると、糸がどういうことなのかと尋ねてきたので、僕は二つの人影の話をした。殺人が起きていたのではないか? と。
 糸はそれを一笑に付した。ここをどこだと思っているの? 心中でもしていたんじゃないの? と。成程、言われてみればそうか、と妙に腑に落ちた。なんだか笑えてきた。それで納得出来てしまうような世界に、今 僕はいる。胸の奥が苦しくなるような心地がしながら、それでも僕は笑いを抑えられなかった。少し涙が出そうになって、慌てて目を伏せた。
「私ね、死にたくないの」
 唐突に糸は呟いた。「絶対に死にたくない。死ぬなんてそんなの無理」――糸は繰り返し呟いた。
「――でもね、それ以上に死にたいの」
 糸は空を見上げて言った。彼女の言説は明らかな矛盾を孕んでいた。それでも僕は彼女に倣い、空を見上げ、涙が零れないようにして言った。
「うん。僕もだよ」


 「私ね、『自殺にふさわしいところ』で死にたいの」
 感情の波をやり過ごし、その後に来る心地よい静けさ――それは諦観にも似ている――にも飽き始めた頃、糸はそう切り出した。
「『自殺にふさわしいところ』?」
 僕は続きを促した。
「私、自分の死体が一番綺麗に見える場所で死にたいの」
「どうして? 死んだら一緒だろう?」
 僕は頭に浮かんだ質問を糸に投げかけた。「どうして?」の対象は「死ぬこと」では無かった。
「私って、醜いもので出来ているの。私を形作ってきた全てのものが醜いの。だから、最後くらい綺麗なものにしたいの」
「そうなんだ」
 僕は、そんなことないよ、とフォローすることをしなかった。フォローすることが、無責任なことに思えたのだ。
「だから、『自殺にふさわしいところ』を探しに、一通りこの森を歩きたいと思っているんだ」
 糸はそう言ってこちらを向いた。髪が揺れる。その隙間から光が漏れる。
「じゃあ、探そうか、『自殺にふさわしいところ』」
 僕はそう言ってコンビニの袋を持った。美都もリュックを持ち、立ち上がった。
 僕らの『自殺にふさわしいところ』探しが始まった。


 青木ヶ原樹海は比較的若い森だ。八六四年の貞観大噴火によって流れ出た大量の溶岩の上に成り立っている。溶岩質の土壌は、養分を豊富に貯えてはいるものの、化学的な作用によってその養分を容易に開放しないため、痩せた土地と見なされ、本来なら落葉広葉樹が育つべきところであるが、実際は針葉樹が発達している。歩いていると、どこか殺伐とした印象を受けるのは、それもあってのことなのだろうか。
 歩いても歩いても、そこには森が広がっていた。起伏の少ない土地に、延々と広がる木々の群れ。もしかしたら僕らは同じところを堂々巡りしているのではないか? そんな疑念が頭をよぎる。僕は急に恐ろしくなった。もう僕は、一生この森から出られないのだ――そのことを実感した。いや、出口はある――僕は糸の大きなリュックを見た。その時、唐突に思いついた。何も変わっちゃいないんだ、と。別にこの森に限ったことではない。僕らには、出口は一つしか用意されていないのだ、はじめから。僕は流動的な街の喧騒を思い出していた。あれは目隠しだったんだ。この僕らの置かれている、どうしようもない現実をごまかすための。例えば河原町のような刺激的な世界を仮に構築することで、僕らはそこに何かを見出そうとしていたのだ。僕は無限に広がるこの森の中で、今、自分が生きていることを実感し始めていた。


 ここにいると、時間の流れが分からなくなる。いつもなら、一日のスケジュールはある程度決まっていて、それに従って動けば時間の流れを実感できる。しかしこの森にいると、歩いても歩いても同じ景色が現れるのみで、本当に時間が流れているのか? という疑念すら頭に浮かんでくる。そういえば、時間とは相対的なものだったな、と僕は思い出した。
 そんな中、僕は少しだけ景色に変化を見出し始めていた。影の長さ――日が傾きつつあるのだ。僕は糸の方を見た。糸も同じ確信をしていたのか、小さくうなずいた。
「動物に襲われたら困るから、焚火をしたいところだね」
 僕は糸に言った。
「ライターなら持ってるけど」
 糸はそう言ってポケットからライターを取り出した。僕はなぜそれを持っているのか問おうとしたが、それを問うのは野暮な気がしてやめた。
「松の枝とか松ぼっくりとかを着火剤にすれば火が点きそうだ」
 僕はそう呟いて枝を拾い始めた。糸もそれに倣い枝を拾い始めた。僕はそれを見て、大きめのものを選んで拾うことにした。陽の光が赤く染まる頃には、それらは小高い山のように積み上がった。

 始めは上手く火を広げることが出来なかったが、試行錯誤の末、煌々とした焚火を得る事が出来た。いったんきっかけを掴んでしまえば、後は何を放り込んでもメラメラと燃えた。
「意外と上手くいったね」
 糸は関心なさげに言った。
「もう周りは真っ暗になっちゃったけどね」
 僕は辺りを見渡して言った。墨を塗りこめたような景色の中で、焚火だけが不自然に明るかった。僕らはパチパチと音を立てる焚火に向かうようにして座った。
「食べ物、持ってる?」
 僕は糸にカロリーメイトを見せつつ言った。
「ううん」
 糸はそれから目をそらして言った。
「食べなよ」
 僕は一ブロックを糸に差し出した。糸はそれを黙って受け取った。僕はもう一ブロックを箱から取り出し、いったんその箱を置いた。
「美味しい」
 糸は呟いた。


 焚火はパチパチと音を立てつづけ、僕らはそれをただ見ていた。手持ち無沙汰な空気の中で、僕らは互いの様子を窺っていた。唐突に、糸がポケットをガサゴソと漁り始めた。
「高橋君ってさ、タバコ、吸ったことある?」
 糸はそう言ってタバコを一本 差し出した。
「無い」
 僕は糸からそれを受け取った。糸はライターで火を起こし、僕に差し出した。僕はタバコの向きを確認してから、そのままライターの火に近づけた。まるでE.T.みたいだ。
「それじゃあ火、点かないよ」
 糸は平坦な声で言った。
「タバコを咥えて、息を吸いながらやらないと、点かない」
 僕は言われるがままに火にタバコを寄せた。体を糸に寄せる形となり、僕らの距離はギリギリまで近づいた。
「ゲホッ、ゲホッ」
 僕は煙を肺に入れた瞬間 激しく咳き込んだ。目の前が真っ白になった。糸は「ごめんごめん」と言って背中をさすった。「一気に吸い込んだらダメ。ゆっくりと、少しずつ」
 落ち着いてから僕はもう一度タバコを吸った。やはり咳き込んだが、さっきよりは幾分マシになった。何回かそれを繰り返し、まともに吸えるようになった頃には、タバコは短くなっていた。僕はそれを焚火の中に放り込んだ。「よくこんなもん吸えるね」
「吸ってると、落ち着くの」
 糸は簡潔にそう言って、タバコに火を点けた。口から白い煙が漏れる。それは、焚火に照らされた顔や、背景の真っ暗な森と調和して、一つの美を形作っていた。
「狭山さん、タバコ似合うね」
 僕は素直にそう言った。
「醜いものには、醜いものが似合うってことだよ」
 糸はそう言って煙をふうっと吐きだした。それから、タバコを焚火に放った。
「高橋君はさ、綺麗だから」
 糸はそう言って焚火を見つめた。黒い瞳にオレンジ色の炎が反射する。僕は「だから」の続きを待っていたが、糸はそれを言わず、リュックからお酒を取り出した。
「醜いついでに。ぬるくなって美味しくないかもしれないけど」
 僕は二本出された缶のうち一本を持った。
「ゆっくり飲むことをお勧めする」
 糸はそう言って、缶を空気を漏らしつつ開けた。僕もそれに倣い、内容物が吹き出さないように気を付けながらそれを開けた。口に含むようにして飲むと、えもいわれぬ苦味が広がった。
「凄い顔してるよ」
 糸はそう呟いて、少しだけ表情を崩した。僕はもう一口、今度は少し多めに飲んだ。相変わらずの苦さであったが、意外と美味しいかもしれない、と思った。そのままの流れでもう一口。お酒に対する抵抗感はかなり少なくなっていた。これはイケるぞ、と思いもう一口飲むか飲まんかという所で、急に意識が揺らめくような感覚に襲われた。何だ? と思う暇もなく急速に思考速度が落ち、宙に浮くような感覚を味わった。視界はボヤけ、顔がカーッと熱くなった。あ、マズい――そう思うと同時に、揺らめきの第二波が来て、僕の意識は完全にもっていかれた。

 朝起きると、糸の顔がそこにあったので驚いた。糸は僕が目を開いたとわかると、急に辺りを見渡してから、また僕に向き直って言った。
「昨日はごめんね」
 僕は少しずつ昨日の夜の記憶を取り戻していった。それから、ゆっくりと声を出した。
「いや……あれは僕が悪いよ」
 軽く頭が痛かった。回転も少し遅いように思えた。
「今何時なんだろう」
 僕はふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
「多分、十時とか、十一時とか、その辺」
 糸は空を見て言った。
「しばらくしたら、また歩き出そうか」
 僕は糸に提案した。糸は黙って焚き木の処理をし始めた。火はすでに消えていた。


 「どうも! 凄い偶然ですねえ、こんなところで人に出会えるなんて」
 そう言われたのは歩き始めてしばらく経った頃である。五十、六十くらいのおじさんだ。
「どうも。ここら辺って、入っちゃいけないんでしょ? 世界遺産とか、国立公園とか、その辺の関係で」
 糸は不愛想に話した。おじさんは笑った。
「いやあ、あなたたちもそうでしょう」
 おじさんは首から一眼レフを下げていた。装備はしっかりしており、樹海慣れしている様子だった。
「良いカメラですね」
 僕はおじさんに言った。おじさんはにこやかな顔でカメラを持った。
「樹海は綺麗なんでね、相応のもので写したいじゃないですか」
「そうですかね、僕には殺伐としているように思える」
 僕は少しだけおじさんに反発した。
「なるほど、それもそうかもしれない。この森は少し特殊ですものね」
 そう言っておじさんは、この広い樹海の中で、わざわざ身を寄せて、小さな声で僕らに囁いた。
「それで、あなたたちはどんなのが好みなんですか」
「どんなの、とは」
 おじさんはハハハッ、と軽く笑った。「冗談がお上手で」
 僕は困ったように笑い、糸は黙っておじさんを見ていた。おじさんは僕らを見て言った。
「死体ですよ、死体」

 「樹海の美しさと死体の醜さ。そのコントラストには身が悶えるような思いがします。その感動を写真にして閉じ込める。それこそが私のライフワークです。それは抹茶と茶菓子のようなものかもしれませんね。どちらか一方でも充分味わい深いものですが、やはり二つが合わさってこそですよ」
 おじさんはそう言ってニコリと笑った。そして続けた。
「さっき、良い死体があったんですよ、見ますか?」
 おじさんは一眼レフを首から外し、画像を表示させた。
 そこにはかなり新しい死体があった。体はずたずたに引き裂かれ、赤黒い肉が露わになっていた。
「珍しいですよ、こんな死体。普通は骨しか見つからないものなんですけどね。これは肉体がしっかりと残っている。まだ死んで間もないということです。そして何よりこの死体の状況。他殺以外にありえないですよね。まだそこら辺にこれをやった人がいると考えると、身震いがします」
 おじさんはそう言って嬉しそうに体を抱えた。糸はそれを静観していた。僕は何といえばいいのかわからず、ただ黙っていた。
「いやあ、私はこの樹海にいる以上、当然自殺の死体目当てでいるわけなんですけど、こういう死体もたまには刺激的でいいですね。数年に一度くらいこういう死体を見かけるんですよ。私はいろんなところからここに侵入しているわけですから、実際はもっと他殺件数は多いかもしれませんね」
 おじさんはべらべらと喋った。そして思いついたように言った。
「あ、写真撮りません? お若いお二人の瑞々しさもまた、この樹海に映えそうです」
 僕らは言われるがままに写真を撮られた。「いい感じですよ」そう言って見せられた写真は、成程とても美しかった。


 しばらく歩くと、変わり映えの無い景色にあって不自然なほど大きな木に出くわした。僕は糸の方を見た。糸も僕の方を見た。
「ピッタリかもね」
「うん」
 僕らはその大木の前に立ち止まった。その木は高く、太かった。僕はそこにぶら下がる糸の姿を想像した。
「ひとまずさ、今日はここに泊まろうか」
 僕は糸に提案した。糸はそれに頷いた。

 昨日より手際よく焚火を作ることが出来、僕らは夕日に輝く大木を見ていた。
「なんだか、今は死にたい気分じゃ無い」
 糸は言った。確かに、この景色を前にして死にたいと思う人は少ないだろう。糸は夕日をひとしきり見た後、視線を落として言った。
「それに、あのおじさんに雰囲気をぶち壊されたから」
 糸はそう言って、リュックのチャックを開き、何かを取り出した。
「魔法の紙片」
 糸はそう言っていたずらっぽく笑った。

 「これを口に含むとね、この世の真相が見える気がするんだよ」
 糸は言った。僕はなんとなく不穏な気配を感じ取っていた。
「なんだかさ、やるせないよ、あのクソジジイ、何もわかっちゃいねえや」
 糸は投げやりにそう言った。僕はそれに共感した。彼は僕らの人生をあたかもコンテンツ消費するかのように扱っている。人の死体に勝手に自分のエモーションをあてがい、それに満足している。
 糸は小さく加工された紙片を舌の上に乗せた。夕日は急速にその勢いを落とし、辺りは焚火の光のみになりつつあった。急に糸は泣き始めた。僕はどうしたらよいのかわからなくなった。そこに糸が倒れ込んできた。ちょうど膝枕のような形になった。糸は仰向けになり、泣いたまま、うへへ、と笑った。
「せつないよお」
 涙はとめどなく溢れ、糸の黒髪を濡らしていた。「どうしてこうなっちゃったんだよお」糸は紙片を舌にのせたまま、不明瞭な声で呻いた。
「キスして」
 糸は手を伸ばして言った。僕は少し戸惑った。それは紙片のせいでもあったが、あるツイートを思い出していたからでもあった。

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 「いけないよ、こういうこと」
 僕は糸を引き離して言った。糸は目を見開き、それから体を起こした。涙は相変わらず止めどなく溢れていた。
「織君はさ、綺麗だから――」糸は再びその言葉を呟いた。
「――綺麗だから、汚したくなる……」
 糸の唇が触れた。

 ファーストキスだった。視界が眩めくような気がしたのは、柔らかな糸の唇のせいなのか、それとも魔法の紙片のせいなのか。意識さえ奪われるようなとろける感覚に、僕は完全に理性を失っていた。しかしながらそれと対照的に、頭はいやに冷静だった。「これを口に含むとね、この世の真相が見える気がするんだよ」と糸が言ったのだから、きっとこれは魔法の紙片の効能なのだろう。それは瞑想という言葉がピッタリ当てはまるような、深い思想の海に溺れているかのような感覚だった。世界はスープなのかもしれない、と僕は思った。糸も僕も樹海さえも、全てが一緒くたになった世界。世界のひとしずくが僕であり、僕が集まって世界になる。同様に、世界のひとしずくが糸であり、樹海であり……、それらを集めれば世界となるのだ。僕らは本質的には何も変わらない。そう言えば、宇宙の始まりは不透明で濃厚なスープであった。やがてそのスープは冷め、宇宙の晴れ上がりを迎えて今に至るのだ。
「織、来てよ、来てよ、ねえ」
 糸は悲痛な声で叫んだ。依存している、と僕は思った。糸はこうやって、あらゆるものに溺れて、自分の運命を誤魔化し続けてきたのだ、と思った。「私って、醜いもので出来ているの。私を形作ってきた全てのものが醜いの」糸の言葉がなんとなく分かった気がした。なるほど、糸は確かに醜いのかもしれない。酒やタバコ、魔法の紙片に情欲ときた。しかし本当に醜いのは糸なのだろうか? 糸がこの学歴社会の階段を転げ落ちた時、誰が手を差し伸べたというのだろう?
 脳が強く揺れる感覚がして、一瞬 世界が平面的に見えた。魔法がかかりすぎているみたいだ、と僕は思った。そのまま、僕らは一つになった。そうなった時、僕は深い幸福感に包まれた。まるでずっとこれを探し求めていたかのようだった――それで気付いた。この感覚だ。小説を書いている時に、スマホを触っている時に感じた「何か」が満たされる感覚――僕はその正体に気付いた時、ふっと力が抜けるような感じがした。腕の中にある糸の暖かさ――それが僕にとっての答えだったのだ。たったこれだけのことを気付くために僕はここに来たのか――僕はその答えにたどり着いた喜びと情けなさで涙が溢れた。糸はその涙を静かに舐めた。
 ――寂しかったのだ。ただそれだけのことだったのだ。この無限に広がる虚無の中に、一人で放り出されるのが怖かったのだ。
 その時、世界が光に包まれた。魔法が僕の脳を解放したのだ。僕は真理にたどり着いた気がした。世界は虚無だ――確かにそうかもしれない。しかし、虚無だから何だというのだろうか。幸せは今、この手の中にあるのだ。この世界がある意味など、自分で見出せばいいのだ。この世界のHowは科学がいずれ証明するだろう。Whyは存在しないのかもしれない。しかしそれは僕らのための問いなのだから、僕らがそれぞれに見出せばいい。僕らはスープなのだ。僕らのしてきた経験から導き出された結論は、世界の心理をそれぞれに正しく映し出す。ただ、それだけなのだ。

 僕らは渾然一体となって朝を迎えた。いや、太陽が高く昇っていたから昼かもしれない。僕は体が酷く重たいのを感じた。まさに魔法が解けたといった所だろうか。糸もまた同様にぐったりしていた。しかし、僕は糸に伝えなければならないことがあった。
「糸」
 名前を呼ばれた糸は、一瞬戸惑いの表情を浮かべ、そしてこちらを向いた。
「僕は糸に自殺して欲しく無い」
 僕がそう言うと、糸は呆然とした様子でこちらを見続けた。僕は続けた。
「僕は昨日、糸をこの手に抱いて、本当の幸せというものを手にした気がした。この幸せなら信じられる、と思った。それだけで、生きる理由には十分すぎる。僕はずっと寂しかったんだ。この世界を信じられるだけの勇気を奮い立たせてくれる相手を、ずっと探し求めていたんだ。それが糸、君だったんだ。だから僕は糸に死んで欲しく無い」
 しばらく、沈黙が続いた。僕は糸の返事を待った。
「私も、」
 糸は震えた声で小さくそう呟くと、感情の堰を切ったように、目からぶわっと涙を溢れさせた。
「私も、織に、死んで欲しく、無いっ」
 糸はそれだけ言うと、後は声を上げて泣き始めた。僕は糸の華奢な体を抱きしめた。糸がせぐり上げるのを感じた。僕は糸にタバコを貸してもらった。糸に教えてもらった通りにタバコに火を点け、煙を口に含んだ後、依然泣き続ける糸の口をそれで塞いだ。
「――!!」
 糸は驚きに目を見開いた。タバコの苦い味、意識が飛びそうなほどの酸欠――僕らはその中で互いの舌を絡めあった。それから、互いに咳き込んだ。「酷い」糸はそう僕を詰った。涙を手で拭い、口元は少しだけ笑いながら。


 僕らは帰り道を探してひたすら歩いた。どこまでも続く同じ景色。手掛かりすら掴めず、それでも少しでも手掛かりが無いかと歩き続ける。途中、死体を見つけた。白骨死体だった。周りに自殺道具は無かった――それすら消えてしまうほどに長い年月そこにあったのかもしれない。それが僕らの行く末を示しているようで恐ろしい。
 コンビニで買った水と食料が底をついた。僕らはいつまでもこうしていられない、ということを改めて実感する。樹海に入ってから、こんなにもどかしいことはこれまでなかった。分け入っても分け入っても同じ景色が広がるのみだ。日が傾きはじめ、僕らは焦りを感じ始めた。宿営場所を早く決めなければならない。そんな中、ついに視界が開けた。
 ――それは昨日と同じ大木だった。僕らは絶望した。一日が無駄になった、という事実をその大木はありありと見せつけた。僕らは茫然とそこに立ち尽くした。
「私は、私は、……」
 糸が不明瞭な声でそう呟くのが聞こえた。見ると、眼が虚ろになっていた。マズい、と本能的に思った。
「取り敢えず、焚火を作らないと」
 僕は糸に提案した。糸はその言葉で我に返ったように焚き木を集め始めた。僕は糸の危うさを改めて実感した。自殺を企画するくらいには、糸の精神は不安定な状況にあるのだ。

 焚火が完成するや否や陽の光は消え去り、辺りは無限の闇に包まれた。僕らはすることも無く、ただ寝そべって空を見上げていた。
「私たちってさ、いつか絶対に死ぬんだよね」
 糸が空を見ながらそう切り出した。
「そうだね」
 僕は相槌を打って続きを促した。木が風に揺れ、焚火によって微かに照らされた葉の隙間、向こう側には星がきらめいていた。
「こんな夜にはさ、私、なんだか不安になるんだ。心の中にあるブラックホールに吸い込まれてしまうような気分になるんだ。それを掻き消したくて、仲間で夜通し遊びまくったり、リスカしてすっきりしてみたりするんだけど、心の中にある空虚感はいつまでたっても消えないんだ。――きっと、永遠に」
「そうかもしれない。僕もずっと同じことを考えて生きてきたんだ。満たしても、満たしても、そこには空虚が広がっている。でも、僕はそれでいいと思っているんだ。埋められなかったなら、また埋め続ければいい。きっと、人生って、そういうものなんだ」
「そう……」
 糸は僕を見て静かに微笑んだ。アルカイックスマイルのような――
「なら、満たして」
 糸は僕に軽く口づけをした。

 ひんやりとした空気が肌を刺激し、僕は眠りの海から顔を出す。意識がだんだんと取り戻されてゆく。この世に生を受けてから幾度となく繰り返してきたサイクル。僕の周りを取り囲むのは樹海だ。夢ではない。僕はこの樹海から外に出なければならない。さもなくば、死だ。
 樹海という混沌に僕は空虚を見出す。それは人生にも似ている。歩いても、歩いても、そこに答えはないのだ。しかし僕は歩き続けられる。歩き続ける意味を見い出すことが出来る限り――
 僕は糸の姿を探した。辺りは静まり返っていた。そこに人の気配はなかった。
「糸~?」
 僕はもどかしくなって名前を呼んだ。返事はなかった。僕は初めから糸などいなかったのではないか、とふと思った。いや、そんなことはないはずだ。僕は確かに昨日まで、この手に糸のぬくもりを感じていた。
「糸~」
 僕はさっきよりも大きな声で名を呼んだ。その時、ガササ、という音がした。鳥か、と思い空を見上げると、糸の体がぶら下がっていた。


 僕はただ糸の死体を眺めていた。まるで感情というものがその一瞬でどこかに吹き飛ばされ消えてしまったみたいだった。死体は酷い有様だった。僕は――恐らくは糸も――首吊りをナメていた。目玉が剥がれ落ちそうだった。口が大きく開かれていた。そこから舌が飛び出していた。全体的に赤黒く変色し、不自然に膨らんでいた。何かを叫んでいるような表情だった。愕然としているようにも見えた。手足がだらんとしていた。しかし力んでいるようでもあった。糞尿が垂れ流されていた。それらは強制的に死線を超えさせられた体であることを明確に示していた。しかし僕はその場を動かず、叫び出しもしなかった。
 少々逆光気味に僕の目に映る死体は、光の縁にかたどられていた。よく出来ているな、と思った。芸術的だった。美しく死にたいという糸の願いは達成されている部分もあるように思えた。
 ずっと同じ体勢で僕は死体を見続けていた。どれくらいの時間そうしていたかは分からない。突然、僕は動くということを思い出した。金縛りに遭っていたかのようだった。指を動かし、まばたきをし、それから首を動かした。一つ一つ、動きを確かめるように。
 木陰に糸のリュックを見つけた。上には紙が置いてあり、小石で留められていた。遺書だった。僕はそれを読み始めた。


 織へ

 本当は遺書を残さないつもりだった。でも、それで死んだら、生きてほしいと言ってくれた織に失礼な気がして、君が寝静まった後に、この遺書をしたためている。何を書こうか決めていないから、例の魔法の紙片の力を借りて、思いつくままに書こうと思う。何故だか涙が止まらないから、字、読みづらかったらごめん。
 織に出会ったのは小四のことだった。今でもはっきり覚えている。あの時ブランコをして遊んだね。私、その時からずっと織のことが好きだったの。だから、織がオフ会に来てくれた時はびっくりしたけど嬉しかったし、一緒に森に入ってくれるなんて夢にも思わなかった。神様の計らいかな? って思うほど。神様なんていないけどね。織と一緒に首を吊っているところを想像したら、なんかキュンってなった。また一緒にブランコ出来るんだ、って思った。
 織を好きになったきっかけは、私が転んじゃった時に、真っ先に「大丈夫!?」って手を差し伸べてくれたこと。きっと織は覚えていないだろうけど。私、男の人が手を掴むのは酷いことをする時だって思っていたの。もう死ぬから言うけど、私、小さい頃にお父さんに酷いことをされていたの。お母さんのいない時に、「これは決まりだから」って。訳わからないでしょ? お人形さんで遊んでいる時に、無理矢理 手首を掴まれて、引きずられてお父さんの部屋に連れていかれて。でもね、私、そういうもんなんだってずっと我慢して、誰にも言わなかったの。馬鹿でしょ? でも織は、そんな私に、お父さんに対する疑問を抱くきっかけを与えてくれた。同時に、初めて私に優しくしてくれた異性だった。
 ずっと織のことが好きだった。同じ塾だったのも偶然じゃないんだよ。私がお母さんにねだって通わせてもらってたの。だから、織が京都へ行くって聞いた時、すごいショックだった。勉強も手がつかないほどに。でも仕方ないかな、って思った。織、中学の初めに酷くいじめられてたもんね。私、どうすることも出来なかった。今でも後悔している。言い訳じゃないけど、私、暴力を見ると身がすくんじゃうの。トラウマってやつかな。私、織が京都で頑張るのを応援していたんだよ。心の底から。でもショックで、ショックで、結局受験も失敗して。滑り止めを受けさせてもらえなかったから、地元の、中学校時代の同級生がいっぱいいる高校に入ったけど、織をいじめた奴らなんだなーって、なんか一緒に授業受けるのも馬鹿らしくなって、一部のグレた奴らとつるみはじめたの。楽しくってね。私はだんだん汚れていった。もともとお父さんに汚されていたんだけどね。内面まで汚れていったの。お酒、タバコは勿論、魔法も覚えた。典型的すぎて笑っちゃうよね。男とも遊んだ。お父さんの忌まわしい記憶をさ、上書きしてくれる気がしたんだ。だけど織が忘れられなくって、男と遊んだ後は特に、もの凄い空虚感を味わった。元凶であるお父さんの部屋をぶっ壊したりもした。あれは痛快で、それでいて虚しかった。なんでだよ、何で私がこんな思いしなくちゃいけないんだよ、って。そしたらあいつ、私と離れたいって言いだして。お母さんは止めたんだけど、結局 別居状態になって、離婚が成立しちゃった。お母さんは私を責めた。なんだよ、全部私のせいかよ! うわああああああ。なんて。
 ごめんね、織。私、織と一緒には行けないや。私はこういう運命なんだ。世界の負の側面を引き受ける役割なんだよ、きっと。私、気付いたの。このまま織といたら、私、きっと織をだめにしてしまう。お酒とかタバコとか、魔法さえ教えといて今更なんだよ、って思うかもしれないけどね。織は私無しで生きてゆかなくちゃいけない。だって、こんな私にさえ生きる希望を分けてくれたんだもの。織が必要な人が、この世の中にはきっといる。生きて、織。私が最後に願うことは、それくらいかな。

狭山 糸


 僕はその手紙を読んで、どうすればいいかわからなくなった。どこかへ消えていた感情が、一瞬にして戻ってきたようだった。もうこの世に糸はいない。もうこの世に糸はいない。もうこの世に糸はいない。どうして。どうして。どうして。
 僕は糸に生きる希望なんて与えていない。むしろ与えたのは破滅だ。糸は僕が京都に行かなければあんな風にはならなかったんだ。僕は凄惨な糸の首吊り死体をもう一度見た。そう、あんな風には! 僕が下らない野望を抱いたばっかりに! 糸はあんな風に! 何が「京都に行って、一流大学に受かり、一流企業に入ってやるんだ」だ。何が「君達は山梨でのうのうと暮らしているがいい」だ。何が「僕は君達たちとは違うんだ」だ。実際は学校の平均点にも届かないくせに。――それに僕は、京都に来る時に親の期待も受けていた。その期待を僕は裏切ったのだ。いわば親は僕を京都に行かせてまで犯罪者を育てたのだ。――僕は悪魔だ。人を不幸にすることしか出来ない悪魔だ。僕は自分を深く恥じた。そんなことも気づかずに僕はのうのうと高尚な理論をこねていたのか。何が「人生に疲れた」だ。僕は生きる意味だとか、そんなものを探す資格などあったのだろうか。
 自殺したいと思った。切実に自殺したいと思った。僕はコンビニのビニール袋をかぶり窒息死しようと考えた。だんだんと息が苦しくなる。体の中から、じんわりと気持ちいい感覚が湧いてくる。目の前がブラックアウトしてゆく――

 無意識のうちに、僕は呼吸を再開していた。耳鳴りが続く。僕は死ねなかった。情けなさに涙が溢れてくる。ごめん、糸。僕はそっちに行く勇気がないよ。切実に死にたいと思っているのに、死ぬ勇気が出ない。僕は相反する思いに頭を抱えた。そこで僕は糸の願いを思い出した。僕は寝転がって空を見上げた。生きるしかないのか――。その時、木漏れ日の向こうに、空を飛ぶ一つのものを見つけた。朦朧とした意識の中、僕は思った。飛行機――
 僕は樹海を出るための方角を知ってしまった。現在時刻を知らないため、確定は出来ないが、恐らく間違いないだろう。
 糸が「生きろ」と言っている気がした。こんな悪魔に生きる道を与えるなんて。僕は歩き出していた。ただひたすらにまっすぐ進んだ。まっすぐ、まっすぐ――
 陽が傾いてきた頃、僕はなんとなく、見覚えのある場所に来た、と思った。そのまま進むと、窪地があった。これは糸と語り合った窪地――「私ね、死にたくないの」「――でもね、それ以上に死にたいの」糸の言葉が甦る。僕は死にきれなかった――死ぬ勇気がなかった――口だけの、大ばか者だ――僕は誰に言うでもなく、そう呟いた。そして歩き出した。もうすぐ遊歩道に出る――

 ――ザクッ

 僕は奇妙な音に振り返った。――男。それと同時に、脳を貫くような鋭い痛みを感じた。僕は状況を理解出来ないまま倒れ込んだ。ザクッ。男が包丁を僕に突き刺す。ゴン、ゴン、と刺された場所が鈍く重い痛みを訴える。それが脈打つように痛むたびに、意識が飛びそうになる。
「君たちに払う金は無い」
 男は無表情で呟く。冷たい殺意が僕を貫く。記憶が甦る。このシルエット――森に入るきっかけとなったあの人影だ――僕は本能的に察する。
「君たちがこうなるのは、君たちの責任だ」
 男が馬乗りになり、僕に包丁を振りかざす。ザッ。男が包丁を振り下ろす。
 脳が直接揺さぶられるような鈍い痛みは、意識が遠ざかるとともに輪郭がぼやけてゆく。
ザッ、ザッザッザッ――男が腹を縦に引き裂く。
 波打つ視界。だんだんと黒く染まってゆく。体の奥の方から、痛みをごまかすためであろうか、今まで味わったことのない幸福感が溢れ出る。僕はあまりに突然のことに、論理的な思考を放棄せざるを得なかった。男に感謝していた。死にきれなかった僕を、強制的に死なせてくれるのだから――
 ブチブチブチブチ――男は体内に手を入れ、腸を引き千切る。それが僕の最後の意識を持って行く――そんな予感がした。
 ツー――耳の奥で小さな音が鳴る。

**

 事件の全貌が解明されたのは四月も中頃になってのことであった。警察は初め、捜索願が出されていた狭山糸と、捜査対象であった高橋織が、青木が原樹海で自殺した、という情報を得て捜索を進めており、そこで高橋織の他殺死体を発見した。現場に残された痕跡を元に捜査を進めた警察は、程なくして狭山糸の自殺死体を発見し、また山梨県忍野村に住む会社員 築地正義容疑者を逮捕した。築地容疑者は容疑を認め、また他にも十数名を殺害していたことを明かした。容疑者の供述によると、休日には必ず樹海に行き、自殺者と思わしき人を手当たり次第に殺害していたという。動機としては、自殺志願者の多くが生活困窮者であり、何らかの手当てを受けている場合が多いとネットで知り、そのような人々に血税が払われているということに対して憤りを覚え、そのような人々を殺したいと思った、とのことであった。また、二万余りのリツイートを得たツイート

サイマジョ @s1mcj
今日もメンヘラは国民の血税を吸い尽くす😇
生活保護を受給している旨が書かれたTwitterのプロフィールと、その人がアップしたリストカットのツイートを合わせた画像が四枚〉

が容疑者のものであるということも捜査関係者への取材で明らかになった。
 被害者である高橋織もまた、ツイキャスで犯罪行為をあおり、捜査対象になっていたことが明かされた。また、高橋織と一緒に自殺を企てたとされていた狭山糸は事件とは関係がないことが分かったが、彼女のツイッターアカウントの噂がどこからともなく広がり、そのツイートの過激さが話題となった。
 マスコミはツイッターが犯罪の温床になっていると伝え、ツイッターの規制がより強化される運びとなった。また、ネット上では容疑者に賛同する意見も多く見られ、警察が捜査を終えた後もこの事件は多くの関心を集めていた。
 そんな中、人気ブログである「はれのちはれ」の管理者が捜査に協力していたとして、自身のブログで実名とともにその協力内容を書き込んだ。管理人 清水知央はその記事で高橋織や狭山糸と同級生であったことを明かし、また、事件に関して独自の見解を表した。それによると、高橋織はその言動から学校で嫌われており、また強い被害妄想を抱き山梨の高校には進学せず、京都の高校に進学し、そこで挫折を味わっており、そのストレスからキャスで過激な発言をしたのだろう、とのことだった。また、狭山糸は中学では大人しい性格であったが、高校ではグレて不良とつるんでいたことを明かした。そのことを踏まえ、清水氏は容疑者の考え方に正当性を認め、二人は社会の癌と化しており、またそれは二人の自己責任であり、正義がその癌を取り除いたに過ぎない、と位置付けた。この記事は大きな話題を呼び、またその記事を書いたのが現役の女子高生であることもあり、多くの賛同者を集めた。これにより低所得者はその能力や努力の不足によって低所得になったのだ、とする風潮が広まり、手当の削減を求める動きが広まった。これによって血税が守られたのだ、とする意見が多数を占める中、それによって格差が広まったとする意見もまたあった。しかしそのような意見を述べる人は批判を受け、またそのような人々を「非国民だ」とする人も少なくなかった。

 未来は今を生きる人々の意思によって決定される。その未来はどこへ向かうのだろうか。

 *作中に登場する、高橋織『ペトリコール』は、平成二十九年度文芸部誌文化祭号に掲載された、風上青『ペトリコール』に加筆・修正をしたものです。